『曇り空の下、中山レース場。天気はなんとか持ち堪え、芝は良バ場の発表であります』
全面改築されて間もない、中山競走場の真新しい
中外商業賞は、春の帝室御賞典の行く末を占う一戦となるだけに、上は特別席から下は立見席まで、普段の重賞競走よりも多めの客入りになっていた。
『一番人気は四枠四番、三冠ウマ娘シルバーブレイズ。三枠三番、
出走ウマ娘たちが三々五々に、ネット状のスターティング・ゲートに前後を挟まれた発走線の、指定された自分の枠位置に入っていく。スタート台に登った白い制服姿の発走委員が赤い手旗を掲げると、観覧席前の外埒沿いに整列した陸軍習志野旅団のウマ娘
『枠入り完了。中外商業賞、まもなく発走です』
そのアナウンスを合図に、向正面のウマ娘たちに投げかけられていた大きな声援がふいと止んで、競走場内が一瞬の静寂に包まれた。
手旗が振られ、撥ね上げられたゲートの下から、ウマ娘たちが一斉に走り出すのが見えた。
『スタートです』
『先行争いはゼッケン一番シナモンジャケット、三番デスバラ、五番アイリス。一バ身、二バ身差で続きまして六番ラスパー、二番ピュージリスト。一番人気の四番シルバーブレイズは最後方から、という並びであります』
「あれは、大丈夫なんでしょうか?」
心配そうな声でそう言ったのは、暮警部だ。タキオンは警部をちらと見、本当に心配しているらしいのを見て取って訊いた。
「警部、君は、ブレイズ君の走りを見るのは初めてかい?」
「ええ、お恥ずかしながら。以前、彼女が草津競走場に来たことがあるのですが、当日は警戒警備でてんてこ舞いでして......」
「ふぅン、なるほどね。では、教えてあげよう。あれが普段通りの、彼女の走りだよ」
『第四コーナーを抜けて、ウマ娘たちが最初の直線に差し掛かって参ります』
実況を受けて、三人は再び眼下のバ場へ視線を戻す。三人固まった先頭集団が、正面の直線に入ってきたところだった。観覧席から大きな声援が沸き上がる。
『先頭を行くのはゼッケン一番シナモンジャケット。すぐに続いて三番デスバラ。その外並んで五番アイリス。二バ身三バ身離れて六番ラスパー。一バ身差で二番ピュージリスト。そのすぐ後ろに四番シルバーブレイズ、最後方』
「彼女は追い込み型の走りを得意としている」
タキオンが警部に、予科の学生相手に講義をする時のような調子で言う。
「一般的な追込ウマ娘は、道中を後方から最後方に占めて体力を温存し、最終直線で一気に加速してごぼう抜きを狙うんだ。ただし、ブレイズ君の場合は少々違って、第三コーナーの辺りから、徐々に徐々に速度を上げて進出していくんだ」
「なるほど。では、いま最後方にいるからといって、不利というわけではないんですな?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
困惑した顔つきの警部をよそに、タキオンは伸びあがって、向正面に目を凝らした。まるで、放送席からその様子を目敏く見つけたかのようなタイミングで、アナウンサーの声が響く。
『電波塔が見守る向正面に入って、先頭は変わらずゼッケン一番シナモンジャケット。そのすぐ後ろ、三番デスバラ。その外並んで五番アイリス。すぐ後ろには六番ラスパー。その外並んで四番シルバーブレイズ。一バ身差の二番ピュージリスト、最後方。ウマ娘たちが一塊となり、団子状態の大混戦であります』
「この中山競走場はね、追込や差しといった、終盤に後方から一気に追い上げる脚質のウマ娘に不利なのだよ」
相変わらず、遠くで蠢く塊となっているウマ娘たちに視線を据えたまま、タキオンは続ける。
「四大競走場の中では、最終直線が最も短い。加えて、コーナーの曲がりも急だ。ブレイズ君のように、第三コーナーから長いスパートをかける走り方をすると、遠心力でどうしても外の方に振られてしまう。そうすると、余計な距離を走ることになって、せっかく温存していた体力を無駄遣いするし、加速しているのに前を追い抜けない、なんて事態にもなり得るのさ」
「では、やはり......」
「まあ、見ていたまえよ」
一団となったウマ娘たちは、第三コーナーに差し掛かろうとしていた。先頭を行くシナモンジャケットがコーナーを回り始めたところで、その外から
『三番デスバラ、ここで抜け出した! デスバラが集団から抜け出しました! アイリスも負けじと後から追いすがる! シナモンジャケットは苦しいか!』
実況アナウンサーの声が一オクターブ高くなり、観覧所の大観衆がわっと沸く。
「勝ったねぇ」
「ええ......」
タキオンが悠然と言い、カフェが短く応じた。わからないなりにレースの様子を見守っていた警部が訊く。
「デスバラ君がですか?」
食い入るようにバ群を見つめていて、警部の問いに答える気が無いらしいタキオンへちらっと目をやってから、カフェが代わって静かに答えた。
「いいえ......ブレイズさんが、です......」
――失敗した、失敗した失敗した失敗した!
抜け出した瞬間、デスバラの頭の中を占めていたのは、『失敗した』という思考だけだった。
シルバーブレイズは、とても温厚なウマ娘である。いつも穏やかに笑っていて、どことなくぽやーっとした印象を受ける。
しかし、普段感じられないだけで、それは確かに存在するのだ。
まるで、それまで肉眼では観測できなかった隕石が、大気圏に突入して炎を纏い、流星となって急激に光芒を発し始めるかのごとく、スパートをかけ始めるその瞬間から、シルバーブレイズはその闘争心を剥き出しにする。その急激な緩急の切り替えが、前方にいるウマ娘たちを威圧するのだ。
それに対する反応は、思わず道を譲ってしまう者、脚を緩めてしまう者と様々だが、デスバラは一気に加速した。彼女の本能に近い何かが、ブレイズの圧力に委縮し、『逃げろ、今すぐに!』と叫んだ結果である。先行策を採っていたデスバラがスパートをかけるべき場所は、優に三百メートル近く先であり、明らかにペースオーバーだ。
――でも、今の私なら!
デスバラは芝を踏み込み、更に加速する。変則的だが大逃げの姿勢に入った。もはや減速するわけにはいかない。逃げ出したデスバラに合わせる形で、全体の速度が上がっている。体力が保たないからと今減速すれば、あっという間に集団に呑まれ、最下位付近で決勝線を踏む羽目になるだろう。
ならば、逃げるしかない。
弥生賞も皐月賞も、同じように逃げ、そして垂れ、敗れた。けれど、あの時のデスバラと今のデスバラは違う。体力も最高速度も、そして自慢の末脚の爆発力も、ずっと磨きをかけてきた。スタミナ消費をできる限り避けるため、加速しながらのコーナリングも練習してきた。すべて、この状況を想定してのことだ。ゴールまで体力が保たないのは変わらないだろうけれど、それでも、誰一人追いつけないほどに突き離してしまえば、問題ない。
唯一の懸念は――
『デスバラ伸びる! ぐんぐん伸びる! アイリスも追い縋るが、差が開いていく! 大外からシルバーブレイズ! 大外からシルバーブレイズ! 驚異的な加速であります! アイリスを大外から抜きにかかる!』
そんな実況は、デスバラには聞こえていなかったが、後方から確実に迫ってくる流星の気配は、寸分違わず感じ取っていた。外に振られてスタミナを食われるのも一切構わず、むしろ進路が
四角を抜ければ、四大競走場で最も短い中山の最終直線だ。ここを抜ければ、ここさえ抜ければ、ブレイズに勝てる。視界の端のハロン棒が、赤く滲みながら後方へ飛び去って行く。
『シルバーブレイズ、迫る! シルバーブレイズ、迫る! デスバラも苦しいが粘っている!』
――あと二百メートル! あと二百メートルなんだ!
後方から猛然と迫りくる流星の熱を感じながら、デスバラはすっかり重くなった脚を、ただ前に繰り出すことだけに集中しようとした。
次の瞬間だった。少なくともデスバラの主観時間では、ほんの一瞬だった。コーナーを抜けて直線に向いたブレイズは、瞬きをする間にデスバラと並んだ。さらに一瞬後には、灼熱の衝撃波だけを残して、優に二バ身は先へと駆け抜けていた。
――くっそおおおおおお!!!
デスバラは心の底で叫んだ。肺が酸素に餓えていなければ、本当に叫んでいただろう。その叫びは今日のレースで、そして過去のレースで、白銀の流星に焼き尽くされてきた全てのウマ娘たちの叫び声と、全く同じものだった。
「あ......」
観覧席では、マンハッタンカフェが小さい声を上げた。
最終直線に入ったシルバーブレイズが、まさにデスバラを捉えんとしているところで、大観覧所は沸き返る喚声に揺れており、その声が耳に入ったのはアグネスタキオンただ一人だった。
「どうしたんだい、カフェ?」
「いえ......あの子が走っているのを、久々に見たので......」
「ほう」
タキオンは再びバ場に目を転じた。ちょうど、残り百メートル地点のやや手前で、ブレイズがデスバラを追い抜いたところだった。口をかっぴらき、顎は上がり、
「届きそうかい?」
タキオンの短い問いを、カフェは黙殺した。仕切りの上の手摺りを握りしめる、その手の指が白くなっている。それが期待によるものなのか、はたまた嫉妬によるものか。タキオンは測りかねた。
『シルバーブレイズ、突き放してゴール!』
『中外商業賞を制したのは、シルバーブレイズ! 春の帝室御賞典に向けて、着実な一歩を踏み出しました! 入線二着はデスバラであります!』
ブレイズが決勝板を駆け抜け、大いに沸いた観覧所では、実況のアナウンスはほとんど聞き取れなかった。カフェは息をつき、固く握っていた手摺りを放すと、ようやく短く答えた。
「ハナ差でした......」
「そうかい――では、帝室御賞典では追いつくだろうね」
「ええ......恐らく」
『着順が確定致しました。一着は四番シルバーブレイズ。二着は三番デスバラ、六バ身差。三着は大差で五番アイリス。となっております』
第三コーナーの向こうに新設された掲示板の字画反転表示がパタパタと回転し、アナウンスされた通りの着順が表示される。
ようやく熱狂から一息ついたらしい警部が、ふと二人が喋っているのに気づいて訊いてきた。
「失礼、お二方は誰のお話を?」
「さあ。具体的な『誰』なのかは、私にもカフェにもわからないのだが......いや、警部、君の気にするところではないよ」
暮警部の狐につままれたような表情を見て、タキオンは話をはぐらかした。
時はやや前に遡る。
第九競走である特別競走で、発走早々落鉄が発生した。一番人気に推されていたウマ娘のまさかのトラブルに観衆がどよめく中、擦り切れた古
「くそっ、早く出ろよ!」
回線が繋がる音がするなり、交換手が喋り出すのも待たずに、送話口の喇叭に叫んだ。
「東京だ、東京に繋いでくれ。八六の〇〇〇〇――」
背後からにゅっと伸びた手がフックスイッチを押し下げ、電話は切れた。次の瞬間には五十銭玉を握りしめていた右手が掴まれ、ぐいと背中に回される。男は痛みに呻き、受話器と小銭を取り落とした。
「よお、佐吉」
「あっ――これは、ジャンポケの
『まずい』と言わんばかりの間を空けて、佐吉と呼ばれた男はなんとか愛想笑いを捻り出した。その額に、玉のような脂汗が浮かんでいる。
「奇遇でやすね、こんなところで......今日はお休みなんですかい?」
「ちょっと野暮用でな......」
ジャングルポケットは佐吉の右腕をキメたまま、沈黙が長引くままにした。佐吉はぎょろぎょろと目玉を動かし、ポッケの左手が押し下げたままのフックスイッチに目をやって言った。
「あ、あの、ちょっと電話してぇ所がありやして、急用なんですが......」
「おう、そうか」
再び沈黙。ポッケのほうは、佐吉の腕を放すつもりはないらしい。そうこうしているうちにレースが終わり、客席の方からわっと歓声が上がった。
肩を落とした佐吉に、ポッケが声をかける。
「俺は確かに言ったよな、佐吉。今度賭けに手ェ出したら......」
「うっ」
佐吉が、がっくりと俯く。ポッケはその様子を眺め、少し間を空けてから言った。
「住所」
「は?」
「
ぐいと右腕をねじり上げながら、ポッケは訊いた。佐吉は痛みに喘ぎつつ、東京市内の住所を口にする。
「よし」
ポッケは言い、佐吉を解放した。そして佐吉がほっとして気を緩めた隙を突き、相手の右袖の
「あっ、ちょっと!」
佐吉は狼狽するも、もう遅い。ポッケは袂から手を引き抜き、数枚の紙片を佐吉の眼前に突き付けた。精緻な穴が数字の形にパンチされ、日付印が押されている。違法投票券だ。
「これは没収な」
「そんな......」
「オラ、とっとと失せろ」
ポッケが片足を上げて蹴るような動作を見せると、投票券を惜し気に見ていた佐吉は泡を食って逃げ出した。重賞目当ての物見高い群衆に紛れ、あっという間に大観覧所を後にする。
ポッケはその様子を鼻を鳴らして見ていたが、やがて佐吉が落としたまま忘れて行った五十銭玉を拾い上げると、フックスイッチから手を離して、ぶらぶら揺れていた受話器を取り上げた。
『――お待たせしました、交換台でございます』
「東京に繋いでくれ。二二の〇〇四六番だ」
『五十銭になります。料金を投入してください』
佐吉の小銭を入れ、指示に従って電話を切って待つ。二十秒ほどでベルが鳴り、ポッケは受話器を取った。
『もしもし、こちらは警視庁です』
「捜査第一課のジャングルポケットだ。目白署に繋いでくれ」
『少し待て』
警察電話に回線を切り替える、がちゃがちゃいう音がしてから、呼出信号がジーッと鳴る。まもなく受話器が取られて、
『はいこちら目白署、扱いは黒田』
「捜査第一課のジャングルポケットだ。フジ係長はいるか?」
『は、はい、いらしてます!』
「替わってくれ」
電話番の内勤巡査が受話器を置き、ばたばたと駆けだしていく音は、雑音混じりの回線越しでもしっかり聞き取れた。『捜査第一課』という肩書の強さに、ポッケは苦笑していたが、やがて相手が受話器を取ると姿勢を正した。
「フジさん、俺です、ジャングルポケットです......ええ、昨日言った通り、中山に来てます。例の、淀橋の賭場でいっぺんシメた佐吉のヤツですが、やっぱ懲りてなかったようで。投票券持って中山に来てました......ええ、間違いねェようです。雑司ヶ谷です。電番もタレコミ通りでした......わかりました。んじゃ、俺も署に向かいます。書類整理手伝えるくらいには、着くと思いますんで......」
「あの日、滋賀へ向かう列車に乗った時点で、私は既に結論を出していたのです。榊優二が犯人で間違いない、とね」
総武本線を東京駅へとひた走る臨時列車の一等車。その4人用区分室でアグネスタキオンは、向かいの肘掛座席に並んで座る油小路男爵とシルバーブレイズに言った。彼女の隣にはマンハッタンカフェが掛けており、区分室と通路の仕切りドアに暮警部が寄り掛かっている。
「もちろん、証拠薄弱なのは承知の上でした。それでも他に選択肢がない以上、消去法で彼が犯人と見て間違いない、と思っていたんです。それを覆したのは、男爵閣下、おたくの兵営の庁舎に伺った時です。
あの時女中が、我々があそこで昼食を摂るのかどうか、訊いたでしょう。その時、私はふと、『問題のライスカレーを作ったのはこの人だな』と思いました。当然です、新聞報道通りなら、他に使用人はいないはずですから。そして全く突然に、そのライスカレーという献立が、とても重要な役割を果たしていることに気付いたんです。
アヘン末は濃い黄色の粉末です。色の薄い液体に溶かし込めば、あっというまに黄色く濁ってしまいます。しかも、臭いこそありませんが、かなり苦いのです。匙の先にちょろっとの分量でも苦すぎて、舌に乗せればすぐにわかります。そんな薬を盛れる料理は、アヘン末と同じような黄色か茶色をしていて、とんでもなく甘いか、とんでもなく辛いか、とにかく味の濃い料理でなくてはいけません。つまり、ライスカレーほど、アヘンを盛るのにうってつけな料理はない、ということになります。
「ここで問題なのは、榊君がどうやって当日の献立を知ったのか、という事です。暮警部によれば榊君は、あの兵営の誰とも繋がりが無いという事でした。彼に献立を知る手立てがない以上、偶然アヘンを盛れる料理の出る日にアヘンを持って金勝を訪れた、と考えるのは、あまりにも虫が良すぎます。
そうなると、怪しいのは兵営内部の人物、わけても夕食をライスカレーにするよう指示した人物、ということになります。香田夫人の可能性も一応考えてはおりましたが、女中の斎藤君にその点を確認すると、香田トレーナー自身が献立の変更を指示した、と回答がありました。これで私の推理は、香田君がなんらかの不正を行う目的でブレイズ君を連れ出し、そして蹴りつけられて昏倒したのだろう、というところまで纏まりました。不正な目的でなければ、ブレイズ君や助手の鹿山君を昏睡させる理由がありませんからね。
「では、その不正とはなんだったのか? 十中八九は賭博絡みだろう、と思いました。我が国に西洋のレース制度が持ち込まれて、もうじき一世紀が経とうとしていますが、違法なレース賭博に
加えてメスの他にも、香田君が屋外で何か繊細な作業をしようとしていたことを示す傍証もありました。現場に敷かれていた
タキオンが一息つき、話の途中で列車給仕が持って来た紅茶を啜る間に、暮警部が質問を挟んだ。
「しかし、どうして香田は屋外で執刀しようと思ったのでしょう? 衛生的に考えれば――ブレイズ君を無事に出走させるには、これも重要な点ですよね?――屋内で施術したほうが遥かに安全だと思うのですが」
「おそらくだが、アヘン末の量が足りなかったのさ」
警部はその一言で納得した様子を見せたが、油小路男爵は眉根に皺を寄せたままだった。タキオンは茶をもう一服し、それから講釈を再開した。
「我々ウマ娘はただ健啖なだけでなく、毒劇物に対する耐性がヒトよりもずっと高いのは、男爵閣下もご存知でしょう? 香田君はおそらく、実名と偽名とを使い分けて、京阪神地域の薬局をかけずり回ってアヘン末を仕入れたはずですが、それでもヒトとウマ娘をなんとか一人ずつ昏睡させられる程度の量しか、手に入らなかったのでしょう。警部の言う通り、あの夜営舎にいた全員を昏睡させて屋内で執刀した方が、はるかに安全で確実ですからね。
しかし、全員を昏睡させられないなら、屋外に連れ出すより他に仕方ありません。現にブレイズ君は、前後不覚で半ば幻覚の直中あったとはいえ、意識を完全に失ってはいなかったのですから。彼女が昏倒してすぐなら、足にメスを刺されても何も感じなかったでしょうが、香田君は奥方が寝付くまで待っていたようですから、施術の際に暴れられる可能性は考えていたでしょう。もしそうなれば、眠りの浅いベイリアル君を起こしてしまいかねません。
「それから私は、榊君が一度兵営から追い払われた後、性懲りもなく再び戻って来て、たまたまブレイズが昏倒しているところに出くわした可能性も、一応検討しました。榊君自身がアヘンを盛ったと考えるよりは、まだ有り得る話ですから。しかしそれは、おたくのジロが否定してくれました」
「ジロというと、あのジロですか? 兵営の番犬の?」
暮警部が疑わしそうな声音で訊くと、タキオンは「そうとも」と短く返して、男爵に向き直った。
「あの営舎には階段が一か所しかありません。榊君がブレイズ君を連れ出そうと思えば、必ずあの階段を通らなくてはならないのです。営舎の建物は一階がやや高いので、榊君の体格では、ブレイズ君を抱えて飛び降りることはできません。しかしながら、晩に榊君自身が一悶着起こしたために、あの階段には一晩中ジロが繋がれていたことがわかりました。榊君が通ったなら、絶対に煩く吼えたてて、ベイリアル君を起こしてしまったでしょう。
そんな事がなかったとなれば、あの夜あの階段を通ってブレイズ君を連れだしたのは、ジロがよく知っていた人物だった、という事になります。従って榊君は、この嫌疑から完全に放免されるわけです」
「そうか......」
警部は苦り切った、いまにも歯ぎしりしだしそうな声で言った。
「考えてみれば、言われてみれば、実に簡単なことだ......こんなことに気付かなかったなんて!」
唸るように叫んだ警部に肩をすくめて見せてから、タキオンは続けた。
「そういうわけで、外部の人間の犯行、という線は完全に否定されました。後は内部の人間の内から、動機と手法のある者を探せば、自ずと結論は出るのです。その両方を備える唯一の人物である香田君自身が、卑怯な行為の報いを受けたのだ、とね。
榊君のアスコット・タイに関しては、遁走する際に落としてしまったという本人の言が正しいのでしょう。香田君は、それを捜索中かその後に拾い、おそらく施術中にブレイズの足を縛るかどうかするために持っていたのだと思います。ところが、足を縛る前に、燐寸に火を点してしまったため、錯乱状態となったブレイズに蹴り飛ばされるに至った。そして、先に防水外套を脱いでいたために、倒れる際にメスで自分の腿を切ってしまった。事の次第はこんなところでしょう。
「もし、香田君が意識を取り戻し、自分がやったことを否定するようなら、これらの推理を証拠とあわせて、淡々と突き付けてやればいいのです。彼は賢い人間ですから、それ以上悪あがきをしようとはしないでしょう――獄裡の人となれば、借金取りも手出しできないでしょうしね。おや!」
安堵、感心、不安、苦悩、その他様々な感情が入り乱れ、重くなった区分室の空気を読んでか読まずか、タキオンは場違いに明るい声を上げた。
「錦糸町を過ぎたねぇ。この列車は東京駅まで停まらないから、もう降りる支度をした方がいいだろう、カフェ」
油小路男爵とシルバーブレイズは、ブレイズ自身の疲労の事なども考え、ステーション・ホテルで一泊して滋賀に帰る予定だった。垪和子爵と真島トレーナー、デスバラらも同様の旅程をとるようだ。一方のタキオンとカフェは、ここで省電中央線へ乗り換えである。
「アグネスタキオン先生」
帰路は口数少なかったブレイズがそう口火を切り、電車用プラットホームに繋がる中央通路への階段に向かっていたタキオンらを振り返らせた。
「この度は本当に、ありがとうございました。先生に来ていただけなかったら、この事件はもっとずっとこじれてしまって、正しくない方向に進んでいたと思います」
「なあに、構わないよ」
タキオンはひらひらと手を振って続けた。
「君たちに心おきなく走ってもらうことが、私の研究の出来にも繋がってくるのだからねぇ」
それから、明らかに言うべきかどうか躊躇する間をおいて、こう付け加えた。
「君のトレーナーの事は残念だったが......」
「いいんですよ」
素っ気ないその一言は、一見すると信頼するトレーナーを失ったウマ娘の強がりともとれた。しかし、その場にいた三人のウマ娘――タキオン、カフェ、そしてデスバラ――は、靴先がプラットホームのアスファルトを掻くざりざり、という音を耳にして、そうではないことを悟った。
「トレーナーさんは、私にトレーニングをつけてくれている間は、正面から私に向き合ってくれていました。それは間違いありません。言葉で説明できる感覚ではありませんが、お二人ならわかってくださると思います。ですから――」
ざり、と爪先を止めて、ブレイズは言った。
「私はトレーナーさんに見せつけてやろうと思います。彼が育て上げたものを、彼が与えてくれたものを、そして彼が奪おうと――いいえ、手放そうとしたものを。その大きさを、ね」
「いやはや、見たかい、カフェ」
暫くの後の電車用プラットホームで、タキオンは中央線の電車がやってくるのを待ちながら、カフェに訊いた。
「何を、ですか......」
「私をだよ。まったく、このアグネスタキオンが、
「そうですか......」
カフェはそう言ったきり、呵々と笑い続けるタキオンの隣で沈黙を保った。『あのような、やや歪んだ形での独占欲の発露は、アナタだけの専売特許かと思っていました......』とでも言ってやろうかとも思ったが、似たような形で言い返されるのが目に見えていたからだ。反論しようがないことに、それが正鵠を射ているのも、そんな風に言いくるめられる状況が想像できてしまうことも、何もかも腹立たしかった。
帰りの電車の中でタキオンは、なぜカフェの機嫌がこうも急速に傾いたのかとしきりに首を捻っていた。
「タキオンさん......」
翌月のある月曜日の朝食の席。マンハッタンカフェは、東京日日新聞の朝刊に釘づけにされているアグネスタキオンに声をかけた。返事はない。朝刊の一面には、前日の帝室御賞典でシルバーブレイズが一着を獲ったことを報じる記事がでかでかと載っているが、見たところタキオンがかじりついているのは、体育面ではなく社会面のようだった。
カフェは、カッチコッチと振り子を振っている柱時計にちらりと目をやった。じきに八時半になる。カフェは溜息をつき、
「タキオンさん」
「あっ?」
集中状態から引き戻されたタキオンは、人によっては可愛らしいと評するかもしれない、なんとも間の抜けた声で応じた。カフェは時計を視線で示し、
「もうじき、八時半になりますよ......」
「あっ!」
一つ前と異なり、明らかに切羽詰まった『あっ!』とともに、タキオンは新聞を投げだして、お茶碗のご飯を掻きこみ始めた。それを尻目に、カフェは奥の寝間へと赴く。
タキオンは卓袱台の脇に置かれた電気釜――日常生活と喫茶店の両方でカフェを助ける、高価だがその価値のある真新しい相棒だ――から自分でおかわりをよそい、塩鮭の切り身の焼き物と、胡瓜の浅漬けと一緒に喉の奥へ押し込んだ。味噌汁でそれらを流し込み、一分足らずで箸を置くと、タイミングを見計らったようにカフェが寝間から戻ってきた。タキオンの帽子と外套、折鞄を手にしている。
「ありがとう! 行ってくるよ!」
その声を残して、タキオンは嵐のように家を出ていった。カフェはしばし茶の間に佇んでいたが、
「ね、人は変わるよね......」と、虚空に向かって一人、相槌を打った。
卓袱台の上の、朝餉の後片付けをしようとしたカフェの目に、タキオンが放り出して行った朝刊がとまった。ふと興味を惹かれ、一体何を熱心に読み耽っていたのかと、社会面を開いてみた。
シルバーブレイズの事件で尋問された榊や、いまや意識を取り戻し、滋賀刑務所拘置監で獄に繋がれている香田らを契機として、警視庁が大規模な違法賭博組織を摘発し、東京の有名な博徒の親分を連行したという記事もあったが、紙面の大部分を割いて掲載されていたのは別の記事だった。大きな見出しが目を引く。
――死んだウマ娘、地下鉄構内で発見さる
東京高速鉄道は事故の可能性を否定
妄想の産物、これにて完結です。長らくお付き合い頂き、大変ありがとうございました。続きがあるような終わり方にしてありますが、未定です。あまり期待せずに、気長にお待ちください。