私と君のアーカイブ 作:自産自消
暑い夏の日、花が咲いた。
通りがかる度にいつ咲くか、いつ花開くかと目を配っていた花だった。
近くにしゃがんで観察してみる。白い花が咲いている。私がいつも被っているケープのような、純白の小さな花。
朝まで雨が降ったからか、道端の地面は強い陽射しにも拘わらず湿っている。土から立ち上るサウナのような熱気に中てられて、額に浮き出た汗を掌で拭った。
自然のままに生き、雑踏の片隅で強く花を咲かせた名も知れぬこの花を、先生が見たら何と言うだろう。「アリウスのみんなも、この花みたいに強く生きてほしいな」なんて、聖母のような微笑みを浮かべながら言うのだろうか。
「…………あれっ」
「んっ……」
ふと、前方で聞き覚えのある声がした。顔を上げると、そこにはトリニティの制服に身を包んだ、顔馴染みの姿があった。
「アツコ、何でここに?」
「理由はないよ。ここにいるのも、偶然」
互いに敵意はない。ただ、立場と信条の違いで袂を分かっただけ。
蒸し暑さの中で、絹糸のような銀髪がきらきらと風にたなびいている。遮蔽物のない道の上は、きっと影が差すこともないだろう。
「元気?」
私から声をかける。こういう時は笑いながら挨拶をするべきだ。先生と行動を共にする際に学んだこと。
「……まあ」
「ならよかった。病気とかは?」
「してない」
「そっか。うんうん、いいこと」
アズサは相変わらずの仏頂面を浮かべて、ぎこちなく私の質問に答えてくる。
それでも、前に会った時と比べて雰囲気が明らかに柔らかくなっていた。それはアリウス自治区にいた頃のような、闇の中での邂逅ではないからというのもきっとあるのだろう。
「……ヒヨリとミサキは? サオリは?」
「サッちゃんはどこにいるか分からない。ヒヨリとミサキは、うーん……寝てたり、朝ごはん食べたりしてると思う」
「行方不明なのか、サオリは」
「元気にやってるんじゃないかな。サッちゃん、強いし」
「知ってるでしょ?」と返すと、複雑そうな表情でそっぽを向かれてしまった。恩はあるけど、アリウスにいた頃の思い出は辛いものばかりだったのだろう。
特にサッちゃんは、スクワッドのみんなに対して厳しく指導していたから。私も、少しだけトラウマになってたりする。サッちゃんには絶対に言えないことだけど。
そうして、会話の内容は振り出しに戻る。
「……ここで、何をやってるんだ?」
「花を見てるの」
「花……」
「私の足元にあるの。ほら、見て」
アズサがおずおずと私に近寄ってくる。地雷でも警戒しているのだろうか。こんなところに仕掛けたりしないし、そもそも仕掛ける理由なんてもうないのに。
それでも、そこがアズサのいいところだ。用心深く、慎重。それでいていざという時は大胆な行動ができること。作戦を遂行する時は、必ずいてほしい人材。
「本当だ。これは……何の花だろう」
「分からない。私も、世話してたわけじゃないから」
少女が2人、道端で何かを覗き込んでいる。他人が見たら困惑することは間違いない。
ふと、靴に蟻が1匹上っているのに気付いた。焦っているかのように触角を忙しなく動かし、やがてその蟻は地面へと下りて行った。
「標本って、知ってる?」
思いついたことを、何となくアズサに言ってみる。会話の基本はキャッチボール。ボールのやり取りが途切れてしまったら、すごく微妙な雰囲気になってしまう。これも、先生といるうちに学んだこと。
「標本? ……虫の?」
「うん。作り方、分かる?」
「何となく、どういうことをするかは……」
私の靴によじ登っていた蟻は、今度はアズサの方へと向かっていく。ここからアズサの位置まで、私にとっては1歩分。それでも蟻にとっては、一世一代の大冒険。
だってそうだろう。もしかしたら、目の前の大きな何かに踏み潰されてしまうかもしれないのだから。虫はきっと、いつだって命懸けだ。そんなことを考えているのかも分からないけど。
「虫の死体に薬剤を塗り付けて、保存できるようにして、それをピンで留めるんだっけ」
「うん、らしいね」
「アツコは知ってたのか」
「うん、先生が昔作ってたんだって」
アズサが少しだけ立ち位置をずらした。どうやら蟻の進行を妨げないように退いてくれたらしい。よかった。踏み潰されなくって。
近くに巣でもあるのだろうか。この地面には小さい穴があちこちに空いていて、どれがあの蟻の巣なのかも分からない。カモフラージュは完璧ということか。
「虫の死体は、どうやって作ると思う?」
「拾うんじゃないの?」
「ううん、殺すの」
蝉の声がどこかから聴こえる。夏が始まろうとしている。
「どうやって?」
「薬品で」
「そんなの売ってるの?」
「市販のものを組み合わせたら、できるんだって」
いつか当番で行ったシャーレの執務室で、先生が昔を懐かしむように言っていた光景が脳裏に思い浮かぶ。その時の先生は、小学校中学年だったらしい。
先生。分かたれた私たちの共通の知人。私たちを退け、また助けてくれた不思議な人。花を育てるにはどうしたらいいのか、教えてくれた人。
「……それで、いきなりどうしたの? 虫の標本に興味あったの?」
「ううん。先生が言うにはね、植物の標本っていうのもあるんだって」
白い小さな花が風に揺れている。茎と葉を包み込むように、地面に手を置いた。
「植物の、標本?」
「原理は虫のと同じ。腐らないように、枯れないように、薬を使うの」
雲一つない晴天が、私たちを包んでいる。
「プリザーブドフラワー、っていうのかな。そんな感じ」
「…………アツコ」
ドライフラワーだと、どうしても色が褪せてしまうことが多いらしい。押し花だとぺちゃんこにしてしまうから、花って感じがしない。
花を包み込むように置いていた手を、少しだけきゅっと狭める。指の先が動いたかなと思った瞬間、私の右手首が強く掴まれた。
花から遠ざけられるように、私の手が持ち上げられる。今の私は、さながら操り師が失敗したマリオネットだ。
「やめよう、アツコ」
アズサが、懇願するように私に言う。
「やめるって、何を?」
「その花は、そこにいるだけでいいんだ」
ああ。アズサは、私がこの花を毟るつもりだと思ったんだ。
そう示唆するような発言内容ではあったけど、そんなことをするような人柄だと思われていたのだろうか。ちょっぴりショックだ。
「……そんなに焦らないで。冗談だから」
手首が放される。痕が赤く染まっていた。それでも痛くはないのは、アズサにそんな怪力がないからか。
それとも、冗談だと分かっていたからだろうか。どちらでもいい。大事なのは、私に花を害するつもりがないということだ。
「前にね、先生にドライフラワーについて訊いたことがあるの」
「先生に……?」
「『ドライフラワー貰ったら、嬉しい?』って」
何の取り留めもない会話の中だった。虫の保存方法から花の保存方法に話題が移り変わって、その流れでいろんな保存方法があることを知った。
ドライフラワー。花を乾燥させて、保存状態をよくする方法。花束なんかにも使われているらしい。そんな花束をもし誰かから贈られたら、先生はどう思うか気になったのだ。
「花束って、何にもならないじゃん。食べられないし、お金にもならない」
「まあ……そうだけど」
「先生はそんな贈り物をどう思うのかなって、気になって」
「それで、先生は何て?」
ああ、あの時先生は右手を顎に当てながら、何ともなさげに「んー」と唸って。その後にこう言ったんだ。
“すごく嬉しいよ。でも、私は自然に咲いてる花の方が好きかなぁ”
私の影の下で、花は変わらず静かに揺れている。
理由を訊いたら、先生は丁寧に「あくまで私の意見だけどね」と前置きして説明してくれた。
“花って、子孫を残すために咲くんだよ。綺麗なだけじゃないんだ”
花は花粉を、いろんな方法でめしべに届かせるらしい。虫に運んでもらったり、風に運んでもらったり。鳥なんかが運んでくれることもあるという。
綺麗な花が咲くのは、そんな「運び屋」を呼び込むため。その役割を、先生は全うさせてやりたいらしい。
「花も虫も、子孫を残すのに一生懸命みたい」
「それは、まあ、生き物だから」
「先生が作った虫の標本、蝉のだったんだって」
薬品で虫を殺すのに、最低でも2時間はかかるらしい。その間も鳴く虫は延々と鳴き続ける。
そしてその鳴き声が止んだということは、命が潰えたということで。「それがトラウマみたい」と言って話を〆ると、アズサは先生らしいと苦笑していた。
「アズサはどう思う? 生きてる花と、綺麗な花」
「……私も、生きてる花の方がいい」
アズサは強い。あの環境下にあって心を折らず、「それでもなお」と足掻き続けることを選んだ。
それはきっと、虚無主義に身を浸らせていた私たちにはできなかったこと。アズサにしかできなかったこと。
「私は、道端に咲く花の強さを知っている」
「……うん」
「どんな環境でも、花は強く咲くから」
その強さは、きっと道端に咲くこの小さな花のようなもの。
小さく、儚く、それでも地面にしっかりと根を張った、美しい強さ。
「私も、そう思う」
そう思える今があることが、嬉しくなった。
日は相変わらず燦々と私たちに向かって照り続ける。向こう側で車が1台、猛スピードで横切って行った。
「アツコは、この後どうするつもりなんだ?」
アズサが私に問いかけてくる。その眼には少なからず心配の色が差している。
何か予定があるわけでもない。強いて言うならば、その日その日を生きることだ。まともな暮らしが望めない今では、それが唯一にして至上の命題である。
「うーん、特に何か予定があるわけではないよ。やれる仕事があったらやるけど」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫。みんな元気だから」
本当は、最近あんまりご飯も食べられていない。ヒヨリの悲観主義は勢いを増しているし、ミサキもあまり動かずに寝そべっていることが多くなった。
希望があるかと言われると、正直首を傾げざるを得ない。少なくともアズサに比べたら、あまりにちっぽけなものだろう。
「私も、頑張って生きてみるから」
「……そうか」
それでも、この花のように生きてみようと思っている。
きっと難しいことだろうけど、今は私を気にかけてくれる人がいる。それが私の背を押す力になる。
膝に力を入れて立ち上がると、勢いでフードが脱げた。遮られていた日光が目に入ってきて眩しい。夏の空の何と高いことだろう。
「アツコ。その……」
「うん? どうしたの、アズサ」
アズサもすぐに立ち上がって、私を真正面から見つめてくる。
昔と比べて、お互いに大きくなった。着実に成長している。大きな「責任」を負いながら生きる先生の背中に、少しずつではあるが近づいている。
しばらく口を噤んでいたアズサが、意を決したかのように口を開き、そして笑った。
「頑張ってね。またいつか、どこかで」
私も、そのエールに微笑んで応える。
「うん、アズサも」
そうして、私たち2人は別の方向に歩き出した。昨晩降った雨の痕跡も、もうじき地上から消えてしまうだろう。
それでも、雨は生きとし生ける全てのものの糧になる。陽射しも、影も、風も、虫も、花も。巡り巡って誰かを生かしている。
いつか、そんな人間になれることを夢見ながら、私は塒へと歩を進めた。