桃花鳥のメイド 作:モカモカ
陽光が柔らかく降り注ぐ花園。その中央に、一軒の家が佇んでいた。ケルト模様のタペストリーが壁に掛けられ、開け放たれた窓からは乾いた薬草とバーベナの香りが漂う。
西洋の森の奥深く。魔法の霧に隠された、人知れぬ異界。そこには一人の魔法使いと、その娘が暮らしていた。魔女は紅茶をカップに注ぎ、娘は紅白の衣装を整えていた。
「ねえ、お母さん」
ティーポットを傾けていた母の手が止まる。琥珀色の紅茶がカップを満たし、立ち上る湯気が午後の日差しに白く溶けていく。
「どうしたの?」
私は息を吸い込み、胸の奥で何度も繰り返した言葉を口にする。
「……幻想郷へ行っていいよね?」
部屋が静まり返る。母はすぐには答えず、紅茶を一口だけ口に含む。そしてカップを置くと、私を真っ直ぐ見つめた。
「確かに今の貴方なら、もう十分ね。でも、幻想郷は危険な場所よ。それでも行くの?」
「もちろん。そのために魔法の修行や日本語の勉強を頑張ってきたこと、お母さんだって知ってるでしょ? それに、困ったことがあっても一人じゃないもの」
私は円盤に三日月が描かれた髪飾りへと指先を伸ばす。相棒を象徴する月の髪飾りは、陽光を受けて淡く輝いていた。
(ふふ。サポートは任せて頂戴)
心の奥から声が響く。私の中に宿る神にして賢き相棒──ヘーゼルが明るく応えた。
普段は何も言わずに私を見守っているけれど、困った時は助言をくれたり、そっと力を貸してくれたりする。そんな彼女と一緒なら、未知の世界でも大丈夫だろう。
「お母さんが心配するのも分かるけど、私はそんなにやわじゃないよ」
母は少しだけ目を伏せる。窓辺のバーベナが風に揺れた。
「……その心意気なら、大丈夫そうね。」
寂しさを隠し切れない笑みだった。けれど、その眼差しには娘を送り出す誇らしさも確かに宿っていた。
最初に目に入ったのは、全てを白に包む濃霧だった。ここが母の言っていた秘境──幻想郷。肌に感じる奇妙な力に心が弾む。霧の中で無数の生命が息づき、耳を澄ませば鳥のさえずりが聞こえた。
(この気配、妖精がいるわね)
ヘーゼルの言う通り、妖精が霧を泳ぐように飛んでいる。周りの霧を操っているかのように見えた。
(少し仕掛けてみたら?)
私は気配がある方向に風の魔法を放つ。すると、そこから緑髪の妖精が悲鳴を上げて姿を現した。三日月の形の羽を持ち、澄んだ湖のような水色の服を着ている。
「霧の中に隠れてたの、気づいてたわよ」
「むう……」
緑髪の妖精は頬をふくらませ、私を睨みつけた。
「貴方の名前は?」
「名前? そんなのないわよ。だって、その方が凄そうじゃない」
無名の方が凄そう……まあ、判らなくはない。でも、不便そうではある。自然に生きる妖精だから、必要ないのかもしれないけど。
「ところで、この辺りで見かけない顔ね。どこに行くつもり?」
「特に決めていないわ。まだここに来たばかりなの」
「ふうん……ちなみに、この先を進んだら吸血鬼の館があるわよ」
吸血鬼──西洋から渡ってきたのか、日本にも似た存在がいるのか。どちらにせよ、気になるわね。
「その吸血鬼ってどんな人なの?」
「え? ま、まあ……珍しいものが好きらしいわ。あの吸血鬼が貴方のことをどう思うかは判らないけど」
そう言って、妖精は霧に紛れてどこかへ消えてしまった。
(どうする?)
(勿論、吸血鬼の館に行くわ)
(……ふふ。それなら、早く行きましょ)
ヘーゼルの言葉に頷き、吸血鬼の館がある方向へ進む。霧が薄れるにつれ、背の高い木々や湖が姿を現す。葉の隙間から差し込む陽光が地面にまだらな影を落とし、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
◆◇◆
「これが吸血鬼の館? 思ったより紅いわね」
完全に霧が晴れると、真紅の洋館が姿を現した。湖のほとりに佇みながらも、周囲とは異なる存在感を放っている。これを見ると、吸血鬼たちは西洋から来たと見て良さそうね。
入り口には、緑色の中華風の服を着た人が門に寄りかかっていた。長めの紅い髪を三つ編みにし、龍の文字が入った星形の飾りがついた帽子を被っている。彼女は腕を組んだ状態で居眠りをしていた。
「ふわぁ……ん?
私が近づくと中華風の人は目を覚まし、さっきまで寝ていたとは思えない切り替えの速さで話しかけてきた。
「こんにちは。少し聞きたいことがあるのですが……」
「何でしょう?」
「この館には吸血鬼が棲んでいるんですか?」
「ええ。ここは吸血鬼のお嬢様を主人とする紅い館、紅魔館。私はこの館の門番をしています」
も、門番……? 正直、門にもたれ掛かって居眠りをしていた姿しか見ていないから、とても門番には見えなかった。色んな意味で大丈夫なのだろうか。
「貴方は人里の人間ではなさそうですね。もしかして、迷ってしまったとか?」
「いえ、私は自分の意志で……」
「何だか面白そうな奴がいるじゃない」
私が事情を説明しようとした矢先、館の方から声が響く。振り向くと、そこにはフリル付きの白い日傘を持った少女がいた。
青にも紫にも見える淡い色のショートヘアに、紅いラインが入った白に近いピンクのワンピース。貴族の令嬢のような雰囲気を纏っているが、背中に黒い蝙蝠のような翼があり、明らかに人間ではない。
「貴方、名前は?」
「ソフィア・テオフォーラといいます」
「礼儀正しいわね。私はレミリア・スカーレット。この館の主よ」
館の主、ってことは吸血鬼。この感じだと日本に元々いたわけじゃなさそうだけど、太陽が出ている時間帯に起きているのは不思議な感じね。たまたまなのかしら。
「ソフィアはどうしてここに?」
「幻想郷に来たばかりで行くあてもなかったので、妖精に教えてもらって来ました」
私の言葉に、レミリアさんの瞳が鋭く光る。その瞳は鮮血を思わせる紅色で、まるで私の内側まで覗き込んでいるような鋭さがあった。
「普通の人間には持ち得ない力を持っているわね。それに加えて、ここに来たばかりだなんて。まだ住む場所も決まっていないんじゃないの?」
「まあ、そうですね」
レミリアさんは私を見つめたまま、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「それなら、紅魔館のメイドにならない?」
「……………はい?」
突然の提案に、私は困惑していた。メイドって、あのメイドよね。レミリアさんは軽い調子で話しているけど、そんな簡単にスカウトしてもいいのかしら。
「何故そうなるのでしょう?」
「決まってるじゃない。珍しいからよ」
「……それだけですか?」
「失礼ね。それが一番の魅力なのに」
レミリアさんが不満げな表情で私を睨む。
「いや、その……珍しいから引き入れるのはいいとしても、メイドとしてスカウトするのはまた別というか。通りすがりの人に頼む仕事ではないと思うのですが」
「メイド業務なら妖精にも頼んでるし、ウチには優秀なメイド長もいるから大丈夫よ」
妖精と言えば悪戯好きな性格だから、メイド姿で働くなんて想像できないわね。ちゃんと仕事になっているのか気になるし、いくら優秀なメイド長でも苦労していそう。私をスカウトした理由は、そこにあるのかもしれない。
「それと、面白くなりそうな運命が見えたのよね。貴方ならメイドも問題なくこなせそうだし」
推測とは裏腹に予想外の話が出てくる。運命が見えた、というのはどういうことなんだろう。門番さんはそれに対して突っ込んでないし。
(……運命に干渉する力かしら)
何か思うところがあるのか、興味深そうに呟くヘーゼル。運命に干渉するとなると、レミリアさんの謎の自信や突然のスカウトにも納得がいく。
「さあ、どうする?」
レミリアさんは楽しそうに答えを待っている。幻想郷に来たばかりの私には、まだ住む場所も当てもない。勿論、人里へ向かうという選択肢もあるけど、少なくとも彼女は私の力を理解した上で迎え入れようとしている。
(別に断ってもいいのよ。わざわざ嫌なことをする必要はないわ)
(うーん……でも、面白そうなのよね)
私の力を一目で見抜いたレミリアさん。隣に立つ門番さんも見た目こそ人間だけど、放つ気配は明らかに人間とは違う。しかも、この館では妖精まで働いているという。
吸血鬼の館なのに中華風の妖怪が門番を務め、妖精がメイドとして働く。日本の秘境にあるはずなのに、西洋も東洋も入り混じった奇妙な空間。
そんな場所なら、異質な私も案外馴染める気がする。
(それならいいんじゃない? 私もいるし、何かあっても魔術で切り抜ければいいわ)
ヘーゼルも反対はしないらしい。少し考えてから、私はレミリアさんを見る。
「一応言っておきますが、私は人間です。それでも本当に大丈夫なんでしょうか」
「問題ないわ。住む場所も食事も用意するし。なんなら、さっき言ってたメイド長は人間なのよ」
レミリアさんの言葉に、思わず目を見開く。吸血鬼の館だから妖怪や魔物がメイド長だと思っていたけど、まさか人間が館の使用人をまとめる立場にいるなんて。
「そういうことなら……」
不安が消えたわけではない。それでも、幻想郷で最初に手を差し伸べてくれたのはレミリアさんだった。
「よろしくお願いします」
「ふふ、交渉成立ね」
昨日まで西洋の異界で暮らしていた私が、今日からは日本の秘境にある紅い館のメイド。本当に、不思議な縁というものね。
「……あ、そうだ」
レミリアお嬢様が、何かを思いついたように指を鳴らす。
「紅魔館の住人になるんだし、新しい名前を付けてあげるわ」
「名前を、ですか?」
「ええ。外来人の貴方が紅魔館の──幻想郷の一員となる記念にね」
(名前を変えてしまうのね……)
お嬢様の言葉に、ヘーゼルが戸惑っていた。私も今の名前には愛着がある。でも、お嬢様には、ヘーゼルも認める運命を変える力があるから、きっと悪いことにはならないはず。私にできるのは、せめて妙な名前にならないことを祈るくらいね。
「うーん……ん?」
腕を組んで考えていたお嬢様が、不意に表情を曇らせた。
「どうされました?」
「……別に何もないわ」
今の間は何だろう……彼女にしては歯切れの悪い言い方だった。お嬢様はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく首を振り、何事もなかったように微笑んだ。
「
その瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。聞いたことのない名前のはずだったが、不思議と違和感がない。それどころか、ずっと前から知っていた名前を思い出したような感覚さえあった。
「ともかみ……朋神、桃花」
名前を口に出してみる。初めて発音したはずなのに、妙に馴染んだ。頭の中には自然と綴りまで浮かんでいる。どうしてそんなことが判るのだろう。
(……気に入った?)
(え? うん。嫌じゃないけど、何だか変な感じ)
(それなら良かったわ)
ヘーゼルはそれ以上何も言わなかった。最初は不満そうにしていたけど、この様子なら大丈夫そうね。
「私が付けたかった名前じゃないけれど、その名前が貴方には一番相応しかったのよ」
お嬢様は小さく頷く。一瞬だけ腑に落ちない様子を見せたが、すぐにいつもの不敵な笑みに戻った。
「さてと。名前も決まったことだし、歓迎パーティーを始めましょう。準備はもう進めてあるわ。
「了解です!」
事前にパーティーの準備をしていたなんて、用意周到ね。門番の美鈴さんは困惑どころか、むしろ張り切っているみたいだし。
「えっと、私はどうしたらいいのでしょうか?」
「桃花は私と来てもらうわ。色々と話したいことがあるし」
レミリアお嬢様は踵を返し、館の中へ歩き出す。私は一度だけ美鈴さんの方を見ると、小さく会釈をしてその背中を追った。
紅い館の門を越えたその時、私は『
ヘーゼルは、エジプト神話のトートをモチーフの一つとした神様です。今後作中で描かれる神格や権能には、トートの神格や伝承などを私なりに解釈したものが含まれています。