私と君のアーカイブ 作:自産自消
目が覚めると、休憩室の見慣れた天井が視界一杯に広がっていた。
身体を起こして、壁掛け時計で時刻を確認する。5時3分。春と夏の中間あたりのこの時期は、こんなに早い時刻でも外が明るい。暗い部屋の中で、窓がキラキラと光って見える。
仕事がどうしても終わらず、眠気は大きくなる一方だった昨晩。捺印が見当外れの場所に押されたことでいよいよこれは限界だと悟った瞬間、気がついたらこの部屋のベッドに上にいた。
“リモコン、リモコン……”
枕元に置いてあったリモコンを操作して電気を点ける。一張羅のスーツがしわくちゃになっていた。まだ身体が怠い。意識がぼやけている。それに何だか無性にイライラする。現状は涼しいことだけが救いだった。
“仕事……いや、その前に朝食摂らなきゃ……”
重い頭を支えるように額を抑えると、前髪が変な方向に跳ねているのが分かる。某国民的コミックの金持ちキャラのようだと自分で思い当たり、それがまた妙に腹が立った。
そして、そういうくだらないことに苛立つ自分にもまた苛立つ。寝起きの悪循環だ。1時間もすればケロリと治っているだろうが、それでも今が不愉快なことには変わりない。
やらなければならないことが目白押しだ。先程とっていた睡眠も半ば逃避するようなものだったのは否めない。しかし目の前に立ちはだかる強敵に立ち向かうだけの体力は、今の私にはなかった。
深く溜息をつきながら窓を開けると、朝の優しい日差しが涼風と共に部屋の中に流れ込んできた。思わず空を見上げると、お手本のようなスカイブルーが広がっている。そしてふと思い立った。
“そうだ、散歩行こう”
そうと決まれば話は早い。いつもよりも少しばかり弾む足に合わせて、スーツにこびりついた皺を引っ張って少しだけ整える。玄関口の自動ドアを潜り抜けると、窓から覗いた通りの青空が私を出迎えた。
“いやぁ……風が気持ちいいなぁ”
理由もなく両手を広げたくなるくらいにいい心地だ。外に出てまた数分も経っていないが、この時点でもう外に出てよかったと心から思う。
そうして歩き出す。散歩と言っても当てがあるわけではない。ほんの気晴らし程度に十数分、近郊をふらふらと歩きまわる程度で済ませようと思っていた。
「おや、先生じゃないですか」
“あれっ?”
目の前の生徒に会うまでは。
“イロハ、どうしてここに?”
「散歩ですよ。朝の散歩。たまたま気が向きましてね」
イロハがワインレッドの髪を揺らしながら、気だるげに大きくあくびをする。どうにも眠気を抑えきれないようだ。
私が徐に歩き出すと、イロハは無言で私の隣を歩き始める。視線は合わない。まるで、自分が道を共にすることが最初から許されているかのような振る舞いだ。
「先生はお仕事のサボりですか」
“まあ、気晴らし? 仮眠とってもなかなか疲れがとれなくて”
「お疲れ様です。大人になると寝ても疲れがなくならないみたいですね」
“体力がね……”
空を見上げると、鳥が数羽飛んでいる。キィキィという甲高い鳴き声は、朝の誰もいない街にすぐさま溶け込んでいく。春と夏のちょうど真ん中あたりのこの時期は、人が活動するにあたって最も快適な気温を演出していた。
「昨日は、8時くらいにはもうベッドに入っちゃいましてね」
歩調は自然と合っている。私が無意識に合わせているのか、それともイロハが合わせてくれているのか。イロハの口調に焦りが感じられない以上、きっと答えは前者だろう。
「それで起きたら4時半なわけですよ。夜明けてるじゃないですか」
“あー、明けてるね”
「だから癪ですけど早めに軽い朝食をとって、暇潰しの散歩と相成ったわけです」
“いいじゃん、早寝早起きだ”
「健康にも限度ってものがあるんですよ……」
街は依然として動き始める様子を見せない。こんな朝なら生徒の1人や2人がジョギングでもしていそうなものだが、さすがに5時台に活動を始める子はいないか。
「しかし、誰もいませんね」
“誰もいないね”
普段ならば、この街は生徒や一般人で賑わっている。通りのショーウィンドーの向こうにはスイーツやコーヒーを嗜んでいたり、キラキラした服を身体に当ててみたりしている生徒が見えたりするものだが、今はフォークの浮いた食品サンプルとポーズをとった顔なしのマネキンが鎮座するのみだ。
おおよそ命の気配がしない。動き続けるキヴォトスの街において、今この空間はどこからも切り取られたかのように静まり返っている。
「不思議な気分ですね」
イロハも同じようなことを思っていたのだろう。風に吹かれて、毛量の多い髪がざわざわと蠢く。
「今、ここには私たちしかいませんよ」
“そうだね”
明けたばかりのスカイブルーと白い雲、そして未だ動き出す気配を見せないレストラン街。見慣れているはずの街並みがやけに新鮮だ。まるで初めてキヴォトスに来た時のような、困惑と期待の入り混じったような感情が私の身体を走り抜ける。
「だから、こうすることだってできるんです」
そう言ってイロハは歩道からひらりと飛びのき、車道のど真ん中でくるりくるりとステップを踏み始めた。
“危ないよ。車が来ちゃう”
「来ないからこうしてるんですよ」
いつもは踏み入ることのできない場所に立っていることが心の底から愉しいようだ。法を犯すことの快感。誰にもバレてはいけない、バレたら物理的にも、あるいは社会的にも危険性がある行為をしているということへの背徳感。いつもはダウナーな雰囲気を纏っているイロハが、熱に浮かされたかのように中央線をリズミカルに踏み歩くには十分すぎる感情だ。
“ダメ。危ないよ。車が来たら撥ねられちゃう”
しかし私が気持ち強めの口調でそう窘めると、イロハは興が削がれたとでも言うようにその表情を憮然としたものへと変えた。
「はいはい」と小さくぼやき、颯爽と歩道に戻ってくる。そしてまた、2人肩を並べての散歩を再開した。
「愉しかったのに……」
“危ないからね”
「先生もやってみたらよかったんですよ」
“私があんなことやったらすぐ息切れしちゃうよ”
「加齢って悲しいですね」
実際のところ、先程の所作に惹かれないものがなかったわけではない。規則に縛られないという「自由」。自分の身体を無意識にでも魅力的かつ蠱惑的に動かすことができる感覚。どれも大人になってからはとんと縁がなかったものだ。
それに、朝日を一身に浴びながら踊る美少女なんてもの、男がどう見るかなんて分かりきっているだろう。
「先生」
右隣から猫の鳴くような声がする。
“何? どうしたの?”
「私は、先生と踊ってみたかったんですよ」
歩みは止まらない。視線は交わらない。ただ、まだ隣にいるという信頼だけで言葉が紡がれる。
「先生は、ほら、風紀委員長の面倒をよく見てらっしゃいますから」
“ああ、ヒナの?”
「別にいいんですけどね。委員長も嬉しそうですし。ウチの議長が切羽詰まって私に『さっさと先生を篭絡しろ』なんて怒鳴りつける様は痛快で痛快で」
くつくつとイロハの笑い声が聴こえる。マコトが聞いたらなおのこと顔を真っ赤にしそうな言葉だ。
「ピアノの練習にも付き合ったりしたらしいじゃないですか」
“ああ、まあ……そうだね”
「今、先生が思ってることを当ててみましょうか」
嫉妬してるんだろうなァ……なんて。
その言葉を聞いてしまったが最後、私ははっとしてイロハの方に顔を向けざるを得なかった。
イロハは我が意を得たりとでも言うように、口の右端だけをくいっと上げて笑っていた。やられた。また揶揄われた。私の表情がどんどん渋味のあるものに変わっていく。
「そうですよ。嫉妬してますよ、空崎ヒナに」
“…………イロハ”
「ああ、別に憎いわけじゃないですよ? ただ、こう、いいなぁと」
本当に何でもないと思っているような口調だ。きわめて平常運転、いつも通り。こちらの反応を面白がるような言葉遣いも、黒曜石のような丸く黒い瞳も。荒ぶる感情なんてものは隠そうとしても身体のどこかに表出するものだが、何度確認してもイロハの身体はどこまでも自然体だった。
「私も、先生に特別に目をかけてもらいたいなぁ……なんてね」
“イロハとは、よく休憩スペースで一緒にいるけど……?”
「まあまあ、それはそうです。先生と一緒にいる時間は、キヴォトス中の生徒の中でも長い方なんじゃないでしょうかね、私は」
そう言って、イロハは「しかし」と息をついた。
「でもですね、先生。そういう時間というものは、あればあるだけいいもので」
いつの間にか、私の右手がイロハの左手と繋がっていた。互いの指と指の間に指が入る、俗にいう恋人繋ぎだ。
強い力で結ばれている、私から離そうなんてことはできないだろう。イロハが満足して手を離さない限りは、この状況はずっと続く。誰かに見られるなんてことは、この時が止まったかのように静かなこの街並みの中ではありえないのだから。
「もうしばらく、お時間ちょうだいしてもいいですか? 先生」
それでも、最後の決定権は私に委ねられる。それは私を私自身の意志で堕とさせようという意思の表れ。99%拒絶されないと分かっていても、それでも残りの1%を信じきれない、イロハ自身の弱さ。
微笑みの仮面の奥に揺れる僅かな惧れの色を、私の観察眼は逃してはくれなかった。
“……いいよ、イロハ”
だから、私はその誘いに乗る。イロハがまた安心したようににんまりと笑う。
「その言葉を待ってましたよ、先生」
“どこに行こうか。この辺りにはしばらく誰もいないよ”
「そうですね。では近くの公園を散策してみましょうか。きっといい気持ちですよ」
理性は「ほどほどにしておかないと仕事がまた遅れるぞ」と囁いてくるが、今はこの心の躍動に身を任せていたかった。
イロハもきっとそれを分かっているのだろう。もう100m歩けばすぐ突き当たりに見える公園を目的地に指定したのは、つまりそういうことだ。
この状況に心のどこかで年甲斐もなくはしゃぐ自分がいることが、どうしようもなく嬉しかった。