Ⅰ
胃の中になにかドロドロとしたものが流されたような気がする。偽善という言葉を濃縮したような、あるいは悪意という言葉を濃縮したような。
とにかくそれは腐臭を纏い、おぞましく、触れること自体が汚らわしいと言うようなものだった。
誰がスレッタに何をした。誰がスレッタに何をしてくれた。自問と自答を繰り返し、結局は――誰も何もしてくれなかったという結論に達する。
「母親をとめてくれないか」と死に向かって進めと言われた時も、「あなたの決断なら」と先のない崖へと突き落とされた時も、「そうだな」と助けを乞うように伸ばした指先が手を取る前に背けられた時も。みんな口先ばっかりで、誰一人として「あなたがやることじゃない」と抱きしめてくれることは無かった。
その時思ったものだ。自分の命は誰よりも安くて、無価値で、死んだとしても記憶に残ることもなく「あぁ、確かそんな子もいたね」くらいなものなのだと。
死ぬのが怖いと泣いたのを見て見ぬふりをして、それなのに身勝手に自分は弱いからと縋ってきたあの花嫁はスレッタのことをどう思っていたのだろうか。
大切だと言ったその口で、結婚してくれと言ったその口で、しかしガンダムに乗るなと言いきれずに厳しい顔で見送ったあの男はスレッタのことをどう思っていたのだろうか。
突き放した娘が、文字通りに死に物狂いで自分の理想をぶち壊しに来たあの母親はスレッタのことをどう思っていたのだろうか。
自分の代用品だと言わんばかりに、用済みだとスレッタに毒を注いで突き放したあの姉はスレッタのことをどう思っていたのだろうか。
いくら考えてもわかることなんてきっとない。好きだなって思っていた淡い感情が、真っ黒に塗りつぶされていく。大好きだった感情に嘘偽りはない、はずだ。
何もかもが信用出来なくて、どうせ死んでても生きていても変わらないのなら、目が醒めなくたっていい。むしろ何も変哲のない面倒ばかりかかる身体を疎ましく思って、誰かが管に繋がれてるだけのスレッタの生命線を引っこ抜いてくれればいい。
いつまでも綺麗で、無垢で、人の善意だけを信じ続けていたスレッタ・マーキュリーはあの時確かにみんなに殺されたのだ。
◇◆◇
「起きないの?」
それは小さな声で語りかけてきた。
黙っていると真っ暗な場所で、上も下も、前も後ろもないような空間で丸くなって漂っていたスレッタに真っ白なそれがもう一度言葉を発した。
「起きないの?」
「起きて、どうするの?」
スレッタは尋ね返す。プロスペラが計画していたクワイエット・ゼロは確かにパーメット粒子となって消えた。エアリアルも、キャリバーンも、パーメット粒子へと還っていった。
スレッタの役目は終わったのだ。プロスペラの計画を阻止して、ラグランジュⅣの起動も止まった。スレッタが何かしなくてはならないことはもうないはずだ。親の責任とやらを、スレッタはとったはずだ。
「スレッタが起きるのを待っている人は、沢山いると思うけど」
そう言うと、真っ白なそれは闇を切り裂いた。そこから声が降ってきて、聞いたことがある声たちがスレッタを心配したり、スレッタに語り掛けたりする。スレッタはそれを聞いて慌てて切れ目に駆け寄ると光を閉じた。
「起きないよ。だって、怖いもん」
「何が怖いの」
真っ白なそれは臆することなく問いかける。スレッタはまた丸くなって、膝の中に顔を埋めて答えた。
「みんなの期待が……みんなが怖い」
「どうして」
真っ白なそれはスレッタに近寄ると、そっと頭を撫でた。誰かに触れてもらうこと自体が久しぶりなような気がする。プロスペラにも撫でてもらったはずなのに、遠い記憶のように感じた。
「だって起きて、君が母親を止めてくれたおかげで世界が守られたって言われたら? 今度こそ一緒に地球に来てほしいって言われたら? 大切だからずっとそばにいてくれって言われたら? 私、どうしていいかわからない」
「なんで」
「私はお母さんの邪魔をしたかったんじゃない。お母さんが悪いことをするなら止めたかっただけ。お母さんと話をしたかっただけ。ミオリネさんの隣にこれからずっと一緒にいて、ミオリネさんに要らないって言われるかもしれない。グエルさんのまっすぐな気持ちを受け入れても、やがて隣に立つには力不足だって言われるかもしれない」
「捨てられるのが怖いの?」
真っ白なそれがスレッタを覗き込んだような気がした。不思議そうな声を上げて、スレッタに問いを重ねる。スレッタはその問い自体を拒絶しようとは思わなかった。だって、スレッタの気持ちを聞いてくれる人は、今この同じ空間にいる真っ白なそれしかいない。
「怖いよ。だって、お母さんは私を家族だって思ってくれなかった。だから私を置いてった。私が過ごしていた十七年は、偽物だった。ミオリネさんが、グエルさんがこの先そうならないとは限らないよ。だって、あのふたりだって、私から家族を奪ったんだよ」
言葉にすると悲しみが込みあがってくる。涙を拭うこともせずにスレッタはそのまま気持ちを溢れさせた。
「ぼくが一緒にいるって言っても?」
「エアリアルが?」
真っ白なそれ――エアリアルの言葉にスレッタはようやく顔を上げて光り輝くそれを見た。段々と人の形を模していき、今の自分をまるまる小さくしたような全身真っ白の幼子が現れる。
「うん。ぼくは君が生まれた時からずっと一緒だった。これからも、一緒だ」
「……本当に?」
「本当さ」
「じゃあ、ふたりでここに居ようよ。その方が、きっとずっといいよ。だってここは怖いものはないもん」
スレッタはエアリアルの手を取った。冷たくも温かくもない温度の無い手だった。縋るように握りしめて「ふたりでここにいたい」と繰り返す。
「……スレッタがそんなに嫌ならここにいてもいいけど、」エアリアルは困ったように笑った。「ここは何もないよ」
「エアリアルがいる」
「仕方ないなぁ。少しだけ休憩しようか。そしてまた目を醒ましたくなったら、ぼくが連れて行ってあげる」
◇◆◇
最初の頃は時折裂ける闇の切れ目から声が降ってきていたけど、スレッタはその度に繋ぎ直した。それを重ねる度に段々と降ってくる声は小さく、頻度も減ってきているような気がして安心した。
――ほら。やっぱりみんなすぐに飽きて、私の事なんてどうでもよくて。そのうちこうして忘れるんだ。
卑屈な意見なのは分かっていたが、スレッタはとにかく今は放っておいて欲しかった。時間も分からないで、ずっと闇の中で揺蕩う。時折エアリアルが話しかけてくれて、ふたりで水星にいた頃の話をした。
「本当は、ボクはアスティカシアに編入するのは反対だった。――でも、スレッタが学校に行きたいっていうから、嫌なことよりも、良いことがこの先沢山ありますようにってぼくは思ったんだよ」
「でも、編入してから、楽しいこともあったけど、辛いことの方が多かったよ。いつもエアリアルは決闘の景品で、私はエアリアルが奪われちゃうのが怖かった」
「スレッタはぼくの扱い方が上手かったから、決闘で負けるなんて思ってなかったよ。ずっと一緒にいられると思ってた」
スレッタはちらちらとエアリアルを見る。ずっとエアリアルに聞きたいことがあった。でも聞いてしまうと、エアリアルもスレッタのことを裏切るのかもしれないと不安になってしまう。
そんなスレッタの視線に気がついたのか、エアリアルは「言ってごらん」と優しく先を促した。
「グエルさんとの三回目の決闘の時、エアリアルにはシステムダウンのアプリが入ってたよね。私はそれをお守りだって思ってたけど、なんで、受け入れたの?」
怖くて聞けなかったことだ。これでエアリアルがスレッタを裏切っていたら、スレッタは立ち直れない。
「ぼくはあくまで機体に過ぎなくて、機体の主導権はエリクトにあった。寝ていたエリクトが、スコアを上がるごとに少しずつ覚醒した」
エアリアルはスレッタの問いに淡々と答えた。それはエリクトを悪く言いたくないという感情が読み取れる。
「ぼくは君を巻き込みたくはなかった。だから、エリクトとミオリネの行為を受け入れた。でも、ごめんね。スレッタにとってはぼくもみんなと同じだった」
スレッタは尋ねておいてなんと返していいか迷ってしまった。もしかしたら、みんなも同じだったのかもしれない。みんながスレッタを大切にして、守ってくれようとしていたのかもしれない。そのやり方は、スレッタが望んだものではなかったかもしれないけれども。
「……やっぱり私、起きたくない」
今この話を聞かなかったことにすれば、何も考えずに済む。目を醒ましてしまったら、自分の中にどろどろとした感情があることを自覚しなくてはならない気がした。
不意に、花の香りがどこからともなく漂う。気にしてはいなかったが、最近よく漂ってくる香りだ。その度にエアリアルは上の方を見上げて軽く笑いを漏らす。
「ねぇスレッタ」
「いや」
エアリアルが言葉を続ける前にスレッタは首を振って話を遮った。
エアリアルは肩を竦めて「もう少しだけ休憩してようか」と苦笑を漏らした。
最初のうちはエアリアルと話していたが、やがて会話も尽きてくると黙っている時間の方が増えた。スレッタは寝て過ごすか、ぼんやりと闇の中を揺蕩う時間の割合が増えていく。意外とそれは心地よかった。時折花の香りが届くし、温かななにかに包まれる時もある。ここにいればスレッタは穏やかな気持ちでいられた。
しかしそれとは反対に、このスレッタの心の中に亀裂が入ることが多くなってきた。光が差し込んで、その度に誰かの声が聞こえる。多いのはエリクトとプロスペラが話す声と、あとはグエルが語りかける声だ。
スレッタはその声を聞くと慌てて亀裂を直す。話してる内容は聞きたくなかった。もし悪口だったら、もし要らない子だって話だったら、スレッタさえ居なければクワイエット・ゼロは完成していたのにって話していたら。スレッタは立ち直れない。だからなんどもなんども亀裂を塞いでその度に亀裂から遠く離れる。
その時も降る声に、光の亀裂を埋めているときだった。エアリアルが後ろから声をかける。
「スレッタ、これ」
「エアリアル、今私は忙しいの。ちょっと待ってよ」
「ううん。そろそろ起きようよ。エリクトが、スレッタを呼んでる」
「いやだよ。起きたくない」
スレッタの言い分を無視して、エアリアルは目の前にずいっと何かを差し出した。
「なにこれ」
「仮面。人の顔を見るのが怖いなら、この仮面をつければいいよ。起きても、ぼくはスレッタの隣にできる限りいる。ね、君はぼくを許さなくても構わない。でも君のことは大好きだから」
また、元気に生活してほしいんだ。
そうエアリアルが言い切る前にスレッタは光の亀裂から引っ張られた。慌ててスレッタは助けを求めるようにエアリアルに手を伸ばしたが、エアリアルには届かず、代わりにエアリアルが渡した仮面がスレッタの手に残った。
◇◆◇
エリクトが起こす声に合わせて目を開く。身体はだいぶ重たくて、瞼を開くのも苦労した。エリクトとグエルが話してる声が耳に届く。スレッタはゆっくりと瞳を動かしてグエルの顔を見る。
そして吐き気を催した。実際には身体はそこまで機能が回復していなく、追いついていないので気持ちの問題だが、グエルを見て気持ち悪さを感じた。グエルの顔が、特に目元がぐちゃぐちゃに歪んでいたからだ。
咄嗟に目を背けようにも、頭は動かなかったし、瞼も重い。ようやく顔から視線を外す。
――仮面だ。
スレッタはグエルの顔が歪んでいる理由を察した。さっきエアリアルに渡された仮面だ。
グエルが崩れ落ちて視界から居なくなる。次いで、すえた胃酸の匂いが病室に充満した。
その仮面は、誰しもがつけて見えるわけじゃないらしい。
看護師や医師はぐちゃぐちゃの仮面はつけていなかった。しかし、プロスペラやエリクト、グエルやミオリネなんかはつけていてまともに顔を見れなかった。
最初はスレッタの知っている人達がその仮面をつけているのかと思ったが、どうやら違うらしい。そう気がついたのは、地球寮の人達が見舞いに訪れて来た時にわかったことだ。
「スレッタ、悪かった。あーしが軽率だった」
ぐちゃぐちゃな仮面をつけたチュアチュリーが見舞いに訪れて最初に口にした言葉だった。
「スレッタにかかる負担を、あーし達は理解してなかった。痛い思いをさせて、怖い思いをさせて悪かった。命を懸けてクワイエット・ゼロを止めに行くんだって、思ってたけど、スレッタは戦闘で命を落とす以外にも、ガンダムで命を落とす可能性もあったんだ。それに気づけなくて、本当にごめん」
ぎゅうぎゅうと抱きついて、チュアチュリーは謝罪を重ねた。少しだけ胸に巣食っていた蟠りがなくなるような気がした。
一度深呼吸した。スレッタはゆっくりと瞬きをすると、チュアチュリーの仮面は消えていた。
なんとなくこの仮面の招待を理解した。
スレッタの心だ。許せない人達が仮面をつけていて、スレッタが許そうと思った時にその仮面が外れて見える。
なんて傲慢なんだろうとスレッタは内心で頭を抱えた。自分で決めたことを他人のせいにして、それで他人に責任を取ってもらおうとしている。
それでも、目を醒ましてしまった以上、スレッタは自分の心と向き合わざるを得なかった。だからスレッタはずっと寝ていたかったのに。
この仮面は、スレッタが復讐したいと思った相手にだけ見えるのだろう。きっとそのぐちゃぐちゃの何かがはがれたときは絶望の顔をしているのだろうが、それでスレッタの心は晴れるのだろうか。
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