シルバーブレイズ誘拐事件   作:Marshal. K

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シルバーブレイズ誘拐事件 三

 

 兵営から少し離れた休耕田には、暮警部と同じ黒いサージの詰襟制服に身を包んだ巡査が一人、銜え煙草で立ち番をしていた。警部と油小路男爵がやって来るのを認めると、シケモクらしい手巻き煙草を丁寧に揉み消してポケットにしまい、四人が近づいたときには何食わぬ顔で敬礼して見せた。

 

「異状ないか、小森」

「ありません、警部」

 

 漂う煙草の香りを無視して警部が尋ねると、小森巡査は答えて続けた。

 

「東京から来た、例の東毎の記者が昨日までうろついてましたが、今日は静かなもんです」

「よろしい、立番を続けるように。タキオン先生、こちらです」

 

 休耕田には、あちこちに足跡が残っていた。四隅に岩を置いて固定した泥だらけの(むしろ)が、田の中ほどに敷かれており、それとは別にもっと新しめの筵が一枚、畦から下りてすぐの隅に敷かれていた。泥だらけの筵のすぐ横にある、特に深く抉れているあたりを指して、警部が言う。

 

「香田君はあそこに、我々から見て右手側に頭を向けて倒れていました。たぶん、(なぐ)り飛ばされて尻から落ちたんでしょう」

「ふぅン、なるほど。ここには警察の諸君が立ち入ったんだね?」

「いいえ」

 

 ちょっぴり誇らしげに、暮警部は続けた。

 

「電話で呼ばれた駐在が、あの端の、足痕(ソッコン)のないところに筵を敷かせまして。我々は皆、そこに立って見分を行いました」

「素晴らしい!」

 

 タキオンは叫び、畦の上の小森巡査にちらと視線をやってから訊いた。

 

「彼かい?」

「いえ、小森は本署の者です。駐在には駐在の仕事がありまして……一日中ここに張り付けておくわけには、とても」

 

 それだけではない事情もありそうな口調だったが、タキオンは警察の内情には深入りせず、話を事件に戻した。

 

「では、これらはみな兵営の者たちの足跡なんだね?」

「そうです。香田君のものとブレイズ君のもの、それから、香田君を発見したベイリアル君のものです。先生が確認なさりたいと思って、香田君とベイリアルの靴と、ブレイズが使っているのと同じ蹄鉄を持って来ました」

「いやはや、警部、君の準備の良さには恐れ入るねぇ! では、見せてもらおうか」

 

 靴と蹄鉄を受け取ったタキオンは、厚手で丈の長い旅行用外套の前をしっかりと閉じると、駐在巡査が敷かせたという筵をもっと現場近くまで移動させ、その上に俯せに伏せて現場を調べ始めた。小さな小石や、籾殻や、硝子の破片を拾い上げては丹念に調べ、足跡に靴や蹄鉄をはめ込んで見て回る。

 微に入り細を穿つ調査は三十分以上に渡って続き、その間に、油小路男爵と暮警部の足元には、紙巻煙草の吸殻がどんどん増えていった。マンハッタンカフェは、汽車から降りる前に食堂車でもらったコーヒーを、魔法瓶からちまちま飲んでいたが、それもほとんど無くなってしまった。

 放っておけば、タキオンの見分は一時間以上続きそうだったが、ついに男爵が露骨な咳払いをし、それを受けて警部が言った。

 

「先生、その辺りからはもう、何も見つからないと思いますよ。周辺三十メートル以内は、私と刑事巡査とで隈なく調べましたから。庁舎に置いてあった以上の物は、もう出てこないと思います」

「ほう、そうかい」

 

 タキオンは立ちあがると、外套の前に付いた乾いた泥や砂を払い落としながら続けた。

 

「では、これ以上この辺りを探って、君を侮辱するような真似はしないでおくとしよう、警部。そら、靴はお返しするよ。蹄鉄の方はまだ使い前がありそうだから、私の方で貰っておくとしよう」

 

 タキオンは蹄鉄をポケットに滑り込ませると、大きく一つ伸びをして続けた。

 

「しかし、田舎の景色と空気は綺麗だねぇ。これだけでも、東京から出てきた甲斐があるというものだよ。なあ、カフェ、君も山歩きは好きだっただろう。この辺りの地理を調べるためにも、ちょっとここいらをぶらぶら散歩してみないかい」

 

 あまりにもアグネスタキオンらしからぬ物言いに、カフェはすんでのところで「アナタはそんなことを言う柄じゃないでしょう……」という言葉を呑み込んだ。なにか企んでいなければ、こんな言葉が出てくるとは思えなかったからだ。

 平生のタキオンを知らない油小路男爵は、背広から銀時計を取り出してぱちっと蓋を開くと、時刻をちらと確認してから暮警部に言った。

 

「警部、一緒に庁舎へ戻ってもらえますかな。ブレイズの出走登録を取り消すべきかどうか、()()()()()()()()ご助言いただきたいのだが……」

「その点はご安心ください、男爵閣下」

 

 厭味たらしい強調を含んだ男爵の言葉に、タキオンが割り込んだ。

 

「ブレイズは出走できます。このアグネスタキオンが、確実に保証しますとも」

「それは、どうも」

 

 華族としては不躾なまでにほとんど猜疑を隠さず、短い返答を残して、男爵は警部を伴って立ち去った。

 

 

 

 

 

 

「暮警部には、警官としてしっかりした見識があるようだし、捜査手法も堅実だから、有能な警官だと言えるだろうねぇ」

 

 アグネスタキオンは、タール舗装の私道を未舗装の県道へ向かって歩きながら、横に並ぶマンハッタンカフェに言った。

 

「惜しむらくは、二つ程足りないものがある点だ。一つは部下の質だが、まあ、これについては仕方ないだろう。一介の田舎署長にどうこうできる問題ではないからねぇ。もう一つ、警部に足りないのは、想像力だよ」

「想像力、ですか……」

 

 少し承服しかねる声で、カフェは返した。

 

「香田トレーナーの、内腿の傷の件ですが......あれに関する推論をしっかり立てていたことを考慮すると、アナタの『想像力が足りない』という評価は、不当に思えますが……」

「そうかい? 血の付いた刃物を持った男が、まさにその刃物でつけられそうな傷を負っていたとなれば、それくらい想像力がなくとも、誰でも結論できると思うが──」

 

 結論できなかったカフェがむっとしたのに気づいてか、タキオンは途中で一度、言葉を切った。

 

「──とにかく、想像力が必要なのは、そこではないんだ。誰が香田君を撲ったか、ですらない。ここで考えるべきなのは、ブレイズはどこに行ったのか? さ」

 

 私道と県道が交わる丁字路に着くと、タキオンはくるりと振り返って、カフェと面と向き合う格好になって続けた。

 

「これは汽車の中でも言ったことだが、私たちはウマ娘であり、暮警部は違う。ウマ娘の中にも、孤独を好む変わり者はちらほらいるが、基本的には皆、誰かと一緒にいたがるものだ。警部も知識としては知っているかもしれないが、私たちにはそれが()()()

「その変わり者って、私の事ですか……」

「違う」

 

 タキオンは言下に否定した。

 

「君には君の『お友達』がいるだろう。ま、ブレイズにもひょっとしたら、『お友達』のような存在が見えるのかもしれないが、一旦そのようなことは無いと仮定しておこう。となれば、ブレイズは必ず、他にウマ娘がいるようなところにいる。そういうことになる」

「しかし……この辺りではそんなところ、金勝兵営と東坂兵営くらいしか、ありませんが……」

「そうだ。そして、金勝兵営にはいない。それはついさっき、君も私も確認したところだからね。となると、どうしてもブレイズは東坂兵営にいることになる」

 

 県道の東の方を指して、タキオンは言った。

 

「だから、我々も行ってみようじゃないか。生憎とこのあたりの地面は固くて、足跡はまるで望めない。だが、金勝村を抜けた、あの森の中辺りは、事件当夜のように大雨が降った晩には、きっとひどくぬかるんだはずだ」

「なるほど……それで、さっき蹄鉄を貰って来たわけですか……」

「そうとも! どうやら、私の助手が随分板についてきたようじゃないか、カフェ!」

 

 脇腹に強力な肘打ちを喰らい、タキオンはうっと呻いてしゃがみ込む羽目になった。

 

 

 

 

 

 金勝村から東坂村に続く県道は、途中で木々が鬱蒼と生い茂る森の中を通っている。西に傾いた太陽の光は梢に遮られて、道はとても薄暗かった。アグネスタキオンはその路面──彼女が言った通り、足跡とタイヤの跡ででこぼこになっていた──を緻密に調べながら、這うような速度で進んでいた。

 

「あった! あったぞ! カフェ、見てごらん!」

 

 ついに、勝ち誇ったようにタキオンが叫んだ。森のどこかでチチチと鳴いている鳥を目捜ししていたマンハッタンカフェは、タキオンが昂奮して指している路面に目を落とした。

 

「……蹄鉄を打った靴の足跡、ですね」

「その通り! そして……」

 

 タキオンはポケットから、先程頂戴してきたシルバーブレイズの蹄鉄を取り出すと、足跡の蹄鉄部分に落とした。蹄鉄は、穴にぴったりと嵌まった。

 

「これが想像力というものだよ!」

 

 鼻息荒く、タキオンが言った。

 

「私に有って、暮警部やポッケ君には足りないものだ。これさえあれば、暮警部も今頃は警視で、田舎の警察署長よりよっぽどいい地位にいただろう」

 

 タキオンは視線を上げ、道の先に続く足跡を目で追った。

 

「ふぅン、我々にとってはありがたいことに、ブレイズはここを通った時、泥濘(ぬかるみ)を避けて歩くような理性を持ち合わせていなかったようだねぇ。ではカフェ、この足跡を辿ってどこまで行けるか、試してみようじゃないか」

 

 二人はしばらくの間、まだ柔らかい地面にくっきりと残っているブレイズの足跡を追って、県道を東坂村へと歩いて行った。

 森を抜けてすぐ、視界が開けたあたりで、タキオンが再び声を上げた。

 

「おや、おや! 何があったのかな」

 

 道に、誰かが尻もちをついたような跡が残っていた。その周りは足跡が乱れていて、タキオンはその地面を熱心に調べてから言った。

 

「ふぅン、再び想像力の出番、と言うわけだ……たぶんだが、尻もちをついたのはブレイズだろうねぇ。そら、カフェ、見たまえ。新たな第三者の足跡の登場だよ」

 

 蹄鉄の打っていない、大きめの靴の跡が、誰かのお尻のあとの周りにたくさんついていた。

 

「これは……男の人の靴ですね……イタリー風の作りです」

「この爪先が、かい?」

「ええ、そうです……ここ数年、米国の方で流行っているそうですよ……」

「なるほど。確かに、特徴的に尖っているな。こいつで蹴られたら痛そうだ」

 

 タキオンは、道路の先の方を見透かすようにしながら続けた。

 

「ブレイズの足跡は、ここで途絶えているな。一方で、この変わったイタリー靴の持ち主は、向こうの東坂村の方から来たようだ。そして、尻もちをついたブレイズの周りをうろついた後、再び村の方へ取って返している。この男が、ブレイズを担ぐかどうかして連れ去ったと考えても、大した論理の飛躍にはならないだろう。さてさて、この人物はどこの誰で、私たちをどこに導いてくれるのかな?」

 

 ブレイズの蹄鉄靴から、最近流行りのイタリー靴に対象を変えた追跡劇は、しかしすぐに終わることになった。東坂村の少し手前に、県道から分かれるタール舗装の道路があり、イタリー靴の足跡はそこで途絶えていた。『東坂兵営 コノ先私有地 関係者以外ノ立入ヲ禁ズ』と書かれた立て看板を前に、タキオンは微笑を浮かべてカフェを見た。

 

「こういうわけさ。さて、垪和(はが)子爵はさすがにご不在だろうが、真島トレーナーがなんと釈明するか、聞きに行ってみようじゃないか」

 

 

 

 

 

 県道から数百メートル奥まったところに、東坂兵営の営門はあった。その少し手前に、この春先には少し肌寒そうな薄い木綿の背広に鳥打帽(ハンチング)を被った男が一人、煉瓦積みの塀に寄り掛かって立っていた。男はやってくる二人を認めると、銜えていた敷島を地面に落として踏み消した。男の周りには口付煙草の吸殻が、誘蛾灯の周りの虫の死骸よろしく散らばっている。

 

「おや、これはこれは。アグネスタキオンさんとマンハッタンカフェさんじゃありませんか」

 

 男はそう言い、妙に人懐っこく馴れ馴れしい口調で付け加えた。

 

「こんな山奥で、奇遇ですね」

「そういう君は、どこの誰かな。生憎と、正式に紹介された覚えはないとお見受けするが」

 

 対するタキオンの返答は、鋭い、温かみを欠いたものだった。二人とも現役時代には、このような手合いと触れ合うことも多かったため、その素性はほとんど、立ち姿を見た瞬間からわかったのだ。

 男の方は、常人ならばたじろいでしまうような、冷淡の一言に尽きるタキオンの視線と反応をまるで意に介さず、馴れ馴れしくて当然と言わんばかりの口調で自己紹介した。

 

「これは失敬。私は『東京毎日新聞』の黒田と言います。どうぞよろしく」

 

 差し出された名刺──横書きで、明朝体で刷られた名前や連絡先の下に、気障ったらしい凝った装飾欧字(ゴチック)体の英語表記が連なっている──を、タキオンは『不躾な態度には、不躾な態度で応じる』とばかりに無視して訊いた。

 

「中外商業賞に出るデスバラの取材かい?」

「いいええ、違いますよ」

 

 黒田記者は、すげない態度は慣れっこのようで、表情を変えずに名刺を引っ込めながら続ける。

 

「私は社会部の『犯罪特派員』なんです、体育部の競走専門の方じゃなくてね。ここにいるのは例の、金勝の誘拐事件の件ですよ」

「ほう。なら君は、いるべき場所を間違えているよ。ここは東坂村だ。金勝はここから二キロばかり西だよ」

「ええ、ええ、わかってます」

「それなら、なぜこんなところで油を売っているんだい。本社に対するサボタージュか何かかな?」

「きっと、先生と同じ理由だと拝察しますがね」

 

 愛想のいい顔に、挑戦するような表情が浮かんだ。タキオンはそれを不快に思いながら、

 

「違うと思うね。『競走特派員』ならともかく、社会部の犯罪無頼(ゴロ)風情と同じ理由だとは、とても思えないな。君は、デスバラの末脚の爆発力を取材に来たわけではないんだろう?」

「違います、もちろん」

「では、話は終わりだ。私は自分の研究の一環として、デスバラ君の調査にやって来た。以上だ」

「ジャングルポケット警部補は──」

 

 冷たく言い捨てて脇を通り抜けようとしたタキオンに、黒田が声をかけ、その足を止めさせた。

 

「──以前、貴女に手助けしてもらったらしい、という話を聞いています。大津の方で耳に挟んだ噂じゃ、警察部が警視庁に助力を乞うて、誰か助っ人を出してもらったとか」

「らしい、かね。噂、かね。ふっ」

 

 タキオンは、堪えきれずに失笑した風に鼻を鳴らしてから、すぐに大声で笑いだした。

 

「はっはっはっはっ! 君、天下の警視庁警部補が、文部省の下級教官に助けを乞うたと、本気で信じているのかい?」

「有り得る話だと思っていますよ」

「だとしたら君は莫迦(ばか)だ。新聞記者など辞めたまえ。ああいや、君のところは『そういう』新聞だったな。根も葉もない噂をあたかも事実のように書き、火の無いところで煙を立てる名人だった。失敬失敬」

 

 あまりにも可笑しそうに笑うタキオンを前に、黒田記者の顔つきは、段々と鼻白んだものに変わっていった。

 

「では、今回の訪問はシルバーブレイズの事件とは関係ない、と?」

「そう言ってるじゃないか、君。わかったら金勝の郵便局に戻って、有楽町に電報を打つといい。『アグネスタキオン助教授は、デスバラの末脚の爆発力に甚大なる興味を抱いている』、とね。体育部や文化部の諸君からは、大層喜ばれるだろう」

「どうも、見込み違いだったかな」

 

 新聞記者は首を振り、呟くように言った。

 

「ま、体育部からの評価なんてどうでもいいんでね。私はここで、私の仕事を続けますよ」

「そうかい。ま、頑張りたまえ。行こうか、カフェ」

 

 記者は塀際へと戻り、二人は今度こそ、営門へと向かった。

 そこは金勝兵営と同じように、営門のすぐ正面に、洋館風木造二階建ての庁舎が建っていた。車回しの中央にちょっとした植栽があり、幹をよじらせた松の剪定をしているウマ娘に、タキオンは声をかけた。

 

「やあやあ、精が出るねえ。ちょっと伺いたいんだが──」

「わあ! ア、アグネスタキオンさんですか!?」

 

 丈夫そのものなギャバジン織りのシャツに、米軍放出品風のダンガリー(デニム)のズボンを穿いた葦毛のウマ娘は、タキオンを見るなり声を上げ、高枝用の剪定鋏を放り出して駆け寄って来た。

 

「ようこそ、東坂兵営へ! お会いできて光栄です!」

 

 きらきらした目で昂奮を隠せないウマ娘を見ているうちに、カフェは、養成所時代に営舎で同室だったウマ娘を思い出した。彼女も、都会出身のウマ娘たちに、似たような憧れの視線を送っていたっけ……。

 

「で、そちらはマンハッタンカフェさんですよね! わあ、夢みたいだ。お二人にこんな近くでお会いできるなんて!」

「おやおや、会うだけでこんなに喜んでもらえるとは。ちょっと失礼して、今の君の血圧と心拍数などを計らせてもらえるかな──」

「タキオンさん」

 

 水銀血圧計を取り出さんと外套のポケットを手探りし始めたタキオンを、カフェが、低いがはっきりした声で遮った。

 

「用件の方を、早く済ませましょう……もうすぐ、日も暮れてしまいます……」

「それもそうか」

 

 タキオンは素直にそう言い、カフェの目が正しければ若干がっかりしたように見える、その葦毛のウマ娘に質問した。

 

「君のところの真島トレーナーに用があるんだがね。朝の五時くらいに来たら、迷惑かな?」

「いえいえ! うちのトレーナーさんは早起きですから。それこそ、三時過ぎにはもう起きていて、新聞配達の娘から自分で朝刊を受け取ったりするんですよ。あ、トレーナーさんに御用なら、今呼んで来ることもできますよ!」

「ほう。では、お願いしよう」

「もちろんです! すぐに連れてまいりますね!」

 

 言うなり彼女は踵を返すと、ウマ娘脚力を存分に発揮して駆けだし、あっというまに庁舎の角を回って姿を消してしまった。

 

「……と、言うわけで、私たちは応接室などではなく、車回しの真ん中に突っ立って真島君を待たなくてはいけないようだ」

「随分昂奮してましたからね……」

「参ったな。君がしていたように、私も食堂車で紅茶を貰っておくべきだったか……」

 

 しかし、長くはかからなかった。まもなく、粗いツイードのウェイスト・コートに揃いのズボンを合わせた、体格のいい男が一人、険しい顔でのしのしと歩いて来た。

 

「やあ、こんにちは。君がこの兵営の真島トレーナーかな?」

「ええ。アグネスタキオンさんと、そちらはマンハッタンカフェさんですな? ご用件を伺いましょう」

「ここで、かい? できれば、庁舎の中の方がいいんだがねぇ」

「こっちは忙しいんです」

 

 真島は素っ気なく言って続けた。

 

「中外商業賞が迫っていて、うちのデスバラは最後の追い込みに入ってるんですから。込み入ったご用件なら、来週以降に出直して──」

 

 タキオンが前のめりに身をかがめ、真島に何事か囁いたので、トレーナーの言葉は途切れた。その首が、顔が、見る間に真っ赤になり、険しい顔は般若の如き形相に変わった。

 

出鱈目(でたらめ)だ!」

 

 真島はそう叫んだ。

 

「中傷だ、とんでもない大法螺(ぼら)だ!」

「ふぅン。では、私が知っていることを話して聞かせよう。今ここで、大声で」

 

 タキオンは静かに、塀の向こうにちらっと視線を飛ばして続けた。

 

「あの塀の外に、黒田とかいう『東京毎日』の記者が頑張っているが、それは私の知ったことじゃないからねぇ」

 

 その一言は効果覿面で、真っ赤な顔色がさっと蒼白になった。

 

「や、やはり中で話し合いましょう。お茶などお出ししますから……」

「それはありがたい。砂糖は沢山付けてくれたまえ。ああ、カフェ。すまないが、君はここで待っていてくれないか。なに、二、三十分とかかるまい。私がそれまでに戻れなかったら、金勝に帰って、例の電報を代わりに打っておくれ」

 

 『例の電報』が何を意味するのか、カフェには一瞬わからなかったが、追い詰められた表情の真島の顔とタキオンを交互に見るうちに、なんとなく底意が読み取れた。

 実際には、タキオンがどんな推理を繰り広げているのかを、カフェは全然知らないけれど、真島の方はそんな事情を知らない。タキオンが『真相』をすでにカフェに話していて、もしタキオンが無事に戻らなければ、カフェがそれを警察なり新聞社なりに打電する。そういう手筈になっている、と真島に思わせることで、万が一に備えようと思っているのだろう。

 『小狡(こずる)い人……』と頭の中で思いつつも、カフェはいかにも解ったような顔で頷いた。

 

「わかりました……」

「頼んだよ。では真島君、君のもてなしを受けようか」

 

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