5.
もう記憶に薄くなった父の顔や、ばあばと呼んでいた母の師をエリクトは思い出す。最悪の誕生日だった。ナディムが歌ってくれたハッピーバースデーが、エリクトとナディムの最期の会話だ。会話と言っても怪しいものだったが。スレッタの誕生日はまだ先で、エリクトは一度もスレッタのことを直接祝えたことはないなと現実逃避気味に考える。
スレッタは、プロスペラが残した手紙を開けることはしなかった。というよりは消沈していて、そんなことにまで気が回っていないのだろう。家族のみで行われた葬儀で――スレッタとエリクトしかいない葬儀で喪主をしたスレッタはその後部屋にこもりがちになってしまった。エリクトもプロスペラが儚くなったことについて悲しくは思っていたが、スレッタほど気落ちはできなかった。歳の差と言われればそうなのかもしれないし、プロスペラを送り出したときには、次に自分たちのもとに戻ってきたときには、死んでいるのかもしれないと覚悟をしていた面もある。
『スレッタ。気落ちするのもわかるけど、お母さんはスレッタがそんなに落ち込んでるの、望んでないよ。ご飯食べてきなよ』
「うん」
返事はするが、ベッドに突っ伏した切り起き上がる気配はない。枕に顔を埋めて、スレッタは小さい声で嗚咽を漏らしている。
『そんなに悲しい?』
「当たり前でしょ。エリクトは寂しくないの。お母さんも、エアリアルももういないんだよ」
近くにいるようで声が届いていなかった時期のほうが長かったから、寂しさなんて多分とうに忘れていた。とはエリクトは言わなかった。最近そんな感情を思い出して、自分もまだまっとうに生きているんだなと生体コードという不確かな存在を確かめたくらいだった。
『ボクだって寂しいよ。でもさ、スレッタ。君がお母さんを送り出したときには、ボク達はお母さんとわずかな時間しか過ごせないって、わかってたんじゃないの?』
「……」
図星を突いてしまったのか、スレッタは黙ってしまった。食欲もないようで一日泣いているだけのスレッタを見ているのは痛ましい。立ち上がるきっかけはないものかと、時間が癒してくれるならばいいが、残り多くないスレッタの時間を、死者を悼むだけに費やしてしまったいいのかとエリクトは悩んだ。何が正解なのかはわからなかった。
「棺に入ったお母さんの顔、綺麗だった」
『……見れたの?』
唐突にスレッタは口を開いた。枕から少しだけ顔を出して、片目でエリクトを見ている。泣きはらして真っ赤に腫れた目は、しばらくは収まることはないだろう。
「お母さんの顔が、お母さんが死んでからやっと見れたの。お母さんが認められなかったエアリアルにお母さんを連れて行ってもらえて……そうして許せなかったお母さんが、やっと許せたの。薄情なんだよ、私」
大好きなのに、大好きだから許せなかった。いい母親かどうかだなんてわからないけど、でも私はお母さんを許すことができなかった。目が醒めて、ずっと一緒にいてほしかっただけ。
スレッタが内心を泣きながら吐露し始める。エリクトは黙ってそれを聞いていた。
「お母さんが大好きって、本当に大好きならこんなことしない。私はきっとお母さんが好きな自分に酔ってるだけだよ」
『そんなことない。そんな風に自分を卑下にしないで』
「ねえエリクト」
スレッタ少しだけベッドから這い出て、キーホルダーを抱きしめた。
実際に答えが出ない問題だった。スレッタの寂しいという気持ちも痛いほどわかる。それと同時に、復讐に身を費やさなければならないほど責め立てられたプロスペラの気持ちも。プロスペラは母よりもひとりの人間として生きる事を望んだし、しかしそれがスレッタとエリクトへの愛情と直結していないかと言われればそういうわけではない。それは口で説明しても難しいことで、自分で咀嚼して納得しないと進めない問題だった。
「寂しい。この痛みも、死に向かって確実に歩いている恐怖も、わかってくれる人は、お母さんはもういない。寂しい、寂しいよ」
『だったら、今日はいっぱい泣けばいい。スレッタが思ってることを全部吐露して、そしてすっきりしたら、明日からは少しはご飯食べて、着替えて、顔洗いなよ。……スレッタが怖くないように、ボクはずっとそばにいる』
「うん……」
エリクトはそう言うことしかできなかった。スレッタの嘆きを聞いてあげることしか、エリクトにはできない。食事を作り、童心に返り同じベッドで寝て、母の師を互いに悼んで、普通ならばできて当たり前のことはエリクトとスレッタの間には解決できない問題として横たわり続けている。
「スレッタ」
ドアノッカーの音が聞こえた。それと同時に男が住民を呼ぶ声が聞こえる。グエル・ジェタークの声だ。
大方、グエルが派遣した職員から、プロスペラの訃報を聞いたのだろう。動く気力はわかないのかベッドから微動だにしないスレッタに、エリクトは『どうするの』と声をかける。
「今は人に会いたい気分じゃない」
『じゃあボクが声張り上げるよ。居留守使ってもいいけど』
「居留守でいいよ。グエルさんきっとそうしたらわかってくれると思う」
『随分とボクがミオリネといる間に甘えるようになったねぇ』
「嫌味を言わないでよ。グエルさんは、イイ人なんだよ」
スレッタが学校に通っている一年をエリクトは知らなかった。ただ、この回答を聞くにスレッタとグエルの仲が進展していたようには思えなかった。むしろスレッタのほうが――。
「スレッタ、居るだろ」スレッタの部屋の窓が軽くたたかれる。「サマヤさんとの話し声聞こえてるからな」
スレッタはその言葉に渋々と起き上がり声を上げた。
「グエルさん、今は誰とも会いたくないです。申し訳ないんですけど、また機会を改めてもらえませんか」
「何も話したくないのもわかっている。その上で話に来た。開けてくれ」
わかっているのならば黙っていればいいのにとはエリクトは言わなかった。少なくとも勝手に入ってこないあたり、スレッタの決断に任せるという意思表示だったからだ。それはスレッタにも伝わっていたようで、少しだけ悩むそぶりをした後に「一時間後に来てください」とだけ漏らした。
グエル・ジェタークがスレッタを慰めることは気に食わない。とは言え、地球寮出身の子たちには母親の死をスレッタは知らせていなかった。グエルにも知らせてはいなくて、彼が知っているのは自らが派遣した職員の仕事の仕事がなくなったからだろう。
グエルは短く返事をするとおとなしく引き下がった。スレッタがのろのろと起き上がると、ため息を吐きながら着替え始める。自分で出ると決めたい以上エリクトは何も言わなかった。
着替えて、それでもシャワーを浴びるのは面倒だったらしい。顔だけ洗って、それでも腫れた目は落ち着きを戻さなかった。スレッタは冷やしたタオルを目の上に置いて、今度はソファに寝転がった。グエルが来るまでに少しは腫らした目を落ち着かせることにしたらしい。
きっかり一時間後、またドアノッカーが鳴った。スレッタは気だるげに起き上がってランドリールームの中に使っていたタオルを投げ込んだ。玄関を開けると、グエルはスレッタの様子を見て、ひとつ溜息をついた。
「入ってもいいか」
「……どうぞ」
ロフストランドクラッチを腕に着けるのもスレッタは厭わしかったらしく、手を壁について歩く。時折こけそうになると、グエルがそれとなく支えられるように手を差し出していた。
リビングにまで案内すると、スレッタはグエルのお茶を出すこともなく先ほどまで寝転がっていたソファに腰を掛けた。グエルもどうするか迷ったが、ソファしか座れるところがないのでスレッタの隣に腰を掛けた。グエルは自ら来たのにもかかわらず何かを話そうとはしなかった。沈黙がその場を制して、見かねたエリクトが『何の用。用件話して帰ってほしいんだけど』と口を開いた。
「……何かを話したいわけじゃなくて」
『はぁ? もしかしてお母さんが死んだのを確認しに来たわけ? 君って悪趣味が過ぎるんじゃないの』
「いえ。それは違います」
『だったら早く帰ってほしいんだけど。どう見てもスレッタは君と会話する気なんて今ないでしょ』
「エリクト」
このままだとエリクトの嫌味が始まると感じたのか、一言でスレッタはストップをかけた。
「親を亡くした悲しみは、俺もわかるから」
グエルがのそりと呟く。ようやくスレッタの表情が動いて、それでも得体のしれないものを見る表情だった。
「別に話さなくてもいい。ただ、ひとりでいると気が滅入る」
『ひとりじゃなくてふたりだけどね。偽善ぶってさぁ。そもそも、お母さんが死んだのは君たちにも一端の原因があるって思わないわけ。それでスレッタを慰めようとするなんて、下心にしか見えなくて気持ち悪いんだけど』
スレッタの肩がびくりと跳ねる。
完全な八つ当たりだった。クワイエット・ゼロ計画が成功しようとも失敗に終わろうとも、グエルが関わらなくても、きっとプロスペラの最期はおおよそ変わらなかった。データストーム汚染を受けた身体はそれほど深刻で、余命が幾ばかしかないのも理解していた。それでもていよく現れたグエルに八つ当たりをすることで、エリクトもスレッタの前では吐き出せない母の余りにもそっけない最期を昇華しようとしていた。
「もういいよエリクト。エリクトの悪口は、聞いてていつも疲れるもん」
行儀悪く、スレッタはソファの上で足を抱え込んだ。こけても足を挫かないように気を遣っていたペタンコの靴が落ちて、身を縮こませる。
「お母さんが死んで」スレッタがとつりと口を開いた。「――急に怖くなったんです」
「ああ」
「だってそうじゃないですか。私はお母さんよりも深刻な身体のダメージを受けていて、だんだんお母さんの身体が動かなくなるのをまじかで見ていたんです。じわじわと、確実に私は今死に向かって歩いてる。グエルさんよりも絶対に先に死ぬ。大往生なんて幸せに満ちて死ぬんじゃなくて、きっと真っ暗な何かに飲まれるように、私は死に向かって歩いていくんです」
スレッタの瞳からまた涙が零れ落ちる。グエルはそれを見て、自ら拭うか迷ったうえで、綺麗に糊の張ったハンカチを取り出すとスレッタに手渡した。
「この怖さを理解してくれるお母さんは、もういないんです。ずっと一緒に居たかったお母さんがいなくなって寂しい。でもそれ以上に、この恐怖を理解して慰めてくれるお母さんがいなくなって、私は怖いんです」
渡されたハンカチで涙を拭うことなく、スレッタは膝に顔を埋めた。エリクトとて、いつ死ねるかわからない――もしかしたら死という概念からすらも枠組みとしてはずれてしまった恐怖を誰にも話すことはできなかった。これこそ誰もが理解してくれないことだ。エアリアルでさえ、そう言った概念はなさそうだった。比べる気にも起きないが、エリクトとて皆を見送る、永遠に生き続けなければならないかもしれないという恐怖はずっと昔からあった。
グエルはスレッタの背に手を伸ばして慰めるかどうか迷動きを見せて、そうしてスレッタの背触れた。思わずエリクトは舌打ちを漏らす。
散々泣いていたというのに、スレッタはまた嗚咽を漏らして泣き始める。グエルはそれを何か言うでもなく、黙って受け止めていて、それさえもエリクトの神経を逆なでした。自分がスレッタにできなかったことを、手を伸ばせなかった人間がいとも簡単に行うのが恨めしいと思った。エリクトの寄り添う言葉は、きっとうわべだけにしか受け取れない。キーホルダーから発せられる音声は、どこか機械的で、それでいてやっぱり空虚なものにエリクト自信が感じるからだ。母の死を共に悼むのは、なんも関係のないグエルだという事実に苛立たせられる。エリクトだって、母を亡くして悲しいという思いも、それをスレッタと共有して乗り越えようと思う気持ちがあるというのに。土台が違いすぎることを痛感させられる。
「……グエルさん、寂しいんです。だから、だから」
やがて泣きはらした目でスレッタは顔を上げた。
「今日は、一緒にいてください」
細い指が、空気を掻くように伸ばされた。グエルはそんなスレッタの指先をとる。
『スレッタ』
エリクトは強い語調でスレッタを制した。しかしスレッタは嫌がるように首を横に振る。
『いい加減にしなよ。事の分別もつかなくなった?』
エリクトの物言いにカチンときたらしい。スレッタは弱々しく泣いていたが、キーホルダーを睨みつけた。
「エリクトには! この怖さも、寂しさもわからないよっ! お母さんに愛されてたエリクトなんかにはっ。さっきだって話してたのに、エリクトはなんも理解してくれなかったっ」
『っ、』
スレッタの言葉にエリクトは言葉を失った。少ない時間を楽しい思い出で埋め尽くされるようにスレッタが早く立ち直るといいと思っていたし、プロスペラの死に対する覚悟もエリクトとは違っていた。エリクトにとってプロスペラは母親である前にひとりの人間としてみていたが、スレッタとしてはひとりの人である前に母親だった。
スレッタはずっとそう主張し続けてきて、エリクトとの認識の差はそこに確かに存在していた。
『……そんな風に、思ってたの?』
「お母さんは私を突き放したんだよっ。私がお母さんに協力をするかどうかは別にして、何も聞いてくれなかった。私は、お母さんに付いていくかついていかないかの選択肢ももらえなかった!」
『違う。スレッタ、そうじゃない。スレッタが要らなかったわけじゃない。お母さんは――』
「聞きたくないっ」
ソファから勢いをつけて立ち上がる。勢いによろめくのを、グエルが腕を伸ばしてスレッタを支えた。
『スレッタ!』
エリクトは泣き喚くスレッタに対して怒鳴りつける。グエルは喜びと苦渋に顔をゆがめながらもスレッタの腰を引き寄せた。
「スレッタ、落ち着け」
意図して出した声なのか、グエルは甘い声でスレッタに囁く。グエルの表情はスレッタに触れる悦びと弱さに漬け込んだ罪悪感に満ちているが、そもそもこのタイミングで顔を出したということは少なからずとも弱さに漬け込もうとしていたのだろう。
グエルはスレッタの腰を抱いたまま、支えるようにしてリビングを出て行く。エリクトの声は無視されたままに、ふたりはエリクトを置いて出て行った。
日が傾きかけた頃にリビングにひとつ影が差し込んだ。長い影に、エリクトはあからさまにため息をついた。
『なに。さすがに気持ち悪いとしか言えないんだけど。君ってモラルとかないわけ? 今のスレッタなんてお手軽だったでしょ。ボクの妹をぞんざいな扱いをして、ボクの前に姿を出して、当てつけ?』
「違います。本当は、こんなつもりは――」
『あったでしょ。ミオリネよりは幾分かましかと思っていたけど、またミオリネとは違った方向でグエル・ジェタークは最低な人間だね。二度とボクたちの前に姿見せないでよ。吐き気がする』
自ら動かせる体があるのなら、エリクトはグエルに掴みかかって殴りつけていただろう。それくらいエリクトは怒りに満ちていた。いくらスレッタから手を伸ばしたとはいえ、それをとった後にのうのうと顔を出すのは非常識にもほどがあった。
「それで」エリクトの声は低く地を這うようだった。「なに」
「怒らないんですか。その、俺を」
もっと怒られると思っていたらしい。さっさと用件を聞いて追い出そうと切り替えたエリクトに、グエルは叱ってほしそうに言葉を重ねた。
『今更でしょ。君を怒ったところで。それとも怒られることで許された気にもなるつもりかい』
「サマヤさんからしたら、許せることではないと理解しています」
『スレッタが起きてきたらスレッタには説教をするけどね。ボクには君を説教する義理も義務もない。そこまで嫌いな他人に尽くすほど、ボクはお人好しでもない。叱ってくれる親がいないというなら、義弟にでも叱ってもらうんだね』
エリクトが言い捨てるとグエルは唇を噛んで俯いた。義弟はグエルに対して怒るということはできないだろう。誰もグエルの行いが悪だと断じる人間はいない。自責で押しつぶされればいいとエリクトは唾棄する。
「聞きたいことがあったんです」
『なに』
「以前にも聞きました。スレッタには、死神がずっとついていた。スレッタが目を醒ます前も、学生生活をしている間も、引越ししてもなお、今までずっとついて回っていました。でも今日はあの死神はいませんでした。あの死神の正体はなんだったんですか。あれは、スレッタを害するものじゃなかったんですか」
『聞きたいことってそんなくだらない事?』
さっさと会話を終わらせて追い出したほうが賢明だ。そう判断したエリクトはグエルの質問に舌打ちをしながら答えた。
「俺にとってはくだらない事じゃなくて、大切なことなんです。あの死神がいなくなった時に、スレッタは死んでしまうんじゃないかとずっと思ってました」
『薄々気が付いているでしょ。エアリアルだよ。ボクがこんなキーホルダーに押し込められたように、エアリアルは生体コード移行のキーだったんでしょ。エアリアルはスレッタのことが大好きだからずっとそばにいて、お母さんを連れて行った。……これで満足? じゃあもう出てって』
グエルはなおもエリクトに訊問を重ねた。何かを確かめるような問いがエリクトの苛立ちを増幅させた。
「なぜ病室で尋ねた時に、死神なんて居ないと言ったんですか?」
『君は死神が見えるかという問いをした。だからボクは死神なんて居ない。と答えた。エアリアルは死神ではないからね』
重ねて問われた言葉にエリクトがうんざりする。そんな質問をしてなにになる。スレッタを手篭めにした後に聞く内容なのかとエリクトは投げやりに答えた。
「わかりました」
グエルはひとつそう頷くと、切れ長の瞳を瞼で覆い隠す。
「また、きます」
『二度と来るな』