私と君のアーカイブ 作:自産自消
「くじら座って星座があるんだって、先生」
ある日、ホシノは対策委員会の部室でいつでも入場券(という名のクッション)を抱いて寝転がりながら私にそう言ってきた。
“くじら座? くじらって、あの鯨?”
「ううん、おじさんたちが思い浮かべる鯨とは違う、海の怪物」
“そんな怪物に何で「くじら」って名前が……?”
「似てたからじゃない? 昔の星座を考えた人は、その怪物こそが鯨だーって思ったんでしょ」
どこで仕入れたかも分からないうんちくを、得意げでもなさげに話してくる。
くじら座。聞いたことがない名前だ。なにぶん天文学には疎いもので、星なんてものはオリオン座とかデネブ・アルタイル・ベガくらいしか分からない。
“それで……くじら座がどうかしたの?”
「うへへ、先生は相変わらずせっかちだな~」
“そうかな? ホシノがそういう話をするってことはそれに関連した話になるんだろうなって思っただけだし”
「分かってるじゃん。今回は本当にその『くじら座』に関わるお話だよ」
そう言ってホシノが身体を気だるげに起こし、私に向き直る。先程までマットの上でぐでっとしていたからか、ピンク色の髪が少しだけあちらこちらに跳ねている。
「率直に言うとさ。見たくなっちゃって、そのくじら座」
“へぇ……! いいじゃん、天体観測だ!”
「そんな大層なものじゃないよ~。それ専用の望遠鏡とかも持ってないし」
照れ臭そうにホシノが言う。キヴォトスの星空と私が外で見てきた星空ではまた違うものがあるだろうが、それでも星空というものにはロマンがある。
「でもちょっと調べてみたら、ちょうど今くらいの時期から見れるらしくてさ。これは見るっきゃないよねって」
“じゃあ、真夜中のパトロールついでにってこと?”
「そうそう。だからその時に先生もよかったら一緒に来てくれないかなってね。独りだと寂しいからさ」
そのような申し出なら喜んで受けよう。今日の分の仕事もだいぶ片付いているし、夜中に外出するくらいならば許されるはずだ。
そう告げると、ホシノは無邪気そうに顔を綻ばせた。
「先生が来てくれるって言うなら、おじさん戦闘服着て来ちゃおっかな~!」
“ホントに!? あのかっこいい服着てくれるの!?”
「うへへ……そう言われると恥ずかしいけど、いいよ。先生が喜んでくれるなら」
“めっちゃ嬉しい! ありがとうホシノ!”
「星を見るのなんて先生にとっては暇だろうし、これくらいはね」
私の趣味も満たしてくれるようで、私にとっては願ったり叶ったりだ。
それにしてもアビドス近郊で天体観測となると、準備するべきものがたくさんある。飲み物もそうだし、双眼鏡も必要だろうか。気分はさながら遠足前の小学生だ。
「それじゃあ、先生はいろいろと準備お願いね。おじさんは場所のセッティングするから」
“待ち合わせは午後10時くらいでいいかな”
「うへ~、夜更かしなんて悪い子だぁ」
“今は私も悪い大人だから。でもほどほどにしておこうね”
「そんなこと言う悪い大人なんていないよ~」
その後私たちは一度解散して、突然行われることとなった天体観測パーティへの準備を始める。デパートでホシノが好きそうな菓子を買いあさり、脱水症状を予防するためのスポーツドリンクも欠かせない。
そして保冷剤を敷き詰めたクーラーボックスにそれらを入れれば、あちらに着いた時には冷えた状態で提供できるというわけだ。
“後は双眼鏡と、今夜は冷えそうだから上着も用意しておいて、と……ん、ホシノからだ”
私が自宅であれこれと見繕っていると、スマホがホシノからの通知で震え出す。
モモトークを開いてみると、地図にピンが立てられていた。この場所……要はアビドスの砂漠のど真ん中に集合というわけだ。
“レジャーシートは用意してあるし……うん、これなら問題はなさそうだね”
そうして出向いた先で、ホシノは手を振って私を待ち構えていた。臨戦服とでも呼称すればいいのだろうか、その物々しいアーマー姿からは考えられないほどの笑顔を輝かせながら。
「先生~! こっち、こっちだよ~!」
“ホシノ、ここは?”
「周りに灯りがなくって、かつ人気のない場所って言ったらここらへんくらいしかなくってさ。遠かったでしょ、ごめんね」
“いやいや、私の荷物はこれくらいだし”
リュックとクーラーボックスを指差すと、ホシノは申し訳なさそうに眉を垂れる。
「重かったでしょ。帰りはおじさんも持つからね」
“いいの? それじゃあ遠慮なく、甘えちゃおうかな”
「それくらいはさせてね。……いやぁ、それにしても」
2人して、空を見上げる。秋の心地良くも涼しい風が吹き抜けていく。
キヴォトスの夜空は、外の世界では考えられないほどの満天の星空に彩られている。大小明暗様々な星がそれぞれの輝きを一斉に放っているからこそ、街灯がなくてもこの地域はそこそこに明るい。
「綺麗だね~、どれがどの星座だか分からないや」
“調べながらやってみる?”
「うへへ、くじら座あるかな~」
そして私たちは、ネットで見つけた星座早見表と今広がっている夜空を照らし合わせながらの天体観測を始めた。
初めはどの星がどこに位置しているのかを把握するのですら四苦八苦していたが、ホシノが早見表と一致する配置を発見してからはスムーズにどの星がどこに位置するかを見つけることができた。
しかし、その中には「くじら座」と思しき星座は見られなかった。
「ないね~、くじら座」
“ないねぇ……”
「でも、こうして星を見るのは楽しいね」
ホシノが私の持ってきたスポーツドリンクをくぴくぴ音を立てて飲んでいる。
確かにいずれは暇になるだろうと思っていたが、星に囲まれるのは思った以上に楽しい。プラネタリウムの世界観に引き込まれていた子供時代が蘇ったかのようだ。
「……くじら座って元の絵が怪物だって話、したでしょ?」
“ああ、昼にしてたね”
「怪物だからさ、やっぱ倒されちゃうんだってさ」
“ああ、まあそうだね。仲良くはできないね”
他愛もない話を続ける。今この世界には、私とホシノの2人だけが存在しているのだ。
「昔の人もさ、鯨は怖かったんじゃないかなーって」
“うん?”
「星座って昔の人が考えたんでしょ? なら怖いよね、あんなに大きな魚が海を泳いでるなんて」
神話の登場人物には、メタファーが多分に含まれている。それはたとえば雷だったり、海だったり、死だったり。その中には、海の中に棲む理解不能なほど大きな魚も含まれていたりしたのだろう。
そして、それを討伐するような者を人は「英雄」と呼んだのだろう。
“でも、私は鯨は怖くないよ”
「それは、遠くから見てるだけだからじゃない?」
“そうかもしれないけど。でも鯨は温厚な性格らしいし”
「うへへ……そうだけどさ」
でも、今この場に怪物はいない。もちろん英雄なんてものも、存在するはずがない。
“そりゃあ怖い鯨だっているよ。外の世界の有名な小説にも、怖い鯨を題材にした小説があるし”
「へぇ、そうなんだ。読んでみたいなぁそれ」
“白い鯨が題材なんだよ。しかもそれモデルも白かったみたいで”
「うへぇ!? 白い鯨っているんだ! えぇー……!?」
人の営みを脅かす鯨は、ここにはいない。
“でも、全部が全部そうじゃないってことを、私は知ってるから”
「……先生にそう言ってもらえるなんて、鯨は幸せ者だぁ」
“ここに鯨はいないけどね”
「うへへ、いたら困るよぉ。ここは砂漠だよ?」
だから、私も鯨は好きなのだ。あの生物はおそらく、人間では推し量ることのできないスケールの世界で生きている。
その生息圏と人間の活動圏が触れ合った時、人はかの生き物の雄大さに圧倒されるのだろう。
「……そう言えば、鯨ってもう陸には上がれないみたいじゃん?」
まだ、ホシノとの対話は続く。
ホシノは鯨が好きだ。それはその姿形だけに限った話ではないのだろう。
“ああ、そうなの?”
「そう進化しちゃったから、陸に上がっても重力で動けなくなって死んじゃうんだって」
きっと、ホシノは自分自身のどこかを鯨に重ね合わせている。
時に怪物と見紛われ、時に人間たちに大きな資源を齎してきた、偉大な彼らと。
「ねえ先生、鯨は……どんな思いで、そうなることを選んだんだろうね」
“……私は鯨じゃないから、詳しいことは分からないけど”
そうだ。私は怪物ではない。ましてや「英雄」と呼ばれるほどに偉大な人間でもない。
だが、目の前の少女に寄り添おうとすることくらいはできる。
“鯨は、きっと後悔なんてしてないんじゃないかな”
「してないかな。もう陸には上がれないんだよ?」
“でも、鯨はそっちがいいって思ったんでしょ。多分だけどね”
きっと、他の誰でもない自分で選んだ道だから。そこに後悔はないのだろう。
“だったら、それは間違いなんかじゃないと思うよ”
「間違いじゃない?」
“ホシノには、鯨が今でも『陸に上がりたいなぁ』って思ってるように見える?”
「……思わないなぁ」
天然のプラネタリウムは、私たち2人の座る砂漠を静かに包み込んでいる。自然というものはかくも懐が広いものかと思わされるばかりだ。
「静かだねぇ、先生」
“そうだね、ホシノ”
「何か先生とこうして夜空の下で話してると、今まで私たちがいろいろ考えてごちゃごちゃ動いてたのが小さく思えてきちゃうよ」
“…………ホシノ”
「誤解しないで先生。おじさん、バカにしてるわけじゃないんだ。ただ……」
ホシノが最後のペットボトルを空にして、空を見上げる。その瞳はかつて見たものとは違って、どこまでも透き通った綺麗なオッドアイだった。
「あんまり気負わずに、これからもやっていこうと思うよ」
“ホシノ……”
「こうしてると、1回や2回の失敗が何だって思えちゃうんだよね。だって、星も砂漠も変わらずここにあるのにさ」
ホシノが喪ったものはあまりに大きい。ホシノ自身がその過去を忘れることは一生涯ないと言ってもいいだろう。
ただ、それでも前を向くことはできる。私はそう信じている。
「そう思えたのは、きっと先生がいてくれたからだね。ありがとうね、先生」
“私は大したことはしてないよ。ホシノが自分で学んだことだよ”
「ううん、先生がいなかったらそのきっかけを掴むことすらできなかっただろうから。だから、ありがとう」
その声音はどこまでも優しく、凜としたものだった。
私は少し大きくなったホシノの姿を網膜に焼き付けるように見つめながら、ここに来た当初よりも位置が変わった星空を眺めて言う。
“――――そろそろ本当に遅くなるから、後片付けして帰ろうか”
「そうだね。おじさんも明日の学校のために寝なきゃ」
食べ終わったお菓子の袋などの小さいゴミをレジ袋に詰め込んで、ゴミ袋代わりにする。ペットボトルはキャップとラベルを取り去って潰してまた別の袋に入れる。そんな簡単な掃除ではあるが、元々持ち込んだ荷物が少なかったものだからこれくらいで済んだ。
「……あのさ、先生」
帰り際、ホシノが私の背に向けて呼びかけた。
「これからも時々でいいから、一緒に星を見てくれる?」
その問いに対する私の答えは、決まっていた。
“もちろんだよ。いつか、必ず見ようね”
「…………! うへへ、次は冬の星座かな~」
今夜は雲もなかった。明日はきっと快晴だろう。