シルバーブレイズ誘拐事件   作:Marshal. K

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ほんへ
シルバーブレイズ誘拐事件 一


 

「タキオンさん……今朝の朝刊は、読みましたか……」

 

 ある麗らかな春の、月曜日のことだった。マンハッタンカフェは朝食後のコーヒーを一口含んでから、おもむろにそう訊いた。

 

「朝刊? いいや、そんな暇はなかったねぇ」

 

 アグネスタキオンは、朝食のトーストをもそもそと齧りつつ、隈のできた目を持ち帰った研究資料に通しながら答えた。

 

「知っての通り、学会の中間発表が月末に迫っているんだ。世俗の惚れた腫れたにかまけている時間は──」

「シルバーブレイズが、(さら)われたそうですよ……」

 

 カフェの言葉に、タキオンは口を止めた。冗談にしては度が過ぎるぞ、と言いたげな視線でカフェを睨むも、睨まれている方は、言いたいことはもう言いました、とばかりの澄ました顔で、平然とコーヒーを啜っている。

 タキオンは視線を落とし、食卓の上に畳んで置かれている『東京日日新聞』紙に向けた。ぱちぱちと瞬きしても、大きな一面見出しは変わらない。

 

──三冠ウマ娘シルバーブレイズ、誘拐さる

 

 

 

 

 

「ふぅン、なるほど。大体のところはわかった」

 

 アグネスタキオンが、並々ならぬ期待を勝手にかけていた三冠ウマ娘、シルバーブレイズが誘拐され、その担当トレーナーが瀕死の重症を負った事件は、目下課題の中間発表の用意を放り出させるほどに、彼女を動転させた。大学に電話を架けて午前の講義を取りやめ、角の煙草屋から新聞各紙を──『東京朝日新聞』や『時事新報』といった大新聞から、『萬朝報(よろずちょうほう)』や『二六新報』などの大衆紙まで──マンハッタンカフェに調達させると、カフェが営む喫茶店の片隅で、それらを片っ端から読み漁っていたのだった。

 やがて午前十時前となり、一渡り新聞を読み終えたタキオンは、ようやくそう声を上げた。

 

「一番詳しいのは東日の『毎日電報』だが、それとて大した中身はないな」

「では……現地に行くんですか……?」

 

 テーブル席が二つと、カウンター席が六つしかない小さな喫茶店は、十時過ぎに商店街の人々が茶飲み話にやって来るまでは閑散としているのが常であったので、カフェはタキオンが新聞を読み終える時を見計らって、彼女のテーブルに紅茶を運んだ。タキオンは「気が利くねぇ」と言い、さっそく添えられた山盛りの角砂糖──山盛りすぎて、角砂糖の山に紅茶が添えられているようにさえ見える──をティーカップに沈めながら、あっさりと答えた。

 

「いいや、そのつもりはない。午後には大学に出るよ」

 

 一度(さじ)で紅茶を掻き混ぜ、再び砂糖を溶かし込みながら、タキオンは物問いたげに佇むカフェに続けた。

 

「大した事件ではない──と言うと語弊があるな。ふぅン……そう複雑な事件ではないようだ。少なくとも、一介の大学助教授がしゃしゃり出て、現地警察諸君の体面を潰すような事件ではない、ということだよ」

 

 溶解度を超えて尚、砂糖が投入され続けた紅茶は、もはや水飴じみてどろりとした半固体になり果てていた。タキオンは満足げにカップを持ち上げ、紅茶風味の水飴を啜ると、「疲れた脳に糖分が沁みるねぇ」などと嘯いた。

 

 

 

 

 

 火曜日には、アグネスタキオンの興味はもう、大詰めを迎えつつある学会発表の準備に戻っていた。新聞はシルバーブレイズ誘拐事件を相変わらず書き立てていたが、露ほども興味を示さずさっさと大学に出かけて行った。

 マンハッタンカフェはと言うと、人並みに興味を抱いてはいた。重賞競走を控えたウマ娘の誘拐となれば、同じウマ娘である以上、全然面識がなくとも感情移入せずにいるのは難しい。とはいえ、カフェは警官でも探偵でもなければ、タキオンのようにキレる頭脳を持っているわけでもなかった。

 新聞では様々な説が、妥当に思えるものから荒唐無稽なものまで、たたき売りのように陳列されていた。

 曰く、闇賭博師たちの陰謀である。

 曰く、トレーナーが担当ウマ娘に、狼藉に及ぼうとした末路である。

 曰く、ブレイズが意中の人と駆け落ちを目論み、それを阻まんとしたトレーナーを殴打したものである。

 曰く、外国間諜(かんちょう)による、将来有望なウマ娘、及び優秀なトレーナーの抹殺作戦である。

 等々。

 カフェには、どれも一応筋が通っているように思えたし、まるで見当違いのようにも思えた。

 

 昼と夕方の境目の、あのなんとも形容しがたいぬるま湯のような時間帯だった。カウンター裏の小さな丸椅子に座り、うつらうつらしていたカフェは、誰かに揺り起こされて目を覚ました。

 店内には誰もいなかった。かわりに、黒い茫漠とした後姿が、店の入り口のそばにぬらっと立っていた。

 

「誰か、来るんですか……?」

 

 カフェは問うた。影は頷いたように動き、ふっとかき消えた。カフェが立ち上がり、手のひらで口元の涎を拭うとまもなく、店のドアが勢い良く開き、黒革の郵袋(ゆうたい)を肩にかけた男が入って来た。

 

「こんにちは、アグネスタキオンさんのお宅はこちらですか?」

「はい、そうですが……」

「電報です。裏の玄関に回ったんですが、誰も出て来なかったので」

「それは……お手数をおかけしました……」

「返信用紙が入っています。いまお書きになりますか?」

「いえ……後で出します……」

 

 東京中央電信局員の手で『ウシゴメク トヤマ アグネスタキオン ジョシ』と黒インクで表書きされた青い電報封筒には、『親展』の封緘紙が貼付されていた。開封して読んでみたい誘惑を退けて、カフェは居間の卓袱(ちゃぶ)台に封筒を置きに引っ込んだ。

 

 

 その日の夜。帰宅したタキオンは電報を読み、明らかに事件に引き戻されたようだった。今朝は手も触れなかった朝刊を読みふけり、喫茶店で取っている夕刊にも目を通した。夕飯の間中、ぼうっと何か考え事をしているようだった。そうなったタキオンにどう声をかけても無駄だということは、カフェにはよくわかっていたので、皿洗い当番を一日分ずらして自分でやることにした。

 洗い物を終え、ガスの元栓を確認して居間に戻ると、ちょうどタキオンが返信電文を書いているところだった。開封された青封筒の上に送達紙が置かれている。

 

「それ……私が読んでも、構いませんか……」

「この電報かい?」

「ええ……」

「構わないよ。どのみち、大した内容ではないからね」

 

 カフェは送達紙を取り上げ、籐椅子に座り、和文タイプライター打ちの電文に目を通した。

 

──エス、ヒ゛ーノケンニツキ シ゛ヨケ゛ンコフ トウチマテ゛オコシネカ゛ヘレハ゛ サイハヒノイタリ」 クレ

 

 電報であることを踏まえれば、望外に丁重な表現だった。発信人は滋賀県草津の『クレ コ゛ロウ』となっている。その名前に、カフェは覚えがあった。

 

「この……暮、というのは……」

「そうだよ。近頃新聞でお馴染みの草津警察署長、暮五郎警部だ」

 

 ひい、ふう、みい、と文字数を数え、タキオンは「足りないねぇ」と呟いた。

 

「カフェ、切手をとっておくれよ」

「そこの抽斗に、ありますから……ご自分で取ってください……」

「えぇー」

 

 ぶつぶつ文句を言いつつも、タキオンは立ちあがり、切手を探して抽斗を漁り始めた。

 

「つれないねぇ、カフェ。昔はあんなにも嬉々として、私の頼みごとに応じてくれたのにねぇ」

「記憶違いでしょう……アナタの言うことに嬉々として応じた憶えは……私には、ありません……」

「ふぅン」

 

 切手綴りを見つけたタキオンは、卓袱台に戻った。五十銭切手を二枚分切り取り、裏面を舐め、頼信紙に貼付した。

 

「ようし、これでいいだろう。ではカフェ、ひとっ走りこれを郵便局に──」

「ご自分で、行ってください……」

「えぇー!」

 

 

 

 

 

 水曜日には、犯人逮捕を各紙が報じた。しかし夕方になっても、木曜日になっても、シルバーブレイズは一向に見つからなかった。

 木曜日の夕方。「集中できない」と言って珍しく定時に帰って来たアグネスタキオンは、『毎日電報』紙の夕刊を、失望顔で投げ出した。

 

「ふぅン。どうやら、私は筋を読み違えたらしいよ、カフェ」

 

 長い指で卓袱台の天板をこつこつ叩きながら、タキオンは続けた。

 

「暮警部は無能ではないようだったし、金勝(かねかつ)は田舎だ。警察が道路と鉄道をしっかり見張り、町中虱潰しに捜せば、一両日中に見つかる、と踏んでいたのだがねぇ」

「見つからなかったようですね……」

「そのようだ。こうなっては、現地に行かざるをえないだろうねぇ」

「わかりました……」

 

 カフェは座布団から立ち、荷造りのために奥の寝間に向かおうとした。タキオンは、それを不思議そうに眺めて言った。

 

「おや、『私は行きません』とは言わないのかい?」

「そう言っても、アナタは一人で行くでしょう……滋賀県でみすみす野垂れ死にされては……私がトレーナーさんに向ける顔が、ありません……」

 

 襖がぴしゃりと閉められた。タキオンは、ため息とも失笑ともつかない「ふんっ」という音を立ててから、(くるま)を呼ぶために立ち上がった。

 

 

 

 

 

 俥で新宿駅に向かい、省電中央線で東京駅まで。駅の鉄道小荷物窓口に旅行鞄を預け、待合室にマンハッタンカフェを待たせて、アグネスタキオンは駅の電信窓口で電報を何本か打った。数時間の後、タキオンとカフェの二人の姿は、東海道本線を西へ突き進む夜行急行の、一等寝台車の2人用区分室にあった。

 

「では、改めてこの事件を整理してみよう」

 

 鉄道省工務局の『工』の字が模様として描かれた、備え付けの浴衣の帯をカフェに結んでもらいながら、タキオンは言った。客車が軋み、車輪が継目を踏む音の他に、彼女の声を遮るものはない。一等寝台車は列車の最後尾にあり、機関車の喧騒ははるか遠かった。

 

「悪いが付き合ってくれたまえよ、カフェ。物事を整理するのに一番いい方法は、誰かに教える体で口に出すことだからねぇ」

「……」

 

 カフェは何も言わずに、タキオンの浴衣を整えている。その沈黙を了承と解釈して、タキオンは続けた。

 

「事件が発覚したのは、月曜日の早朝だ。

 シルバーブレイズの担当トレーナーである香田健一朗の妻、ミツ代は、起床すると夫の寝床が空であることに気付いた。香田君は前夜、正確な時刻はわからないが深更に寝床を抜けており、その際『営舎の様子が気になる』と、目を覚ました妻に話していた。彼らは、ウマ娘たちが暮らす営舎から一ハロンほど離れた庁舎内に居住区画を与えられて、そこに女中と一緒に暮らしているんだ。それで彼女は、夫は営舎にいるものと思った。

 彼女自身も、どうにも不安に思ったので、台所で朝食の支度をしていた女中を連れて、営舎へ向かった」

 

 カフェが背後から離れ、下段の寝台に腰かけると、タキオンは窓辺に向かった。仕切り壁に寄り掛かり、次々と東へ飛び去って行く電信柱を眺めながら、言葉を繋いでいく。

 

「女中が鍵を持って行ったが、営舎の鍵は開いていた。事務室ではトレーナー助手の一人が不寝番をしているはずだったが、その彼は椅子を並べて、その上で正体なく眠っていた。事務室には、他に誰もいなかった。香田夫人は、助手を起こして夫の行方を訊こうとしたが、まるで目を覚まさない。頬を叩いてもだめだった。

 彼は、後刻警察がやって来て、ヒロポンを投与してアンモニアを嗅がせるまで、目を覚まさなかった」

「薬、ですか……」

「その通り」

 

 窓からカフェに目を移し、タキオンは続けた。

 

「事務室のテーブルに、昨晩の夕食が食べかけのまま残されていた。不寝番が言うには、夕食を摂っている途中に強烈な眠気を感じ、それ以降のことは何も覚えていないらしい。火曜に警察の嘱託医が調べたところ、相当な量のアヘン末が含まれていたようだ。一服盛られた、というやつだねぇ」

「彼は、気が付かなったんでしょうか……ご飯に薬物が混ぜられていることに……」

「夕飯はライスカレーだったらしいよ。アヘン末はカレー粉と似たような色だし、辛さが十分に強ければ、アヘンの味もわからないだろうねぇ」

「そう、ですか……」

 

 カフェが再び沈黙すると、タキオンは視線を窓に戻した。

 

「事態が事態なので、夫人は二階にあるブレイズの居室へ向かった。居室のドアも未施錠で、ブレイズも香田君もいなかった。テーブルに食べかけのライスカレーがあり、後でわかったことだが、これにもやはり、相当な量のアヘン末が含まれていた。

 同じ営舎にもう二人、香田君が担当しているウマ娘がいて、夫人は彼女らを叩き起こしてブレイズの行方を尋ねた。誰も知らなかった。内の一人は、そう眠りが深い方ではないから、尋常ではない物音がしたら目を覚ましたはずだと言った。つまり、少なくともブレイズの居室で暴力沙汰があったわけではないようだ」

 

 列車がトンネルに入り、窓ガラスががたがたと音を立てた。気圧が変わったためか、ガス灯の火がぼうっと強くなり、真下にいるタキオンの顔を強烈に照らす。

 

「彼女ら──香田夫人と女中、二人のウマ娘──は、ブレイズと香田君が早朝のトレーニングに向かったのかもしれない、と考えた。ブレイズは朝に強い方ではなかったから、そんなことは前代未聞だったが、要するに、希望に縋ったわけだねぇ。

 しかし残念ながら、ウマ娘の一人が、兵営から少し離れた休耕田で、香田君が倒れているのを見つけたわけだ」

 

 トンネルを抜けると、ガス灯の圧も元に戻った。実際には元の明るさに戻っただけなのに、カフェには、室内がなんだか暗くなったように感じられた、

 

「幸いにも、まだ息はあった。営内には医務室もあり、そこの二階は雇われ医師の居住区画になっていた。香田君はそこに担ぎ込まれ、手当てを受け、一命をとりとめたが、今なお意識不明のままだ。その医師と、警察医の見立てでは、内腿に鋭利な刃物による、浅くて長い切り傷があるほか、額をなにか固いもので強く一撃されていて、頭蓋骨が割れ、前頭部にひどい挫傷を負っているらしい。まだ生きているのが奇跡だそうだ。

 そんなわけで、香田君が息を吹き返して犯人を教えてくれる見込みは、今のところない」

 

 夜の闇に沈んでいるため変わり映えしない景色に飽きたのか、タキオンは窓辺を離れ、カフェの隣に腰を下ろした。

 

「ところでカフェ、大人になった今では、君も私も承知していると思うが、世の中には、私たちウマ娘のレースで金の遣り取りをしている連中が存在する。もちろん違法だ。違法だが、横行している。警察諸君も頑張ってくれているが、賭博は現行犯じゃなきゃ検挙できないのが悩み所らしいねぇ。

 とにかく、市井のウマ娘ファンに限らず、そんな闇賭博師たちにもブレイズは人気だ。倍率はたぶん、後ほど暮警部が教えてくれるだろうが、三対一とかそんなところだろう。私も以前、自分が東京クラシックに出走したときの倍率をちょっと調べたことがあるが、七対二とか三対一くらいだったねぇ。

 しかし、ブレイズに出走してほしくない連中もいる。胴元と、大穴目当てでブレイズ以外に賭けている連中だな。そして、そんな連中の一人が、前夜に兵営を訪れていたそうだ」

 

 ごろり、と寝台に寝転がり、足は寝台の外でゆっくりとばたつかせながら、タキオンは物憂げな口調で続けた。

 

「現役当時、私たちは府中の中央養成所にいて、あそこは軍隊が管理していたから、そういう野暮な連中がのこのこ入って来るようなことはなかったがね。しかし、伝統的に『兵営』と呼び慣わされているだけの私設養成所では、話が違う。警衛巡査が立っているわけでも、営内に憲兵がいるわけでもないからねぇ。

 日曜日の夜、女中の斎藤ケイ子が、三人のウマ娘と不寝番のために夕食を持って行く途中、一人の男に出くわした。この男は予想屋という、分業化された闇賭博師たちの一種で、儲かるウマ娘を予想して、それを胴元や賭博師に教えて金を取るわけだ。その予想屋と女中の間に、正確にどのような会話が交わされたのかは不明だが、どうやら女中を百円札で懐柔して、トレーナー助手とお近づきになりたかったらしいな。ところが女中は逃げ出した。予想屋がとても太い、棍棒のような杖を持っていて、断ったら(なぐ)られると思ったそうだ。営舎に入り、事務室の窓口越しに、不寝番(ふしんばん)の助手に助けを求めた。助手は女中に、庁舎に戻って香田君を呼んでくるよう言いつけ、犬を(けしか)けるために外に出た。女中は庁舎に戻る途中、ちょっと振り返って、予想屋が窓口に身を乗り出しているのを見たそうだ。夕食は、そうすれば手が届くくらいのところに置いてきたという。

 助手が、裏口のほうに繋いでいた犬を連れて戻ってくると、もう予想屋はいなくなっていた。彼はウマ娘たちの安全を優先し、階段に犬を繋いでおいて、二階のウマ娘たちの安否を確かめた。三人とも無事だった。彼は他の空室や物置を調べ、駆けつけてきた香田君と、庁舎の事務室に残っていた他の二人の助手とともに、営内をくまなく捜索したが、予想屋は立ち去った後だった」

「では……前夜にそんな物騒なことがあったから……香田さんは夜更けに見廻りに行こうとした、というわけですか……」

「そのようだねぇ」

 

 タキオンは起き上がり、「んーっ」と高い声で伸びをした。

 

「この予想屋は、榊優二という男で、東京の金持ちの次男坊だ。いいところのお坊ちゃんだが、賭け事で身を持ち崩し、家の金に手を付けて勘当され、今では予想屋なんぞやっているらしい。

 新聞で知っての通り、彼は草津の宿に泊まっていたところ、火曜日の夕方に逮捕された。

 女中は、彼がアスコットタイを締めていたのを覚えていたが、倒れていた香田君は、まさにそのタイを握りしめていたという。香田君の怪我は、榊君の杖で撲られればそんな傷がつくだろう、というものだそうだ。そして草津署と警視庁の調べでは、この榊君は自分で胴元もしていて、ブレイズの勝ちにかなりの額が賭けられているらしい。倍率は破格の二対一だが、このまま下バ評通りにブレイズが勝てば、榊君は大損どころの話ではない。払戻不能になった胴元は、東京湾に投げ込まれるらしいよ。ああいった闇賭博はやくざな連中が仕切っているから、そういう不義理をはたらく人間は、見せしめにされるわけだ」

「動機もあり……機会もあり……証拠もある、わけですね……」

「その通り。どうやら、よく理解できているようだねぇ、カフェ」

 

 タキオンは寝台から立ち上がると、カフェの真向かいの壁に寄り掛かり、正面からカフェを見つめた。

 

「警察は榊君を犯人だと思っているようだし、正直言って、私もそう思っている。他にそれらしい候補もないからね。しかし、問題点が二つある。

 一つは、確実な証拠が一つもない、ということだ。今朝の朝刊に載っていた予審判事の寸評は、君も読んだだろう。香田君の傷は、医者が処置をしてしまったから、確実に榊君の杖でつけられたものだ、とは断言できない。杖の方にも、血痕らしきものは見あたらない。アスコットタイは留め具が壊れていて、兵営から逃げる際に落としたものだ、という榊君の主張は、筋が通っている。香田君は、その手にべっとりと血が付いたナイフを握っていたが、榊君がそれで切りつけられたなら当然付いたであろう傷痕が、一切ない。そして今のところ、榊君がどこから大量のアヘン末を調達したのかも、突き止められていない。

 二つ目は、そもそもブレイズの行方が杳としてしれない、ということだねぇ。榊君は当然、『一切知らない』と主張し続けている。恐らく、警察の方でも穏便なのから野蛮なのから、あらゆる手段で尋問しただろうが、今日の夕刊が刷られた時点では、知らないの一点張りだ。兵営の所有者の油小路男爵が、発見者には二万円──ダービイの一着賞金と同額だよ──の報酬を支払う、と請け負ったにも関わらず、あの辺りは田舎で、ブレイズを他人と見間違う可能性は全然ないにも関わらず、また、道路と鉄道は、警察がしっかりと目を光らせているにも関わらず、ブレイズは見つかるどころか、それらしい目撃証言さえ出ていない」

「不可解ですね……」

「ああ、不可解だ。暮警部は、ブレイズが山中を彷徨っているものと考えているようだが……私にはそう思えない。とはいえ、私はウマ娘で、警部は年がら年中逃げ回る悪党どもを相手取っているわけだからねぇ。そこは、仕方のない考え方の違いだな」

 

 区分室のドアがノックされた。タキオンが「どうぞ!」と叫ぶと、きちんとした制服姿の列車給仕が顔をのぞかせた。

 

「失礼致します。明日の朝食のご注文を伺いに参りました」

「ご苦労! 献立表は? ああ、ありがとう。ほら、カフェ、こっちにおいで。(かどわ)かしのことは一旦忘れて、明朝何で英気を養うか、それに頭を悩まそうじゃないか」

 

 一等寝台車はがらがらだったので、列車給仕はのんびりと、二人が朝食を決めるのを待っていた。

 

 

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