長く親しんだ霧を抜け、息を切らしながらもただただひたすらに走り続けた。
若かりし頃の記憶、学生時代の記憶を頼りに、ただただ走り続けた。
忙しく回り続ける足とは裏腹に、足音を極限まで殺した。
気配を殺し、虫の巣食う暗い道をくぐり、泥の中を駆け抜けて、木の影に隠れながら、遠い昔見たはずの希望へめがけて走り続けた。
東へ、東へ
あのクズどもに見つからないように。
眷属のコウモリが《奴ら》を発見し、死んでゆく、もうすでに眷属の数は2割を切った。
死ぬ間際の断末魔にも似たメッセージが俺のゆく道を示してくれた。
今までにないほどの限界状態。
あのいかれた世界から逃げ出すための代償だとでもいうのだろう、もう一週間は何も口にしていない。
水の一滴なんて贅沢は言わない、動物の死体の澱んだ血でさえ今ではご馳走に見えてしまう。
また、日が落ちた。
目が赤く光り、自分の存在感が増す。今ではそれさえ鬱陶しかった。
夜の闇がだんだんと体に馴染んでいき、身体能力が上昇していく。
今なら、空を飛ぶように地を駆けられる。しかし同時に夜になると吸血鬼としての衝動が増大してしまう。
欲求を制御できなくなってしまう。
くそ、くそ、こんなことッ、したくなんて!
日が昇った。
口にはまだ、昨日食べたものの食感が残っている。気色悪い。
「......キッショ」
口に残る黄色の粘液を吐き出す、人間界では一部昆虫食というものが流行っているらしいが俺にとって一生理解できるものではないだろう。
さらに進み続け、夜になる。
夜の中で強化された聴覚が、東の方に人の声が聞こえる、汚らしい《あいつら》の声じゃない。
久しぶりに聞いた人の声に安堵しながらも、その方向へ歩みを進める。
声の主に近づいた、男の声だ、日が昇り、吸血鬼の気配が消えるまで待つことにする。
どうやら男たちは商人のようで東の国に行こうとしているらしい、この男たちに聞けば「あそこ」への道筋もきっとわかるだろう。
朝になり、瞳孔が閉じる、瞳の赤が薄まり、髪の白が淡く濁る。
全身を覆う威圧感が消え去り、冴え渡っていた五感とともに全能感が鳴りを潜める。
.......思えば、人と話すなんて何年ぶりだろうか
胸が高鳴る、こんな状況でも緊張している自分に思ったより余裕があったんだなと思う。
意を決する
「あの、すみませーん。」
もし、今が夜だったのならこんな醜態は晒さなかったのさろう。
男たちのうち一人がつけてくれた焚き火にあたり、子供のように泣きじゃくりながら携帯食料を貪る。
パサパサとして普段なら絶対に食べないであろう、しかし今だけはこれまで食べたどんな料理よりも美味しく感じた。
嫌いなはずの火も、この肌を表面から焼いていくような感覚も、今は不思議と不快ではなかった。
親切な人間たちと別れ、教えてもらった方向へと進んでいく
また、一晩が経った
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少し前、俺は仲間たちと東にある春の国に売り込みに行こうと旅をしていた。
街から出て2日目の朝、森の方からボロボロにやつれきった青年が飛び出してきて道を尋ねてきた。
怪しい身なりをしていたため、「君は何者か」と尋ねた。
すると青年は、何かいうのを躊躇い始めた、それを見た時はやはり怪しいものなのかと思った次の瞬間。
青年の腹が大きくなった、
それから、苦しそうに、痛みを抑えるように腹を抑えた青年は小さな消えそうな声で自分は亡命者だと言った。
完全に警戒を解くことはせずにとりあえず携帯食料を一つ渡したら、まるで子供のようにがっついてそれを食べ出した。
携帯食料の不味さなんて自分達が一番知ってる、にもかかわらずその青年はとても美味しそうにそれを貪った。
その様子に毒気を抜かれた俺たちは、彼のために火をつけてやった。
火が怖いのだろうか、日に恐る恐る当たりながら携帯食料を食べ続ける。
見れば見るほど、その姿の奥には得体の知れない闇が垣間見える。
その青年は、俺たちが出た街を探していたらしく、俺たちはそれに応え方角を伝え、ある程度の食料と服を与えた。
渡せる普段着は埃被った黒いジャージしかなかった時は少し申し訳なく、それを誤魔化すために自虐じみたノリでふざけたが、それに釣られてその青年も笑ってくれた。
その時初めて、その青年の美貌に気づいた。
今はもう見えないが、あれは確か太陽がのぼり切り、沈み始めた頃。
少しずつ辺りが暗くなっていって、あの青年と共に過ごした拠点はもうとっくに見えなくなっていた。
仲間の一人である斥候が、辺りを警戒し始めた、あの青年の時の数倍は険しい顔だ。
今日は予定外の客が多いなと冗談を言い場をなごまそうとしたが、斥候の顔は険しいままだった。
本格的にまずいのだろう。魔族かそれとも獣か、もしかすると槍を持った原住民かもしれないが、いずれにせよ平和的な解決を視野に入れるには希望が薄すぎるだろう。
気づかないふりをしながら、できるだけ自然を装ってそれぞれが馬に乗る。
息を潜めて、荷物のホックを外す。
ここから一番近い自警団のある街に行くには少し引き返す必要があった。
ゆっくりと馬の方向を変える。
息をゆっくり、大きく吸い、馬の手綱をしっかり握り、足を絡める。
こちらの緊張が伝わったのだろう、馬の方からも緊張が伝わった。
緊張のせいで動きが鈍くなると困ると思い、馬を撫で、宥める。
直後、斥候が口笛を高く吹いた。
金銭の入った袋以外の全ての荷物を捨て、仲間と共に走り出す。
馬はそれに応え、これまで感じたことのないスピードで走ってくれた。
目を開けきれないほど風を切り、景色は残像となって視界の隅を過ぎていく。
俺たちの影だけが、俺たちに追いついていた。
ただただひたすらに、日の沈む方向へと走っていく。
そう思っていたんだ。
次の瞬間、何か黒いものが頬に張り付いた。
よく見れば馬にもくっついている、最初は木の葉か何かだろうと思っていたが、すぐにこれの正体に気がついた。
《それ》が小さく息をした。
吐息を肌で感じる。
気色の悪い体温が伝わる。
後になって、痛みが出始めた。
感じる体温、痛みに反比例するように体が寒くなっていく。
憎たらしい盲目の瞳がこちらを見た。
吸血コウモリだ
次の瞬間、馬の鳴き声が聞こえた。
視界が回転し、映る景色が点々と変わる。
地面、空、地面、空、地面、空
そしてようやく視界の回転が終わった、その刹那、思考が止まる。
思考が止まっている時間が終わり、脳が比較的正常に回り出した。
どうやら馬が転倒したらしい。
倒れた馬を探しても見つからない、しかしそこらそこらに不可解な黒い物体が蠢いているのが見える。
何もかもが理解できなかった。
ふと、俺たちが走ってきた道のりを振り返る。
日の沈む方向と逆方向だ。
日が昇るのは東、沈むのは西。
西を覗くと、夕陽がまだ空を橙色に照らしている。
東の空をもう一度見ている。
それは目を疑うほどに、まるで、そこだけ深夜なのかと錯覚するほどの
黒があった
そしてその黒は、わさわさと蠢きながらこちらへと近づいてくる。
ほおを噛み続けているコウモリの眼を一瞥し、その《黒》の正体気づく、気づいてしまった。
それと同時に、この地平のあちこちで蠢いている《黒》い茂みの正体に気づいた。
よく見ればその黒は、馬の形していたのだ。
全身から血の気が引いた。
やけに冷たい体温に反し、呼吸が荒くなり、頭が熱くなる。
頬のコウモリから毒を入れられたのだろう。
瞼も重くなってきた頃、目の前には5人の美談美女が佇んでいた。
彼らは俺を見て、こう尋ねた。
「アレクサンドルの場所を言え」
聞いたことのない名前だ、もちろん誰のことかもわからない。
しかし、一つ気づいたことがある、やけに冷めた脳みそがうまく働いてくれたのだろう。
脳の奥から彼らが何者なのかを教えてくれた。
「吸、血鬼」
「質問に答えろ」
吸血鬼、魔界に住む種族の一つ。どうやら魔族や悪魔とはまた違う生物らしい。
夜を好む種族で、身体能力が非常に高く、魔術のようなものを扱い、眷属としてコウモリを従える。
無知な俺でもこれくらいはわかる、まぁ、馬より早いとは思わなかったが。
「仲間、は、どこだ、俺の......」
「全て死んだ、今はもう我が眷属たちの餌としての役目をまっとうしている頃だ
早く答えろ、アレクサンドルはどこだ」
ああ、クソ。
目の前の美しい男から残酷な事実をつきつけられる。
なんで俺らがこんな目に、と、運命を呪った。仲間の恨みを晴らしてやりたいが不思議と、敵討なんてことは考えなかった。
いや、「考えなかった」じゃない《考えられなかった》んだ。目の前にある恐怖を、仲間が死んだことによる悲しみと憎しみによって誤魔化しているだけなんだ。
「しらない」
正直に答える。
生きる気力なんてないくせに、俺の体は、心はまだまだ生きたいともがいている。
仲間も死んだ、馬も死んだ、吸血鬼にまで眼をつけられてまで生きたい理由だとか、生きて帰った後のことなんて考えられず、ただ生きたいと、生きる術を模索していた。
「嘘だな」
何も嘘などついていないはずなのに、目の前のこいつはそういった。
どこか、確信したような眼差しで。
「心当たりがあるはずだ。必ずな」
心当たりがあると言われた、恐怖と生への執着、そして仲間の理不尽な死への恨みをぶつける先を探そうとしているのか、やけに冷静な頭が「心当たり」を探す。
思えば、今日、この吸血鬼どもの顔には少し、何か引っ掛かるものがあった。
美しい顔
宝石のような赤い瞳
月光のような白い髪
闇の中でこそ美しく映える真っ白な肌
あれ、そういえば、あの青年。なんて名前だっけ?
「奴は確か、人間界では《葛葉》と名乗っていたか」
葛葉、くずは、くずは
そう、確かあの青年の名は
『俺っすか、葛葉って言います』
そうか、俺たちは、あいつのせいで
「しってます。葛葉の場所なら」
「そうか、言え」
「あそこは━━━━━━━━━━━━」
「そうか、用済みだ、死ね」
コウモリの
黒が全身に群がった
黒に侵される視界の中、腹から流れる体温を感じながら、最期に仲間たちとの幸せな思い出とあの青年の憎たらしい笑顔が脳裏に浮かんだ。
「なるほど、東か
行け、エレクドレクス。お前が1番速いだろう」
懐かしい、風を切る音が聞こえた