私と君のアーカイブ   作:自産自消

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風邪をひいた先生がイロハに見舞われた話(※)

 スポーツドリンクにゼリー飲料、この2つが切実に欲しかった。

 

“あー……これはまずいかも……”

 

 今朝どうも体調が悪いと感じ、体温を計ったら37.5度。そこから昼、夜と時を経るにつれて体の火照りと倦怠感に咳、鼻水、頭痛、しまいにゃ関節痛。風邪の症状フルコンプだ。

 念のために今日・明日・明後日の当番になっている生徒にはモモトークで「体調が悪いので来るな」という旨を伝えた。しばらくは独りで仕事をすることになるが、万一でも生徒に風邪をうつしてしまってはいけない。苦肉の策だ。

 

“これ、リンちゃんに仕事量しばらく減らし……ては、もらえないよなぁ……”

 

 今、私は休憩室で横になっている。仕事が手につかない。普段なら徹夜してでも終わらせるのだが、それをしたら確実に私の身体は終焉を迎えてしまう。私ができることは、最短最速で風邪を治して仕事にいち早く復帰することだけだ。

 

“常備薬があってよかった、けど……”

 

 静かだ。シィン、という音さえ聞こえそうになるほどに。

 残念なことに、この部屋には暇を潰せる漫画本もゲームもない。ベッドで横になって天井を眺めるか寝に入るかしかない。だが、身体の灼熱感が無理やりにでも意識を覚醒させてくる。

 

“ネットも……目が疲れた……”

 

 手持ち無沙汰になってシッテムの箱でネットサーフィンなどもしてみたが、ブルーライトがどうにも目に沁みて暇を潰すどころじゃなかった。

 閉じる間際のアロナの申し訳なさげな顔が頭から離れない。大丈夫だよと画面越しに頭を撫でてはみたが、完治したらアフターフォローをしなければならないだろう。

 

 今日は何もできなかった。書類も書いた直後に分かるようなミスを頻発し、デジタルの作業をするにもキーボードを上手く叩けない。日頃の不摂生が祟ってしまった。ビタミンを野菜ジュースで済ませるのは愚策だったし、徹夜をして免疫力が弱っていたのもあるだろう。

 

“あー、辛い……”

 

 身体が重い。眠れない。動けない。食欲がない。苦しい。汗が気持ち悪い。

 何より、寂しい。

 

“今日、誰とも会わなかったなぁ……”

 

 日頃自分がどれだけ人に囲まれているか分かる。どれだけ人との会話で救われていたか分かる。

 今日一日人と会わなかっただけで、こんなに心細さを感じてしまうとは思わなかった。無性に人に会いたい。

 

“でも、誰かと会ったらうつるしなぁ…………”

 

 起きていてもこのまま精神が直滑降コースなのは分かった。だからもう寝るしかない。目をぎゅっと瞑り、意識の電源ボタンを長押しし続ける。

 そうして、何分ほど経っただろうか。寝返りを打って一番心地いい姿勢を変え、サウナのように暑くなった布団の中の空気を交換し、やはり寝られないことに半ば絶望していた時のこと。

 

 コンコン、とノック音がした。

 

“え……?”

「棗イロハです。夜分遅くに失礼します」

 

 ガチャリと扉が開いた。扉の隙間から漏れる光がその量を増していく。

 パチンと音がするのと同時に部屋のLED灯が点く。そこにいたのは毛量の多い緋色が特徴的な髪に軍服風の制服を着た、気怠そうな少女。

 

“何でイロハがここに……?”

「今日の当番になるはずだった子、誰だったか覚えてます?」

 

 覚えている。確か……。

 

“イブキから聞いたのか”

「はい。イブキが『先生が心配だけどお見舞いに来るなって言われてる』って寂しそうでしたよ」

“それは……悪いことしたな……”

 

 体を起こすと、べったり肌に張り付いたTシャツがやけに冷たかった。そして頭に溜まっていた血が重力に従って一気に身体中に戻っていく感覚で眩暈がした。

 

「起きないでください。寝たままで」

“えっと……イロハは何で、ここに……?”

「これ、渡しに来ました」

 

 言われるままにまた横になってそう問いかけると、イロハはガサリと手に持ってるビニール袋を揺らした。半透明の膜の中に見えるのは、よく冷えていそうなスポーツドリンクに、果物ゼリー?

 

“それは、まさか”

「はい、見た感じ晩ご飯も食べてませんよね」

 

 思い返してみれば、今日は何も食べていなかったな。全く空腹感を感じなかったうえに、何か胃に入れるとすぐに戻してしまいそうだった。さすがに自分のとはいえ、吐瀉物の処理をしたくはなかった。

 誤魔化そうとして苦笑を浮かべると、イロハは心底呆れたように溜息をついた。

 

「だろうと思ったので、食べてください。食べないとますます体調悪くなりますよ」

“あ……うん……”

 

 ガサガサとレジ袋の中から果物ゼリーとプラスチック製のスプーンを取り出し、ゼリーの蓋をペリッと開けた。その瞬間、果物の甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がった。詰まりがちな鼻の細胞に届いたその匂いに連動して、口の中に涎が溜まっていく。

 イロハはゼリーを凝視していた私を見て、ニヤリと意味深そうに笑った。

 

「じゃあ、はい。口開けてください」

“えっ?”

 

 そして、ゼリーの一かけらが載ったスプーンを、私の方に差し出した。

 

“ななな、何で!?”

「何でも何も、食べさせようと」

“いやいや、自分で食べられるよ!?”

 

 そもそもイロハがここに残る必要がない。喚起を回していたとはいえ、締め切っていたこの部屋にイロハが長時間いたら間違いなくイロハも風邪になってしまうだろう。

 ゼリーは未だスプーンの上でプルプルと美味しそうに揺れている。

 

「体力がなさそうだったので、必要かなと」

“大丈夫! 自分で食べるくらいの体力は残ってるから!”

「そうですか? 信用なりませんね……先生はいつも無茶するから」

 

 事ここに至って無茶はしない。風邪と長く付き合えるほど私はマゾではない。

 

“イロハにもうつっちゃうから! ね!?”

「分かりました、分かりましたよ。さすがにこれは冗談です」

 

 そう言うとイロハはいかにもぶーたれてますといったような顔をして、スプーンをゼリーの容器の中に戻した。

 

 そうしてまだ中身がありそうなレジ袋が、私の寝ているベッドの脇に置かれた。見えたのは500mlのスポーツ飲料が数本に、果物ゼリーが2個。吸って飲むタイプのゼリー飲料もあった。

 ついでとばかりにベッドの上、ちょうど私の胸の上に蓋の開いたゼリー容器を絶妙なバランスでちょこんと置き、イロハは私をビシッと指差した。

 

「ちゃんと食べてください。そして早く治してくださいね」

“うん、心配かけてごめんね”

「謝るくらいなら体調なんて崩さないでください」

 

 全く返す言葉もない。今回私が風邪をひいたのは明らかに体調管理を疎かにしていたのが原因だ。これからはコンビニ弁当だけじゃなく、栄養バランスを考えた食生活をしなければいけないと強く痛感した。

 

「先生はサボらなさ過ぎなんですよ」

“あはは……確かに最近は休んでなかったな……”

「適度な休暇もパフォーマンスを保つ上では大事ですよ」

 

 そうして立ち上がったイロハはちゃんとした足取りで扉に向かう。

 

“帰るの?

「ここにいても先生が困るだけでしょう。それとも残ってほしいんですか?」

 

 残ってほしい気持ちもある。だが、それでイロハが病気になっては元も子もない。

 

“いや、もう外も暗いから早く帰りな”

「でしょうね。先生、私に早く帰ってほしげでしたし」

“それは別にイロハのことが嫌いってわけじゃないよ!?”

 

 そう叫ぶと喉が痛んで咳が出た。イロハは「分かってますよ」と言いたげに肩をすくめる。

 

「ホント、早く治してくださいね。みんな寂しがってますので」

“うん、頑張る”

「はい。それでは」

 

 イロハがドアノブに手をかけた時、私はハッとした。言わなければいけないことがあるじゃないか。

 

“あ、イロハ”

「何ですか」

 

 振り返ったイロハに、私は笑顔を浮かべる。

 

“ありがとうね。本当に助かったよ”

「…………はい」

 

 ぶっきらぼうな言葉とニンマリとした笑顔だけ残して、イロハは扉の向こうに消えた。

 この部屋に残ったのは絶賛病気中の私と、色とりどりの消化にいい食べ物やら飲み物、そして開いたままのゼリー。換気の音が静かに響いている。

 

“とにかく、食べなきゃ……”

 

 体を起こしてスプーンでゼリーを掬い、口に入れる。消化をできる限りよくするためによく噛んでいると、酸味と甘味が脳を癒していく感覚がした。そうして気が付くと、ゼリーの容器は既に空になっていた。

 スポーツドリンクを一口だけ飲むと満腹感が出てきた。もう今日はこれ以上食べなくてもよさそうだ。

 

 ドサリとベッドに横たわる。先ほどと何ら変わらない白い天井だ。だけど少しだけ明るくなった気がする。

 

“…………ああ、そういえば”

 

 昔のことを思い出す。私がまだ小学生だった頃のことだ。

 あの頃は風邪をひくと、母が学校に「休みます」と電話を入れてくれたっけ。そして午前のうちに病院に行って薬を貰い、帰ってきたら私の好きなテレビ番組をつけてくれて、私はそれを横になって布団を被りながら見て……。

 

“何だか、楽しかったんだよなぁ……”

 

 そして、昼ご飯にはおかゆとゼリーを出してくれたんだ。

 普段はその時間帯は授業を受けて、給食を食べているのに、私は今こうして家で甘やかされている。その時はまるで私が特別な人間になったかのような気分になった。

 いつもは宿題しなさいとうるさい母も、私のことを心配してくれている。そんな優しい雰囲気が嬉しくって、いっそこの病気が治らないでほしいとすら思ってたっけな。

 

“……早く、治さないとね”

 

 でも、私はもう子供じゃないから。私はれっきとした大人であり、先生だから。

 イロハみたいな生徒が待っててくれると思うだけで、沈んでいた気持ちが上向きになった。

 

“そのためにも、寝ないと”

 

 布団から抜け出し、LEDを常夜灯モードにする。何だか眠気も出てきた。今ならすっと寝られそうだ。

 

“……おやすみ”

 

 誰に向けたわけでもないその言葉は、誰に届くでもなく闇に消えた。

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