私と君のアーカイブ 作:自産自消
ミヨが悶々とするだけの話
シャーレの当番の日。私にとっては公的な外出の理由となり、かつ先生と会う絶好の機会となる日。私にとってのラッキーデーだ。
電車を乗り継いでシャーレに向かい、ビルに入り、執務室の扉を叩く。扉の向こうから何の反応がないのを訝しみ、もう一度ノックを3回。それでもあちらでは物が動いた様子もなく、水を打ったように静まり返っている。
「…………ふむ」
ドアノブを捻ると、予想していた手応えを全く感じずにスルリと回る。鍵が閉まっていない、ということは何も起こっていないか、もしくは何事かが起こったか。果たして正解は前者だった。
デスクの上に散らばった書類、飲みかけのコーヒー。どの窓も閉まりきって、ただ空調の音だけが静かに響いている。
「どこかに、逃げた?」
自分でこぼしておきながら、一瞬で「それはない」と否定する。あのシャーレの先生が、責務を放棄して逃げるなんてありえないのだから。
もう1回執務室中を見渡して人の気配がないのを確信して、溜息をつきながら扉を閉める。そうなると一体先生がどこに消えたのか、だが。
振り返ると、陽の光に照らされた廊下がどこまでも伸びている。この建物のどこかに、先生がいるのだろうか。
――――なんてことを考えていたのが、つい5分前のことだっただろうか。
「…………先生ったら」
まず、いの一番に思い当たった場所が休憩室だった。初めてのシャーレの当番の際に私が案内された場所。地味かもしれないけど、私の思い出の場所。
先生はいつも疲れた際、そこで仮眠をとるのだと聞いた。だからノックもせずに、そっとドアを開いたのだ。
そして案の定、そこに先生がいた。ソファーの上に横たわって、寝息も立てず泥のように眠っている。
「こんなところで寝たら、身体を痛めますよ?」
声をかけてみるけど、やはり先生は起きない。よほど疲労が溜まっていたのだろう、目にはべっとりと隈が染みついている。
今の先生はいつも着用している白衣を机の上に乱暴に脱ぎ捨て、真っ白なYシャツに綿素材のズボン姿。このままだときっと皺になってしまうだろう。
そうして私は思い当たる。いつか、こんなことがあったっけ。
あの時はワイルドハントの図書館で居眠りをしていた先生を、私が見つけたのだ。先生に会うためにいろいろな伝手から情報を掻き集めたりしたのだけれど、それはご愛嬌というもの。見逃してほしい。
「先生」
改めて呼んでみる。先生の身体は私の声に反応するように身じろぐ。ふかふかのソファーと言ってもベッドより硬いし狭い。寝苦しいことこの上ないだろう。
薄いYシャツの第1ボタンは、いつの間に解けていたのだろうか。先生の胸元、日焼けした顔よりも薄い橙色が、私の眼に飛び込んできた。
「…………先生」
食べてしまいたい。目の前のこの男を。
「先生、何をしているんですか」
この全てを理解しているような面をして、その実何も分かっていない男の全てを、私だけのものにしてしまいたい。
「何もされないと、私が何もしないと、本気で思っているんですか」
喉が鳴る。そんな小さな音でさえも私の脳を強く揺らす。
今私が立てた音で先生が起きてしまわないか、心配で仕方なくなってしまう。
『でもミヨは、少なくとも……間違った道には進まないはず』
『正しくないことに、気付けるんだから』
ああ、愛しい先生。先生は以前こんなことを仰いましたね。
違います。違うんです。私はそんな高尚な存在なんかじゃない。
「正しくないことに気付きながらその行為に手を染めてしまう存在だ」と、先生は本当に思わなかったのですか。
私が、欲しいもののためなら何だってしてしまう浅ましい女だと、もしや分かっていないのですか。
知っているでしょう、私がしていること。私は、好きなもののために、友人を裏切り続ける人間なんですよ。
「ダメです、こんなこと」
熱い息が思わず漏れる。
ああ、今。
今ここで、先生に齧り付いてしまったら、どうなるだろう。
あなたの服を剥ぎ、私も服を脱ぎ。人としてではなく、ただの獣として私があなたと相対した時。あなたは一体どんな顔をするのだろう。
「ねえ、先生」
その鎖骨の上に貼りついた肌に、鬱血痕を残してやりたい。あなたはきっとそれを隠そうとするだろう。その仕草を見る度、私は得も言われぬ快感を覚えるだろう。
柔らかい首を噛み千切ってやりたい。頸動脈から溢れる血を全身に浴びたい。どんな甘露よりも甘く、私の身体に沁み渡るだろう。
先生のおへそを見てみたい。人によって形が違うおへそ。先生は一体どんな形をしているのか知りたい。私と同じ形をしていたなら、きっとそれは運命だ。
腕に、太腿に、傷をつけたい。カッターナイフで何本も線を引いてやるんだ。血が滲み出るだろう。先生はきっと痛がるだろう。それでいい、痛がってほしい。そして永遠に残るその痕を、私の手で撫でてみたい。
「やめてください」
ズボンと下着の中に隠れている『それ』を見たい。誰も見たことがない『それ』を知る者が、私1人だけであってほしい。
私以外の生徒が知るようなことがあったら、いっそ腹の中にしまい込みたい。そう思うのは普通のことじゃありませんか?
穏やかに寝息を立てる先生を見下ろすように、ソファーの傍に座り込む。そして真っ白なYシャツ越しに、先生の肚に触れる。
未だ起きない彼の上で、私の指先が円を描いて踊る。このどうしようもなく弱い生き物を、今の私ならどうこうできてしまう。そう思うと胸が堪らなく弾けそうだ。
「そんなことされたら、私」
それでもあなたが眠り続けるというのならば、いっそお伽噺のように口づけしてしまおうか。そうしたらあなたは目覚めるだろう。
私も、この悪い夢から醒めてしまうだろう。立場と人に雁字搦めになったあなたを、私如きがどうにかできてしまうという最高の悪夢から。
「私、あなたのことを……」
脳内麻薬に浸された視界は、まるで古いアニメのアイリスアウト。今の私はもう、あなたのことしか考えられない。
ああ、あなたもそうなってくれたらいいのに。しがらみも責任も全て放り投げて、2人であの世まで逃げてしまえるのに。
こんな時、物語の登場人物なら何と言うだろうか。最高の獲物、最高の環境。被食者が捕食者の思い通りになるしかない中でも、必死に抗い続ける。何て最高のシチュエーション。
「あなたのことを、好きになっちゃいますよ」
可哀想だ。
こんな女に惚れられたあなたが、あまりに可哀想だ。
そうして私は唾液で粘つく口を開けて、あなたの――――
◆
“あれ? ミヨ、何でここに?”
「あ、起きましたか先生。随分いい寝顔をしていらっしゃったので、少し独占してました」
“えー? ずっと見てたの? 退屈だったでしょ”
「いえ、私もやることがあったので。それに、お疲れのところを起こしてしまうのも気が引けちゃって」
“そっか、ありがとう”
「よく眠れましたか?」
“うーん、身体が痛いし……やっぱりソファーで寝ちゃダメだね”
「あら……」
“それに何て言うかな……。舐められる夢を見たんだよね”
「舐められる? 何にですか?」
“何だろうあの生き物……。それで起きたら寝汗がすごくって。ほら見て、手なんかぐっしょぐしょだよ”
「手に寝汗ですか? 珍しいですね」
“まあ仕事には異常ないからいいんだ。待たせちゃってごめんね”
「……洗った方が、いいんじゃないですか?」
“いや、別にいいでしょ。汗だし”
「……………………」
“それじゃ、今日の当番よろしくね”
「はい、お願いします」