私と君のアーカイブ 作:自産自消
今日は朝から天気がぐずついていた。
天気予報では降水確率40%。昼から夕方にかけて雨が降るという。今日ゲヘナ学園に用事があった私は、外出するにあたって嵩張って邪魔になることが多い傘を持ちたくないという気持ちが強かった。
それに、用事とはいえ1時間ほどで終わると見込まれたものだ。さっさと行ってさっさと帰ってしまえば問題ないだろう。
ということで今日は傘を持たずに出かけたのだが、やはりゲヘナ学園の近郊なだけある。次々に舞い込む事件や事案の対処に追われるうちに、いつの間にか帰る時間が当初の予定よりも大幅に遅れることとなった。
空はゴウゴウと唸り、ふとすれば雷さえ降ってきそうだ。折り畳み傘も持っていない私が今ここで雨に降られたら、びしょ濡れのち風邪っぴきになることは間違いない。
“……ということを考えてたら、降るんだよなぁ”
直後、額に雫の感触を感じた。身体に落ちてくる雨粒は数を増し、いつしか「これは雨である」と胸を張って言えるほどの天候に成り果てていた。
“私が外出する時は大抵降られてる気がするんだけど……”
気のせいだ。絶対数で見れば、私が出かける時は晴れていることの方が多いに決まっている。それでもそう思ってしまうのは、雨に降られた嫌な思い出の方が記憶に深く残っているからだろう。
いてもたってもいられなくなって走り出した私は、ちょうど目の前にあった書店の屋根下に身を潜める。スーツも髪もしとどに濡れている私が今室内に入るわけにもいかない。だがしばらくはここで雨が落ち着くのを待たせてもらうことにした。
私の目の前を、同じように傘を持っていなかった生徒が走り抜けていく。その表情はどことなく楽し気で、「雨で濡れ鼠になる」という非日常を噛み締めているようにも見えた。風邪をひかなければいいが、と思った直後に私からくしゃみが出た。
“ああっ、冷えてきたな……”
身体中を濡れた布に覆われているのだから当然のことだ。「こんなことならいっそビニール傘でも買っていれば」と数時間前の自分自身を呪っていると、後ろの自動ドアが開く音がした。
「おや、先生じゃないですか。こんなところで何をしているんですか」
私のすぐ後ろに、先程何某かの書物の購入を済ませたらしきイロハが立っていた。
“あれ、イロハ……?”
「はい、棗イロハですよ。雨宿りですか」
私の惨状を一目で理解したのだろう、イロハが顔に笑みを滲ませて言う。反射的に否定の言葉を口走りそうになったが、事実なのだから仕方がない。眉を顰めさせて肩を竦めるだけである。
「何で傘を持ってきてなかったんですか」
“雨が降る前に用事が済むと思ったんだけどね”
「ゲヘナでは用事は時刻通りに終わらないと思った方がいいですよ。新しい学びを得られましたね」
“全くね”
大人であっても日々学びの連続だ。それは私が「先生」だからと言っても例外ではない。
雨はますます勢いを増し、しばらく止む様子を見せない。そういえば大きな低気圧が近づいていると予報では言っていただろうか。
「先生はこの後、何か用事とかあるんですか」
“いや? この後は帰って仕事かな”
「まだ仕事あるんですか。大変ですね」
そうするとイロハは、手に持った傘を私に差し出してきた。
“…………? イロハ?”
「別に貸すわけじゃありませんよ。私も本を濡らしたくないので。ですので、駅までです」
艶々と光沢を放っている真っ黒な傘は、いかにも軍服風の制服に身を包んだイロハらしいと言える。さすがに可愛い柄のものを使うような年頃ではないということか。
「2人で、この傘に入りませんか」
“……いいの?”
「よくなければこんな申し出はしませんよ。どうします、先生」
正直なところ、悪い話ではない。もう濡れているのだからさっさと帰った方が得策なような気がしないでもないが、やはりこれ以上濡れないように努力するに越したことはない。
“イロハ自身も濡れちゃうと思うけど”
「まあ、少しくらいならいいんじゃないですか。どうせこの雨ですし、足とかは傘を差していても濡れますよ」
“まあ、それはそうだけど”
「煮え切りませんね。さっさと決めないと先に行ってしまいますよ」
呆れたように溜息をつかれる。いい加減に決めねばなるまい。
“分かった。それじゃ、しばらく入らせてもらおうかな”
「そう言うと思ってました。それでは」
イロハがずいと私に傘を押し付けてくる。一瞬意味が分からなかったが、すぐに理解が及ぶ。
“私に持てってこと?”
「当然です。先生の方が大きいんですから、先生が傘を持った方が窮屈じゃないでしょう?」
“了解。じゃあ、行こうか”
そうして私たちは、雨の中に2人繰り出した。できる限りイロハの方に傘が行くように、しかし私自身も傘の恩恵を受けられるように苦心しながら。
この傘は意外に大きく、大人1人と子供1人くらいならすっぽりと覆い隠せる。その重厚な印象も相まって、イロハがこのようなものを持っていることに半ば納得がないでもなかった。
“さっきは何を買ってたの?”
雨音の中で静かに会話が始まる。半径約70cmの内側は2人だけの世界。ならばお互い居心地がいいように、コミュニケーションは必須だろう。
「追っていた小説の続刊が発売されたので、それを買いに外に出たらこの有様です」
“イロハはちゃんと傘持ってきてたんだね”
「天気予報はチェックしてましたからね。むしろ先生は見てなかったんですか」
“見てたんだけど、ほら、さっき言ったでしょ。用事が時間通りに終われば雨が降る前に帰れるはずだったんだよ”
「……先生って、意外とバカだったんですね」
“嵩張るから持ちたくなかったんだよ。それでも雨に降られるよりはマシだったかな”
2人歩調を合わせる。イロハと私とでは歩幅が違う分、どうしてもふと気を緩めたら私の方が速くなってしまう。そうなるとせっかく傘を貸してくれたイロハが濡れることになる。それではいけない。
イロハもそれを分かっているのだろう、いつもよりもだいぶ早歩きをしているようだ。私に気を遣わせまいとして出来得る限り私のいつもの歩調に合わせようとしてくれているのだろうが、そこは私という大人を信じてほしいものだ。
「……しかし、先生。こんなところ誰かに見られたらどうするんです?」
水滴で曇った通りの向こうを見つめながら、イロハが言う。
カフェ街に満ちていた往来はその数を減らし、時折私たちの横をバシャバシャと足音が通り抜けていくくらいだ。近くのカフェかファストフード店に籠ったか、雨が降ることを見越して寮に引っ込んだか。
「ゲヘナの万魔殿所属戦車長と、シャーレの先生が、2人きり相合傘だなんて」
雨音は強くなるばかりだ。きっと、誰もが自分自身のことだけに夢中なのだろう。先程から何回も人とすれ違っているのに、私たちのことを誰も見えていないかのように感知された気配すら感じない。
もしバレたら、どうなるだろう。中立を謳うシャーレが、ゲヘナに肩入れしているとでも思われるのか。イロハと個人的な仲であると、ニュースで書き立てられたりするのだろうか。
「そう思うと、ゾクゾクしますね。写真でも撮られたら、終わりですよ」
“……イロハは、それでいいの?”
「まあ、そもそも私はそういう目的で遣わされたわけですし。そうなったらそうなったで、あることないことクロノスあたりにタレこみますよ」
“手厳しいなぁ”
「もしもの話ですよ。先生にとって最悪の場合……万魔殿は、先生を引き込むために全力を尽くすでしょうね」
脅すように告げられるその言葉は、しかしてその脅威性を感じさせないほどに優しく、甘く響く。
「そうなったらイブキも喜びますよ。イブキは先生のことが大好きですから」
“好いてくれるのは、素直に嬉しいね”
「当番から帰ってきた時なんか、先生の話ばっかりするんですよ。本当に楽しそうに……」
“そう言ってくれるのはありがたいね。仕事を手伝わせちゃってる感じがあったから”
とはいえイブキが当番に来た時は、私も大概仕事の手を休めて遊び相手になることが多いのだが。
それは喜ぶだろう。私も周囲から「優しい」と思われているという自覚はある。そんな大人が、自分1人の遊び相手になってくれるのだから。
「ということで、万魔殿にとってはいいこと尽くめなわけです」
“そっか。でも、そうはならないんじゃないかな”
「そんな気はしますけどね。一応、そうお考えになる理由を伺っても?」
“それこそ、当番制だよ。2人きりになるのがアウトなら、私は最初に当番をしてくれたユウカのいるミレニアムの専属にならなきゃいけなくなるし”
「私」という大人への信頼は、当番制でシャーレに来た生徒に手を出していないということからも成り立っている。無論それだけが全てではないだろうが、これまでの年月で確立してきたその信頼は、今更相合傘くらいで崩れるようなものではないと自負している。
それでも背信行為として後ろ指を指される危険性はあるが、私のやることは変わらない。いつも通り、生徒たちに対して真摯に向き合い続けるだけだ。
イロハもそれを分かっていたのだろう。揶揄い甲斐がないと言わんばかりに嘆息し、私の持っていた傘を少しだけ引き寄せた。
「……つまらない大人ですね。遊びってものを知らないんですか」
“そんなに言われるほどかなぁ”
「いいです。目論見が外れて拗ねているだけですから」
それを自分で言ってしまうのか。そんなことを言われたら傘を没収されそうだったから必死に口を噤む。
しかしイロハはそれを知ってか知らずか、私の足をげしげしと蹴り始めた。地味に痛いのでやめてほしい。
“イロハ? ちょっと痛いよ?”
「おや、足が当たってしまったようですね。申し訳ありません」
“いや、蹴ってたよね?”
「距離が近いですからね。そういうこともあります」
“……そうかなぁ”
「そうですよ。ほら、そんなこと言ってる間に着きましたよ、先生」
少し傘を後ろに傾けると、先程まで曇って見えなかった先の風景が駅舎の建物に様変わりしていた。
話に夢中だったあまり、いつの間にここまで歩き通していたのだろう。隣のイロハを見ると、何でもなさげに私を見つめていた。
「では、傘を返してください?」
“あ、ちょっと待って。返すなら屋根のある所で”
「いえ、振られたのを忘れてませんよ、私は」
そう言ってイロハは私が持っていた傘をひったくてきた。ついつい油断をしていたものだから、大人の男性の膂力を1割も発揮できずに傘を奪われてしまう。
後頭部に何かが引っかかる感触を覚え、その正体が傘のビニールだと分かった瞬間に背中がまた濡れ始める。堪らなくなって駅舎に駆け込むと、後ろからイロハの声がした。
「ではでは、風邪をひかないように気を付けてください。それと傘はちゃんと買うように。構内にコンビニあるでしょう?」
“い、イロハ……いきなりは酷くないかな”
「水も滴るいい男になれてよかったじゃないですか。まあ、傘は持っておいた方がいいという勉強代ということで」
悪戯っぽくイロハが笑った。とは言っても髪と傘に隠れ、三日月のような弧を描いた口しか見えない。
イロハが本当に笑っていたのかどうか、私には分からない。
「それと、女心を理解しないと次は濡れるどころじゃ済みませんよ」
そう言ってイロハは私に背を向ける。黒い傘はあっという間に遠くに消え、夢から現実に引き戻されるかのように人の声や雨音が耳に入り始める。
サアサアと雨が地面を打つ。この広い世界の中で、私はただ傘を忘れて雨に濡れたバカな人間でしかない。
“とりあえず、傘買わなきゃな……”
このままだと、風邪をひいてしまうから。雨はまだ、止みそうにないのだから。