シルバーブレイズ誘拐事件   作:Marshal. K

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シルバーブレイズ誘拐事件 二

 

「失礼、アグネスタキオン先生と、お連れ様ですかな」

 

 金曜日の午前十一時。急行列車は大津駅に到着した。駅手から旅行鞄を受け取り、駅舎から出ると、黒い詰襟の制服を着込み、立派な鼻髭を蓄えた警官が、二人に話しかけた。

 

「ああ、そうとも。では、君が草津署長の暮五郎警部かな」

「いかにも、さようです。初めまして、先生」

「初めまして、警部」

 

 タキオンが手を差し出し、警部がそれを控えめに握った。警部はそれから、自身の脇に立っている、しっかりしたツイードの背広に丸いダービイハットという、いかにも有閑階級風の、ほっそりした男性を紹介した。

 

「こちらが金勝(かねかつ)兵営の『連隊長』であられる、油小路秀幸男爵閣下です」

「油小路です」

 

 男爵は、口調こそ敬語であったものの、その声音に敬意は欠片もなく、むしろ猜疑を浮かべていた。

 タキオンは、警部と同じように男爵とも握手を交わすと、二人にマンハッタンカフェを助手として紹介した。訂正するのも面倒で、カフェは口を挟まなかった。

 

「ええ、お二人の事は存じています。これでも、レース関係者の端くれですからな。しかし──」

 

 油小路男爵は、疑い深げな視線を暮警部を投げて続けた。

 

「お二人とも、警官ではいらっしゃらない。つまり、その道では素人ということだ。お二人に滋賀までご足労頂く必要が、失礼ながら、私には解りかねますな」

「まあ、そう言わないでください、閣下。警視庁の方からの推薦なのです。ウマ娘が関連する事件で、何度も的確な助言を頂いている、と」

「私は、そのような話を聞いたことがないのでね、警部」

「まあ、そうだろうねぇ」

 

 タキオンが、若干うんざりした口調で、口を挟んだ。

 

「警視庁に同期が勤めていてねぇ。彼女が私のところに押しかけて来て、助言を寄越せと煩く()くので、少々知恵を貸してやったのさ。その時、私の名前は出さないよう、重ねて頼んだのだよ。そうすれば、内務省のお偉いさんたちも、文部省の一教官に天下の警視庁警部補が助けてもらった、などという風聞を気にしなくていいし、彼らに人事権を握られてびくびくしている、うちの総長も教授も安心だし。なにより私自身が、大衆の好奇の目に晒されず、自分の研究に専念できるのでねぇ」

「しかし、警察部内では、なかなか有名な話ですよ」

 

 警部がそう指摘すると、タキオンは顔をしかめた。

 

「ふぅン、では、ポッケ君にはお灸を据えなくてはならないな」

 

 

 

 

 

 駅前の道路には、ぴかぴかに黒光りするカブトムシのような、大きな米国製ビュイック・ロードマスターが停まっていた。ぱりっとした制服に身を包み、後部ドアを開けて待っている運転手は、ウマ娘だった。制帽の庇の下の顔は無表情だったが、カフェの見間違いでなければ、タキオンが「ありがとう」と声をかけた時、ぱっと顔を赤らめたようだった。それがなぜか無性に腹立たしく、カフェはつんとして運転手を無視し、後席に乗り込んだ。

 後席は、上座にあたる助手席の後ろ──ビュイックは左ハンドルだった──に油小路男爵が座り、その隣にタキオン、カフェが並んだ。暮警部は女性陣に後席を譲り、助手席に回った。

 暮警部は、自身の評価や進退がかかっている以上当然であるが、頭の中にはこの事件の事しかないらしく、ベンチシート型の前席の、革張りの背もたれに左腕を置いて、ほとんど振り向かんばかりになりながら、自分の見解をタキオンに聞かせた。カフェは、窓の外を流れる田舎の景色を眺めながらそれを聴いていたが、前夜汽車の中でタキオンが整理した内容と概ね同じだった。タキオンは、警部が自身と同じ程度の思考回路を持っていることを再確認して、満足気に時折相槌を返していた。油小路男爵は、警部にはすでに散々話を聞かされていると見え、『能書きよりも、早くシルバーブレイズを取り戻してくれ』と言わんばかりの表情を浮かべていたが、そう口に出すほどの不躾さは持ち合わせていなかった。

 

「私は、榊のやつが犯人である、と確信を持っています」

 

 一通り説明を終えると、警部はそう断言した。が、素直にこう付け足した。

 

「しかし、私が持っている証拠は状況証拠ばかりで、なにか新しい証拠や証言が見つかれば、あるいはそれを榊の弁護人が見つけ出せば、簡単に突き崩されてしまうものだ、ということもわかっているつもりです」

「香田君が持っていたという、あの血のついたナイフだが。それはどう考えているんだい、警部」

 

 風防ガラスの向こうの、不確かな前方に目線を彷徨わせながら、タキオンは訊いた。

 

「香田君が倒れた拍子に、自分で自分を刺した、と考えています。頭を(なぐ)られたんですから、多少は痙攣したでしょう。その動きの中で自分の腿を刺したと考えても矛盾はない、と守屋先生──当署で嘱託している警察医です──も太鼓判を押してくれました」

「ふぅン。まあ、私も異論はないよ。錠前の方はどうだったね、警部。傷は無かったかな」

「営舎の錠前ですか? はい。本部から鑑識専門の刑事巡査を呼んで、調べてもらいましたが、中も外も綺麗なものです」

「となると、榊君は合鍵を持っていたことになるねぇ。それは?」

「逮捕した時点では、持っていませんでした。宿からも発見されておりません。しかし、犯行後に山の中なりその辺の田畑なり、どこへでも捨てられます。金勝では、そういったところに困りませんからな」

「ふぅン……」

 

 あまり納得していないが、反論もできない、という様子で、タキオンは背もたれにもたれかかった。右手を口元にあて、左手の人差し指で膝をとんとん叩いていたが、やがて口を開いた。

 

「アヘンの出処はわかったのかい?」

「いいえ。少なくとも、この近隣ではないようです。使われた量が量でしたので、衛生課が全ての警察署に通達を出して、病院、個人医院、薬局などを調べさせました。どこにも、榊か、彼と思しき男に大量のアヘンを売った記録はありません。窃盗の痕跡もありません」

「兵営の医務室は?」

「真っ先に調べました。帳簿に瑕疵はなく、保管されているアヘン末の量も間違いありません」

「とすると、これは榊君に有利な証拠になるねぇ」

「いいえ、東京から持ち込んだ可能性を否定できません」

「それはそうだな。周辺の捜索はどうだったんだい。何か、成果はなかったのかな」

「いいえ、何も。周辺十キロメートル圏内の村の家々、宿、寺、納屋、学校、ちょっとした洞穴まで探しましたが、どこにもブレイズはいません」

「隣の村にもう一つ兵営がある、という話だっただろう。あそこは?」

「東坂兵営ですね。もちろん調べました。あそこには、日曜の中外商業賞で二番人気のデスバラがいますし、それを抜きにしても、訓練生やら使用人やら、大勢ウマ娘がいますからな。木を隠すには、と言うでしょう? とはいえ、あそこにもいませんでしたよ」

「確かかね?」

「確かも確かです。殊にウマ娘は、私が一人一人確かめましたから」

「東坂兵営、あるいは所有者の垪和(はが)子爵やあそこの使用人と、榊君の間に、繋がりらしきものは?」

「ありません、何も。ただし、東坂兵営のトレーナーである真島君は、香田君と仲が悪かったと」

「それは私も新聞で読んだよ。トレーニングの方向性の違いで、顔を突き合わせれば議論になり、つかみ合いになるようなことも珍しくなかったらしいねぇ。とはいえ、相手を殺すようなところまでいくものかな? お互いに、自分の担当ウマ娘の走りで決着をつけそうなものじゃないか。トレーナーとは、そういう人種だろう」

「そうかもしれませんな。それにどのみち、真島君は本件には無関係でしょう、おそらく……」

 

 暮警部は、妙にもごもご言う感じで、言葉を尻切れトンボに終わらせた。

 

「何か、真島君に気になるところがあるのかな、警部?」

「いいえ……いいえ、ありません」

「ふぅン」

 

 タキオンが再び黙考に入り、金勝兵営に着くまで、車内には沈黙が下りた。

 

 

 

 

 

 大津駅から丸一時間かけて、油小路男爵のビュイックは金勝兵営に到着した。

 マンハッタンカフェは自動車から降りると、周りを見渡した。確かにアグネスタキオンの言った通り、そこは田舎だった。兵営の周りには田畑しかなく、背後には雑木林がどっしりと構えている。営門に続く私道はタール舗装されていたものの、金勝村は中心街さえ未舗装だった。そんな、よく言えば長閑(のどか)な、悪く言えば(ひな)びた景色に、ずんぐりとしたビュイックがあまりにも場違いに浮いている。

 

「現場と営舎と庁舎、どちらから参りますか?」

「庁舎には何があるんだい?」

 

 カフェが営門の外から中へと視線を戻すと、タキオンと暮警部が、庁舎の玄関前で話しているのが聞こえた。男爵は、運転手に何事か指示を与えていた。

 

「遺留品と被害者の所持品を、庁舎の上の部屋にまとめて置いてあります」

「では、まずそこから行こうか」

 

 庁舎は、洋館風二階建ての瀟洒な建物だった。小さいが立派な吹き抜けの玄関広間に入ると、淡い水色のお仕着せを着込んだ女中が待っていた。

 

「お帰りなさいませ、旦那様。お客様方も、遠路遥々よくお越し下さいました」

 

 女中は、男爵の帽子を預かると、下がる前に言った。

 

「旦那様、ご昼食はこちらで摂られますか」

「うむ、そのつもりだが」

「お連れ様方は、いかがいたしましょう」

「私は──」

 

 暮警部が、明らかに断るつもりで言い差したが、男爵がそれを遮った。

 

「皆様も、ここで召し上がる」

「かしこまりました」

「では、お言葉に甘えてご相伴に与ります、閣下」

「なに、構わんよ。ではお二方、二階へ……どうなさいました、タキオン先生」

 

 タキオンは、ホールの真ん中に突っ立ったまま、爛々と光らせた目で女中を見つめていた。見つめられている方は、居心地が悪そうにもじもじしている。その顔は独特の引き攣り方をしていた。いまにも笑ってしまいそうなのを必死にこらえている時の顔で、カフェにはすぐにそれとわかったが、他人からは、ただ苦しそうなようにしか思えなかった。

 

「具合が悪いのですか。女中の応対に何か、粗相でもありましたか──」

「献立だ」

 

 男爵の問いを無視して、タキオンが呟いた。その声音から、カフェは極度の昂奮を読み取った。

 

「献立だよ。君、」

 

 タキオンが女中の方に一歩踏み出し、女中は気圧されたのか三歩も後退った。

 

「事件当夜の献立だ。ライスカレー、そうだったね?」

「は、はい。そうでございました」

「それは、前から決まっていたことなのかい?」

「いいえ。金曜日、だったと記憶していますが、香田様が『ライスカレーが食べたくなった』とおっしゃったので、急遽日曜の献立を変更したのでございます」

「よくあることなのかな、それは」

「よく、と言うほどではありませんが、はい。しかし、レース前に限れば珍しい事でしたので、私も仰天しましたが──」

「ありがとう。いや、本当にありがとう!」

 

 男爵も警部も女中も、何が何やらわからない、という表情で困惑する中、タキオン一人が舞い上がり、奇妙に嬉しそうだった。カフェには、タキオンさんは何かに気付いたらしい、とは想像がついたが、何に気付いたのかはよくわからなかった。

 

「あの、タキオン先生」

 

 浮かれ騒ぐタキオンに、やや恐る恐るといった調子で、暮警部が声をかけた。

 

「重要なのですか、献立が?」

「重要だとも、警部、もちろん」

 

 ようやく昂奮の最初の波が引いたらしく、タキオンは声を落ち着かせて続けた。

 

「重要だが、まだ私の推論、いや妄想の域を出ないねぇ。昼食の支度ができるまで暇があるなら、是非、先に遺留品を確認させて頂きたいところだ」

 

 

 

 

 

 二階のその部屋は、香田トレーナーが書斎として使っていた部屋らしく、ちらかった執務卓、本がぎっしり詰まった本棚、簡素な応接セットなどが設えられていた。戸口から入ってすぐのところにある応接用テーブルには、濃い緑色の軍用毛布が二枚敷かれていて、その上に様々な品物が置かれている。

 

「向かって右の毛布の上にあるのが、発見された際に被害者が持っていたか、そのポケットに入っていたものです。左側には、現場から発見した遺留品を並べてあります」

「ふぅン」

 

 アグネスタキオンは、暮警部から借りた受けた白い真麻の手袋を嵌めると、向かって右の毛布の上にある、べっとりと赤黒いものがこびりついた刃物を取り上げた。

 

「これが例の、香田君が握っていたというナイフだね、警部?」

「さようで」

「ふぅン……カフェ、こういった刃物は、君も見たことがあるだろう?」

 

 マンハッタンカフェは、やや厭々ながら、固まった血糊がてらてらと光っている刃物を見た。大きくどっしりとした象牙の持ち手に反して、刃の大きさは、せいぜい山茶花の葉くらいしかない。

 

「メス、ですね……昔、養成所時代に、アナタがあの部屋に持ち込んでいました……」

「そう、その通り、これはメスだ。ただ、こんなにも小さくて薄い刃のものは、私も初めて見るよ。何か、途轍もなく繊細な処置に使うための物に違いない。その点はどうだい、警部、調べてあるんだろう?」

「ええ、もちろん」

 

 しかし詳細なことは覚えきれていなかったと見え、警部は慌てて手帳を取り出した。ページをめくり、目当ての記述を指で追いながら言う。

 

「警察医の守屋先生によると、それは『白内障メス』と呼ばれるものだそうです。眼科医が、白内障治療の際に、角膜に微細な施術をするためのものだそうで」

「白内障治療か、なるほど」

 

 タキオンはメスを毛布の上に置いた。分厚い毛布越しにも関わらず、ごとり、と重々しい音が鳴る。

 

「護身用のナイフとしては、なかなか奇妙な選択だねぇ。これは確かに香田君のものなのだね?」

「はい。業者に照会して確認しました。それに香田夫人が、事件当夜香田君が外に出る際に、寝室の化粧台の上からそのメスを持って行くのを確かに見た、とおっしゃっています」

「ふぅン」

 

 タキオンは続いて、様々な品々を手に取っては、眺め、毛布に戻すのを繰り返した。ぐっしょりと濡れて印刷の滲んだ『ゴールデンバット』のパック。中には濡れて駄目になってしまった両切煙草が数本。栄樹材の煙草ホールダー。銀の懐中時計。鉛筆が二本。

 タキオンは、鉛筆を削るためと思しき肥後守(ひごのかみ)を持ち上げて言った。

 

「どうだろう、警部。白内障メスよりもこちらの方が、護身用としては余程有能だと思うのだがねぇ」

「ううむ、確かに」

 

 警部は眉根に皺を寄せつつも、まあまあ納得のいく答えを捻り出した。

 

「その肥後守は、上着の内ポケットに入っていました。それを忘れて、メスを外套のポケットに突っ込んで出たんでしょう。咄嗟にナイフを出そうとしたなら、外套の前を開けて上着の襟許に手を入れるより、外套のポケットの中のものを使ったほうが早いですから」

「なるほど、ふぅン。そうかもしれないねぇ」

 

 タキオンは肥後守を置き、革製の札入れを手に取った。

 

「十円札が五枚入っているな。これは何かな? 勘定書きか?」

 

 折りたたまれた五枚の紙片を、タキオンは押し広げた。

 

「金勝村の八百屋と魚屋と、これは京都の蹄鉄屋からだな。これはあなたからの指図書ですね、男爵閣下?」

「左様」

 

 この先の出走予定について書かれた手書きの指図書を、タキオンが男爵の方に振ると、ぶっきらぼうな返事が返って来た。

 

「最後のこれも勘定書きだねぇ。しかし、香田君宛てではないな。警部、この中山太郎というのは、誰だい?」

「香田夫人によると、香田君の従弟だそうです。時折勘定書きが送られてきて、香田君が立て替えていたそうで」

「ふぅン」

 

 タキオンは、勘定書きをカフェの目の前に突き出した。

 

「どう思う、カフェ。知っての通り、私は服飾に疎くてねぇ」

 

 カフェは、警部と男爵から向けられる視線に辟易しつつも、勘定書きを読み、素直な感想を述べた。

 

「ここに書かれている通りの品物なら……妥当な値段、だと思います……」

「そうかい。なら、中山夫人は派手好きだな。二百円のイブニングドレスに、二十円の室内帽だって? まったく、服なんて、着られればいいだろうに……」

 

 他人の服飾の趣味にぶつぶつ文句を言いつつ、タキオンは左側の毛布の上の品物に移った。大きな男物の防水外套。蝋引き厚紙の小箱に入った、陸軍放出品の耐水燐寸(マッチ)。その燐寸の泥塗れになった燃え(かす)が一本。硝子の覆いが割れている、灯油燃料の遮蔽角灯(ダークランタン)。大小様々な鍵がついている鍵束。

 

「この外套はどこに置いてあったんだい、警部?」

「現場の休耕田の脇に、烏除けの案山子がありまして、その腕に掛けてありました」

「ふぅン。確か、事件当夜は、風は強くなかったと記憶しているが」

「ええ。雨は未明まで、ひどく降っていましたがね」

「となると、風で飛ばされてそこに掛かった、と言うわけではないな。香田君が自分で掛けたことになる。撲られた後に脱がされたのなら、もっと泥んこになっているはずだからねぇ」

「しかし、そうだとすると、香田君はあんなところで何をしていたんでしょう?」

 

 警部は困惑顔で言った。

 

「大雨の中で雨外套を脱いで、眼科用メスなんか持って、一体何を……」

「まさに、そこが重要なところだろうねぇ」

 

 タキオンは外套を毛布の上に置くと、書斎の中をぶらぶら歩きまわり始めた。執務卓の上の、読みかけらしい本を開き、抽斗を物色し、本棚を眺めてその内の一冊を抜き取った。タキオンがページをぱらぱらやっている間に、部屋に女中が入って来た。

 

「お取込みのところ、失礼いたします。昼食の支度ができましたが……」

「では、いただこうか」

 

 タキオンはぱたんと本を閉じ、本棚に戻しながら言った。

 

「腹ごしらえを終えたら、営舎と、現場のほうを見せてもらおうじゃないか。構いませんね、男爵閣下?」

 

 書斎から出ると、和装姿の女性が一人、待ち構えていたように話しかけてきた。

 

「警部さん、主人は、主人の容態は……」

「よく耐えています」

 

 顔色が悪く、脇に控える女中に腰を支えられてやっと立っている、という風情の女性に、暮警部は気遣わしげに手を差し伸べて言った。

 

「今朝も、草津病院に寄ってから参りましたが、先生もそうおっしゃっておりました。『予断を許さないが、よく耐えている』と」

「では、ブレイズは──シルバーブレイズの行方は……」

「全力を尽くして、捜しております」

「ちょっと失礼」

 

 タキオンが、後ろからするりと会話に割り込んだ。

 

「香田夫人のミツ代君、だね?」

「ええ、そうですが、この方は……?」

「帝大のアグネスタキオン助教授です」

 

 香田夫人が暮警部に問い、警部が答えた。

 

「今回の事件に関して、ウマ娘として知見を拝借いただいておりまして」

「アグネスタキオンというと、あのアグネスタキオンさんですか? 『超光速の──』」

「いかにも、それは私のことだねぇ」

 

 タキオンが、自然な動作で香田夫人の手を取って続ける。

 

「初めまして。と言っても、君とは以前お会いした気がするがねぇ。先週横浜レース場で行われた、体育局主催の会食会にお出でではなかったかな?」

「会食会? いいえ。私は、ここ数か月ほどは栗太を離れておりませんが......」

「ふぅン、そうかい? 確かに君だったと思ったのだがねぇ。立派な洋装姿で、印象に残ったんだ。雉鳩色の、見事なイブニングドレスを着ていたと思うが……」

「いいえ、そのような服は持っておりません」

「おやぁ。とすると、私の記憶違いだろうねぇ」

 

 大変失礼、とタキオンが詫びを述べると、女中が夫人に、そろそろ横になった方が良いのでは、とそれとなく促し、二人は二階の奥にある居間へと下がって行った。

 

「タキオン先生、さきほどのドレスの件ですが──」

 

 一階の食堂で、女中が食器を並べる間、暮警部が言い差した。

 

「選択肢を一つ、消したまでだよ」

 

 タキオンは短くそう答え、目の前の料理に過剰なまでの関心を示して、これ以上その件を話すつもりがないことを示した。

 

 

 

 

 

 営舎は、庁舎から一ハロンほど離れたところに建つ、庁舎と同じような洋館風木造二階建ての建物だった。庁舎と違って横に長く、奥行きはあまりない。

 油小路男爵が正面玄関のドアを開けると、玄関ホールの奥にある、二階へつながる階段の親柱に繋がれていた犬が、一瞬だけぱっと顔を輝かせた。が、その後ろに余所者三人組──暮警部、アグネスタキオン、マンハッタンカフェ──を見るや、般若もかくやという形相になり、紐を引きちぎらんばかりに引っ張りながら()えたてた。

 

「こら、こら、ジロ。お客様だぞ」

 

 男爵が歩み寄り、頭や首回りを撫でると、ジロは吼えるのをやめた。しかし、他の三人に殺気立った視線を送り、獰猛そうに喉を鳴らすのは止めなかった。

 

「威勢がいいねぇ」

 

 タキオンが、その程度で驚きはしなかった、とばかりに冷静な口調でそう言ったが、一同の一番最後に営舎に入ったカフェからは、ジロが吼えたてた途端に、タキオンが耳と肩をびくりとさせたのがとてもよく見えた。

 

「ジロはいつも、余所者に対してはあんな感じなのかい」

「ええ、そうです」

 

 警部が、若干うんざりしたような調子で答えた。

 

「私も、今週に入ってから毎日のようにここに通っているようなもんですが、未だに吼えられます。うちの巡査の中には、あれに足を噛まれたのもいましてな」

「なるほど。番犬としては極めて優秀、というわけだねぇ」

「ああ、男爵閣下と警部さんでしたか」

 

 右手の通路から男の声がして、一同がそちらに向いた。『事務室 コチラ→』と書かれた掲示のある廊下から、頑丈そうなツイードのウェストコートに鳥打帽(ハンチング)を被った若い男が出て来たところだった。柿の木の太い棍棒を、決まり悪げに体の後ろに隠そうとしながら言う。

 

「ジロがあんまり吼えるもんですから、また与太者が押し入ってきたのかと思いまして」

 

 それから、男爵と警部の後ろに控えている二人の方に目をやって、怪訝そうな顔を浮かべた。

 

「あれ、お二人の事は存じてますよ。アグネスタキオンさんとマンハッタンカフェさん、ですよね」

「いかにもその通り」

 

 タキオンが答えて、カフェの方に顔をめぐらせた。

 

「どうやら、我々もまだ忘れ去られてはいないようだよ、カフェ」

「それはそうでしょう……アナタのあの走りを忘れるのは、難しいと思います……」

「ふぅン。自分を含めないのは殊勝だがね、カフェ。君の走りだって、なかなか大したものだぞ。少なくとも、二千五百より長い距離では、私は君に敵わないのだからねぇ」

「よく言います……私の有マ記念連覇を、復帰一戦目で阻んだのは……どこのどなたですか」

「あー、あー、知らないな」

 

 韜晦(とうかい)するタキオンを戸惑ったような眼で眺めていた青年を、男爵がタイミングを見計らって二人に紹介した。

 

「これは、うちのトレーナー助手を勤めている鹿山君です」

「鹿山です」

「とすると、」

 

 タキオンがずいっと鹿山助手に歩み寄り、あまりの急さに歩み寄られたほうはぐいっと仰け反った。

 

「君が例の、事件当夜にここで不寝番(ふしんばん)を務めていた助手君かな?」

「ええ、さいです」

「では、あの夜何があったのか、改めて君自身の口から聴かせてくれたまえ」

 

 それから、一同は事務室に移動して鹿山助手の話を聴いたが、目新しい証言は得られなかった。

 

「では、ジロは一晩中あの階段のところに繋いであったんだね?」

「そうです」

「なら、もし不審者がシルバーブレイズの部屋まで上がろうとしたら、相当な声で吼えたてただろう。それは間違いないね?」

「ええ、そうでしょう。私はどうも、すっかり寝入っていたので、全然気が付けませんでしたが……」

「ふぅン」

 

 タキオンは、恥じ入るように言葉をすぼませた鹿山助手などまるで気にしない様子で、しばらく事務室の天井の隅を見つめていたが、やがてぴしゃりと膝を打って言った。

 

「よろしい。男爵閣下、都合がよければ、他のウマ娘二人からもお話を聴きたいのですがねぇ」

 

 

 

 

 

「はい。不審者が入って来たら、間違いなく目を覚ましたと思います」

 

 営舎二階の居室の一つで、金勝兵営所属のウマ娘、ベイリアルはそう答えた。

 

「ジロがぎゃんぎゃん鳴いたら、私なんか眠りがだいぶ浅い方ですから、寝てなんていられません。特にあの夜は、不埒な奴が入って来たばっかりでしたから」

 

 アグネスタキオンはその長い指で、自分の膝をしばらく叩いていたが、やがて暮警部に目をやって訊いた。

 

「彼女と、もう一人のウマ娘のカレーだが。その二人には、アヘン末は盛られていなかったのだね?」

「はい。皿と、その上に残っていたルーを調べた限りでは、アヘンは検出されなかったそうです」

「なるほど。ありがとう、ベイリアル君」

 

 居室を辞して階下に下りると、親柱のジロがまたしても吼え始めた。

 

「まったく、かないませんな」

 

 暮警部がぶつぶつと言った。

 

「来るたび来るたび、こうも吼えたてられちゃね。しかも、事件当夜には吼えなかったと言うんだから、まったく、まるで役に立ちませんよ──失礼、男爵閣下」

 

 警部は、番犬を貶された油小路男爵が不機嫌そうな表情になったのを認めて謝ったが、当の男爵も返す言葉がないようで、ぶすっと黙り込んでいた。

 

「そうだろうか」

 

 タキオンは、どことなく愉快そうな声音で警部に言った。

 

「ジロは私たちに、とてもいいヒントを与えてくれているよ。少なくとも、私はそう思うがねぇ」

「侵入者があったにも関わらず、吼えなかったのにですか?」

「吼えなかったからこそ、さ」

 

 

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