私と君のアーカイブ   作:自産自消

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鷲見セリナ
セリナに優しく寝かしつけられる話(※)


 その日の日中、私は超絶眠たかった。

 前日に徹夜をしたのがいけなかった。人の身体というものは基本、夜眠らずに動けるようにできてはいないらしい。

 目の前の画面に映し出されたメール百数十件をこれから一刻も早くチェックしないといけないというのに、眠気に耐えきれなくなった私の脳は、私の意思に反して急激に動作を停止しようとしていた。

 

“まずい、このままじゃ……”

 

 意を決して立ち上がり、愛用のマグカップにインスタントコーヒーを淹れる。香ばしい匂いが鼻を刺激する。これでカフェインを摂取して、少しでも目を覚まそうという寸法だ。

 息を吹きかけて冷まし、啜るように飲む。キヴォトスに来てから何十回何百回と味わった、甘く苦い風味が舌の上を走り抜けた。

 

“これで少しは楽になった、かも”

 

 メールの山は相変わらず画面上に鎮座している。これが終わったら次は書類仕事だ。このペースを続けられたら、時計の針がてっぺんを越える前に終わることができそうだ。

 少しでも早く進めなければと堅苦しい文面に目を通しているうちに、カフェイン効果で去ったと思っていた眠気がまた到来してきた。

 

“いや、まずい。まずいなこれ……”

 

 ボールペンで手の甲を刺そうが頬をつねろうが、眠気はますます大きくなっていくばかりだ。

 現在午後2時、昼食で腹を満たした直後なのもあるのだろう。高校では昼休み直後の数学の授業が一番寝やすかったな、とどんどん機能を停止しつつある頭は仕事と無関係な思考を走らせる。

 

“でも仕事を終わらせないと……また徹夜……”

 

 何とかキーボードに手を伸ばそうと苦闘しているその時、通常ではありえないはずの、だがこの状況なら一番聞く可能性の高い声が部屋に響いた。

 

「お困りですか、先生?」

 

 目線を上げると、白衣の天使がデスクの前に立っていた。桃色の髪が窓からの光を反射してとても綺麗だ。ほんのりと薬品の匂いがする。

 どうやってここに音もなく入り込んできたかは聞かないことにする。そういうものだと受け入れた。

 

“セリナ……眠い……”

「先生のことですから、昨日徹夜してしまったのでしょうね。お疲れ様です」

 

 心配そうに私を見つめてくる。人が来て少し興奮したのか、ぼやけていた私の視界が少しだけクリアになったような気がした。

 

“今日は眠気が酷くってね……。何かこう、対策とかないかな”

「眠気への対策ですか。そうですね……」

 

 少し考え込んだ後、セリナは困ったように私に語りかける。

 

「眠気は人体が睡眠を欲しているサインなんです。それを無視するのは、やはり難しいと言わざるを得ませんね……」

“今日中に、この仕事を終わらせないといけないんだ……”

「うーん……でも、もう先生の身体は限界だと思うんです」

 

 その言葉の通りだ、もう今にも倒れてしまいそうなほどに眠い。

 頭が重い、ボーッとする。正直言って寝たい。すごく寝たい。今すぐ寝たらきっとすごく楽になるだろう。その誘惑に負けまいと目を擦っていると、濁ったうめき声が口から漏れた。

 でも寝られない。何とかして起きてこの仕事を終わらせないと、明日がますます辛くなるだけだ。

 

「…………仕事の量が多いんですよね?」

 

 セリナが問いかけてきた。確認しようとしてメールの未読通知135件という数字を見てしまい、思わず気絶しそうになったが何とか堪えた。

 

“あ、ああ……机の上に山積みになってる書類も今日の分”

「そのうち、明日に回してもよさそうなものはどれくらいありますか?」

 

 書類にも3種類ある。「今日中に絶対に終わらせないといけないもの」と「期限は今日じゃないけどできる限り早めに終わらせてほしいもの」、そして「現状は後回しにしていいもの」だ。極論、今日終わらせるべきなのはそのうちの「今日中に絶対に終わらせないといけないもの」だけだったりする。

 つまり、セリナが言っているのは……。

 

“今日の分の書類仕事の何割かを、明日に回そうってこと?”

「そういうことです。眠気を抱えたまま仕事をするとミスが生まれてしまう可能性が高まります。何より今の先生は本当に辛そうです」

“あー……確かに、それはそうかも……”

 

 実際眠気が酷いままこなした仕事にはミスが多い。ミスが見つかる度にリンちゃんから電話がかかってくるので、その日一杯はスマホのバイブにいちいち戦々恐々としていた記憶がある。

 

「お仕事なら少しくらいは手伝えますし……短時間の昼寝なら、できませんか?」

 

 悪魔のような天使の誘いとはこのことではなかろうか。私が心の奥底に封じていた「今すぐに寝たい」という欲望がむくむくと膨れ上がっていく。

 

“うん……じゃあ、いいかな、寝ても”

「はい! 起きた後のお仕事はちゃんと手伝いますからね!」

 

 2時間だけだ。2時間だけ寝て、今日の仕事は最低限の量にして、そして今日はしっかりと睡眠をとる。そう決めた途端に身体中から力が抜けていった。

 私は何とか椅子から立ち上がり、覚束ない足取りで仮眠室へと向かった。

 そして後ろの方で、私についてくる小さな足音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

“え、えーっと……セリナ?”

「はい、何でしょう?」

“その、何でセリナがここにいるの?”

 

 今、私は薄暗い仮眠室のベッドの中にいる。

 そして、その傍らでセリナが、まるで聖母のように私を見守っている。

 

「起こす人間が必要だろうと思いまして。今日私はお仕事お休みですから」

“いや、別にセリナがここにいなくてもいいんだよ? 目覚ましとかかけるし……”

「起きた後仕事を手伝うって、約束しましたから。今日この後、先生に独りでお仕事をさせるわけにはいきません」

 

 清らかにセリナが笑う。私はこういう自分の意思を強く持った生徒に弱い。

 接しているとどうにも気圧されてしまう。この笑顔に勝てる気がしなかった。

 

「先生はいつも、お仕事頑張っていらっしゃいますから」

 

 優しく頭を撫でられる。垂れ下がっていた前髪が掻き分けられ、目の上をちらつかれる不快感がなくなった。

 

「だから、こういう時は素直に休んでください」

“…………セリナ”

 

 頭を撫でられると、人は安心するらしい。

 リラックス効果にストレス軽減なんかも期待できる。自分で撫でた時でさえそんな効能があるというのだから、人の身体と心というものは何とも分からないものだ。

 そういえば親元を離れてからしばらく頭を撫でられたことがなかったな、と思い出した。しかしそんな考えもすぐに眠気の前にぼやけ、霞み、消えていく。

 

「おやすみなさい、先生」

 

 細い指が時折私の視界を遮る。それが何だか嬉しくなって、私は目を瞑る。

 セリナは何も言わない。ただ手の感触と呼吸音だけに集中していると、意識の電源がどんどん落ちていくのが分かった。

 それが、とても心地よかった。

 

「起きてください、先生。もう時間ですよ」

“ん? ん……ああ……、もうそんな時間か……”

 

 身体を揺すられて目が覚める。まずセリナの笑顔が目に映った。

 

「約束してた2時間きっかりです。少しすっきりしましたか?」

“うん、もう少し寝てたいけど”

「ちゃんとした睡眠は今夜とってくださいね。先生はおそらく全般的に睡眠不足なので」

 

 昼寝した直後特有の頭がボーッとする感覚は、話しているうちに薄れていった。すぐに仕事に戻るべく温かい布団から身を抜き出し、ベッドから降りる。

 

“2時間ずっとここにいたの?”

「はい。先生がいつ起きてもいいように看てました」

“大変だったでしょ。何かお礼とかは”

「必要ありません。大丈夫です」

 

 きっぱりと言われてしまった。なぜかと理由を訊くと、セリナはこう答えた。

 

「お礼やお代を貰うために救護しているわけではありません。それに、あの時の先生はまさに病人だったので」

“病人!? 病気とかしてないけどな”

「睡眠不足は免疫力を低めます。それに、先生はコーヒーをあの時飲んでいらっしゃいましたよね?」

 

 確かにセリナが来る直前はコーヒーを飲んでいた。どうも最近は摂取量が多くていけない。

 

「コーヒーの飲み過ぎはカフェインの過剰摂取による不眠症、それと胃酸の過剰分泌を起こします。適量ならいいとは思いますが、飲みすぎるのはおすすめできません」

“どうも、眠気覚ましに飲んじゃうんだよね”

「先生もお仕事が大変でしょうけど、やはり身体の健康が第一なので」

 

 ドアを開けると、黄色がかった光が差し込んできた。もうじき夕方だ、日が暮れる。

 

「先生。執務室に戻った後、何をお手伝いしましょうか」

 

 そうだった。この後もセリナは手伝ってくれるつもりらしい。

 それはきっと、放っておくと病気まっしぐらな私を少しでも助けたいという慈愛の深さ故のことだろう。光に照らされた彼女の顔が赤く見える。

 

“そうだな。じゃあ書類の仕分けをお願いできるかな。やり方は着いたら私が教えるから”

「了解しました。お手伝いいたします!」

 

 あんなに酷かった眠気は、もうどこかへ消え去っていた。

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