私と君のアーカイブ 作:自産自消
ホシノが忘れ物を頻発する話
今、私の机の上にネクタイが置いてある。私がするには少し短い、空色のネクタイ。
つまんで目前にぶら下げてみると、その向こうに本来の持ち主の表情や身体つきが鮮明に思い浮かんでくる。しばらく首を傾げて、それが匂いによって想起されたものだと分かった。
“……最近忘れ物多いなぁ、ホシノ”
できる限り自身の手で汚さないように、そっと机の上にネクタイを戻す。白いデスクの上に突如現れた爽やかなスカイブルーをじっと見ながら、状況を考え始めた。
“まず、なぜホシノのネクタイがここにあるのか”
それはホシノがパトロールのついでにこのシャーレに遊びに来たからだ。休憩室に行けばマッサージチェアもベッドも、数冊ではあるがコミックだってある。それなのにこの執務室で「相変わらず何もないね~」なんて言いながらゴロゴロしていたのは、話し相手がいないと暇だかららしい。
時折スナック菓子を口に放り込んでは来るものの、私の仕事を邪魔することはない。私を手伝うこともしない。1時間ほど私が書類と睨めっこしているのを眺めた後は、まるで猫のようにシャーレを出て行ってしまう。そんなことがここ最近は続いていた。
“まあ、人がいるっていうのはありがたいんだけどね”
シッテムの箱にアロナがいるとはいえ、ほぼ独りで仕事をこなしているとどうにも孤独感が背中に付き纏ってくる。総力戦の経過報告などで仕事に集中しなければならない時でも、傍らに人の気配がするという事実は何とも私の心を和らげてくれた。
“それで、次は……そのネクタイが、何で私の椅子の下に落ちてたのか”
いつの間に落ちていたのだろうか。ちょうど私の死角になるような角度で、ネクタイだけが床に置いてあったのだ。
いや、ホシノはネクタイを解いていたのか? それも仕事に熱中していた私には分からない。ただこの部屋の中にホシノの気配だけを感じていた私には、ホシノがどういう行動をしていたのかも分からなかった。
“というか、ネクタイだけが落ちるなんてことあるかな……”
いつ落ちたかのタイミングは分かる。私の口にチョコのスナック菓子を投げ入れてきた時だろう。ホシノが私に近づいてきたタイミングはそこしかないはずだ。
その時に持っていたネクタイが、私の後ろを通り過ぎるタイミングで偶然椅子の下に転がり込んだのだろうか?
“…………不自然だよなぁ”
先程ネクタイから香ってきた匂いを思い出す。さりげなくも心地良い、香水の匂いだった。
“それで、最後……これ、今週で何回目?”
ホシノがパトロールついでにここに来るようになったのは今週の始め頃だ。そしてその度に何かを忘れていた。
火曜日は財布、水曜日はキーホルダー。そして今日木曜日はこのネクタイだ。週に3回も忘れ物をするだろうか。あのホシノが。小学生の頃の私じゃあるまいに。
“まあでも、仕方ないよなぁ”
そうして私はスマホで手早く卓上のネクタイの写真を撮り、モモトークを起動する。この動作も随分と慣れたものだ。開くのはホシノとのトーク画面。
“ホシノ、また忘れ物してる”
『うへ~、本当? また?』
先程の写真を貼り付けると、その数十秒後に記入中状態を表す3つの黒丸が点滅し始めた。
仕事も手につかないので、ぼーっと画面上で動くものを見つめる。上端で昨日私が出したスタンプが奇天烈な挙動をしていた。
『これおじさんのネクタイだ。ありがとね~』
“椅子の下に落ちてたんだよ。どうしちゃった?”
『何かのはずみで落ちちゃったんだと思う』
この後に続く文言に、私は覚えがあった。窓から外を見やると、キラキラと夜景が広がっている。
『本当ごめんね。明日パトロールついでに取りに行くから』
“毎日お疲れ様。気を付けてね”
『もちろんだよ。最近は前衛で盾振るうのも一苦労でさ~』
“私より年下なんだから……”
ホシノが執務室に忘れ物をして、私がそれに気付き、モモトークで報告して、翌日にホシノが取りに来る。そしてその日にまた忘れ物が見つかって……この3日間はその繰り返しだ。
スタンプのやり取りで会話を終え、一息つきながら背もたれに寄りかかる。いくら何でも忘れ物が多すぎる。
昨日はギリギリ日が沈みかけていた時間帯に気付いたから届けに行こうかと持ち掛けたが、ホシノらしくもなく固辞されてしまった。紫関ラーメンでの受け渡しを想定していたのだが、それでも「忙しいから」の一点張りだったのだ。
“ここまで来ると、なぁ……。こちらにも察せられるものがあるというか”
スマホの電源を落とす。残っている仕事もあるが、正直今はそういう気分ではない。期限が迫っているものから片付けているから、今ここでコーヒーブレイクを挟んでも問題はないだろう。
重いドアを開けて無機質な廊下を歩く。いつもは日の光に照らされて輝いている景色も夜は薄暗い。静寂が辺り一面の壁に染み入っているようだ。
“明日、ちゃんと話をしなきゃな……”
自販機で買った「あったか~い」缶コーヒーのプルタブをこじ開けながら、見えもしない砂漠の方面を睨みつけた。
◇
「いや~、ごめんね先生。おじさん最近物忘れが激しくってさ~」
“気を付けてね。今週財布も忘れてるでしょ”
「気付いた時はびっくりしたよ~。財布だよ?」
翌日の夕方5時頃、やはりホシノは執務室に来た。夏に入りかけのこの時期、空はまだスカイブルーを保っている。
とはいえ蒸し暑くなってきていることには変わりない。真昼ほどではないが、デスクワーク中でも汗がどんどん滲んでくる。ホシノもそれを感じ取ってか、いつもより薄手な出で立ちだ。
“じゃあこれ、ネクタイね”
「ありがとね~先生。……変なこととかしてない?」
“してないしてない、ずっとこの机の上に置いてたから。あっ、埃は払っておいたかな”
「分かってるよ。まさかネクタイを忘れちゃうとはね~」
砂漠地帯であるアビドス自治区から、燦燦と日光の差す中このシャーレまで来たのだ。ホシノの額に幾粒か、玉のような汗が浮かんでいた。よく見るとYシャツの袖が濡れている。垂れる汗を拭ったのだろう。
“はいこれ、麦茶”
昨日缶コーヒーのついでに買って、冷蔵庫の中で冷やしておいたペットボトルの麦茶を取り出してホシノに手渡す。キンキンに冷えたボトルがホシノの指に触れるや否や、小さな体がビクリと跳ねた。
「つ、冷たいっ! ジンッと来る!」
“冷えてる方がいいかなって思って。ダメだった?”
「うへっ、そんなことはないよぉ! 遠慮なくいただくね!」
そしてホシノの喉を、500mlがぐいぐい通過していく。その飲みっぷりは温泉上がりに牛乳を渡されたサラリーマンのよう。背中が綺麗な曲線を描いて反っていた。
「ぷはっ……ありがとね、先生」
“いえいえー”
空になったペットボトルがゴミ箱に投げ入れられる。ゴトンと壁に当たり、ぽっかりと空いていた空間が500ml分埋まった。
ホシノは満足げに冷房の効いた執務室を見渡し、徐にソファーに寝転がった。どうやら今日もお疲れの様子だ。休ませてあげた方がいいだろう。
そうしてしばらく仕事を進め、書類の山に一段落がつく。時間を見ると最後にホシノと会話をしてから20分といったところか。
“さて、と”
椅子から立ち上がり、床を入念に見渡す。座っているだけでは見えないところが見えるように、机の周辺を重点的に。
“…………あっ”
あった。ふとすれば見落としてしまいそうな、小さなピンク色の鯨のキーホルダー。椅子に座っていたら絶対に見えない机の影に、ニコニコ笑顔で横たわっていた。
チェーンを摘まみ上げる。いつか一緒に水族館に行った時、私がホシノに買い与えたものだ。「ピンク色の鯨なんておかしいよ」とホシノは言っていたが、それからバッグに着けていたところを見るに気に入っていたのだと思いたい。
ソファーの方を見る。ホシノが規則的な呼吸をしながら寝転がっている。私はそこに向かって、ゆっくりと歩き始めた。
“ホシノ”
声をかける。ホシノは起きる様子を見せない。こちらに背を向けて丸くなっている様子は、まるでいじけた子供のようだった。
“これ、落ちてたんだけど”
キーホルダーを振り子のように揺らしながら言う。ホシノは依然としてすぅすぅと寝息を立てている。
そうか。白を切るつもりか。なら私はもう1歩踏み込もう。
“起きてるよね、ホシノ”
寝息がビタリと止まった。静寂が耳を打つ。
数十秒視線を離さずにいると、観念したのかホシノがゴソゴソと寝返りを打って私に向き直る。
ホシノは、耳まで真っ赤になっていた。狸寝入りを見破られたことがそんなに恥ずかしいのか?
「……何で分かったの?」
“ヘイローが消えてなかったから”
「あ……あーっ……うへぇ…………」
いや、ホシノにとって問題はそこではないのだろう。
さわさわとホシノが頭上に手を伸ばす。ヘイローはホシノの右腕をするりするりと通り抜け、その輝きを失わない。
「あのさ……その、キーホルダー……」
“このままだと忘れ物になりそうだったから、今のうちにホシノに渡しとくね”
そうして私は、ピンク色の小さな鯨をホシノの目の前に置いてやる。照れ臭そうにそのキーホルダーを胸ポケットにしまったホシノは、ソファーに座り直してポリポリと頭を掻いた。
「先生に迷惑かけっぱなしだね、おじさん」
“ねえ、ホシノ”
「…………何?」
“最近、わざと忘れ物してるよね?”
腰を下ろして目線を合わせる。ヤンキーみたいな座り方になってしまったが構わない。まさか床に正座するわけにも行かないだろう。
「……バレちゃう?」
“そりゃあこれだけ続いたら、私でも察するというか”
「おじさんもさ、最初はわざとじゃなかったんだよ?」
でもさぁ、とホシノが気まずそうに目線を逸らす。
「こう、魔が差しちゃったというか……」
“うん”
「ごっ、ごめんね先生。こんなこと、やめるから。うへへへ……」
声が震えている。こういうホシノを見るのは初めてではない。
だが、その原因が自分由来のものだということが、私には堪らなく嬉しかった。
“ホシノ、いい? 私の話を聞いてくれる?”
「……うん、何?」
もう1回視線が合わない限りは喋らないつもりだったが、幸いなことにすぐホシノは目を合わせてくれた。
オッドアイをじっと見つめながら、私は言葉を紡ぐ。
“ここにはいつでも来ていいんだからね?”
「…………うへ?」
“いつでも、来ていいからね”
幼い子供に言い聞かせるように、区切りながら話す。いや、ホシノは子供なのだ。ただいろいろと抱え込み過ぎてしまっただけの子供なのだ。
ならば、大人である私がするべきことは決まっている。ホシノが理由なく来てもいい場所を作ることだ。
“あっそうだ。この後暇? ちょっとおやつタイムしない?”
「えっ? ちょっと待って、先生」
“どこがいい? 最近美味しいドーナツ出すスイーツ店教えてもらったんだよね”
「待っ、ちょっ、先生、おじさんの話も聴いてよ!」
ホシノの瞳は、今にもこぼれてしまいそうなほどに潤んでいる。それがどうにも従妹が小6の頃を思い出させてきた。
“何? ドーナツ嫌いだった?”
「……おじさんのこと、怒らないの?」
“何を怒るっていうの?”
「だってほら、おじさん先生を騙してたからさ」
そんなことで、こんなささやかなウソで罪悪感を持つのか。目の前で震えるホシノが、いつもよりも小さく見える。
“まあ、信頼されてなかったことは怒ってるけど”
「…………ん」
“自分にだからなぁ。ホシノに対しては何にも”
実際問題、ホシノから私に対する信頼があったらこういうことは起こらないだろう。
では今後このようなことを起こさないために、信頼を積み上げるために私はどうするべきか。答えは簡単、時間をかけてホシノと向き合い続けることだ。
ホシノが「自分が甘えてもいい」と思えるような人間であることを、示し続けることだ。
「……怒ってないの?」
“怒ってないよ。じゃ、ドーナツ食べに行こう”
外は快晴。仕事で部屋に籠りきりなのは何とも勿体ないと思っていたのだ。
ホシノは1つ大きく息をついて、ソファーから元気よく立ち上がった。
「おじさんはラーメンがいいな~」
“もう夕方だもんね。夜ご飯入る?”
「夜ご飯の代わりだからいっぱい食べちゃおっかな~」
“私も今日は大盛り頼んじゃおう”
橙色に染まりかけの太陽に向かって、私たち2人は歩き出した。
Yシャツの胸ポケットの奥にある鯨が、光を浴びてニコニコと笑っているのが透けて見えた。