私と君のアーカイブ 作:自産自消
あんなに液体が輝いて見えることは今後ないでしょう。
キヴォトスに赴任してからはや半年。仕事に忙殺されることおよそ数か月。
街中を駆け巡る事件事故事情爆発、こなしてもこなしてもなお終わる様子の見えない書類メールモモトーク。そろそろ脳がかつて受験勉強に疲れ果てたあの頃に戻りそうだ。
“そこで……これもまあ、大人の特権というもので”
今私の目の前には、キヴォトスの外から通販サイトで取り寄せた小さな紙袋が1つ置いてある。
仮留めのテープを無造作にビリリと引き裂き、中をまさぐるとそこには綺麗にラッピングされたこれまた小さな箱が出てくる。
“さすがにお酒を飲むのは、風紀上よくないからね……”
箱を開けるとチョコレートの甘い香りがふんわりと漂ってくる。そしてその匂いの中には、確かにアルコールの気配があった。
私が購入したのはウイスキーボンボン。要は酒入りのお菓子である。
“でもまあ、たまにはね。こういうのは雰囲気だけでも楽しみたいしね……”
1つ摘まんで口に入れると、アルコールの芳醇な風味がチョコレートの甘味と合わさって舌の上で踊った。飲み込んで一息つくと、理由もなく少しばかり気持ちが上を向いてきた。
“アルコールはそんなに入ってないはずなんだけど……”
きっと「酒入りのお菓子を食べた」と脳が認識していたことによるプラシーボ効果だろう。アルコールを身体に入れるのも随分と久しぶりではあるが、かつて大学生だった頃は宴席でストロングゼロを痛飲していたくらいだ。これくらいで酔っ払うほどの耐性ではない。
“イヤしかし、やっぱ美味しいな……”
「何が美味しいんです?」
聴こえないはずの声がして身体が跳ねた。慌てて周囲を見渡すが誰もいない。
幻聴かと思ったが、ここまではっきりした幻聴こそないだろう。深呼吸をして心をなるべく落ち着かせ、冷静な口調で呼びかける。
“…………イロハ?”
「はい、何でしょう」
やはり聴こえた。もう1回部屋中を穴が開くほど慎重に見渡すと、「ここですよ、ここ」と近くから声がする。
声の方向に目を凝らす。机の真っ正面。するとPCの画面の向こうに、手だけがひらひらと振られていた。
“イロハさん……何でそんなところに?”
「いえ、扉を開けたら先生が荷物を開けてはにやけていたので、お邪魔してはいけないと思いましてね」
“どこから見てた?”
「『これも大人の特権というもので』……って言ってたところからですね」
“最初からじゃん”
ピョコンと飛び出してきたのは緋色のモップ。当番でなくとも執務室を訪問してくる生徒もいるにはいるが、まさかお菓子に熱中してその訪問にすら気付けないとは不覚の極みだ。
「それ、何ですか? お菓子ですよね……?」
イロハが私の前にある小さな箱を指差す。蓋に描かれているのはウイスキーの透き通るような琥珀色の瓶。それにも関わらず中にあるのはチョコレートのようなものなのだから、知らない人から見ると混乱することだろう。
“ああ、これ? ウイスキーボンボンだよ”
「ウイスキー……ああ、お酒入りの」
“知ってる?”
「名前は聞いたことあります」
そう言えばウイスキーは飲んだことがない、とふと思い出した。
コンビニで売っているようなものはなかなか舌に合わず、ちゃんとしたものに手を出すにはあまりに懐事情が寂しすぎた学生時代。奮発して洒落たバーに行ったりしたら何か変わったかもしれないが、残念ながらお世話になっていたのは格安の居酒屋ばかりであった。
「……それ、私も食べてみていいですか?」
“あまりおすすめはしないなぁ……”
やんわりと断ると憮然とされてしまう。イロハは未知なるウイスキーボンボンに興味津々のようだ。
あくまで非推奨というだけでおそらく大丈夫ではあるだろうけれども、アルコールを子供の体内に入れるのは少し尻込みしてしまう。やはり「お酒は20歳になってから」だ。
「…………じゃあそれ、美味しいんですか? それだけ教えてくださいよ」
“それ訊いちゃったらますます食べたくならない?”
「将来の楽しみに取っておくんです。さあ早く、教えてください?」
言われて答えに詰まり、確かめるためにもう1粒口に入れる。しばらく口の中で転がし、ある程度溶けきった頃に飲み込む。アルコール独特の灼熱感と酩酊感が一瞬脳を走った。
“まあ、美味しいよ”
「『まあ』って、何ですか。ポテチとどっちが美味しいんです?」
“どっちだろう。分からないな”
「はっきりしませんね……」
ジャンクな菓子にはジャンクなりの美味さがあるし、上品な菓子にもやはりそれ特有の美味さというものがある。私はどちらも等しく「美味しい」で片づけられるバカ舌だった。
「こう、ないんですか。この美味しさを味わえるのは大人特有の~……とか」
“大人になって味覚が変わるとか、そういう劇的な変化はないね”
「じゃあ何でそんな高そうなお菓子を……」
イロハが半ば呆れたようにため息をつく。箱の中にあるチョコレートたちは、電灯の光に照らされてキラキラと光っている。
“雰囲気を楽しむってのもあるんだよ”
「こんな無機質な部屋でお菓子摘まんでて何が『雰囲気』ですか」
“それを突かれると痛いな……”
いつの間にかイロハは私の隣に座っていた。すました顔をしているがよほど食べてみたいようで、視線はウイスキーボンボンに釘付けだ。
苦笑しながら箱を持ち上げてみる。説明書きを見ると原材料名に2.0%のアルコール度数、他にも保存方法などがびっしりと書き連ねてあった。
そしてその中には、「お子様や妊娠中の方の摂取はご遠慮願います」とも書かれてあった。イロハの方を見てやると、「自分から取り上げるのか」と言わんばかりに目が見開かれていた。
“……食べてみたいの?”
そう訊いてみると、イロハは黙ってコクリと頷いた。思い返してみると私も子供の頃は正月の宴席でお屠蘇を飲んでいた。『大人しか味わえない』という制限は、子供にとってはカリギュラ効果を掻き立てられたものだ。
レッドウィンターに、脱法じみた手段で飲酒を楽しんでいた生徒がいたことを思い出す。地域柄というものもあるだろうが、『あれが大丈夫ならこれもきっと大丈夫だろう』と思わないわけでもなかった。
“…………分かった。具合が悪くなったらすぐに言うんだよ”
「いいんですか」
“一応聞くけど、この後運転の予定は?”
「ないです。今日は非番ですし」
飲酒運転、ダメ、絶対。何なら未成年飲酒も違法行為ではあるのだが、ウイスキーボンボンは「非推奨」なだけで確か法には触れなかったはずだ。
1粒差し出すと、イロハはその小さなチョコレートを両手で受け取った。そして押し戴くように顔の前に掲げると、一気に口の中に放り込んだ。
「…………ふぇ」
そして、第一声は何とも気の抜けるような呻吟だった。
「これ……変な味です」
“もしダメそうだったら戻してもいいからね?”
「もう飲み込んじゃいましたよ。あー……変な感覚です」
想像通りの反応が返ってきて思わず苦笑してしまう。それを見て腹を立てたのだろう、イロハは眉を顰めて私に噛みついてきた。
「こんなの、何で先生は楽しめるんですか」
“うん?”
「これお酒の味ですよね。この熱い感じと言い、苦みと言い……美味しいんですかこれ」
“うーん……”
そのリアクションも、やはり私がかつて初めてアルコールを口に入れた時のものと同じだ。今の私はきっと、その瞬間に見た両親と同じあの苦笑を浮かべていることだろう。
“確かに、美味しいと思ってお酒を飲んだことはないかなぁ”
「よく喜んで飲みますね。考えられないです」
“美味しさを求めて飲むようなものじゃないからね……”
口の中には、まだアルコールの風味が残っている。その残滓を味わいながら天井を見上げると、いつもと変わらぬLED灯がやけに滲んで見えた。
“お酒は、アルコールで酔うためにあるものだから”
「えぇー……」
“もちろん美味しいものは美味しいけどね”
箱の蓋を閉め、備え付けの小さな冷蔵庫の中に仕舞っておく。非常用の水を保管するためのものだが、お菓子1箱を保存するためのスペースくらいはあるのだ。
「酔っ払ってどうするんですか。脱ぐんですか」
“脱がないよ!?”
「だって男の人って酔ったら暑くなって脱ぐんでしょう?」
“全員が全員そうってわけじゃないからね? ……多分だけど”
いつもの揶揄うようなニヤニヤとした笑みを浮かべながら訊かれる。
確かに昔は家で泥酔して気が付いたら全裸で寝ていたなんてこともあったが、あれは自分の飲める限界というものを知らなかった頃の話だ。酒を自制できるようになった今ではそんなことは起きない、と信じたい。
“酔っ払うと、何だろうね……嫌なことを忘れられるんだよ”
「あー、なるほど?」
“普段は言えないようなことを言えたりだとか、いい気分になれたりだとか……要は生きてくための一時凌ぎだね”
レポートのデータが消えたり、バイトで変な老人に当たったり、気分がどうしようもなく落ち込んだときはコンビニで買った安酒を家で呷ったものだ。
そうして泥のように眠ると、朝にはパンツ一丁になった自分と二日酔いの頭痛と倦怠感、そして「まあ、何とかなるか」という根拠のない楽観だけが残っていた。
「……でも、こういうものに頼る人の気持ちも、分かる気がします」
“頼りすぎなのもダメだけどね”
「依存症とかありますからね。……おっと」
“い、イロハ!?”
私が元いた席に戻ると、イロハが私にもたれかかってきた。驚いて顔を覗き込むと、いつもよりも赤みがかっている気がした。
“イロハ……? 大丈夫?”
「大丈夫です」
“体調が悪かったりとか、しない?”
「しません。ご心配なく」
イロハの呼吸がいつもより深く、大きくなっている。酩酊感を覚えるにはイロハが食べたウイスキーボンボンの量は少ない気がしたが、その辺りの耐性はやはり人それぞれというものだ。イロハはひょっとしたら、他人よりも耐性がだいぶ弱いのかもしれない。
“少し横になったらどう? そっちの方が楽だと思うけど”
そう提案しても、毛量の多い髪をブンブンと振り回して拒まれる。どうしたものかと頭を抱えていると、イロハがポツポツと呟きだした。
「アルコールを嗜むと、感情の制御が効かなくなったりするんですね」
“まあ、そういう効能もあるね”
「じゃあ、これもきっとアルコールのせいですね」
イロハの顔がますます紅潮していく。そして私の白衣の左袖に、まるで猫のマーキングのようにイロハの頭が擦りつけられる。本来ならばそれとなく引き剥がすべきなのだろうが、気持ちよさそうなイロハを見ているとどうしても私にはできなかった。
“……イロハ?”
「あんな変なお菓子、好奇心からでも食べるべきじゃなかったかもしれません」
距離が近すぎて、イロハの表情は私からは見えない。耳まで真っ赤になっているところを見ると、よほど感情が高ぶっているのだろう。
「全部アルコールのせいですよ。こんなこと……普通じゃできませんから」
“……そっか”
いつの間にか、私の背中がぎゅっと掴まれていた。もうどうしたって引き剥がせないだろう。キヴォトスの住人の力は私では比較にならないほどに強い。
そっと頭を撫でてやると、リラックスしたかのように力が抜けていく。それでもしっかりと掴まれたままだ。
“これからは私も気を付けるよ。万一にも生徒が酔っ払っちゃったら大変だし”
「そうしてください。こんな醜態晒すのなんて、私だけで十分です」
いつか、大人になったイロハと酒を飲む機会があるのだろうか。
その際にこの時の話を出したら、一体どんな反応が返ってくるのだろうか。
せっかくだから、本当に酔っていたのかも訊いてみようか。
そんな来るかも分からない未来が、どうしようもなく楽しみだった。