私と君のアーカイブ 作:自産自消
「シャーレの当番」という制度がある。
普段から多忙極める先生のため、毎日1人の生徒がシャーレビルに伺ってその補佐をするというものだ。
とはいえその「仕事の補佐」というのも書類の仕分けや飲み物の差し入れといったアナログなものばかり。先生の仕事の核心を掴んでいるというわけではないので、私たちの当番が先生の助けになっているかは正直怪しいところではあるが。
「本質は生徒が先生と知り合うことなんでしょうけどね……」
そして私は今、その当番のためにわざわざゲヘナからシャーレビルに出向いている真っ最中である。
しかも到着予定時刻は刻限の30分前。「サボり魔」の名が廃るというものだ。休日の朝から電車に揺られてあくびを噛み殺しながら、これから起こることに思いを馳せる。
大して苦でもない仕事量と、それに見合わない先生からのご馳走。「わざわざ遠くから来てもらっているんだから」ということで、当番の生徒に少しだけいいレストランを奢るのが定番イベントと化している。
当番として指名された生徒にとっては、それがなかなかに代え難い思い出となっているようである。全く単純なことだ。かく言う私もそれを秘かに楽しみにしているのが救えない。
通常よりも上等なハンバーグステーキを噛み締めていた時に、向かい側に座った先生が「我が意を得たり」とばかりにニコニコと笑っていたのが忘れられない。自分と先生との現状どうしようもない差というものを思い知らされ、全くもって癪に障る。
そうこうしている間に最寄り駅に着いたので降車。朝の涼しく澄んだ空気を肺に取り込みながら、小さな歩幅でシャーレに向かう。
徒歩10分。近いのだか遠いのだか分からないこの距離感が、私に気持ちの逸りと少しの興奮を教えてくれる。
ビルの中の部屋は大半が暗いままだが、その中に1つだけ明かりの灯った部屋がある。上層にあるあの部屋が、私のこれから向かう場所。先生の執務室だ。
エレベーターで目的の階まで上っていると、何やら心臓が早鐘を打ち始める。いつものことなのだがやめてほしい。こんなもの、私が先生に会うことを楽しみにしているみたいじゃないか。
エレベーターを潜り抜け、すぐ目の前に見えてきた執務室の重厚な扉を開ける。すると「おや」と低い男の人の声が私を出迎えてくれた。
“イロハ、いらっしゃい。今日はよろしくね”
「はいはい、任されたからには頑張りますよ」
先生の顔はデスクに積まれた書類の壁に阻まれて見えない。仕方がないので回り込んでみると、先生はいつも通り……いや、いつもより隈を濃くして表情筋を引き攣らせながら書類を捌いていた。
「これ、いつの分の仕事ですか」
“えーっとね、この束が昨日の分で、その左からが今日のノルマ”
「仕事は終わってないってことですね。まずいじゃないですか」
“いやー、まずいね。非常に”
先生の仕事事情がおかしいのはいつものことだ。目の前にある資料の山は、戦力にも数えられない生徒1人を補佐につけたくらいで済ませていい量ではない。現在のシャーレはほぼ先生のワンマンパワーで回っていると言っても過言ではないだろう。
「ちょっと休んだらどうですか」
休んでいる暇もないことは分かっているのに、私はいてもたってもいられず先生を休憩へと誘う。当の相手は眠気と戦って目をショモショモさせながらも、私への配慮を欠かさない。
“あー、それもいいかも……”
「とりあえず30分ほど頭を休めていただいて。寝るとは言わないまでも、集中は否が応でも途切れるものですから。何時間やってるんですかこれ」
“分かんない。気付いたら朝になってイロハが来てた……”
「夜中やってたのは確定コースですねこれ」
“へへへへ……”
「へへへじゃないですよ全く」
そうしてもうじき限界の近そうな先生を相手に管を巻いていると、部屋の隅からピーッと無機質なサイレン音が聞こえてきた。
“あ、できたかな”
先生の向けた目線の先にあるのは、最新式のコーヒードリップマシン。忙しい中でも人に咎められずに楽しめる趣味の1つがコーヒーだ、と以前に先生が言っていたことを思い出す。
先生は徐に椅子から立ち上がり、不安定な足取りでしわくちゃの白衣を引きずりながらマグカップにコーヒーを淹れていく。焦げ茶色の液体は、物好きな人でなければそのまま飲むにはあまりに苦い代物だ。
イブキなんかは「コーヒーはすごく苦いから」と言って敬遠していたっけ。そのチャレンジ精神は是非見習っていきたいところではあるが、彼女に似合うのはやはりブラックコーヒーではなくオレンジジュースだろう。
「ドロッドロですね、そのコーヒー」
“そういう風に淹れたからね”
コーヒー豆の芳しい匂いが鼻を突く。朝食の時に温かいものを何も胃に入れていなかったからか、満たされていた腹がまた「私を満足させてくれ」と脳に懇願をし始める。
「美味しそうですね、そのコーヒー」
“そう? 嬉しいな”
先生がニヘラと笑う。
“これ、イロハのために淹れたコーヒーだからね”
そう言って先生は、手に持ったマグカップを私に差し出してきた。
思考が停止する。私は確かにそのコーヒーに興味を引かれたが、それを表に出したりするような真似はしなかったはずだ。つまり先生は私にこのコーヒーを譲ったか、最初から私のためにドリップマシンを起動させていたかの2択となる。
「……遠慮しないでも、いいんですよ」
“いや、これはイロハのだよ。イロハの好きなブルーマウンテン、ほら”
言われて嗅いでみると、ブルーマウンテン独特の酸っぱい匂いがする。私がこの豆のコーヒーの、しかもブラックを好きだなんていつ言っただろうか。
思い返してみれば、いつかの当番でふと口に出してしまったかもしれない。それを先生はただの雑談として留めておかず、私をもてなすネタとして覚えていてくれたのだ。何とも腹立たしいことではないか。
「…………ありがとう、ございます」
“うん、ゆっくり飲んで”
少しばかりの敗北感と共に、温かなマグカップを両手に戴く。啜ってみると期待通りのまろやかな味と深いコクが私の舌を包み込む。
身体の内側から温められるような心地を覚え、思わずふぅと一息ついてしまう。先生はそれを見て微笑みを満面に湛えながら、“私はどれにしようかなー”なんて言って袋詰めの豆を物色し始めた。
「私がこの時間に来ること、分かってたんですね」
“そうだね”
事も無げに先生は言う。先生にとっては、生徒が登板で来る時間帯を覚えておくなんて当然のことなのだろう。
“大体ゲヘナ学園前の駅からこっち方面に向けた電車が出るのが7時くらいでしょ? イロハはそういう電車を逃したら連絡してくれるし、そこから逆算するのは慣れたら簡単かな”
湯気の立つコーヒーの水面を見ると、私の顔がぐにゃぐにゃと揺れている。自分で言うのもなんだが、随分と幼い顔だ。戦車長という肩書がなかったら、ゲヘナで生きていくことは難しかっただろう。
そんな生徒でも、先生は1人の対等かつ守るべき相手として扱ってくれる。それが無性に安心して、また悔しい。
こんなことを他の生徒も同じようにされている、こんな風に扱われている。そう思うと私の胸の内に良くないものが走る。
「……先生は」
“うん?”
「女たらしですね。そのままでいるといつか痛い目見ますよ」
“あはは、他の生徒からも言われたよ”
男としては0点の答えだ。しかし子供に対しての大人として考えると、悲しいことに百点満点なのだ。
それはつまり、私のことを取るに足らないただの子供としてしか見ていないということで。
1人の女として、それは屈辱である。自分でも顔は整っている方だと思うのだが、先生にとってはそういう意味ではないのだろう。
“それじゃ、30分くらい休んでからまた始めようかな”
「……………………」
“それで、再開する時はイロハの助けも借りるよ”
「…………そうですか」
ほら、私の仕事なんて先生の助けにならないなんてことは分かっているのに。
先生は笑いながら、心の底からそう言ってやまないのだ。それが気に食わなくて、でもどうしようもできなくて、私はコーヒーに逃げる。
「……苦いですね、やっぱり」
“ブラックのコーヒーなんてよく飲めるよね。私はミルクと砂糖入れないと厳しいよ”
「そういう問題ではなく……、はぁ」
当然のことながらそのコーヒーは、いつも自室で飲んでいるインスタントのカフェオレよりも数倍苦かった。
先生のいる執務室でしか飲めないコーヒー。私だけのコーヒー。しかしこの苦さは、私だけが味わっているものでもないのだろう。
それでも先生の傍にいられることに対して、そこはかとない優越感を感じている自分がいることが遺憾だった。