私と君のアーカイブ   作:自産自消

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結婚した後のイロハと先生の話。
オリジナルモブ生徒あり。


そして2人で帰りましょう(※)

 シャーレ専属の秘書、という役職がある。

 日頃からキヴォトスのあちこちを飛び回り、かれこれ10年以上は鉄火場の最前線に立ち続けるシャーレの先生を常時傍らで補佐し続けるという仕事内容だ。そしてその立ち位置に私がいるわけだが。

 

“イロハ、トリニティ関連の書類はどこ?”

「それならデスクの右方にまとまっていますよ」

“うん、ありがとう”

「はい」

 

 今回の会話、以上。私も先生も各自の作業に戻る。

 空調の音がシャーレの執務室に響く。今日の当番の生徒が居辛そうに私たちの方をちらちらと見ている。確かミレニアムの生徒だったか。

 

「あ、あの……棗さん」

「はい、何でしょうか田中さん」

「えぇと、お2人は……夫婦なんですよね?」

 

 彼女の視線が私の左手に向く。薬指に光るのは銀色のシンプルな指輪。

 

“そうだよ、一応ね”

「い、一応、ですか」

「言っておきますが、先生はキヴォトスにおいては中立の立場ですからね。私はゲヘナ出身ですが、それとこれとは全く関係がありませんので」

「あ、いえ。それは承知しているんですが……」

 

 言いたいことは分かる。夫婦という関係からは想像もつかないあまりに淡泊な会話に、まるで相手が今ここにいないかのような仕事への没頭具合。

 まあ、正直言って世間一般で言うところの夫婦の距離感ではない。どちらかというと仕事仲間だ。

 

「同じ人と5年一緒にいたらこれくらいの距離感になりますよ」

“まあ、そういうことだよ”

「は、はぁ……」

 

 喧嘩とかはしませんのでね、と付け足しておく。これで不仲説とか疑われたら洒落にならない。

 ただでさえ多感な時期の生徒相手に、超絶スーパーダーリンと言っても差し支えないシャーレの先生があれこれ手を尽くしてくれるのだ。勘違いしてしまう生徒はこの人の隣にいた10年間で何十回も目撃してきた。

 

「全く、苦労させてくれますよ」

「そうなんですね……?」

 

 ふふんと笑いながらそう言ってやる。先生は相変わらずのアルカイックスマイル。そして当番の田中さんはなおも居心地悪そうな相槌を打ってくれる。

 

“…………ん?”

 

 ここで先生のスマホが通知音を鳴らす。あの音は確か生徒からのモモトークだ。

 

“イロハ、ちょっと行ってきていい?”

「呼ばれてるんですか。ならもう仕方ないですから行ってきてください。行かずに何か起きたらコトです」

“本当ごめんね、急いで行くよ”

 

 つまり、この後数時間は私がやれる限りの仕事をやっておかないといけないということだ。田中さんはあくまで生徒だ、重要な仕事を任せることはとてもじゃないけどできない。

 先生は急いで自前の白衣とタブレットを引っ提げて、執務室から速足で出ていく。

 

「早く帰ってきてください。先生じゃないと処理できない仕事が山ほどあるんですから」

 

 先生の背中に向けて言う。目線は書類から逸らしてやらない。

 

“もちろん”

 

 先生がそう言う。そんな答えが返ってくるのは分かりきっている。

 扉がバタンと閉まる。執務室には私1人がペンを走らせ、印鑑を押す音だけが断続的に響く。

 眼前には未だに大量の書類が鎮座している。これで今日の仕事の半分がもう既に終わっているというのだから全くもって嫌になる。

 

「この仕事量じゃあ、満足にサボれませんね」

 

 秘書になって何百回目のボヤき。田中さんがビクリと肩を浮かせた。

 

「さ、サボる……? 棗さんもサボることがあるんですか?」

「たまに、月1回くらいですね。休暇を貰ってゲームしたりマンガ読んだり……」

 

 これを元々の意味での「サボり」と言っていいのかは甚だ疑問だが、まあ「仕事を休む」という括りならそう言ってもいいだろう。大人になってからというもの、日中はひたすらに仕事ばかり、土日休日全て返上で数百数千の生徒のために奔走する毎日。

 ついでに言うと、先生がアメなら私はムチの役割をしている。何かを提言してきた生徒に対して厳しめに接することは少なくない。だから生徒たちの記憶には残れども感謝されることはまあない。これだから大人になんてなりたくなかったのに。

 

「仕事はきちんとしないと、ですからね。はーぁ」

「……この仕事に就いて、後悔とかしてらっしゃるんですか?」

 

 何をそんな、当然のことを。

 

「してるに決まってるじゃないですか。こんな仕事、やりたくてやってる人なんていませんよ」

「あー…………」

 

 私は省エネで生きたかったのだ。適切な仕事量、適切な休み、適度な遊び。人間が生きるために必要なのはこれだ。

 どこかの国は「労働は1日8時間」を「最低8時間」と考えているらしいがとんでもない。私にはそんな仕事中毒なマネは絶対に無理だ。普通に考えたら「最高8時間」だろう。そんなものに耐えられるのはあのクソ真面目な慈愛の化身くらいでいい。

 田中さんは相も変わらず私を怪訝そうな目で見つめる。この話を聞いて疑問に思ってることなんてお見通しだ。

 

「じゃあ何でこの仕事に就いたのかって、そう訊きたそうですね?」

「え……まあ、ハイ」

「何で分かったみたいな顔してますけどね…………その質問、百を超えたあたりで数えるのをやめました」

 

 深く、深くため息をつく。今回は純粋な疑問のようだったからまだいいものを、先生ガチ恋勢なんかもこんな質問をする。その場合は大抵「じゃあさっさと離婚したらどうですか」なんて感情が透けて見えるものだから、女ってものは本当に面倒だ。私も女ではあるが、ここまで陰湿ではない。

 何にせよ、返す答えは決まってるわけだが。

 

「先生の助けになりたかったからですよ。昔、私が生徒だった頃、先生はこの仕事量を全部独りでこなしてたんですよ」

 

 書類の山をバンバンと手で叩く。重厚な音、そして紙とは思えぬ手応えだ。

 よく考えたら当然のことだ。私という秘書がいなかったわけだから1人当たりの仕事量は単純に考えて2倍になる。無論当番の生徒が手伝ってくれるが、それでも先生にしかできない業務もやはりあるわけだ。

 その上に今日のように生徒の困りごとがあった日には、あの人は大抵仕事をほっぽって駆け付けるものだから、残業徹夜は日常茶飯事。

 

「はっきり言って、見てられなかったんですよね。でも今じゃ顔色はあの時に比べたらだいぶマシになりましたけど」

 

 昔の先生は目の下に立派な隈があった。今でも隈自体はあるが、あの時ほど黒々としたものではない。

 

「……その優しさ、憧れます」

「や、優しい~?」

 

 思わず背筋に冷たいものが走った。優しいだなんて冗談じゃない、そんな高尚な心掛けなんかであるものか。

 

「憧れないでください、痛い目を見るだけですよ。実際私なんて何回後悔したことか」

 

 真剣に、心からの忠告である。今日の当番は随分と素直なようだから。

 こういう子がコロッと悪い方に転がってしまうものだから、世界というものはやりきれない。

 

「思いがけず思いやりなんてものを持ってしまったのが運の尽きですよ。はぁ……」

「……では、なぜご結婚なされたんですか?」

 

 書類からは目を離してやらない。話しながらでも依然手と頭は動いている。

 

「さあ、何ででしょうね」

 

 おっと、これは先生でなければ処理できないものだ。先生のデスクめがけてパラリと放ってやった。

 その紙は勢いに反してハラリハラリと、2つのデスクの合間に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 夕方になって、田中さんは当番の業務を定刻通りに終了して寮へと帰って行った。

 そして、それと入れ違いになるように先生が帰ってきた。足元がふらつき、汗を滲ませ、硝煙の臭いを漂わせているのは何かしらのアクシデントに巻き込まれたか。何でこの人は毎度毎度生きて帰って来れるのかそろそろ疑問だ。

 

「おめでとうございます、残業確定コースですよ」

“あ、あははは……ごめん”

「私の業務は既に終わってますので」

 

 先生のデスクには書類一束。一方私のデスクの上にはパソコンのモニターとキーボードにいくつかのフィギュア。

 こうなるとまるで登山を終えた後のように気分と眺めがいい。鞄の中をゴソゴソと掻き分け、こういう時のために持ち込んであった漫画本を手に取る。

 

「さっさと仕事進めてくださーい、帰れませんよ」

“はい……”

 

 しょぼくれた顔つきだ。しかし手伝うことはもうできない。一応全ての書類に目を通したが、残っているのは本当に先生でなければ判断できないようなものだけだ。他のサインをしたり印鑑を押すだけだったりの仕事は全て片付けてやっただけ褒めてほしい。人間延々と続く単純作業は心に来るものだ。

 

「で、今日は何に巻き込まれたんですか」

“生徒の話を聞きに入ったカフェに爆弾が……”

「あー、カフェ行ったんですか。何食べました?」

“コーヒーを1杯だけ。美味しそうなデザートいろいろあったんだけどね”

 

 私をそこに連れて行こうとでも思っているのか。冗談じゃない。

 

「店の名前教えてください、行かないようにするので」

“え、何で……コーヒーだけでも美味しかったのに……”

「何でもです」

 

 気分が悪くなってきた。それもこれも全部この男が悪い。自分もサボってくれないものだから目を盗むことに対して罪悪感が湧いてしまう。私を悠々とサボらせてくれないなんて酷い男だ。

 

「今日の晩御飯何にします? 外食なら楽に済みますよ」

“イロハの体力次第かな”

「先生の意見を聞いてるんです。私はどっちでもいいので」

 

 選択権をこっちによこすな。この男のこういうところが嫌いだ。

 

「体力自体はあります。ないんだったらとっくに帰って寝てますから」

“じゃあ、イロハの作ったご飯がいいな”

「それじゃあ買い物にも付き合ってくださいよ」

 

 あの仕事量と先生のペースだったら後1時間で今日は終業だ。それくらいあったら今日持ち込んだ漫画も読み終えるからちょうどいい。

 

「カレー、シチュー、ハヤシライス、ハッシュドビーフ。どれがいいです?」

“それほぼほぼ同じじゃない?”

「野菜と肉切って煮込むだけですし、作り置きできるので簡単なんですよ。言っておきますけど明日も同じものになりますからね。その辺も考えて選んでください?」

 

 食材を腐らせるべからず。ああいう煮物料理は最低限の食糧と出費で最高効率の食事を提供できる主婦の強力な味方だ。

 

“じゃあ今日はシチューの気分だな。クリームシチューがいい”

「了解です。じゃあブロッコリーも必要ですね」

 

 仕事をする音1人分に、本のページをめくる音1人分。蛍光灯はずっと光っているが、外はとっぷりと夜も更けている。ピカピカとあちこちで誰かが残業の代わりに命を光らせているこの風景を、外の世界では「100万ドルの夜景」と呼ぶらしい。

 

「…………やー、でも」

“うん?”

「一悶着はありましたけど、先生は見事に中立ですね。というかシャーレ自体が、ですか」

 

 私は元ゲヘナ生だ。そもそも私がここに来た最初の目的だって先生を抱き込むことだった。まあその目的は一瞬で私自身の手によって放棄されたが、他人の目からはそうは見えない。

 「先生が万魔殿に取り込まれた」……その報はキヴォトス中を駆け巡り、大混乱の末に大激戦になったものだ。

 

“その辺は積み重ねた信頼と未来の行動で示すしかなかったからね”

「苦労を掛けました、本当に」

“別に苦労だとは思ってないんだけどな”

 

 何でもなさげにこの人は言うが、そうやってこの人は過去何回も命を擲って生徒を救ってきた。

 それが、やっぱり気に食わない。

 

「自己犠牲も大概にしてくださいよ」

“うん……それは、気を付けてる”

「もう先生1人だけの命じゃないんですから」

“え、まさか”

 

 ガタリと先生が立ち上がる。何を想像したんだか。

 

「できてませんよ? そういう意味ではなく」

 

 全く、この人はどうしようもない。

 どうしようもなく弱くって、愚かで、優しい人だ。

 

「あなたが死んだら、私はどうしたらいいか分からなくなるので」

 

 まあ、結局のところはそういうことだ。

 この人が死んだら私もすぐに後を追おうと思っている。どれだけ止めようが無意味だ。だってこの人は私を無視して命を捨てるんだから、私がこの人の言うことを聞かなくったっていいだろう。

 

「ずっと二人三脚ですからね」

“そうだね”

「あなたの助けになりたくって、私は今ここにいるんですから」

“ありがとうね、イロハ”

「礼を言うくらいなら目と手を動かしてください」

 

 この人がサボらないなら私もサボらない。極度の苦労を当然のように呑み込むこの人を見ていたら、もう一緒に地獄に堕ちてやるしかないと思った。

 

“イロハの仕事は終わってるみたいだけど……、別に帰ってもいいんだよ?”

「は? 何バカなことを言ってるんですか」

 

 寝惚けた発言もここまで行くと清々しいと、ついついため息が出てしまう。

 

「早く今日の仕事を終わらせて……ああもう、今日で何回目ですか、これ」

 

 私はさっさと家に帰って、一緒にだらけたいのだ。

 




新題:シャーレの秘書イロハが先生と一緒に仕事をする話
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