4.
――プロスペラ・マーキュリーは冬を越すことができなかった。
元々データストーム汚染を深刻に受けていた身体だ。それはスレッタやエリクトが想像していたよりも深刻だったらようで、一度体調を崩すとなかなか元に戻すことはできなかった。元々プロスペラが最後に身を隠す地としては、目につきにくい土地柄だったのかもしれないが、療養先としては寒い地域で身体には優しくない。スレッタもそれを理解しているようで、ベッドから起き上がることもままならないプロスペラに対して、できる範囲で看病をしていた。
スレッタのもとに訪れたグエルは、プロスペラの崩しがちな体調を世話するスレッタを見かねたうえで介護を申し出た。その職の人間を手配してくれたことに、スレッタはその申し出をありがたく受け入れていた。
「こんな体じゃ、お母さんを手助けすることもできないんだね」
自嘲気味に笑うスレッタに、手伝う事すらできないエリクトは返す言葉を持たなかった。スレッタが嫌味を言ったわけではないと理解しているが、生体コードしかない自分がこれほどもどかしいと思ったことはない。有機体があれば、もしかしたら一番皆の世話ができていたのかもしれない。
そんな夢想が意味を持たないというのに、最近のエリクトはそんなことばかりを考える。仮に外付けの有機体を用意できたとして、そこにエリクトが生体コードを移し替えることができるのかと問われれば、きっと答えは否だった。エリクトの生体データを移行するにはスレッタの手助けや、もしかしたらエアリアルが必要なのかもしれない。方法も不確定で曖昧だったし、当のスレッタも理解していない事だろう。それに、生体データを移行するということはそれなりにスレッタへの負担がかかる。これ以上毒を流し込んで何になると、その言葉を口に出したことはなかった。もちろん、スレッタからもその提案を受けたことはない。だがきっと一度は考えたことだろう。それでいて口を開かないのだから、スレッタだって多分自分の命との天秤なのだと気が付いている。それはそれで正しい事だとエリクトは思った。
いよいよプロスペラが自力でベッドか起き上がれなくもなってくると、ぼんやりとしていた意識が曖昧へと変わっていた。認知障害を引き起こして幻覚や攻撃的な行動が増えたわけではなかったが、とにかく反応が薄かった。激情家の女の最期がこんなちっぽけなもので終わると思うと、エリクトは思わずぞっとした。看取るのは、スレッタとエリクトしかいないからだ。プロスペラが多くの人間に看取られることを望んでいないことは重々に承知していたが、それでも彼女が最期を迎えるにはふさわしくない。本当であれば、夫がいて、師がいて、同僚がいて、はるか遠い記憶にいる人たちに看取られながら逝くのに相応しい女だったはずだ。
「お母さん」
スレッタがプロスペラの手を取って語り掛ける。夜、寝る前にスレッタは習慣のようにプロスペラのもとを訪れて、必ずその日あったことを告げる。プロスペラが聞いていても、聞いていなくても、そうしていた。
「ねぇスレッタ」
プロスペラの意識は、その日ははっきりしていた。プロスペラはスレッタの呼びかけに答えて、スレッタは表情を綻ばせた。
「お母さんは、私は、貴女にとっていい母親でいられたかしら」
ひっそりとした声でプロスペラがスレッタに尋ねる。エリクトにも以前聞いた言葉だった。エリクトはその時に最低な母親だと、母のやりたいことのために突き放したが、スレッタはどう答えるのだろうか。聞きたいような、聞きたくないような感情に揺り動かされて、エリクトは口を挟まずにスレッタの答えをプロスペラとともに待った。
長いまつげを伏せて、スレッタは視線をさまよわせた。しばらく言葉を探していたが、ようやく口を開く。
「……わかんない」
「うん」
「本当は、ずっと寂しかった。アスティカシアに通う前も、通ってるときも、卒業しても。いつもお母さんと私の間には、薄い透明の壁があった気がしてた。今はね、お母さんとやっとちゃんと話せてるような気がするの。いいお母さんかだなんてわからないけど、でも、私はお母さんが大好き。だからできる事ならもっと一緒に居たかったし、エリクトとみんなで暮らしたかった。お母さんがひとりの人である前に、お母さんでいてほしかった」
それはスレッタの嘘偽りない本心だったのだろう。涙を目にためて、ようやく母親に訴えられた言葉だ。震えるながらとつとつと告げるスレッタに、プロスペラは満足したように頷く。
重たげに細くなった指をプロスペラは持ち上げる。書棚を指して「スレッタに、この手紙を託そうと思うの。開けるのはいつでもいいわ」と言った。
「開けるかわかんないよ。その手紙。いいの?」
「ええ。あなたにあげるものだから、好きになさい」
「……ねぇお母さん。私、やっぱりお母さんの顔、見れないよ。そんな私だけど、お母さんにとって、私はいい娘だった?」
プロスペラがスレッタの質問に、僅かに目を見開く。ふっと息を吐いて、空いている手でスレッタの頬を撫でた。
「あなたはやっぱり、私の可愛い娘、だわ。スレッタ」
重たそうに上体を起こす。スレッタが頑張って支えようとするのを、プロスペラが制した。そうして頬にひとつキスを落とす。
「今日はもうお眠りなさい。スレッタも、エリクトも」
「……うん」
『お休み、お母さん』
プロスペラとエリクトの最期の挨拶は、スレッタが昏睡している間にとっくに終わらせていた。今までの時間はボーナスタイムだったのだ。本当だったらあり得なかった時間。だから、プロスペラはエリクトとではなくスレッタと話した。多分、最期の会話になるのだろう。それでも、エリクトは簡単な言葉で母との最期の会話を終わらせることにした。きっとエリクトは、今後こうしてみんなを送る側になる。
静かにスレッタが扉を閉めると、ロフストランドクラッチをついて自室へと重たい足取りで向かう。自室に一歩踏み入れた時に、スレッタは動きをとめた。いつもスレッタの腰にくっついて支えるようにしていた真っ白なそれが、スレッタの腰から離れたからだ。
「あ、いや。待って」スレッタが喘ぐように腰から離れたそれを引き留めた。「行かないで」
『ねぇスレッタ』
自分と似た声だった。スレッタと似た声だった。真っ白なそれは唇を動かしながらも、脳に直接語り掛けてくるように声を響かせた。エリクトも、真っ白なそれの声を初めて聞いた。というよりは、それはもうある種見える人が見える幻覚の様なものだと思っていて、そうであるものとして馴染んでいたからだ。会話をするとは思っていなかった。
「お母さんを、連れて行くの?」
スレッタがまるで、嘘でしょう。というようにつぶやいた。
『そうだよ。ボクはずっとその為にいたわけだから』
「ちがう、違うよ」
スレッタがその場に座り込んで、子供のようにかぶりを振った。
「あなたはずっと私と一緒にいてくれるから、ずっとこうしていてくれてたんでしょ。お母さんを連れていくためじゃないよ。ねぇ、お母さんともっと一緒に居たい。あなたとも一緒に居たい。みんなで一緒に居たいって、さっき言ったばかりだもん」
『ボクだって、一緒に居たいよ。でもずっと時のとまった箱庭にはいられないって、スレッタだってわかってたはずだ』
「そうだけどっ」
『ボクも、お母さんも、エリクトも。みんなクワイエット・ゼロ計画で死んでいてもおかしくなかった。お母さんは、あの時にボクが連れていくべきだった。それでもボクはお母さんを肯定したから、お母さんがひとりの人として生きる事を肯定したから。スレッタが目を醒ましてからは余計に寂しい思いをさせたよね』
真っ白なそれが丁寧に優しくスレッタの髪を撫でる。同じ目線にまで腰を落として、先ほどから泣き止まぬスレッタに真っ白なそれも困った顔をしながら笑いかけている。
『ねぇスレッタ。ボクは君と一緒にはいられない。それはずっとわかっていた事でしょ。ボクの可愛い妹、ボクのたったひとりのパイロット。君に目一杯の祝福がおとずれますように。――大好きだったよ』
「それでもっ」力の入らぬ拳をスレッタは握りしめる。「お母さんも、あなたももう失いたくないよ。大切な家族だもん」
嗚咽を堪えながらスレッタは訴えかける。大粒の雫は零れ落ちて床に小さな水たまりを作っていた。
『だからだよ。大切な家族だから、ボクが、お母さんをお母さんとして、送り届けるの』
それだけ告げると、真っ白なそれは母親と同じ表情をしてスレッタのつむじにキスを落とす。そうして立ち上がると、今度はエリクトを見た。
『お母さんに認められなかったこと、根に持ってる?』
『ううん。それよりも、そっちのほうがクワイエット・ゼロ計画を邪魔したこと根に持ってるんじゃない?』
『ボクは今更でしょ。それを含めて、罰を受けてるんだから。君はキャリバーンに乗って傷つくスレッタをどうしても受け入れることができなかった。それだけの話なんだ』
エリクトが肩をすくめて答えた。
『ボクには家族って難しかったけれど、それでもスレッタは妹だと思ったし、君にはたくさん話しかけてもらったし、お母さんにはルブリスからエアリアルという体を貰った。それで十分だよ』
『そう。じゃあ、あとはお母さんをよろしく』
『うん、さようなら。……姉さん』
姉だなんて、初めて言われた。スレッタにも呼ばれたことがないのに。エリクトは目を瞬かせて、頬を吊り上げる。キーホルダーだからもしかしたらエリクトの表情なんて伝わらないかもしれないと思っていたが、同じデーターストームの向こう側にいるのだから真っ白なそれはエリクトの表情をみえているのかもしれない。
『さようなら。君も、ボクの可愛い妹だったさ』
「いや、お願い。行かないで――エアリアル、エアリアルっ!」
エリクトの独り言に被せるようにしてスレッタが真っ白なそれに向かって手を伸ばす。しかしそれはするりと届くこともなく擦り抜けていく。
そうして彼女はプロスペラ・マーキュリーとしてではなく、エルノラ・サマヤとして、子を思う母としてその長くない生涯に幕を閉じた。