私と君のアーカイブ   作:自産自消

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疲れきった先生を、イロハが戦車でのドライブに連れていく話。

pixivだと前後編に分かれていますが、ここでは一緒くたでまとめてます。
なので他の話に比べて長いです。ご注意を。


キヴォトスの休日(※)

 先生が疲れているのはいつものことだった。

 よれよれの白衣に最低限の手入れしかしていないぼさぼさの髪、今にも閉じそうな瞼に不安定な声調。そりゃあ毎日家にも帰れずシャーレの執務室に籠りきりでは精神衛生上悪かろうというものだが、そうでもしないとシャーレ及び連邦生徒会のあの大量の仕事は片付かないのだ。頻繁に当番として生徒を呼び出せるのはいいが、生徒ができることだって高が知れている。結局のところ詰めは先生自身がやらないといけないのだ。

 

 ただ、どうやらここ最近はただでさえ過酷な仕事がますます過酷にだったらしい。

 というのも、今週は温泉開発部や便利屋68、そして美食研究会だったりが他校の自治領内で大暴れをしてくれたらしい。その解決に駆り出されたというのがまず一つ。ゲヘナの恥としか言いようがないが、校風とキヴォトスの治安上どうしてもそういう生徒は出てくるものだ。嘆かわしいことである。

 そして先生はそんな状況下でありながら、生徒からの呼び出しに対して断るということをしなかった。相談事だったり買い物への付き添いだったり、別に先生が相手じゃなくったっていいだろうと言いたくなるようなことにすら嫌な顔1つせずに付き合っていたという。

 今週は毎日のようにイベントが盛り沢山だったものだから、先生本来の執務の方にまで手が回らなかったらしい。何徹したか分からないほどに疲れきった顔をした先生は、なぜか公園のベンチで気絶するように眠っていた。

 

「……これ、生きてますよね。全然寝息立ててないんですけど」

 

 午前7時。朝日があたり一帯を照らし始め、鳥の囀りは爽やかに響き渡っている。そしてベンチに倒れ伏した先生の顔面にも日光が差し込んでいるのだが……一切起きる気配がない。それどころか、開いた口から「あー」だの「うー」だのか細いうめき声を出し始めた。

 生存が確認できたのはいいが、このままでは先生の身体そのものに異常が起きかねない。こんな硬い椅子の上では安らぐものも安らがないだろう。

 

「仕方ないですね……おーい、起きてくださーい」

 

 幸いながらこの時間帯の公園には、ふとした思い付きでコンビニに朝食を買った帰りである私以外に生徒はいない。よって、先生のこの無惨な屍を目撃する生徒は現状私以外にはいないわけだ。

 身体を軽く揺すってみるが、先生は慣性に従って首をがくんがくん上下に振るだけだ。ゾンビのような鳴き声も止まらない。

 

「起きてください、何でこんなところにいるんですか」

 

 もう少し強めに揺すってみるがなお起きない。ここまで来ると何かの毒でも盛られたのではないかと思ってしまう。空砲で起こすことも考えたが、そんな物騒な起こし方はあまりしたくなかった。

 

「ああもう! 起きてくださいっ! 寝るならせめて布団でお願いします!」

“…………うぅ”

 

 半ば叫ぶように声をあげ、肩を掴んで強く揺さぶると、先生の瞼が重そうに持ち上がった。全く酷い顔だ、目が充血している。一体全体何をどうしたらこんな惨い生き物が出来上がってしまうのだろうか。

 手首で顔をごしごしとこすり、不思議そうに周辺の景色を見渡すその姿は、まるで小説でいつか読んだ異世界転移でもしたかのようだった。

 

“い、イロハ? どうしてここに?”

「それはこっちのセリフです。何でこんなところにいるんですか?」

“わ、分からない……何でだろうね?”

 

 シャーレのビルからこの公園まで数百メートルも離れている。意識的に行こうと思わなければ行けないだろう。ましてや判断力の鈍っている徹夜明けならばなおさらだ。

 

「覚えてないんですか? ここどこだと思ってるんですか」

“イヤ、仕事を終わらせて、『やったー!』って立ち上がって……その後ここに辿り着くまでの記憶がない”

「どういうことですかホントに……」

 

 推測するに、目の前で背中をさするワーカホリックは仕事が終わったあまりの興奮に酔いしれ、トランス状態のままにこの公園まで千鳥足で歩き、そのままベンチで気絶したのだろう。これが自分の行く末かと思うと全くもって大人になるのが嫌になる。

 

“体が痛い……”

「そりゃあベンチで寝たならそうなりますよ」

“あはは、確かにね……”

 

 先生が極めて重そうに背伸びをする。体のあちこちからバキボキと音がして、まさか骨が折れているんじゃないかと恐ろしくなる。それでも本人にとっては気持ちよかったようで、スッキリしたかのように立ち上がった。

 

「待ってください。どこ行くんですか」

“え? 帰るんだけど……”

「それ家ですよね? シャーレの休憩室だとか言いませんよね?」

“シャーレの執務室だけど……?”

 

 ダメだ、想定の斜め下45度をぶっちぎっている。一回辞書で「帰る」という言葉の定義を調べ直してほしい。少なくとも仕事場に戻ることを「帰る」とは言わない。それは「出勤」だ。

 見ていられない。思わず手で顔を覆ってしまった。へたり込んでしまいそうになるが何とか踏ん張るが、脚がガクガクと震えている。何で私の方が追い詰められているのか真剣に意味が分からない。

 

「最後に休んだのはいつですか」

“しっかり5時間睡眠とれたのは、えっと、確か……”

「あ、もう言わなくていいです」

 

 その手に持ったタブレットで適切な睡眠時間というものを調べてほしい、切実に。

 ため息が出る。先生には「同じ管理職に就いている」ということへの仲間意識が少なからずあった。その先生がここまで擦り減っていることに我慢ならなかった。このままでは銃弾で死ぬ前に過労死してしまう。

 

「…………先生」

 

 あえて強めの口調で口火を切る。

 

“何かな、イロハ”

「ちょっとお時間いただきますね」

“え、ええ? いいけど”

 

 言質はとった。しばらくは私が先生の予定を貰う。今日他に誰の予定が入っていようが知ったことではない。

 

「少しついてきてください。行きたいところがあるんです」

“分かった。どこに行くの?”

「万魔殿の車庫です」

“車庫……?”

 

 歩き出す。しばらく歩いて振り返ると、先生が覚束ない足取りで私を追いかけていた。

 これがキヴォトスを駆け回るシャーレの先生か。大人の姿か。いや、大人だからこそ過剰な量の責任を背負ってこの有様なんだろうが、本当にやめてほしい。未来に希望が持てなくなるから。ペースに合わせていられなくて思わず先生の手首を掴み、そのまま引きずるようにまた歩き始めた。

 

 手を引いて歩く最中、私は周囲のことなんて気にする余裕がなかった。おそらく誰かに見られていた可能性もなくはないが、そんなことよりも今は先生だ。先生を目的の場所に連れていくことしか頭になかった。

 今にして思えば、私も軽く寝惚けていたのかもしれない。普通ならこんなこと、思いつくはずがないのだから。

 

 

 

 

 

「はい、着きました。車庫です」

 

 朝の車庫は静かだ。持っていた鍵を使って開けたその空間は、窓からの光に照らされてどことなく神秘的だった。空調が効いていないからか少し暑い。

 

“車庫だね。それで、どうして私をここに……?”

「休憩スペースにご案内、するんですがね、普通は」

 

 カツン、カツンと私の足音が響く。向かう先は、いつも使っている戦車だ。

 

「ご存知ですか? この戦車、複数人乗れるんです」

“ああ、イロハはいつもイブキを乗せてるよね”

「巡回中はまあ、そうですね。だけど今回は……」

 

 目線をやると、先生はまさかと言うように目を見開いた。

 

“まさか、私が乗るの?”

「はい、いつもはイブキが乗っているスポットなので、安全性は保障します」

“いやいや、大丈夫なの!? だってそれ大事な戦車でしょ!?”

 

 先生はいかにも悪いと言わんばかりに首を振った。この人はこういうところがある。自分は厚意を振りまくが、自身に向けられた厚意についてはあまり関心を持とうとしない。それは自分が子供から施しを受けることそのものを拒んでいるかのようで、気に入らなかった。

 

「私は万魔殿の戦車長ですよ。少し言い訳すれば誤魔化せるでしょう」

“いや、でも……!”

「ああ、こう言った方がよろしいですか?」

 

 戦車に上り、ハッチを開ける。ギィッという音が響いた。

 

「私と一緒にドライブしてくださいませんか? 行先は、海です」

“海!? 何で!?”

「この時期の海は人がいないので」

 

 いつものように体をハッチの中に滑らせる。先生は相変わらず立ち尽くすばかりだ。

 

「で、付き合ってくれるんですか? ダメだったら言ってください」

 

 そう言って先生を見つめると、先生は覚悟を決めたかのように戦車に向かって歩き出した。

 

“分かった。でもイロハが後悔しないようにね”

「後悔するも何も、勝手に戦車を私用するんですから始末書ですよ。それは先生だって同じでしょう」

 

 全く、職権乱用もいいところだ。戦車長がこんな体たらくなものだから、万魔殿の質とやらも推して知るべしというもの。

 きっと先生はシャーレに戻ったらまた仕事と人助けにてんてこ舞いだろう。ああ、何て酷いことだろうか。スーパーマンである先生は、今日この日だけは悪魔に攫われて雲隠れしてしまうのだから。

 

「共犯ですね、これで」

“う、うん……”

 

 よいしょよいしょと危なっかしい上り方をするものだから、少し身を乗り出して手を貸す。先生は恥ずかしそうに「本当にごめんね」と笑うが、謝る理由なんてどこにもない。

 私は自分がこうしたいからやったのだ。ゲヘナの校風は「自由」と「混沌」。私はそれに従って自由に振る舞ったまでのこと。

 

 戦車の中に入った先生は興味深そうに周囲を見渡すが、どうにも狭苦しそうだった。当然だ、先生は私やイブキよりも体が大きいのだから。

 

「そこから顔を出せますよ。はい、イブキがそうしてるみたいにしてください」

“了解……おお、これは”

「思った以上に高いでしょう。じゃあ私は運転に回りますね」

 

 ハッチを閉め、運転席に座り、戦車のエンジンをかける。もう既にモモトークで議長には『火急の用ができたので戦車を1輌使います』と連絡済みだ。先生が今私と一緒にいるということまでは知らせていない。

 ずっと持っていたボトル飲料とスナック菓子におにぎりが入ったレジ袋を脇に置く。少し多めに買っておいてよかった。

 

「運転席の横に食べ物と飲み物があるので、よかったらどうぞ」

“大丈夫! 私今お腹減ってないんだ!”

 

 それは大丈夫ではないだろう、もう朝なんだから。そんなツッコミは今更野暮なのでぐっとこらえた。

 戦車が少しずつそのキャタピラを前に転がし始める。先生の「おー! 動いた!」なんて驚嘆の声をBGMに、戦車は車庫のシャッターを通り抜ける。ガタガタと戦車が揺れ、グオングオンと轟音が響き渡る。

 私にとっては日常の風景だが、シャーレに籠りきりである先生にとってはまるで遊園地のアトラクションのように映っているのだろう。いつもとは比べるべくもなく、子供のように目を輝かせていた。

 

「あ、車庫の鍵閉めるので一旦止まりますね。どうですか、初めての戦車は」

“いやぁ、すごいね! こうして見るとわくわくするなぁ!”

 

 戦車から颯爽と飛び降り、シャッターを下ろして鍵をかける。少し手が震えて、いつもは流れるようにこなせる作業でも手間取ってしまった。私もこの逃避行とも呼べない何かに興奮しているのか。

 

「それじゃあ、海へ向かってしゅっぱーつ。激しい振動にご注意ください」

 

 目指すは海。誰もいない浜辺。

 今回は絶対に使われないだろう戦車の砲口は、青い空の彼方を指差していた。

 

 

 

 

 

 

 火砲にいつもの「巡回中」の掛札をかけて、ひたすらに海に向かって進む。

 先生が戦車から上半身を乗り出している都合上、もし誰かにばれてしまったら休むどころの騒ぎじゃなくなってしまうので、できる限り人のいない道を選んで通っている。

 そろそろ街全体が目覚め始める時間帯だ。今でこそ人を見かけることはないが、1時間後にはこのあたりは生徒やら一般人やらが往来している。帰りはこうはいかないだろう。

 

“スピード結構出るんだね!”

「これで大体時速40kmです。どうでしょう。非常にスリリングな乗り心地だと思いますが」

 

 人通りの少ない道を選ぶならば、やはりあまり整備されていない道も通ることになる。それに加えて大体の戦車の乗り心地はハッキリ言って最悪に近い。キャタピラの振動がダイレクトで内部に伝わって常時ガタガタと上下に揺らされるものだから、タブレットの画面でも見ようものなら乗り物酔いまっしぐらだろう。

 そんなものに外気に身を晒しながら乗っている先生は、下手なジェットコースターに乗るよりもスリル満点な経験を味わっているのではないだろうか。現状私からは下半身しか見えない先生に向かって、念のために声をかける。

 

「気分が悪くなったら言ってくださいね、ただでさえ先生はまともに寝てないんですから」

“今のところは大丈夫ー!”

 

 陽気そうな声が返ってきた。「了解でーす」と返答を受け取り、ハンドルを握り直す。

 私はといえば慣れたものだ。普段運転は他の生徒に任せてはいるが、何かあった時のためにそれなりに動かせるようには訓練されている。できる限り素早く、しかし安全運転で海に向かってひたすらに進む。

 

“空が青いなー! 風が気持ちいい!”

 

 たまに聞こえる先生の歓声は、いつもの落ち着いた声のトーンからは考えられないほどにはしゃぎまくったものだ。寝起きかつ睡眠不足でテンションが一周回ってハイになってしまっているのだろうが、先生のそんな声を聴くのはなかなかに悲痛であり、また痛快だった。

 それに、そこはいつもイブキが乗っている場所、言ってしまえば特等席だ。イブキと先生以外の誰もそこに乗せるつもりはないくらいには特別なのだから、楽しんでもらえなければ嘘というものだ。

 

“あ、おっと”

 

 先生が戦車の中に首をひっこめた。右前方150m地点に、おそらくゲーセン帰りのスケバンが数名。なるほど、これは見つかってしまってはいけないだろう。

 スケバンたちは私たちの虎丸を見て顔をしかめ、足早にすれ違っていった。どうやら先生の存在に勘付いてはいないらしい。

 

「バレませんでしたか」

“いやどうだろう?”

 

 あはは、と先生が無邪気そうに笑う。見つかってしまうことに対するスリルすらも楽しんでいるようだ。

 いつもなら先生がこんな面を見せることはまずない。よほど疲れてしまって、「大人」というペルソナを被る余力もないのだろうか。先生は申し訳なさげに私の横のレジ袋からスポーツ飲料を取り出し、一口分を口に含んだ。

 

「行き帰りは眠る暇もなさそうで、申し訳ありませんね」

“いやいや、すごく楽しませてもらってるよ!”

「そうですか? ならいいんですが」

 

 目的地まで残り約3km。虎丸は相変わらずガタゴトと微細振動を起こしながら、そろそろ見えてきた水平線めがけて進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 海を目的地にしたのは、別に何か特別な場所だからとかそういう理由ではない。ただ単に、この時期の浜辺は静かだからだ。そこならば、きっと先生は休むことができると踏んでいた。

 虎丸を駐車場に停め、先生を先に下ろす。私は非常用の備品をある程度抱えて外に顔を出す。先生がハッとしたように私を見た。

 

“それは何?”

「レジャーシートにタオルケットにクッション、後は食べるものです。定員+数名分はいつも備えてあるんですよ。万一のことがあった場合にはこの虎丸も出動するので」

“ああ、なるほど。そんな大事なものを使っていいの?”

「今がその『緊急事態』なので」

 

 風はナトリウムとタンパク質が混ざったようなにおいを乗せて私たちに吹いてくる。この生臭さを、私はなぜだか嫌いになれなかった。

 疲れと移動の後遺症で朝よりもふらふらとしながら歩く先生の手を取り、群青色をした海に向かって歩く。潮騒がどんどん近づいてくる。やはり疲れているのだろう、足取りも重かった。それでも先生はふにゃふにゃと笑顔でついてきてくれている。それが何だか年の離れた弟ができたようでくすぐったかった。

 

 浜辺のきめ細かい砂の上にレジャーシートをバサリと敷くと、その風圧で足元の砂粒が吹き飛んだ。その上に座って、先生の座る場所をぽんぽんと叩いて示す。

 

「狭いスペースですが、どうぞくつろいでください」

“ありがとう。身だしなみ整ってなくてごめんね”

「謝らないでください、気にしませんから」

 

 ウソだ。気にしているからこんなところに連れてきたのだ。怪しまれないようにわざわざ虎丸に乗ってまで。

 先生と私、隣同士で波の行き来する様子を眺める。青い空に青い海。人はここに2人だけ。ここには仕事も問題事もない。

 

「食べてください。お昼ご飯もここで済ませちゃいますから」

“いいの? これ多分イロハのだったでしょ?”

「買いすぎたんですよ。それにスポドリに口つけてるんだから今更です」

 

 本当はこれで1日分の食べ物のつもりだった。レンジ不要で食べられるうどんにコンビニ弁当、コンソメ味のポテトチップスなんかもある。腹を膨らませるには十分ではないだろうか。カップラーメンはさすがにここでは食べられないけども、まあ持ち帰って自分の部屋で食べたらいい。

 先生がおにぎりのラップを開ける音が隣でする。目線は送らない。ずっと海だけを見ている。パリパリと海苔が噛み砕かれていく。

 

「……先生は」

“ん? んっ……どうしたの?”

「食べながらでいいですよ、焦らないでください。喉に詰まらせたら大変です」

 

 ここで急病人の看護はしたくない。先生の方を向くと、食べかけの鮭おにぎりを手に持って私をきょとんと見つめていた。

 

「一体、どうしてそんな大人になったんですか?」

“どういう意味?”

「別に悪い意味じゃないですよ。大人ってみんなそんな風に大変な日々を過ごすんですか?」

 

 先生は大人だ。そして、私たち生徒は子供だ。

 先生が普段どれだけ過酷な日々を送っているのかも知っている。あちこちで起きる問題を解決するために東奔西走することなんてしょっちゅうだ。ここに来た頃に起きたアビドスでの事件の際は、風紀委員長に助けを求めるために足を舐めたりなんかもしたらしい。

 ……これは先生の趣味が多分に入っていることは否定しがたい、だが異常なことは分かる。大人としての矜持もあるだろうに、それらを全て目的のために捨て去ることができる。できてしまう。

 

 先生は、狂っている。良くも悪くも。

 生徒のためと言いながら、自分が発狂するレベルの仕事量を愚痴1つ零さずこなす人間のどこを見て正常だと判断すればいい?

 

「先生は……子供だったんですか?」

 

 今日虎丸に乗ってはしゃいでいる先生の姿は本当に子供のようだった。それを見て悟ったのだ。

 「ああ、先生も昔は子供だったんだ。カッコいいものに憧れ、興奮を抑えきれなくなってしまうような子供だったんだ」と。

 

「いつから大人になったんですか、先生は」

 

 ゴクン、と何かが飲み込まれる音がした。見ると、先生が口の端についた米粒を手に取って食べていた。もう食べたのか。口の小さい私は食べきるのに5分くらいはかかるのに。

 

“難しいね。いつから大人になったのか、か”

 

 私はポテトチップスの袋をパーティー開けする。幸い爆発するようなことはなかった。

 

“いつの間にか大人になってたよ。私も昔はイロハみたいな学生だった”

「どんな生徒だったんですか?」

“普通だったよ。勉強が大変で、部活頑張ってて、時々友達とゲーセン行ったりして……”

 

 外の世界の学校には、いろんな部活があるらしい。それもスポーツや音楽活動に特化したものが種類ごとにあるようだ。生徒会や風紀委員の権力もそれほど強くないという。それは教師や親という大人が生徒たちをきちんと庇護しているからだ、と先生は言う。

 

“私、先生になろうとは思ってなかったんだよね。最初は”

「じゃあ何で先生になったんですか」

“うーん、楽そうだったから?”

 

 驚いた。先生のことだからてっきり最初から先生という職業になりたくて頑張っているものだと思っていた。

 

「そんなのでいいんですか」

“よかったんじゃないかな。教員免許も持ってるし”

「何かこう、崇高な志とかそんなのは」

“なかったね。ああ、でも、ただ……”

 

 先生が空を見上げる。雲が太陽の光に照らされて白く光っていた。

 

“さっきも言ったけど、私がこうして生きられたのは、護られてきたからなんだよね”

 

 外の世界の子供は、無力らしい。戦う術なんて何もない。銃すら触ったことのないまま学校生活を終える生徒がほとんどだ。それはそんなものを持つ必要性がないからだ。そしてそんな世界を作っているのは、間違いなく大人なのだ。

 

“それに気付いた瞬間、世界が見えたんだよね”

「世界が見えるとは」

“こう、目の前がブワッて開けるみたいな”

 

 パリパリと2人がポテチを咀嚼する。聞いてはいけないような話を聞いている気分だ。味が濃いはずなのに、味が分からない。

 特段夢らしい夢を持っていなかった先生が、本当の意味での「先生」になるまで。

 

“ああ、こんな大人になりたいなって、思ったんだ”

“そのために一番適してるだろう職業へのパスポートを、幸いながら私は持っていたしね”

 

 子供の夢を守る。子供の意思を尊重する。子供の背中を笑って押してあげられる、そんな大人になりたいと、かつて何者でもなかった青年はそう思ったのだろう。

 海はずっと何も変わらずに、寄せては引いてを繰り返している。風も相変わらず涼しく生臭いままだ。それが妙に安心した。

 

「先生も、子供だったんですね」

“人はみんな子供だよ。そしていつか大人になるんだ”

「私、大人になりたくないんですけど」

“なっちゃうもんだよ”

 

 将来のことを考えると憂鬱だ。何せ一番身近な大人があんな醜態を晒していたのだから。

 いつの間にか、ポテトチップスは開いたポリ袋の上から消えていた。少し腹が膨れているのは先生も同じなようで、体重を少し後ろに傾けてリラックスした姿勢をとっている。

 

“イロハは、どんな大人になりたいの?”

「私ですか? えぇー……」

 

 具体的なビジョンは何もない。何になりたいかなんて考えたことがない。強いて言うならば「楽して過ごしたい」というのが夢だが、それを今ここで言うのは違うと思った。

 でも、ボヤッとした霧の向こうにある何かの輪郭が、今の話を聞いて少しだけ分かったような気がした。

 

「…………そうですね」

 

 きっと、何年経ってもこの海は変わらないのだろうと思うと、心が凪いでいった。

 

「先生、ですかね」

“え?”

「先生のような大人になりたいです」

“…………えっ!?”

 

 先生は本気で驚いたようだった。今日は先生のいつもは見られないような顔ばかり見ている。

 その「大人」の仮面の向こうにある誰かの顔が見えたようで、それが嬉しかった。

 

「何驚いてるんですか。そんなこと無理だと思ってるとか?」

“いや違っ、そういうわけじゃ……”

「酷い、先生がそんな人だったとは思わなかったです。よよよ……」

 

 何だか恥ずかしいことを言ってしまったので、ついつい揶揄って誤魔化す。

 でも、まぎれもなく本心だった。

 

“な、何でそう思ったの?”

「何となく、ですかね」

“何となくか……そっか……”

 

 ウソだ。どの職業に就くのであれ、恰好の悪い生き方はしたくなかった。それはきっと、先生に守られて育った生徒として、一番してはいけない生き方だろうから。

 幸いにして、そういう生き方の目標は、今私の隣にいた。

 

「だから、休んでください。タオルケットかぶせて、クッション枕にして」

“え、え、え……?”

「私に休み方というものを教えてくださいよ、『先生』なんですから」

“ちょ、待って、え?”

 

 だから、私が未来で過労死しないためにも、先生には適度な休み方というものをしてもらわねば困るのだ。

 

「日光が眩しいので、あんまり眠れはしないでしょうけど。仮眠くらいにはなると思いますよ」

“え? 私寝るの? ここで?”

「ここに来た目的は、誰もいない場所で先生を寝かすことです。ベンチよりも数倍マシだと思いますが」

“それはそうだけど……”

「お疲れなんでしょう。シャーレなんていつ誰が来るかも分からないんですから」

 

 ここには私しかいない。

 今日この場で先生を休ませるのは、私しかいない。

 

「帰ったらまた仕事仕事で大変でしょうけど、今くらいは休んでおかないと」

 

 このままシャーレに帰してなんてやりたくなかった。

 

“イロハは、私が眠ってる間は何してるの?”

「別に何も。せいぜいこの近辺を散歩して、水遊びして、それくらいですね」

“退屈じゃない?”

「もし耐えきれなくなったら砂の城作ってるので」

 

 それを聞いて、先生はニコリと微笑んだ。「大人」の顔だった。

 

“ありがとう。イロハは優しいね”

「私がやりたいからやっているんです。お気になさらず」

“ううん、優しいよ。ありがとうね”

 

 そうして、先生はクッションを枕にして横たわった。私はそこにすかさずタオルケットを被せてやる。必殺タオルケット攻撃だ。

 

“ふかふかで気持ちいい……”

「結構な頻度で洗濯してるので、質は保証しますよ。寒くないですか?」

“暖かくて気持ちいい……”

「ならよかったです」

 

 先生の瞼があっという間に落ちる。極度の疲労にふかふかの枕と布団だ。いくら大人でも耐えきれるわけがない。

 

“じゃあ、ごめん。ちょっと寝るね……”

「はい、お疲れ様です」

 

 そうして、30秒もしないうちに隣から寝息が聞こえ始めた。

 私はキラキラ光る水面を眺めながら、できる限り物音を立てないように立ち上がる。レジャーシートがガサガサ言ったが、先生は熟睡してしまったようで起きる気配がない。

 

 先生が見えなくならない範囲で、私は散歩を始めた。来た方には2人の足跡、行く方には1人の足跡。

 何となく、くるりと一回転してみた。柔らかな日光と波の音に挟まれて、心が少しだけ浮き立った。

 

 

 

 

 

 

 結局、4時間後に先生は勝手に目を覚ました。

 私が砂の城を作っているのを見て苦笑いをしていたが、これはギャグというものだ。あまり気にしないでほしい。

 

“ごめん、退屈だったね”

「もうちょっと寝ててもよかったんですよ?」

“うん、ありがとうね。ただ……もうそろそろ帰らないと”

 

 先生には今日も仕事があるのだ。それを放棄して寝ていられるほど図太くはなかったようだ。

 分かっていたことだった。私も、仕事はしなければならない。ましてや今私は職権乱用して虎丸を勝手に運用してここにいるのだから。

 

「帰りますか」

 

 先生に、改めて問いかける。

 

“うん、帰ろうか”

 

 先生がそう答える。白衣を着たまま寝ていたからか、ただでさえ多かった皺がますます増えているが、顔つきはだいぶすっきりしていた。

 その顔を見られただけで、ここに来た価値はあった。

 

「じゃあ、後始末は手伝ってくださいね」

“もちろん。あ、タオルケットとクッションは……”

「私が洗濯するので大丈夫ですよ」

 

 乱雑に畳み、レジャーシートの砂を払い、2人で手分けして持つ。そして虎丸に運び込むと、海がなぜか遠く見えた。

 私が作っていた出来損ないの砂の城なんか、もう点のようにしか見えない。

 

「先生」

 

 戦車のハッチを開ける時に、訊きたいことがあった。

 

“何かな、イロハ”

「……………………」

 

 それを私は、飲み込んだ。

 

「……また、特等席に乗ってみますか?」

“いいの!?”

 

 今目を輝かせ、うきうきした様子で上ってくる大人が、今回のドライブで少しでも気が紛れていることを、私は心の底から祈った。

 万魔殿に帰った際の言い訳は「先生を篭絡するため」でいいだろう。それで責任問題はあの議長に行くはずだ。尤も、その責任問題も発生するかは怪しいが。

 

 中に入り、ハッチを閉めて、運転席に座る。エンジンをかけると、先生の歓声が聞こえてきた。

 

「はいはい、行きますよー」

 

 そうして私たち2人は、人込み溢れる街並みへと戻っていった。

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