2.
病室で昏々と眠るスレッタの髪を丁寧に撫でる。ヘッドギアを外したプロスペラの顔つきは穏やかなもので、そこにはひとりの母が存在していた。
『スレッタのこと、嫌いになった?』
絶対にそんなことはない。そう思いながらもエリクトはプロスペラにそう尋ねた。
「どうして?」
『お母さんの計画を邪魔したのは、スレッタだから。ボク達の目標を壊したのは、スレッタだから』
「エリィはスレッタのことどう思う?」
『それを聞くのはずるいでしょ。スレッタにひどいことをした、っていう自覚はあるよ。今こうして、スレッタが寝たきりで起きないのはボクが悪い』
それなのに、エリクトはスレッタを撫でることもできない。妹だというのに、一度もその体温を感じたことはなかった。それがこんなに寂しい事だなんて、今まで思ってもいなかった。エアリアルの中にいた頃は、機体とリンクすることでスレッタに触れられているような気がしていたのに。キーホルダーに閉じ込められたというだけで、スレッタとの距離を感じてしまう。
『でも結局ボクはスレッタを嫌いになるなんてできなかった。ボクがエアリアルと共に死ぬことがなかったのも、キーホルダーにこうしているのがいいことなのかと言われると分からないけどね。いっそお母さんと一緒に死ぬべきだったのかもしれないけど』
エリクトが一度言葉を区切る。ため息をついて、言葉を続けた。
『でもスレッタが目覚めた時にボクもお母さんも居なかったら、きっと寂しがるんだろうなってことはよくわかる。お母さんは知らないだろうけど、スレッタって寂しがり屋だからね。いつもエアリアルの中に閉じこもって、寂しいって泣いていた』
いつしかそんな言葉は吐かなくなったけど。それでもエアリアルの中で、エアリアルに定期的に話しかけていたのは、そういうことだろう。
『こんな形が正解なのかと言われたら、全員が不幸だとボクは思うよ。でもそれでも、スレッタは無意識にでもこの歪な箱庭を作ることを選んだ。だからボクはここにいる。地獄だったとしてもね。それがスレッタがボクに望むことなら、受け入れようと思ってる』
「……嫌いになれたら、良かったのかしらね。お互いの為にも」
『そんなことはないんじゃない。今は寝てるけど、スレッタはお母さんのこと好きなままでしょ。お母さんも、スレッタのことが好きなままだ』
「だからって、エリィが大切じゃないという事ではないわ」
『どちらかにしか愛情を注げないなんてことはないでしょ。お母さんは、ボクたちを愛してくれてる』
親なら平等に愛してあげるべきでしょ――そんなこと言葉を思い出して、エリクトは顔を顰めた。こんな穏やかな顔をしている女が、リプリチャイルドだから、クローンだからって愛してないというのは違うのではないか。
平等に、なんて言っていたが、同じ分量だけ愛情を注げばそれで満足なのか。愛された自覚がない、虚構の愛情だけでものを語る人間は言うことが違うなと、エリクトはその時思ったものだ。事故に遭った子供と、健常者の子供への愛情の注ぎ方が同じなわけがない。だからと言って、プロスペラの感情を否定される覚えもないのが事実だ。
『ボクは、そんな風にスレッタを撫でるお母さんの愛情が偽物だと思わない。ボクに対する愛情だって、違うとは思わない。僕とスレッタは立場が違って、そうしたら与える量も、質も、違くて当たり前だと思う』
だからあんな世迷言に耳を貸す必要はないのだと、エリクトは言葉を重ねた。
『ボクはスレッタに触れられるお母さんが羨ましいし、お母さんに触れられるスレッタが羨ましい』
他人の体温なんて、もう覚えていない。それどころか、自分の温度すらも覚えていなかった。コクピットに座るスレッタの感覚すら、それはエリクトのものじゃなかった。
自分を模したような、あるいはスレッタを模したような真っ白なそれが、スレッタの腰に抱き着いて寝ている。エリクトにはそれがなんだかは直感的にわかった。スレッタの温度を機体越しに知っているのは、多分その真っ白なそれだ。それはスレッタが昏々と眠り続けてからずっとそばにいて、片時も離れようとはしなかった。時たまエリクトがそれに話しかけるとそれはじっとエリクトの言葉に耳を傾けるが、声を出そうとはしなかった。
その真っ白なそれを認知しているのは、エリクトと、グエル・ジェタークだ。プロスペラはそれを認知していないふりをしている。プロスペラの気持ちを考えれば妥当な判断だと思ったので、それについて口に出したことはない。
「……エリィはそういうけれども、私は納得ができないわ」
『ねぇお母さん。結局クワイエット・ゼロ計画が成功を収めても、ボクは人の体温に触れることができたのかな』
生きているのか死んでいるのかもわからない生体コードだ。もしかしたらパーメットが作り出した虚構なのかもしれないと考えたこともある。肉体が死んでいるのに、精神体だけが生き続けられるというのも前例がないからだ。
『みんなが仮にパーメットと同調して、データストームを越えられたとして、ボクは誰かに触れられたのかな』
「そんなの、」優しくスレッタの髪を撫でていた手が止まった。「わからないわよ」
『うん。わからないよね』
「エリィは私の計画には反対だった?」
エリクトの声も、エアリアルの声も、プロスペラに届いたことは一度もなかった。スレッタにだって、スコアエイトを越えるまでは届いたことはない。スレッタは共にいる時間の分だけ、なんとなく察してくれていたが、それは声なき声であって、明確なやり取りをしたことはない。
『ボクはお母さんの計画を反対しないよ。エアリアルは違うみたいだったけど』
「そうね」
プロスペラはそう言うと今度は丁寧にスレッタの全身をマッサージするように押して刺激を与え始める。筋肉の衰えを防ごうとしているのだろう。自分がデータストーム汚染で苦しんだことを、スレッタが二の舞にならぬようにできることをプロスペラは行っている。
『お母さんはスレッタが起きたらどうするの』
「……決まってるでしょ」
『スレッタ、悲しむよ。家族の時間を大切にしようって思わない?』
以前ならきっと、スレッタは強いから大丈夫と、プロスペラは自身に言い聞かせていただろう。けれども少しだけ、二人の関係性も変わった。それが良いことなのか、悪いことなのかはエリクトには難しかったが。
きっと残り少ない時間で、スレッタは穏やかな日々を望むことだろう。その穏やかな時間の中で、家族みんなで共にいたいと願っても不思議じゃない。エリクトだって、出来ればそうしたい。
「……結局あなた達の母である前にひとりの人間としてしか生きられないのかもしれないわね」
『否定はしない。お母さんは、最低な母親だ……なんて言えば、満足?』
だから、自由にすればいい。エリクトはそう母親を突き放す。プロスペラは目を開いてキーホルダーを見る。そしてふっと笑いを漏らした。
「エリィはスレッタの傍にいてくれるかしら」
『スレッタが望む限りはね』
「ずっとだめな母親で悪かったわね」
『そんなこと、思ってもないくせに』
エリクトが即座に否定すると、プロスペラは怒ったような、泣きそうな、あるいは迷子の子供の様な複雑な表情をしていた。
「あなたたちが大切のは本当よ」
『分かってるよ。お母さんの愛情が嘘じゃないことなんて』
スレッタにはもしかしたらまだ難しいかもしれないけれども。
それでもこうして寝ている間に君の母親が何をしていたのか、目醒めた後に教えてあげればいい。
『早く目醒めておいで。ボクたちの可愛い末妹』
エリクトが直接スレッタに触れられない代わりに、真っ白なそれが慈しむ顔でスレッタの頬を優しく撫でた。