2.
何やらスレッタの部屋が騒がしかった。誰かが見舞いに来ているのかもしれない。いつもは人が来ない時間を見計らって見舞いに来ていたが、今日はいつもの時間に都合がつかなくて、別の時間に見舞いへ来ていた。
部屋の扉に手をかけて、その騒がしい声に手を引こうとした時、懐かしい声がした。
およそ十ヶ月ぶりに聞いた声だ。最後に聞いた声は、決意に満ちていた。これから自分に何が起こるかわかっていながらも、家族と話したいと叫んでいた声だった。
「――スレッタ」
思わずノックも忘れてグエルは勢いよく扉を開けた。
「あ……」
しかしそこには目が覚めて穏やかにベッドに腰をかけたスレッタはおらず、どうしたことかいつもより少しだけ穏やかな表情をした死神と、ヘッドギアをして表情を見せないプロスペラがいるだけだった。
いよいよ幻覚だけではなく、幻聴すら聞こえるようになった。本格的に自分もドクターに診てもらった方がいいのかもしれない。
今日も抱えてきた見舞いの花束が落ちて、半歩引いて頭を抱えようとすると『あは、ははは』とスレッタの声にしては軽快で、そして少しだけ露悪的な声が聞こえた。
『見なよスレッタ。グエル・ジェタークが腰を抜かしてる』
部屋を見渡しても人の姿はプロスペラしかなかった。プロスペラは口を開いていないし、死神も話していない。
「なんなんだ……」
どういうことだ、とグエルは今度こそ頭を抱える。
『ばれたばれた。この時間は面会に来る人はいなかったから油断していた。入ってきなよ。君が聞こえてる声は幻覚でも幻聴でもない』
声はどこから聞こえているのか分からない。たとえ幻聴だったとしても、それでもスレッタと会話ができるならとグエルは病室へと足を踏み入れた。
プロスペラの入ってくるなと言う強い視線をヘッドギア越しに感じたが、そろそろとスレッタのベッドにまで近寄ると、諦めたように病室から出ていった。そしてどうしたことか今日は死神もプロスぺラとともに病室を出ていく。
「スレッタ、なのか」
グエルは相変わらず酸素マスクをしている。目を開く様子もなければ口を動かす気配もない。
やはり幻聴なのだとグエルは椅子に腰をかけて両手で顔を覆った。だとしたら、なにか話しかけてはくれないか。
「スレッタ……何度でも言うが、大切なんだ。目を醒ましてくれ。お前が目を醒すならなんだってするから、だから……」
これが幻聴ならば、何を言ったところで問題ない。
点滴に繋がれた腕とは反対の手を取り、祈るように己の額に押し付ける。入院して以降ずっと口にはできなかった言葉がグエルの口から滑り落ちた。
『じゃあとりあえずは購買に行っていちばん高いプリンでも買ってもらおうかな。お母さんが食べるし』
聞こえていた幻聴は脳に直接響いているものかと思っていた。しかし、少し違うらしい。どうにもスレッタの頭上に置いてあるストラップから聞こえるような気がする。疲れているのか、この声はグエルの願望による幻聴で、スレッタの頭上に置いてあるこのストラップさえも幻覚なのか。グエルにはもう分からなくなっていた。
『やっと気がついた。まぁでも無理ないか。ボクだってこんなストラップの中に押し込められるとは思ってなかったわけだし』
その声は少しだけ露悪さを潜めて、同じ声質だというのに、でもスレッタにしては落ち着いた声だった。
『上だよ、このストラップ』
「幻聴じゃ、ないというのか」
『違うよ。幻聴の方が良かったのかもしれないけどね。スレッタよかったね、面白いものが見れた』
「誰なんだ、スレッタなのか?」
グエルの答えに、スレッタと同じ声質のストラップはまた大笑いし始める。ひとしきり笑った後にストラップは自身を、エリクト・サマヤだと名乗った。
『ストラップが話すなんて狂言誰が信じるんだと思って黙ってたんだけど、この時間に見舞いが来るとは思ってなかった』
「エリクト・サマヤは、スレッタの――」
『そう。スレッタはボクのリプリチャイルドだ。ボクたちの可愛い末妹。……スレッタもそろそろ寝たフリは辞めたら? このままだとお母さん誰にもスレッタの意識があること言わないである日退院して、空っぽの病室でみんなを驚かせるよ』
その言葉に、スレッタはぴくりと一瞬だけ瞼を動かした。意識が覚醒している。ずっと目醒めを願っていた。社内にいる時も、見舞いに来ている時も、頭から離れることは無かった。
エリクトの言葉に、ゆっくりとゆっくりと震えるようにスレッタの瞼を開いて、とろとろと緩慢な動きで瞳だけが動いてグエルを見る。久しぶりに見たブルーグリーンの瞳は焦点がなかなか合わなくて、でもグエルを視界に収めてくれた。グエルはたったそれだけで胸が満たされるような気さえした。
『とは言っても覚醒したてだからね』
エリクトがあまく甘く囁く。
『でもね、スレッタは君たちのおかげで全身麻痺を患ったんだ。今は頬の筋肉ひとつ、表情だって動かせない。ご飯も口から食べられない。これから回復するかだって未知数だ。どう、エアリアルを無理矢理スレッタから奪わなかったら、ボクたちの邪魔をしなければ、スレッタはこんなことにはならなかったのに』
ボクたちだけじゃなくて、スレッタからも、グエル・ジェタークとミオリネ・レンブランは世界を奪ったんだ。
きんと耳鳴りがする。エリクトの言う言葉が、グエルの頭には入ってこなかった。恨みも言わない、感謝もない。目覚めた喜びも、全身麻痺だという絶望もスレッタの瞳にはなかった。ただぼんやりと、グエルを視界におさめている。
決意に満ちた強い瞳が好きだった。自分を認めてくれた時の瞳が好きだった。いっそ、誹ってくれたほうが楽になれるというのに、それさえも許されないということに、グエルは絶望を覚えた。