私と君のアーカイブ 作:自産自消
ヒフミが先生にディープキスをする話
私は一体何を間違えたというのか。今、目の前でヒフミが息を荒げて私を至近距離から睨みつけている。
思えば、今日は最初から様子がおかしかった。普段の明朗快活さは鳴りを潜め、目の奥にはどことなく剣呑さがあるように見えた。
“ひ、ヒフミ……?”
「……………………」
襟元をますます強く掴まれる。息が苦しい。壁を背にしている以上は逃げることもできない。ただ半ば恐慌状態になった頭の中で、この先どうすればいいかを必死に考える。
しかし思いつくことは何もない。逃げられない。当然だ、私の力はヒフミのそれよりも弱い。たとえ腕相撲をしたとしても、今私を掴んでいる細腕を倒すことはないだろう。
“どうしたの、ヒフミ。私、何かしちゃったかな”
牙をむいた獣を手懐ける調教師のように語り聞かせる。ヒフミの両手は力むあまりに真っ赤になっている。白い肌によく映えるな、と頓珍漢な感想が思い浮かんだ。
ヒフミは私の言葉を聞いた直後、一瞬だけ目を見開いた。そしてか細く息を漏らすと、俯いて言葉を紡ぎ始めた。
「……こんなこと、本当はするつもりじゃなかったんです」
“えっ……?”
壁に押し付けられる力が少し弱まった。襟を掴んでいた手も解かれ、ようやく私は自由になる。
「こんなこと、しちゃいけないことは分かってるんです」
声が震えている。動転するあまりに突飛な行動に出てしまうというのはよくあることだ。
彼女の表情は私からはよく見えない。ただ、数秒後には水滴が1つ2つ床に落ちそうなほどに、今のヒフミは危うく見えた。
“……ソファーに移って、話をしようか。紅茶淹れるよ”
「…………はい」
ヒフミがふらふらとソファーの方に歩いていく。私はその背中を見届けながら、マグカップにインスタントのミルクティーを淹れた。
甘い匂いが漂ってくる。ソファーに座ってマグカップを右隣に差し出すと、ヒフミはそれを受け取りながらも飲もうとはしなかった。
じっと、肌色の液体を見つめている。湯気は立ち上るままにヒフミの顔に当たっているが、それを意に介している様子はない。
“それじゃあ、何があったか話してくれるかな”
依然として、彼女の口は真一文字に結ばれている。私には絶対に言わないと決意しているかのようだ。
それでも、突然胸倉を掴まれて背中を壁にしたたかに打ちつけてしまった身からすると、謝罪は望まずともせめてその理由は知っておきたかった。
“ヒフミのことが、心配だからさ”
キュッと、隣から音が鳴った。マグカップと指が擦れたのだと、ヒフミの手の様子から理解ができた。
心配なことも本音だ。ヒフミは本来こういったことはしない子だ。ペロロ様が関わった時は目の色が変わるが、今日に関しては話題にも出していない。だから、今回の件については本当に原因が分からなかった。
そうして、数分ほど待っただろうか。ようやく、ヒフミが重い口を開いた。
「…………先生」
“うん、何かな”
背もたれに体重をかけると、柔らかい感触が白衣越しに背中に伝わる。ヒフミは相変わらず姿勢よく座ったままだ。スカートの上に持ったカップは、未だ微動だにしていない。
「今日、先生がどんな話をしたか、覚えてますか」
“ん? ああ、覚えてるよ”
そうだ。私が話をした後から、ヒフミの様子が本格的におかしくなったのだ。
確か、私が話したのは、そう。
“アズサのためにUFOキャッチャーしたり、コハルとカフェで話をしたり……そんな話だったよね?”
「……はい、そうです」
ヒフミの声は低く、重い。いつもとはやはり大違いだ。
何ということはない。補習授業部の生徒の話題ならヒフミも乗りやすいかと、そう思っていたから話したのだ。
“何なら、ヒフミから振ってきた話題だったよね?”
「そうですね。私が訊いたんです」
マグカップの中の紅茶が少し波立っている。それにヒフミも気付いたのか、持っていたカップをそっと目の前のテーブルに置いた。
“それが、嫌だったの?”
「嫌ってわけでは…………ううん、でも、どうなんだろう」
自分から出した話題が嫌、というのはどういうわけだろうか。普通なら出されたくない話題を自分から出すようなことはしない。
もちろん、それは自分の地雷をその場における笑いの種にするための自己防衛にもなり得る。だが、そうであるとするには今回の件はあまりに突発的だ。それに、ヒフミが補習授業部のみんなを嫌っているなんてことはあり得ないと言ってもいい。
うーんと唸りながら天井を見上げる。いつも通りの無機質な白い天井があるだけだ。それが何だか狭苦しく思えて、勢いのままに頭を下に向けた。
「……先生。私、ペロロ様が好きなんです」
“うん、知ってる。大好きだよね、ペロロ様”
ペロロ様のぬいぐるみのためならブラックマーケットにだって潜り込み、ペロロ様のゲリラライブがあった日には大事なテストもほっぽって向かう。ヒフミはそんな無鉄砲かつ一生懸命な子だ。
「好きなもののためなら、何だってできます」
“うん……テストは、ちゃんと受けてほしいけどね”
「あはは……ご迷惑ばっかりおかけして、すみません」
ヒフミが1つ、大きくため息をつく。それは無駄な緊張を削ぎ落とそうとするような、大事な発表会を目の前に控えた子供がするような仕草だった。
「でも……先生は、私がどんな生徒か、分かってくださってるんですね」
“うん。だって、ヒフミも私の大事な生徒だから”
そして、こちらに向き直ったヒフミの表情が固まった。ビシリ、と何かに罅が入ったような音すら聞こえそうだった。
「…………なら、ならですよ」
ヒフミがこちらに近づいてくる。少しずつ、しかしあっという間に私とヒフミの距離が0になる。
「私が……ペロロ様と同じくらい、先生のことを好きになってたとしたら」
そっと、胸に両手を当てられる。ふわりと香水と紅茶の匂いが鼻を擽った。
「どうしますか?」
“えっ”
そして、私はヒフミに押し倒された。先程と違うのは、背中側に柔らかいソファーがあること。
もう1つは、私の上にヒフミが四つん這いの状態になって、もう私がどうしようと逃げられなくなっているという点だ。
“…………ヒフミ?”
「先生。実は、先生がアズサちゃんやコハルちゃんと仲が良いこと、最初から知ってたんです」
逆光で暗くなったヒフミの顔は、その眼ばかりが爛々と光っている。その奥に炎が煌々と燃えているかのようだ。
ペロロ様のグッズを目の前にしたヒフミはこんな感じだったな、と冷静な思考が出力される。目を逸らそうとしても、なぜだか吸い付いたように目線が離れない。
“最初から知ってて、私に訊いたの?”
「はい。分かってて、なら先生はどうだったのかなーって思いまして」
胸に置かれた両手に力が籠められると、それだけでもう私の身体は鉛のように動かなくなってしまう。というより、動かしたとてどうにかなるようなものではないことは分かっていた。
私の心臓はバクバクといつも以上に大きく音を立てながら、血液を身体の隅々に送り込む。この脈動を、今ヒフミは手で感じ取っているのだろうか。
「アズサちゃんはすごく楽しそうでした。スカルマンを大事そうに抱えて……」
ヒフミの口が、ゆっくりと弧を描き始める。
「コハルちゃんもそうです。先生にあんなことされた、こんなことされた……怒ってる口調でしたけど、嬉しかったんだと思います」
不思議と命の危険は感じなかった。それよりも、今私の命をどうにでもできるヒフミへの心配の方が勝った。
今こうして接しているからこそ、ヒフミが細かく震えているのが分かるのだ。
「……先生」
揺れる声で、ヒフミが1つ1つ言葉を紡ぐ。
「私、普通の生徒です。目立った特技も何にもない、先生のお役に立てるかも分からない、そんな生徒です」
“そんなことないよ、ヒフミは……”
「『特別な生徒だよ』……そう、言うんでしょうね、先生は」
言おうとしていたことを、一言一句そのままピタリと当てられる。私が言葉に詰まったのに気付いたのか、ヒフミの眼が悲しげに細められた。
「……違うんです。違うんです、先生」
水滴が1つ、私の胸に落ちてきた。
「私が言いたいことは、そんなことじゃない」
ヒフミの息遣いが、断続的で荒々しいものになっていく。
「みんな特別、みんな大切なオンリーワン……先生はきっとそう言うんでしょうし、きっとそれは正しいことだと思います」
“……ヒフミ”
「でも、違うんです。私がなりたいのは、そんな『特別』じゃない」
ヒフミの顔が、私の顔の真上に来る。そうして初めて、ヒフミの表情がはっきりと見えた。
「私は、先生の『特別』になりたいんです……!」
ヒフミは、泣いていた。涙が亜麻色の瞳を次々に離れ、私の顔に着地していく。
「先生は優しいです。誰とでも一緒にデートします」
“デートなんて、そんな大層なものじゃ”
「デート以外の何だって言うんですかっ!」
肩を掴まれる。ともすればその両手が私の首にまで届きそうだ。
「アズサちゃんもコハルちゃんも! みんな先生と会った後は楽しそうだった! 先生と会うのを楽しみにしてたっ!」
それでも、なぜか自分がここで死ぬとは思えなかった。それはきっと、ヒフミに私を害そうとする意志がないからだろう。
この怒りも、きっと私に向いているわけではない。やり場のない激情が爆発し、ヒフミの性質も相まって出力されたのがこの状況なのだろう。
「私も……私も、楽しかった……!」
自分を「平凡だ」「普通だ」とヒフミは言う。私からしたらそうは思えなかった。好きなことに夢中になれる、それを貫き通せるという素敵な強さをヒフミは持っている。
ヒフミは十分に特別だ。何回だってそう言える。しかし、ヒフミが欲しいものはそういう言葉ではないのだろう。
「先生は……先生は、誰にだって優しいから……!」
“…………うん”
今ヒフミが欲しいのは、私からの特別な扱い。
「私のこの感情だって、他の子も持ってる『普通』のものになっちゃう……!」
私から向けられる、特別な感情だ。たとえば、恋愛感情とか。
“……………………”
「どうしたら私が先生の『特別』になれるか、考えたんです」
涙をこらえようとヒフミが目をぎゅっと閉じる。それでも瞼の隙間から溢れ出てくる涙は、依然として私の顔を濡らし続けている。
そして、右腕の裾で目をぐしぐしと擦り上げた後、真っ赤になった目で私を見つめてきた。
“……どんなことを、するつもり?”
何をされようと、その後の対応を誤るつもりはなかった。服を脱がされようものなら全力で抵抗するし、されたことの全てをヴァルキューレに伝えようと思っていた。その可能性はないということも、ヒフミの人柄から分かっていたことではあるが。
少し目を細めると、ヒフミの瞳がハッと開く。そうしてしばらく目を伏せた後、覚悟を決めたようにまた私を真正面から見つめ直してきた。
「……ごめんなさい、先生」
“ヒフミ?”
「今から、私は先生に酷いことをします」
そして、ヒフミの唇が私の唇に重なった。
「んっ……ふっ…………!」
舌を無理矢理入れられる。甘い味はしなかった。そういえば紅茶を飲んでいなかったのか、と麻痺しかけた頭が零してくる。
自分の口の中に入ってくる舌を傷つけないように押し退けようと自分の舌を前に出すが、どうやら逆効果だったらしい。2つの舌はますます絡まるばかりで、否応なしに自分がヒフミとディープキスを交わしているという事実が確立するばかりだった。
「んっ、んぐ……っはぁ! はぁ、はぁ、はぁっ……あぁぁ…………」
そうして、鋭利な石でガラスに刻み付けるような、執拗で熱烈なキスは終わった。唾液の糸は床と垂直に伸び、そして中学生の頃の国語の授業で読んだ小説のようにふつりと切れて私の口の中に落ちていった。
“…………ヒフミ”
「ごめんなさい、ごめんなさい、先生……」
目線が合わない。先程まであんなに合わさっていたというのに、今は私がどれだけ視線を合わせようとしてもヒフミが目を逸らすばかりだ。
「こんなこと、本当にするつもりじゃなかったんです」
白衣が掴まれる。強い力で握られた白衣は、先程とは別種の震動を私の身体に伝えてくる。
「ただ、私は先生の『特別』になりたくて。なりたくって、だから……」
“……ヒフミ”
「だから、先生を、傷つけて……!」
自白をする殺人犯のように、ガタガタと震えながら懺悔される。
胸のあたりが温かく濡れてきた。ひっくひっくとしゃくりあげるような音も聴こえてくる。
「全部、全部私が悪いんです! 私が……勝手に、先生を……!」
“ヒフミ”
「先生を傷つけたかったわけじゃ、なかったんです……! ごめんなさい、先生……!」
ヒフミが私に謝ってくる。だけど、何を許せばいいのか分からない。ヒフミが何か罪を犯しただろうか。
罪を犯したとしたら、それは私ではないのか?
「あぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、先生…………!」
そっと、ヒフミの頭を撫でる。小さい頭だ。掌にすっぽりと収まってしまいそうで、それが何だか愛おしく思えてきた。
“ヒフミ、私は何も怒ってないよ”
「うぅ、うぅぅぅっ……!」
“……これから、どうしようか”
どう足掻いても私は「先生」で、ヒフミは「生徒」だ。その関係が変わることはない。
今日つけられた傷が消えることはない。ヒフミの傷も癒えることはない。それでも、傷を引きずりながら進むことはできる。
大切なのはしでかしたことへの罪ではなく、それをどう抱えて生きていくかだろう。
“一緒に考えてみようか、ヒフミ”
「うぅっ、うああああああ…………!」
縋るようにヒフミが私の白衣を掴む。その手を無為に振り解くような真似は、私にはできなかった。
それをしてしまったら、今度こそヒフミは壊れてしまう。そういう勘があった。
謝り続けるヒフミの頭を、私はずっと撫で続ける。
「ごめんなさい! ごめんなさい、先生! ごめんなさいぃ……!」
――――そうして、私たちは今日起こったことを2人だけの秘密にした。
誰かにバレたら、きっと同じことを企む生徒が増えるだろう。それは私としても、ヒフミとしても望むところではない。
少なくとも、表面上は何もなかったことになる。補習授業部の面々にも、この事実は一生明かされないことだろう。
ただ、その後変わったこととして1点。
「せ、先生……」
“どうしたの、ヒフミ”
補習授業部の部室の中、4人が集まっている状況下でヒフミが私を訪ねてくる。
「その、ここが分からないんですけど……」
すっと、私の背中に手が回される。心なしか他の生徒よりも距離が近い。
“……………………”
「先生……?」
“……ああ、ごめん。ちょっとボーッとしてた”
ヒフミが、前よりも私に近づいてくるようになった。何なら事ある毎に私に触れてくるようになった。
優しく、女を意識させるように私の背中が撫でられる。触覚がどうしてもその感触を追ってしまい、口から出る言葉もしどろもどろだ。
わざとやったとは言い難い、絶妙な強さの息が私の耳にかかる。無言のうちに咎めようとヒフミをねめつけても、事も無げに目を細められるばかりだ。
“…………この問題はね”
「はい、先生」
香水の芳しい匂いが、ヒフミのそれと合わさって脳を揺らしてくる。覆しようのない、女性の匂い。
何も起こらなかった。2人のうち1人が口を割らない限りは平和のままだ。この平和を保ち続けなくてはならない。少なくとも、あと2年は。
この前はハナコに「ヒフミちゃんと距離が近いですね~」と笑ってない目つきで指摘された。アズサも怪訝そうな目つきで私を見てくる。それでも、何もなかったことにしなくてはならない。
「……ありがとうございました、先生」
もうヒフミは、かつての純真で快活なだけの「生徒」ではない。
私も、清廉で中立な「先生」のままではいられない。
「これからも、よろしくお願いしますね」
“……うん。いつでもおいで、ヒフミ”
どうしようもなく互いが互いの「特別」になってしまった2人は、今日も仮初の「普通」を続けていく。