私と君のアーカイブ 作:自産自消
全部お見通し(※)
デスクワークの合間を縫って戦闘。戦闘が終われば報告書を書くためにまたデスクワーク。これがほぼ毎日。
眼前に積まれている書類の山は向かい側の景色すら満足に見せてはくれない。塵も積もれば山となるとは言うが、紙が積もればそれは頭痛と胃痛の種にしかならないと風紀委員長になってから学んだ。
アコもイオリもチナツも毎日フル稼働してくれているが、だからと言ってゲヘナ学園が平和になってくれるわけではない。生徒の各々があちこちで大爆発してくれるため、治安においてマイナスがゼロになることはあってもプラスになることはない。それが「混沌」を旨とするゲヘナである。
椅子に座ったまま後ろに体重をかける。冷たい色をした天井は相変わらず。背もたれが自身の重いとも言えないような体重にも耐えきれないと言わんばかりにギシリと音を立てた。
「……エデン条約が結ばれてくれてたら」
ゲヘナの宿敵たるトリニティと手を結ぶ。我らが愛すべき万魔殿の議長の謀とアリウス分校の暗躍によって灰燼に帰したその夢物語は、しかして私の心の空模様に晴れのち豪雨をもたらしてくれた。
あれがきちんと締結されていたら、表向きだけでも争いの種が1個消えてくれただろう。諍いの種は尽きずとも、将来的な平和のきっかけの一つにはなってくれたかもしれない。
ああ、でも今何とかなってくれなかったら結果的に私たちが苦労するのは変わらないか。現実は厳しくても、それでもどうしても思わずにはいられない。「あの時ああなってくれたら」なんて、何の生産性もないのに。
どうにもなりそうにない現状にしばし目が眩んだその時、机の上に置いてあったスマホが鳴った。
モモトークの通知音。それもただ1人特別な相手にのみ設定してある明るげな音。
(先生……!)
流れるような手つきでスマホのロックを解除し、モモトークの画面を開く。先生からの未読トーク、3件。
“ヒナ、お疲れ”
“ちょっと話がしたいから、空いてる日を教えてくれるかな”
“こっちの都合が合う日があったらその日にしよう。返信待ってるね”
パァッと、目の前が明るくなった。蛍光灯の冷たい光すら今では暖かい陽射しに思える。
シャーレの先生。私を理解してくれる人。私の弱音を聞いてくれた人。私の何でもない用事に付き合ってくれる人。
『ちょうど明後日のお昼が空いてるよ』
嘘をついた。まだ空いてない。今から死ぬ気で仕事をこなしたら数時間空く程度だ。
それでも、それくらいあったら十分だった。先生に会いたい。あの顔と、あの声と、また話がしたかった。
“わかった。明後日のお昼ね”
“それまでお互いに頑張ろう。楽しみにしてるよ”
頑張ってるのは私たちだけじゃない。先生も違う場所で仕事を頑張ってくれてる。そう思うだけで気力がぐんぐんと回復していくのが分かった。
『先生も頑張ってね』とトーク欄に打ち込んで送信、そして電源を切ったスマホを机の上に戻す。まずは目の前の書類を片付けないと終わるものも終わらない。
「委員長が張り切りだした……!」
そんな書類の山の向こう側にいる風紀委員の誰かの声を聞き流しつつ、ペンを手に取った。口角が上がるのはハイになっているからか、はたまた先生と会えることへの嬉しさからか。
どうでもいい。何だっていい。明後日の昼のために、私は今を燃やし尽くそう。
仕事をこなしながら笑いを滲ませていた私を見かねたらしきアコから「今日はもうこれくらいで……」と帰寮を勧められたのは、日が暮れて空が青紫色になっていた頃のことだった。
◇
“お待たせ、早いね”
「先生こそ」
逢引きの日。待ち合わせ時間よりも20分早く、先生は私の前に現れた。30分早く来ていた私を見て、先生はどことなく申し訳なさげだった。
一昨日、昨日と脇目も振らずに仕事に没頭し、ようやく3時間の猶予を得ることができた。朝の仕事を少し終えた後に急いで帰宅し、とっておきの一張羅をクローゼットから引っ張り出した。せっかく先生と会うのだ。いつもの制服ではなく、少しでも着飾って「かわいい」と思われる自分でいたかった。
“じゃあ、行こうか”
「うん、行こう」
今回行くのは少しお高めの西洋料理屋。パスタが美味しいと噂で、前から一回行ってみたかった。初めてのレストランに、好きな人と行くことができるなんて幸福以外の何だと言うのか。
“身体は大丈夫? 怪我とか病気とかは”
「おかげさまで健康よ。ありがとう」
先生。私よりもよっぽど不健康そうな身なりの人。私よりもよっぽど大変な人。私が、守れなかった人。
エデン条約での騒動で、先生は重傷を負ったという。私が見知らぬ敵に苦戦し、倒れている間のことだった。事件前は「やっと重い荷物を下ろせる」と思っていたことも相まって心が折れかけていたが、先生は私の部屋に来てまで私を労ってくれた。
涙が出るほど嬉しかった。あの時「頑張ったね」と言ってくれたことにどれだけ私が救われたことか、先生は知っているのだろうか。
“ああ、ここか。素敵そうなお店だね”
「うん、きっと美味しいよ」
今だけは、仕事を忘れて先生と話そう。先生からしたらこれもきっと仕事の一環なんだろうけど、それすらも忘れられるくらいに明るい話がしたかった。
「先生は何が好きなの?」
“うーん、いろいろあるけど…………”
食べ物の好き嫌いを談じることすら幸福だと思えるほどに、私はこの大人に夢中だった。
誰かと一緒に食事をし、その中で会話をするのは人間にとって非常にいいらしい。「ストレスの緩和になる」だとか、「リラックスして話せるので相手との距離が縮まりやすい」だとか、日頃から仕事に追われがちな私にうってつけだ。
テーブルの真ん中に置かれたピザ、それぞれの席の前に置かれたサラダやパスタ。どれもとても美味しかった。しかしその美味さの内に、先生と共に食事をしたことによる幸福感がどれだけ割合を占めているかは分からない。
食事中、私たちは何でもない話をした。最近あったいいことやドタバタ劇を話していると、疲労感すら忘れてしまうほどに自分が高揚していくのが分かった。
先生が戯れに「これ美味しいよ、ちょっと食べてみて」と言って皿を出してきた際に先生自ら食べさせてくれるようお願いしたのは、少々はしたなかっただろうか。お返しと言って私のパスタを先生にあげたのは、内心嫌ではなかっただろうか。
先生は誰にだって優しい。生徒から何を言われようと決して表向きの態度を変えることなく、慈しみを込めて同じ目線で物事を見てくれる。それは私たち風紀委員に対しても、美食研究会や温泉開発部に対しても同様だ。先生の感情は、先生にしか分からない。
守ろうとしたのに守れなかった。その上に肝心なところで先生に甘えた。そんな情けない私が今ここで先生と笑って食卓を共にしている。それが「私への労い」という仕事であることを踏まえると、今私の話を聞いて微笑んでいる先生の内心が少し怖くなった。
……しかし、この店のウェイターは腕利きらしい。私たちがメインディッシュを食べ終えて談笑していたのを見計らい、スッとデザートと伝票を差し出してきた。
私はプリンアラモード、先生はバニラアイスクリーム。きっと2つ一緒に食べたらもっと美味しいだろうけど、そんな贅沢は望めなかった。
“ねえ、ヒナ”
「どうしたの、先生」
先生がいつものようなアルカイックスマイルを浮かべながら私に言う。
“デザート、きっと2つ一緒に食べたら美味しいよ。半分こしない?”
ああ、ほら。私の考えることなんて、全て先生にとってはお見通しだ。
「……いいの?」
“ハハハ、実は私がプリン食べたくってさ”
ずるい。この提案は私のわがままではなく、先生のわがままになってしまった。本当はきっと違うのに。
こうなったら「私が乗ってあげる」しかない。この提案を謙虚ぶって断ったら、先生の厚意を台無しにしてしまうことになるから。
ちょっとだけ開いた目で私を見つめる先生の姿は、まるでプロポーズした後に相手の反応を見るようだった。
私は、先生のそういうところがちょっぴり嫌い。だから私はほんの少しだけ意趣返しをする。
「……実は、私もアイスを食べたいと思ってたの。ありがとう、先生」
分かっている。分かっているから。
一生あなたの掌の上で無知なまま踊らされている私じゃないってことを分かってほしかった。
「楽しかった?」とは訊かない。そう訊いたら先生は絶対に「楽しかったよ」とか「久しぶりにリラックスできた」とか言うに決まってるのだ。
だから、先生の感情はブラックボックスのままにしておく。それが子供の私から大人の先生に贈れる敬意の形だろう。
そして、今日この後解散した後も続く風紀委員の仕事を精一杯こなして、元気になったことを行動で示し続ける。
そうすることで、今この場で「今日はありがとう」と言うよりも、高価なお礼の品を贈るよりも、今日この場を設けてくれた先生に対する感謝の気持ちをより深く、素直に表すことができるのだろう。
目の前でふにゃふにゃと笑う先生の顔を見ながら、私は舌の上で少しずつ蕩けていくアイスクリームの甘みをゆっくりと味わった。