7.
震える指先が、それでも分厚い書類が入った封筒を撫でた。プロスペラが残した遺書は紙の束だった。全てが電子化されている時代に、あえて書き換えのできない紙を選んだということは、遺書が遠隔にて改ざんされることを恐れたのだろう。
丁寧にのりが貼られた開け口を、カッターナイフでゆっくりと開けていく。添えられている左手は、ひとつアクセサリーがついていて、光が反射したことでそれをさめざめと見せつけられたエリクトはそれを睨みつける。ミオリネから贈られたものは、指先が満足に動かすことも難しいタイミングで、相当重たそうなものだった。「こんなにゴテゴテしていて、売る時値段着くのかな?」と首を傾げていたのを覚えている。それはついぞ付けられることなく箱に収められ、荷物の奥底に追いやられていた。
反対に最近スレッタが付け始めたものは、宝石こそは小さな粒だったが、リングがしっかりとしていてオーダーメイドなのだろうということは分かる。
指輪のサイズを知っていて気持ち悪いと思った。というか、グエル・ジェタークにおいてはエリクトは何もかも気持ち悪いと思っている。自己犠牲を厭わず、自己評価が低い。だからエリクトの八つ当たりをそうあって当然というように受け入れる。
スレッタと似ているような性質で腹立たしい。自分と近しい性質をどうにかすることで、自分を間接的に救済しようとしているのではないかと思ったくらいだ。そういったところが全て含めて気持ち悪い。悪く言えば、ある種抑圧されて変に人間味が少ない。
「開けるのか?」
「はい」
グエルの問いかけに、スレッタは短く返事をした。
パンドラの箱と同じだ。それはスレッタを苦しめることになるかもしれないと、きっとスレッタ自身もわかっている。それでも自分で開けるという選択肢をとったスレッタは、エリクトが想像するよりも母の死を受けいれて前向きになれたのだろう。
恐る恐る入っている紙束を取り出す。エリクトも共にその紙束を眺めた。そして納得する。エリクトが想像していたものと違わぬものが入っていて、スレッタは紙束に僅かに力を込めて歪ませた。
「ベネリット・グループの汚職事件についての資料、クワイエット・ゼロ計画の全容、連合議会とベネリット・グループの関係性――」
ひとつひとつスレッタが読み上げる。
「少し前に、ベルメリアさんが逮捕されてました」
『確実にお母さんのせいでしょ。ベルメリア・ウィンストンは生き残った同郷の後輩から復讐の対象に切り替わった。ボク達の計画を邪魔したことでね』
「全部を目に通すのは、疲れちゃいそう。そしてこれを私に託して、お母さんどうするつもりだったのかな」
プロスペラが復讐を成し遂げるというのなら、この資料を整えた時点で公表したほうがいいに決まっている。この情報をスレッタに託すほうがリスクが高い。スレッタだって連合議会から情報の隠蔽のために狙われることになる。しかし、そうまでして自分の死後に情報開示をしようとしたタイミングをエリクトはひっそりと考えた。
有力なのは、待つことだ。何かのタイミングでこの情報を開示してほしい。しかし、そのような記載はしていなかった。
母が残した意図をエリクトは真剣に思考を張り巡らされる。ここで失敗するのはよろしくなかった。母の思いを無駄にすることなど、エリクトにはできないからだ。
「ベネリット・グループの汚職事件てなんだ?」
「資産売却の話じゃなさそうですよね。……えっと、デリング・レンブランのグループ資産横領に関して」
『ああ。そう言うこと』
「どういうこと?」
エリクトはスレッタの読み上げた言葉に納得がいった。エリクトが張り巡らせていた奸計でもある。できることは少ないと思っていたが、エリクトの予想通りに動けることになるとは思っていなかった。
「これ、本当ならば切り離されたグループ内企業は軒並み資産売却で痛手を負ったというのに、ミオリネとデリングはそもそも懐を痛んでもいないということか」
資料を読み込んだグエルが苦々しげに口を開いた。スレッタもそれを直感的に理解したのだろう。この家がその汚職によって得た資産の半分で作られたものだとなんとなく思いいたったらしい。
「多分……そうかと思います」
『多分じゃなくて実際そうだよ。レンブラン家は自分たちの資産を動かして、グループ解体後に苦労しないようにしていた。だから軌道にいまいち乗り切らない株式会社ガンダムだって、地球寮の子たちがその業務内容に似合わないほどの薄給で使われていて、その代わりミオリネのボディガードを勤めている女の子たちには比較して高給になっている。今彼女たちの給金を払っているのは、会社じゃなくてミオリネの個人資産だ』
「は……? 連合議会とのやり取りを見越して、最初から資産売却を視野に入れていた?」
グエルが呆然として呟いた。かつて婚約者として献身とは言わずともミオリネと同じ土俵で同じ方向を見させられたものにとって、それは寝耳に水だったようだ。エリクトはその少し人間味のある表情を鼻で嗤った。
『ミオリネ・レンブランて女はそういう人間だったでしょ。無駄に権力だけあって、その権力で従わせたものを自分の実力だと思い込む。そしてその権力ですら自分で手に入れたものではないのに、それに気が付いていない。どうせ、資産売却するのには少しでも額が多いほうがパフォーマンスになるとか思って黙ってたんでしょ。可哀想に、君は大切だと宣ったスレッタをていのいい言葉で引き離された挙句、最後まで利用され続けたわけだ。……お人好し。君が安易なミオリネの思考に乗せられなければ、今スレッタはこんな障害を負っていなかったかもしれないのにね』
「エリクト」
『はいはい。わかってるよ。ボクが悪い。スレッタの体に最初に毒を流し込んだのはボクで、キャリバーンに乗ってきた時にすぐに片してあげられなかったボクの責任だ。でもそれはそれとして、ボクはこの前の一件でグエル・ジェタークは大嫌いだから』
エリクトはグエルを見ながらキッパリと言い放った。グエルは唇を噛み締めたが、エリクトの言葉に反応するよりも、プロスペラが残した資料の方が関心がそそられているようだ。
デリングがテレビに映って、ガンドアームの危険性の話をしているのを何度か見たことがある。クワイエット・ゼロ計画の構想をそもそも練ったのは、ミオリネの母であるノートレット・レンブランだったわけだし、それを実現しようとしたのはデリング・レンブランだ。
その全てがパフォーマンスだと言われたならば、確かにそれは腹に据える話だろう。
『もしかしたらグラスレーだけ同じように資産移動させてたかもね』
実情はどうだか知らないが、エリクトはそうやって煽ってやる。案の定、グエルは思い切り拳を机に叩きつけた。
「ひっ」
「あ……悪い。驚かせた。机も、その、悪い。弁償する」
グエルの眉根を寄せた苦悶の表情の謝罪に、拳の形に歪んだスレッタはじっと見つめた。
「あの、でも、そうなのかな?」
『スレッタ?』
「ミオリネさん、グラスレー社だけ移動させてとか考えてたのかな」
「どういうことだ」
「ミオリネさん、そこまで考えてるのかなって」
『ああ、それ?』
だったら、とエリクトは憂を含むスレッタを見た。擁護しようかどうか考えあぐねているようだった。
『スレッタはミオリネの資産を半分奪い取った時、どんな気持ちだった』
「え……。悪いことしてるなって思ったよ。だって実際にミオリネさんとシャディクさん、浮気してるわけじゃなかったし」
『それが普通だ。普通は自分の悪事には誰だって罪悪感を持つ。でもミオリネはそうじゃない。どうしてかわかるかい』
「……自覚がないから、ですか」
首をかしげるスレッタの代わりに応えたのはグエルだ。エリクトは鷹揚に頷いた。
『だからたちが悪い。自分の行いを、客観視できていない。勝手に資産売却したことも、クワイエット・ゼロシステムをダウンさせたのも。もっと根本的な話をすれば、なぜミオリネはボクたちを決闘で無理矢理引き離した後、地球にエアリアルとお母さんを連れて言ったのか。地球にエアリアルを武装解除して安全だってパフォーマンス? お母さんも自分がついていれば見張れるから安心? 違うね。何も考えてないんだよ。自分が中心に世界が回って当然。だから今回も上手くいくという漠然とした自信だけが彼女には合った。地球との交渉だってお母さんに乗せられただけで、まんまと利用されていたくせに、お母さんを出し抜けるはずがない。他者を轢き殺して自分の生活が成り立っているということに微塵も気づきもしない』
そこでエリクトはひとつ息をついた。スレッタとグエルの視線が、エリクトに集中していた。
『今まで能天気に何も考えないでしてきた行いを、周りがフォローしていた、周りに犠牲を強いてきた。デリング・レンブランも、シャディク・ゼネリも、グエル・ジェタークも、スレッタだって。それが彼女のありもしない実績と漠然とした自身に繋がっている。話がずれたけど、ミオリネはそう言うことを平気でする女だよ。たとえ資産移動させて自分に実害が被らないようにしたとして、ミオリネは絶対にこういうね。スレッタの為にした事よ。大切なものを守って何が悪いっていうの。てね』
「だから、エリクトは私が利用され続けてていいのって聞いてたの?」
『そう。例えばミオリネと結婚していたとしたら、ミオリネはスレッタを言い訳にしてくることが増える。そのうちミオリネがスレッタはいつまでたっても回復しないとか、私ばっかり負担がかかっているとか、罪の意識を植え付けさせられるとか言ってたと思うね。実際に最後にミオリネにあった時、すでにミオリネはスレッタのことなんて気にしてなかっただろ』
「それはそうかも」
麦畑のやり取りを思い出したらしい。普通は歩行が困難な人間を傾斜に座らせたりもしないし、ミオリネの様な細腕がバランスを崩したスレッタを支えられるわけがない。グエルだって、傾斜で不意を突かれたのならスレッタを完璧に支え切れるかどうかだって怪しいはずだ。
『まぁ、ここまでは蛇足さ。この資産移動の不正を暴くなら、グエルのほうがいいだろ。シン・セー開発公社はすでに株式会社ガンダムとして組み込まれていて、ベネリット・グループから離れているわけだし。旧グループ企業として、ペイルの倫理問題の追及材料としてレンブランを貶めればいい。スレッタが気にするのはクワイエット・ゼロのほうじゃないの?』
ベネリット・グループの汚職事件の資料をグエルに預けて、スレッタはクワイエット・ゼロの資料を見つめた。
エリクトは素直にグエルの手に渡った資料を確認してほくそ笑む。プロスペラがどこまで計算していたかは分からなかったが、この資料は多分、スレッタに当てたものでは無いのだろう。スレッタでは持て余しそうだった。
クワイエット・ゼロ計画についての資料は、おおよそエリクトと、もしかしたらスレッタも予想していたものだろう。クワイエット・ゼロの草案と立案者がこと細かく書かれている。クワイエット・ゼロ計画の創案者がノートレット・レンブランであり、デリング・レンブランがベネリット・グループの資産を使ってクワイエット・ゼロ計画を画策していたこと、また、デリングがクワイエット・ゼロ計画を完成させることでパーメット使用機器をすべてコントロール下に置くことで新たな市場開拓を無理矢理させようとしていたことなどが書いてある。
「トマトの遺伝子構造と、クワイエット・ゼロ計画は似ていたの?」
『ボクもさすがにそこまでは知らない。ボクも実際に資料を見たことはなかったからね。ただ、エアリアルをコアとして、ガンドノードの共鳴連鎖を起こしていた。それはこの植物の共鳴連鎖ともつながるから、この資料はほとんど正しい……というか、お母さん、この資料を手に入れたから、デリングを利用しようと考えたんだろうね』
「これ、同じように再現しようとしたら、小規模でクワイエット・ゼロを完成させられる……てこと?」
『多分ね。でもその代わり、エアリアルの代わりにクワイエット・ゼロに繋がるのはスコアエイトを越えてしまったスレッタだよ。仮に同じことを行ったとして、どうなるかだなんてわからない。……まさか、やりたいとか言わないよね』
「さすがにやりたいとは思わないよ」
クワイエット・ゼロの鍵となるスレッタプロスペラは僻地に隠した。連合議会にも、デリングの目にもつかないように。スレッタがミオリネを強請って建てたこの家も、ミオリネは知らないはずだ。資金だけ奪い取ったはずだからだ。
ふたりして身の安全を考える。プロスペラが残した遺書は、スレッタとエリクトを守る一手となると同時に、もしこの資料が見つかったら連合議会からも、旧ベネリット・グループからも狙われてもおかしくないものだった。とんでもない爆弾を残していったものだと思うが、プロスペラはこの資料をエリクトとスレッタに預けたということは、上手く使えということなのだろう。
真剣に資料を読み込んでいたスレッタが、やがて息をつきながら口を開いた。
「……この資料を公開したら、シャディクさんの濡れ衣ははれるし、釈放される……?」
『可能性は無くはないね。どれくらい減刑されるかなんてボクは法政家じゃないからわからないけれども。一見して別の資料に見えるかもしれないけれど、これらは全部地続きだ。シャディク・ゼネリの冤罪の証拠と言ってもいい反面、これらを公開したら』
「うん」
スレッタは言葉を引き取らなかったが、どんよりとした表情で頷いた。この資料を公開したら、確かにシャディクの冤罪は晴れるだろう。その代わり、実際にクワイエット・ゼロを草案した――レンブランが糾弾されることになる。
「お母さんが、自分がこの計画に関わっていたという記載はないね」
『そりゃそうでしょ。実際にレンブランの資金で、レンブランの名前で動いていた計画なんだから。お母さんは、あれらが持っていなかったクワイエット・ゼロのキーを持っていたにすぎない。利用してやろうと思ってたのが利用されたっていう、ただただ自然な事だ』
スレッタは考え込むように両手を額に着けて顔を隠した。グエルはグエルで口を挟むことはしなかったが、この資料を公開しようと考えているだろう。厳しい顔つきで、横目にスレッタを見ていた。何せ私怨を含めずとも、一番の被害を被っているのはジェターク・ヘビー・マシーナリーなのは間違いない。
「お母さんの尊厳をとるか、ミオリネさんの尊厳をとるかってこと、だよね」
『そうだね。どちらもは選べない』
「現状維持するのは、」
『お母さんの尊厳を捨てるのと同義だとボクは思う』
「そんなの」スレッタが呆然として呟いた。「選べるわけがないよ」
「これはひとつの意見だが」
グエルは慎重に口を開いた。エリクトも一瞥して発言の許可を得るようだった。エリクトが黙って先を促すとグエルも察したらしく、とつとつと言葉を述べる。
「俺はこの資料を、公開するべきだと思う」
「それは、ミオリネさんが嫌いだからですか?」
「好きか嫌いかで言ったら、まぁ嫌いだがな。実際に人を振り回すだけ振り回しておいて、今でなおそうあって当然だと思ってるから。正直付き合っていられないという気持ちはある。ただそれとは別に、この資料を公開することで、レンブランの横領資産が少しでも旧ベネリット・グループに還元されれば、助かる企業もあるんじゃないかとは思う」
『それは違う』
エリクトはきっぱりとグエルの言葉を遮った。
『あくまでレンブランが横領していたのはクワイエット・ゼロの資産分だ。この資料はそれしかない。旧ベネリット・グループ解散に伴う資産の地球売却はまた別。レンブランはベネリット・グループ外に資産運用の会社を立てて、そちらにお金を動かしていたというだけ。糾弾される事項ではあるけれど、これが直接還元はされないね』
「ちょっと、今は答えが出せない」
スレッタはそう言って資料を片付け始める。すぐに決断するべきことでもないのは誰もが理解していた。
エリクトは片付けられる資料を眺めている。一枚の紙に、不自然に走り書きされた数字が見えた。そうしてカレンダーを見る。
『なるほど』
プロスペラがスレッタに託した意味をエリクトは理解した。
『スレッタ』
「なに?」
『今ここで決断できないなら、その資料は見なかったことにでもして、暖炉にでも入れておけば? もちろん強制はしないけど』
「どうして」
『なんとなく、かな』
「ふぅん」
気のない返事だった。エリクトはそれでも言うべきことは言ったと納得する。スレッタがどういう決断をとろうとも、それはエリクトが責められることではなかった。あとはグエルがいい感じにスレッタを資料公開に踏み切らせるか、自分でミオリネを貶めるのか、時間が先にリミットを迎えるか。
おままごとをしていられる時間は確実に終わりに近づいていると、エリクトは背後から忍び寄る黒い影の存在をしっかりと認識していた。