私と君のアーカイブ 作:自産自消
カーテン越しに差し込む朝の光に、意識が呼び起こされた。
ただでさえぼやけた視界に意識が追いつかない。上半身を10度ほど起こして、面倒になってその反動でまた後頭部から枕に倒れ込む。
この前奮発して購入した低反発枕とクッション性豊かな自分の髪が、ベッドに伝わる衝撃を最低限に抑える。どうやら私の一瞬の葛藤は、隣で寝息を立てている男には気付かれていないようだ。
「かぁ、ふ……んんっ……」
大きくあくびをして、静かに背伸びをする。ギチギチに固まった背筋とふくらはぎが無理矢理伸ばされるこの快感はどうにも癖になる。
ようやく意識がはっきりし出すと、今度は現在の時刻を確認しようとする意志が生まれる。枕元に伏せておいたスマホの電源を入れると、待ち受け画像に設定していた満面の笑みを浮かべたイブキの黒い軍帽の上に「5:45」の文字が浮かぶ。
いつしかアラームをかけても、その数分前には起きるようになってしまった。大人というのはいつだって時間に追われている。何とも哀しい生き物だ。
「あー、あ……」
起きたくない。このまま暖かい布団の中で意識を無にしながら過ごせたら、どんなに素敵なことだろう。
でも、そうしてしまったら腹が減る。用も足せない。それにどのみち退屈が勝るのは自明の理だ。
「寝汗も酷いですし……シャワー浴びないと、ですね」
最近暑くなってきたからと棚から引っ張り出した薄手のパジャマは、寝ている間に私の汗を吸って仄かに湿り気を帯びていた。この蒸し暑さは、決して太陽光の熱気だけが原因ではないのだろう。
半ば転げ落ちるようにベッドから抜け出し、身体を引きずりながら洗面所のドアを開ける。電灯を点けずとも、窓からの日光で家の中は十分すぎるほど明るかった。今日という日が来たということを嫌でも実感させられる。
洗面場に入るや否やパジャマを乱暴に脱ぎ、その勢いのまま手に持った衣類を洗濯機に放り込む。そして転がり込むように浴室に入り、シャワーのコックを捻ると出てくるのは冷水。
「いっ……!」
脳の奥に残っていた眠気が一瞬で吹っ飛んだ。そのまま頭のてっぺんから水を浴びていると、徐々に水温が上がっていく。
ほっと息をつきつつ、シャンプーとリンスを軽めにこなす。ボディソープを泡立てたタオルを、こびりついた汗を掻き出すように身体中に擦りつける。出勤時刻も少しずつ迫っているから、ある程度は雑でいい。もちろん最低限の身だしなみは整えるが。
身体の芯まで温まり終えたらさっさとタオルで身体を拭き、ハンガーにかかった制服を着る。水気で少しべたつくが、時間が経ったらいずれ乾くだろう。
ふと、リビングの電気が点いているのに気付いた。強盗? 違う。もう幾度となく感じてきた、ふかふかのソファーのような気配。
ドアを開ける。ちょうど、割られた卵が小皿の中へと飛び込んでいた。
「…………先生」
“おはよう、イロハ。朝ごはん作っちゃってるけどいい?”
先生が、台所に立っていた。
私の後ろで、今さっき開けたドアがバタンと閉まる。無意識のうちに私が閉めたのだと、コンマ数秒後に気付いた。私も随分この生活に慣れたものだと、思わず笑いがこぼれてしまう。
“…………? イロハ? どうしたの?”
「いえ、ついおかしくなっちゃいまして」
“私が卵焼き作ってるのがそんなにおかしいの!?
「そういうことではなくて……あーもう」
本当にくだらない理由だ。先生に打ち明けてみたが案の定苦笑されてしまった。そんな顔をすると思ったから話したくなかったのに。
“納豆はつける?”
「あんなの食べるの先生だけですよ」
“美味しいのに……”
「歯磨きはちゃんとしてくださいね」
先生が作る朝食は和風。私が作る朝食は洋風。子供がリモコンを奪い合うように、私たちもそれとなくその日の朝食を誰が作るかを競い合っている。もちろん良識の範囲内での話だが。
2人ともある程度料理はできるのだ。美味いものが出ると分かっている以上、そんなにムキになるようなことはない。
「お味噌汁は……昨日の残りがありましたね」
“うん、今加熱してる”
言われて初めて味噌の匂いに気付く。何度嗅いでも心が落ち着く、不思議な香りだ。
“そういえば、昔インスタントのお味噌汁のCMやっててさ”
「インスタントですか。CM?」
“おじさんが無言で汁かけご飯を食うだけのCMでね”
「はい……?」
そんなCMがあったのか。もっとこう、『うわぁ、美味しいー!』とか『作るのラクちーん!』とか言うものだろうに。
“それがすっごく美味しそうに見えてさ。学生の頃は味噌汁はずっとインスタントだったなぁ”
「それはまた、どうして」
“無言でBGMもないから、美味そうに食べてる映像と豪快に啜る音だけなんだよ”
「……咀嚼音のASMRみたいな感じですね?」
“そうそうそれそれ”
他愛のない話をしながら、私は炊けていた白米を茶碗によそう。私が独りで暮らしている頃はなかった炊飯器。初めて見た時は薄く埃を被っていた、先生の炊飯器。数年ほど動き続けているから、そろそろ買い替え時だろうか。
「今ここで飲む味噌汁と、そのインスタントの味噌汁と、どっちが美味しいですか?」
“えー?”
何となく問いかける。私は味噌汁を作らないものだから、本当に好奇心だ。
“分からないなぁ……”
「分からないって、何ですか」
“いや、自分で作ってるものだし”
朱色のお碗へ味噌汁がよそわれる。卓上には醤油にドレッシング、それと向かい合わせになるようにお米が2杯置かれている。
起きてからというもの空腹感はあまり感じていなかったのだが、この瞬間になったら必ず腹が減るようになっている。人間の身体というものは、100%操作者の思い通りにはいかないらしい。
“はいできた。運んでー”
「はいはい」
小ネギの混じったしょっぱい卵焼きに簡単なサラダ、玉ねぎの味噌汁。先生だけに1パックの納豆。多過ぎず少な過ぎず、これからの活動を考えたら最適でゴキゲンな朝食だ。
次々と料理が机の上に置かれる。洋風なテープルと椅子にはあまり似合ってないが、そこまで考えて料理をする方がバカらしい。
「では、いただきます」
“いただきます”
一口ずつ口に入れ、そして飲み込んでいく。まあ、いつもの味だ。
「今日は? 何がありましたっけ?」
“ああ、今日はね。総決算”
「今年何回目ですか、総決算」
“3回目くらいじゃないかな、総決算”
これが新婚ホヤホヤ1年目だったなら、少女漫画もかくやと言わんばかりのイチャラブ劇でも繰り広げているのだろう。しかし、残念ながら私たちの間にそういったことは一切ない。何なら新婚当時でもそんなイベントは存在しなかった。
同棲して、ある程度先生のことを理解できた。先生は愛情表現を大仰にする人ではない。態度と距離感で愛情を頻りに示してくれるのだが、その段階に辿り着くまでが異様に遠い。どうしても「自分が『先生』だ」という固い意識を以て、生徒の接近をマタドールのように躱し続けるのだ。
こんな身分である私も、生徒であるうちはどうしても先生の傍には近寄れなかった。ゲヘナ学園を卒業して秘書見習いとして先生の隣に陣取れるようになって、ようやくスタートラインに立てた感覚があった。
「となると、今日は定時には帰れませんね」
“うん、まあ……そうだね”
「はぁ……めんどい」
“めんどいねぇ……”
ふと、そういえば、と思い当たる。
同棲を始めてから、毎日こうして食事の時間を一緒にしている。
どれだけ仕事が忙しくても、どれだけお互いに疲れていても、食事だけは絶対に2人でとるようにしている。
机の上の食べかけの料理から目線を上げて、先生の顔をじっと見る。眼鏡の奥の瞳は相変わらず真っ黒だが、数年前よりも心なしか光が差しているようだった。
“んっ? イロハ、どうしたの? 卵焼き甘い方がよかった?”
「いえ……。何か食べる時は、必ず先生と一緒だなって」
“ああ……? あー、そういえばそうかも”
どうやら変な勘繰りをされたらしい。サラダにドレッシングをかけ忘れていたことに今更気付き、慌てて玉ねぎドレッシングの1Lボトルを手に取ってワシャワシャと振り始める。
“1人で食べたい?”
「いえ、そんなことはありませんよ。意識してたのかなと思って訊いたんですけど……」
“うん、全く意識してなかったね”
先生の卵焼きはふわふわだ。私がやるとこうはいかない。どうしても崩れるのが怖くて、ついついガチガチになるまで火を通してしまう。
だけど、先生は私がたまに作る固焼きのオムレツが好きらしい。同棲を始めてから新たに知ったことだ。
“どうしていきなりそんなことを?”
「どれだけ疲れてても、『もう今日は2人ともこれ以上動けん』って思ってても、絶対に食事は欠かしませんよね。ハンバーガー買って食べてますよね」
“そりゃあ、ね。お腹減ったままだとダメじゃん”
そう言って首を傾げる先生の後頭部の髪が天を指している。もうじき散髪に行くことを勧めてみるべきか。
いつの間にか目の前の皿の群れが空っぽになっていた。仄かな満腹感に襲われて天井を見上げる。お腹の中が温かい。ああ、幸福だ。
「確かに、独り暮らししてる時は食事抜かしてましたね。それでそんな時に大抵イラつくことばかりで」
“まず食事しないとダメだよ。三大欲求は伊達じゃないからね”
「先生はその三大欲求の1つである睡眠欲に対してどんな対処をしてきましたか?」
“い、今はちゃんと最低4時間は睡眠とれてるから……”
一緒のベッドで眠るようになってから、先生は私よりも早く寝て遅く起きるようになった。私自身も、先生の心臓の音と規則的な寝息がないと眠れないようになってしまった。
昔は好きなだけ読書して、好きな時間に寝ていたものを。いつの間にか私の身体は先生なくしては成り立たなくなってしまったらしい。
そんな自身の変化が、心地いい。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
“はいはい、おそまつさまでした”
用の済んだ食器を洗い場に置き、私は皿洗いを始める。先生はその間に身支度だ。しわくちゃパジャマに身を包んだもうじき30代後半に差し掛かるあの男は、もう十数分でシャーレの先生に早変わりする。
ねばついたご飯茶碗をぬるま湯に漬けながら、今の自分の装いをじっと見る。ぴっちりとした黒スーツに、普段はもさもさと生い茂っているワインレッドの髪を後ろで1つにまとめた姿は、紛うことなきオフィスレディー。ゲヘナ時代はダボダボの制服を着ていたのが懐かしい。
「何か、こんなところまで来ちゃいましたねぇ」
いつだか、生徒たちに「先生は何もかも受け入れてくれそうな『白』なのに、厳しい棗さんは『黒』なのが釣り合ってるみたいでイヤ」と言われたことがあった。その時はデコピンしてやったが、今ではお菓子の1つや2つでもあげた方がよかっただろうかと思ってしまう。
厳しめに接しているのは故意犯だ。先生は生徒に対してはどこまでも寛容だから、生徒が増長して事件を起こしかねない。鞭の役割は誰かが果たさねばならない。そのお鉢が回ってきたのが自分だったというだけの話だ。
「いえ、これは私から志願したことでしたね。はぁ……」
洗い終わった食器を、カゴの中に立てて置く。タオルで拭くのは手間だ。この後外出するというのだから少しは自然の力に手伝ってもらおう。
“イロハ”
「おや、先生。皿洗いは終わってますよ」
“ありがとうね。夜は私がやるよ”
時刻は7時過ぎ。目の前にいるのは、昨夜アイロンがけした白衣を引っ提げた私の夫。
“それじゃ、少し早いけど行こうか”
「ですね。もう準備できてますし、行きましょう」
玄関を開けると飛び込んでくるのは、キヴォトス特有の澄みきった青い空。相変わらず、地上で繰り広げられている惨劇とは比べ物にならないほど美しい。
“もうそろそろ総力戦の時期かな……”
「虎丸での援護も限りがありますからね」
今日の仕事量が少ないことを祈りながら、玄関の鍵を閉める。
そして私たちは2人並んで、シャーレへと歩き始めた。