私と君のアーカイブ 作:自産自消
ガチャン、と音を立てて鍵が閉まった。
ハッとして扉の方へ振り向くと、鍵をかけた張本人であるイロハがいたずらっぽく笑っていた。
“え、えーと……イロハ?”
「ふふふ、まーた騙されましたね」
ここはイロハの休憩スペース。モモトークで呼ばれたからとほいほいここに来てしまったのがいけなかったか。いつになく真剣そうな口調だったから心配していたのだが、イロハ自身は何でもなさげなので安心半分に不安半分だ。
「別にとって食いやしませんよ」
ゆっくり、ゆっくりと勿体ぶった歩き方をしながらイロハが私に近づいてくる。
そして私の目の前まで来た後、ニッコリと不敵に笑って言う。
「先生、最近サボってますか?」
“え? サボるって……”
「最近寝てないらしいじゃないですか」
どこからそんな情報を仕入れてきたのか。ついつい眼を逸らしてしまうと、イロハは「だろうと思った」と言わんばかりに大きくため息をついた。
「まさか本当だったとは……どれだけ仕事中毒なんですか」
“やってもやっても仕事が終わらなくって……”
「シャーレの業務というのも大変ですね。あれだけ他人の世話焼いてるんだからそうなるのも必然ですけど」
畳の匂いと鳥のさえずりが、やけに私の感覚器官を揺さぶっている。
きっと徹夜続きで私の頭が働いていない証拠だ。脳のパフォーマンスが低下しているから、情報の取捨選択ができていないのだ。
「まあまあ座ってください。座布団そちらにありますので」
イロハはそう言いながらクッションを床にボスンと置いて、それを枕にして寝転がった。私は敷かれてあった座布団に正座する。ここに来ると、床が畳になっていることも相まって何となく正座がしたくなった。
「それでリラックスできてるんですか」
“え、うん”
「もうちょっと崩した座り方でもいいんですがね。ほら、私なんて寝転がってますよ」
そう言ってイロハは脚をジタバタさせている。それならと私はお言葉に甘えて座り方を崩して足を延ばす。
“えーっと、イロハ……”
「はい、何でしょう…………っく、移動せねばいけないとは」
ギリギリ手の届かない場所にある漫画本を何とか寝たまま取ろうとするイロハに声をかける。
“外に出るには、どうすればいい?”
別に外に出るならドアの鍵を開けたらいいだけだ。しかしイロハがわざわざそういう簡単な解決策があるにも関わらず鍵を閉めたという事実が、この事態がそう容易に片付くようなものではないことを私に告げていた。
「別に、私がサボり仲間の先生とサボりたかっただけですが……その顔を見て気が変わりました」
ジトリとイロハが私を見つめる。思わず身体が跳ねた。
“私今どんな顔してるの?”
「酷い顔ですよ。なのでこういうのはあんまり好きじゃないんですが」
イロハの傍にあったクッションを乱暴に投げつけられる。すぐさま受け止めようとしたが反応に遅れ、柔らかくいい香りのするそれがそこそこの勢いで顔面にクリーンヒットした。
「一緒に寝ましょう」
“え……えー?”
「えーじゃなくって」
私の足元に、投げつけられたクッションがゴロンと転がる。
「寝ないと、ほら、まともに仕事できませんよ」
今日の仕事分はまだ4割ほどしか終わっていない。このまますぐに帰ったとて残業コースは確定。何なら何か起こったら自分史上の徹夜タイ記録になることは確定的に明らかだ。
思わず虚空を見つめてしまう。窓から差し込む日光が左手を暖かく照らしている。
“仕事がなぁ……まだ残ってるから……”
「仕事仕事仕事、本当にそればっかりですね。どんな子供時代送ってきたんですか」
イロハがズリズリと這って私の隣に移動してくる。まさかと思って訊いてみる。
“まさか、寝るまで鍵を開けないつもり?”
「そういうことになりますねぇ。無理矢理部屋から出ようとしてもダメですよ。死ぬ気でこの部屋に連れ戻すので」
光がやけに目に沁みる。虹色の暖かい線が何本も私の視界を遮ってきて、瞼を落としたくなってしまう。
それに加えてふわりといい洗剤の香りが鼻をくすぐるものだから、思わずぐっと目頭を押さえてしまった。
「まあそういうことですので、さっさと寝てしまった方が賢明かと」
ポンポンと肩を叩かれる。ああ、ダメだ。頭が働いていないからかこんな優しい衝撃で体全体がブツンブツンと音を立てて電源を落としていく。
“……じゃあ、2時間だけ”
「はいはい。あ、そうだ」
私が手に持っていたシッテムの箱がさっと取り上げられてしまう。
「それ、ぽーいっと」
そして、イロハがそれを畳まれたタオルケットの上に投げてしまった。それを見届けるのと同時に、視界がぐらぐらと揺らぎ始める。
「私も一緒に寝てあげますからね。それと、寝るのならもう寝転がってしまった方が楽ですよ」
イロハの透き通った声が私の脳髄をくすぐる。言葉通りに、さっきまで座布団にしていたクッションを枕にして横たわった。
そして、同じように寝転がっていたイロハとバッチリ目が合う。イロハはまるで慈悲深き聖母のような眼差しで私の頭をなでてくる。
「ふふ、限界だったんですね。お疲れ様です」
掛け布団はないので申し訳ありませんがとイロハは言うが、昼時の柔らかな気温があれば布団なんてなくても十分暖かい。ましてや隣に人がいるとなれば、なおさら。
鳥のさえずりとイロハのささやきが耳に入ってきて、ああ、これはもうダメだ。
「おやすみなさい。私もここで一緒に寝ますから」
意識がどんどん落ちていく。イロハの顔すら満足に見られなくなっていく。
「本当にお疲れ様です。ちゃんと休んでくださいね」
そうして、私の意識は闇に沈んだ。
◇
夢を見ていた。
いつか、私がイロハの年頃よりもさらに幼かった時代。あの頃の私は外で友達と追いかけっこばかりしていた。友達と一緒に遊べなくても、公園を駆け回っているだけで満足していた。
そんな活発的な子供だ、当然未発達な身長と重心の関係で転ぶこともある。地面で膝小僧を擦り剥いて、血がだらだらと流れてくる。そしてやはり痛いものだ。
そんなことになったら、私はわんわんと泣きながら家まで歩いて帰るしかない。その泣き声は近所にも聴こえるほどだったというが、当時の私にはそんなことは関係ない。ただ自分が世界で一番不幸ですと言わんばかりに、声をあげて泣いていたものだ。
そうして家に辿り着いて玄関の扉を開けると、母親が私を出迎えてくれた。そして私の身なりを見るや否や、「また転んだのね」と言いながらクローゼットから救急箱を慣れた手つきで取り出すのだ。
消毒液の独特なにおいと、特撮のキャラクターがプリントされた小さな絆創膏。そうして処置を終えても、痛みがすぐさまパッと消えるわけではない。
「痛かった。痛かったんだよ」
そうやってソファーの上で寝転びながらぐずる私を、母は頭を撫でて慰めてくれたものだ。
「痛かったわね。頑張ったわね」
その声をかけられるだけで、私は嬉しくなってしまう。痛い中頑張って家まで歩いたからこそこんな風に褒められたんだ、と一端の勇者になったような気持ちさえした。
「強いわね、○○は」
そうだ、私は強いんだ。痛くても立ち上がれるのは、そんな経験があったからだろう。
自分にはそんな美徳と呼ぶべき強さがあるのだと、私は自分を信じることができたのだ。
陽だまりの中に埋もれていた、もう遠い過去の記憶だった。
[newpage]
衣擦れの音で目を覚ました。
周りを見渡すと、もう既に起きていたらしい先生が服装を整えていた。
“おはよう、イロハ”
「おはようございます……」
時刻は午後6時、既に空は橙色に染まっている。カァ、カァと烏の鳴き声もどこかから聴こえてきた。
「よく眠れましたか?」
タオルケットの上に投げてあった仕事道具のタブレットを拾っている先生に、そう問いかける。
“うん、久しぶりに睡眠がとれた”
そう言う先生の顔つきは、昼頃よりもどことなくスッキリしていた。口元に微笑みを浮かべているのはいつものことだけど、雰囲気が何となく清涼になったというか。
“イロハはよく眠れた?”
「まあ、普通です」
眠気がとれない頭をゆっくり揺すりながら返す。タブレットと身分証を引っ提げて白衣も整えたその有様はすっかり「シャーレの先生」だ。
「この後はお仕事ですか?」
“今日の仕事が終わってないから……”
いつか当番で行った、シャーレの執務室のデスクを思い出す。あんな書類の量、人間1人が抱えていいものじゃないと思うが。
それでも、先生は何も言わずにこなし続けるのだろう。そして暇さえあれば生徒の手助けに、こうやって生徒のご機嫌伺いに奔走すると。全くもってご苦労なことだ。
「……また、ゆっくり寝たくなったら言ってください」
“仮眠室とかあるから大丈夫だよ”
「仮眠室はいろんな生徒が使ってるでしょう。ここは私と先生しか知らない秘密の休憩スペースですから」
元SRTの生徒だとかが頻繁に使っていると噂で聞いた。まさか同衾しているのだろうか。さすがにそんなことはないだろうが、先生のことだからありえなくもないのが厄介だ。
「言ってくれれば、いつでも部屋を貸すので。その時は一緒にサボりましょう」
“ありがとうね、イロハ。……イヤァ、でも”
先生が気持ちよさそうに背伸びをする。私よりもよほど身長の大きい大人の男性の背伸びなものだから、ともすれば天井に手が届くのではないかとさえ思った。
“本当によく眠れたよ。ありがとう”
ニコリと表情を崩して先生がそう言った。
だから、私は無表情を崩さずに言ってやる。
「お仕事、頑張ってください。応援してます」
“うん。イロハも頑張ってね”
私と一緒にサボってくれる人。でもずっとサボらずに、自分の仕事に戻れる人。
もう既に鍵の開いてあるドアに向かっていく先生の背中が、私には大きくて仕方なかった。