火と玻璃の海の向こう   作:KenRB

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歴史 | History

AD

Anno Domini

主暦。エヴァンゲリカ神聖連合及び全世界のエヴァンゲリカ教団が使用する紀年法。「Anno Domini」はすでに死語となった古語で「主の年に」を意味する。

「救世主が降誕した年」をAD元年としている。エヴァンゲリカでは教祖のことを救世主として崇めていることから、一般的には初代教祖が誕生した年とされている。また「主」すなわち神ということから、教団が創設された年ではないかとする説もある。しかし史料などの研究から教団がAD 1年よりも前からすでに存在していることが確認されており、どちらの説も誤りで、真相はいまだに不明。

 

CE

Common Era

共通暦。西側諸国が使用する紀年法。

共通暦が初めて導入されたAD 1583年をCE元年としている。それまでウラシヤを中心とした文明世界の国々では宗教や皇帝の治世の始まりを起点とする様々な紀年法が使われていたが、暦法の計算自体は当時先進的とされたチョーラス帝国のチョーラ暦を真似したり参考したりするものが多い(エヴァンゲリカのAD紀元もまたその一つ)。やがてチョーラ暦に基づく諸旧暦と実際の天体運動との誤差が目立つようになると、旧暦に変わる共通の新暦の制定を求める声が一部の学者の間で上がり始めた。そんな中AD 1579年にエトルリアとアルマインの天文学者や数学者らが集まり、当時最新の天体観測の成果を取り入れ、チョーラ暦に修正と改良を加えた新暦の作成に成功した。

新暦はまずエトルリア・アルマインを含むいくつかのウルッバの国々で採択されたが、その後のさらなる普及にはなお長い時間を要した。新暦は長い間ウルッバ諸国とその海外領地でのみ使われ、他国からは「ウルッバ暦」と呼ばれる時代が数世紀続いた。しかし科学技術が飛躍的な進歩を遂げた近世になると、より正確な新暦がようやく脚光を浴び、大国アルヤでの導入に続き、共和制となったロストフ連邦でも採用されたことで、新暦は今や近代国家の一つのスタンダードとされ、瞬く間に世界中に広まった。現在新暦の使用は同盟加盟国の義務とされ、名実ともに文明世界の共通暦となった。

ADとの換算は:AD年数-1582=CE年数。ただしADの日付は旧暦に基づいてるため実際には10日程のずれが生じ、注意が必要。

 

ララミディア併合

Annexation of Laramidia (AD 1842.4 - 1849.10)

AD 1842年4月、エヴァンゲリカ軍が突如国境を越え、ララミディア合州国に対し全面侵攻を仕掛けた。西側諸国からの経済と軍事援助を得ながら最初は善戦したララミディアであったが、エヴァンゲリカ軍が後に「天使」と呼ばれる人外の怪物を戦場に投入すると次第に劣勢に転じた。さらにAD 1845年1月にエヴァンゲリカ軍が凍結したキシスカ海の渡海に成功し国の北部に上陸したことで、不意を突かれ兵站線を断たれたララミディア軍の主力が包囲殲滅される危機に陥り、戦いの趨勢を覆すことはもはやできなかった。

エヴァンゲリカにとってララミディアは自国の宗教を広める上に最大の障害であり、ララミディアの制圧は長年の悲願であった。その後勢いに乗ったエヴァンゲリカがさらに大陸南部に残ったいくつかの小国をも攻め滅ぼし、ついにローレンティア大陸の統一を果たした。これによりエヴァンゲリカは西のウラシヤと南のクヤニア大陸への進出を阻む障壁を取り除いただけでなく、国力の大幅な増強にも成功した。この戦いで天使の軍事利用の有効性が証明され、後のエヴァンゲリカ軍の基本的な戦術が形作られた。また西側諸国がララミディアに援助した大量の近代兵器と装備を手に入れたことでエヴァンゲリカの軍備の近代化が一気に進み、ウラシヤ大陸侵攻への野心を燃やしたとも言われている。

 

第一次東西大戦

First East-West War, EWWI (AD 1898.1 - 1900.4)

AD 1898年1月、エヴァンゲリカの大軍が冬のクラ海峡を渡りロストフ連合王国領内に侵入した。53年前にクラ海峡よりも広いキシスカ海の渡海に成功していたエヴァンゲリカ軍にとって、西側世界への進出を阻む地理的障壁はもはや存在しなかった。これは歴史上エヴァンゲリカが西側世界に対する初の侵攻であり、後に数度に渡り繰り広げられた「東西大戦」の最初の一ページであった。

一方この頃の西側諸国にとって、かつてララミディアの滅亡は確かに衝撃的なニュースで、エヴァンゲリカの勢力の急拡大を危惧する声もあったが、多くの人にとってそれはあくまで遠い海の彼方の大陸の出来事にすぎず、半世紀を経った今やその記憶はとうに忘れ去られていた。ロストフが辺境の僻地に置いた兵力は密輸や密猟を取り締まるわずかな国境守備隊しかなく、エヴァンゲリカ軍に内陸への侵入をやすやすと許した。それでも大国ロストフは総動員をかけるとその底力は十分にあり、自国で戦う地の利と、整備された鉄道網に支えられた兵站線を利用し優勢な防戦を展開した。しかしエヴァンゲリカ軍も進撃が阻まれるとすぐさま戦術を転換し、強力な天使を集中して投入することでロストフ軍の防衛線を強引に引き裂いた。ロストフ王国軍の精鋭部隊が消耗されると、残るのは動員兵で構成される一般部隊しかなく、彼らのほとんどは春小麦の種蒔きも冬小麦の収穫もそっちのけで徴兵された農民で、士気も練度も低く、エヴァンゲリカ軍の猛攻に持ち堪えられるはずもなかった。一時有利にも見えたロストフ軍が見る見る内に敗走を重ね、気づけばエヴァンゲリカの大軍がすでにウラシヤ大陸の内陸深くにまで到達した。

エヴァンゲリカ軍の予想外の快進撃に驚き、戦火が自国にも飛び火することを危惧したスオミア(Suomia)やレンディア・アルヤなどの隣国が相次いでロストフ王国への経済・軍事支援を表明し、さらに天使との実戦経験を積む意味で一部援軍の直接派兵も行った。周辺諸国の助けを得たロストフ軍がなんとか態勢を立て直し、戦線を国の北部まで押し戻し戦争が長期戦の様相を呈し始めた頃、AD 1899年末の冬に史上稀に見る大寒波がロストフ北部を襲い、特に後に「神の吹雪(Bozhya Metel)」と呼ばれる猛烈な雪嵐が5日間も吹き荒れ、ロストフ・エヴァンゲリカ両軍ともおびただしい数の死傷者を出す惨状となった。補給が不利なエヴァンゲリカ軍がたちまち戦闘不能な状態に陥り各戦線で総崩れとなり、結果戦争は2年強という比較的短期間で終結したこととなった。

しかしこの戦争は依然ロストフに大きな傷跡を残した。王国の軍事・経済力共に大打撃を受け、特に小麦の不作によりこの後数年間飢饉が続いた。また国王のドミートリー2世(Dmitry II)が敵の侵略に始まる一大国難ともいうべき状況に対し対策が終始後手後手で、庶民だけでなく貴族の間でもミドヴェージェフ王家に対する不満が高まり、後のロストフ革命へとつながる火種となった。

 

ロストフ革命

Rostov Revolution (AD 1901.5 - 1905.6)

第一次東西大戦の終結からまだ一年も経たないAD 1901年3月、ロストフ連合王国は唐突にスオミア・レンディア・アルヤなどの隣国に対し無理な領土要求を一斉に吹きかけ、拒否されるや今度はそれを口実にこれらの国々への武力侵攻を開始した。ロストフは戦後の復興もままならず、多くの国民がまだ飢饉で飢え苦しむ中、先の大戦で自国を支援してくれた国々にまるで恩を仇で返すような理不尽な戦争を仕掛けた理由は未だにはっきりとわかっていない。国王ドミートリー2世の統治能力に不満を持った貴族たちが、ウルッバの一部の国に倣い王家の権力を制限する立憲君主制への移行を目論み自らが実権を握ろうとする噂が取り沙汰される中、ドミートリー2世が国を無理矢理にでも戦争状態に戻し、戦時下体制を理由に貴族議会(Boyar Duma)を解散し自身の独裁体制を強化しようとしたのではないかというのが通説だが、エヴァンゲリカの工作によるものだという説もある。それによるとミドヴェージェフ王家の周辺はかねてより親エヴァンゲリカの勢力に浸透され、教団の息のかかった人物がドミートリー2世にも影響力を及ぼしており、ロストフ侵攻が失敗した今、エヴァンゲリカの次の目標であるクヤニア大陸征服から西側諸国の干渉を排除するための陽動として、意図的にロストフと周辺国の戦争を煽動したというものである。

いずれにせよ、この大義名分のない無益な戦争を支持する人はほとんどおらず、ロストフ軍の士気も非常に低く、開戦から2ヶ月が経っても戦線はほぼ動いていない。逆にロストフ国内では独裁王家に対する抗議の声が日に日に高まり、自由と民主主義を求める市民らが公然と王家打倒と叫び始めた。そして同年5月についに市民らが武装蜂起、鎮圧に派遣された王国軍の動員兵らも反乱を起こしこれに加わった。革命軍の掲げる緑の旗の下、200年近く続いたミドヴェージェフ王朝が脆くも崩れ去った。

しかし混乱はこれでは収まらず、民主共和制を目指す革命派が樹立した臨時政府と、王家の復位を目論む王党派、貴族らによる寡頭政治を望む貴族派、この機に乗じて独立を求める各地の民族主義者や軍閥などが乱立し、さらにロストフの弱体化を望む周辺諸国もそれぞれの勢力を支援し、その後4年に及ぶ内戦の時代が続いた。最終的に一般市民から広く支持された臨時政府が内戦に勝利し、また少数民族の多い各地方に高度な自治権を認めることで分離独立の動きを押さえ、旧ロストフ連合王国の領土の大部分を継承した形でより緩い連邦制を敷くロストフ連邦共和国が誕生した。

 

クヤニア征伐

Subjugation of Cuyania (AD 1900 - 1933.9)

AD 1900年、ロストフの冬将軍に屈し送り込んだ侵略軍のほとんどが生還できなかったエヴァンゲリカであったが、自国軍はロストフ軍に負けておらず、失敗したのは自然現象、すなわち神の意志によるもので、今はまだウラシヤ大陸に手を出すべき時期ではないというお告げを得たと都合よく解釈し、何事もなかったようにすぐさま南のクヤニア大陸の征服に舵を切った。

しかし面積も人口もかつてのララミディアやロストフを大きく上回るクヤニア大陸を武力だけで制圧できると思うほどエヴァンゲリカも愚かではなく、クヤニア諸国の征服はより巧妙な手口で進められた。数世紀に渡る布教活動の結果、クヤニア諸国には元から一定数の信者層が存在している。エヴァンゲリカは彼ら信者やシンパらを利用し各国で世論や政治工作を行い、民衆の不安や憎悪・分断を煽ることで社会に恐怖と混乱を引き起こした。それに乗じて国の政権を乗っ取ったり、または内乱や他国との戦争に仕向けたあと、すかさず治安維持や停戦仲裁を名目に武力介入したりするなど、クヤニアの国々を次々と自身の影響下に収めた。特にAD 1920年、大陸最大の国ピンドレマで親エヴァンゲリカの極右政権が誕生し進んでエヴァンゲリカの侵略の手先になると、局面がますますエヴァンゲリカ有利に傾いた。

AD 1933年9月、エヴァンゲリカに最後まで抵抗していた大陸南部の国ウォールマプで、教団の操る傀儡政権が主権の放棄とエヴァンゲリカ神聖連合への加入の声明を発表した。これによりクヤニア大陸のすべての国がエヴァンゲリカに従属することとなった。エヴァンゲリカは特異な宗教国家でありながら、ついに二つの大陸を跨がる巨大帝国を作り上げるまでに至った。しかし旧クヤニア諸国の人々がすべてエヴァンゲリカに屈したわけではなく、その後も各国で抵抗運動が長らく続いた。またエヴァンゲリカがクヤニア諸国を征服する過程で、延べ数百万人にも及ぶ難民らが大陸を脱出し、ストラヤを始め西側諸国に渡った。クヤニア諸国の都市に入城するエヴァンゲリカ軍が異形の天使を伴い堂々と行進する光景を写した写真が西側の新聞や雑誌にも載ると、一般市民の間にもエヴァンゲリカに対する恐怖感と敵愾心が広まり、後の第二次東西大戦時に対エヴァンゲリカ同盟の結成の下地を作ったとも言われる。

 

第二次東西大戦

Second East-West War, EWWII (CE 359.10 - 364.9)

CE 359年10月、エヴァンゲリカ海軍に護送された多数の輸送船団がストラヤ大陸東岸各地の港を急襲した。40年越しの西側世界への侵攻である。エヴァンゲリカは狭いクラ海峡ではなく広い中央洋を渡ってくることは西側諸国にとってまさに想定外の事態で、その侵攻の目標になぜストラヤが選ばれたのかは今でも定かではない。ストラヤ自由州連邦がエヴァンゲリカのクヤニア大陸征服により生じた多くの難民を受け入れたことと、民族や宗教にとらわれない建国の理想がエヴァンゲリカの逆恨みを招いたのではないかという説や、単に征服したクヤニア諸国から徴発された船が到達できる一番近い陸地であるという説もある。

しかし侵攻の理由はどうであれ、新興国家であるストラヤはウラシヤの大国と比べまだまとまった軍備を持っておらず、強大な敵軍に抗しうるはずもなく、開戦からわずか3ヶ月で首都ユルナ含む大陸東部と北部の主要都市がことごとく陥落した。ストラヤからの悲痛の救援要請を受けた西側の各大国は事態を重く見て、エヴァンゲリカに西側世界での足溜まりを絶対に作らせてはならないという共通認識のもと、ロストフ・アルヤ・ウルッバ諸国による共同提案に南西・マガラバ諸国が賛同する形で、史上初めてエヴァンゲリカに対抗するための軍事同盟が結成され、同盟軍の派兵が決定された。

同盟海軍による海上封鎖で、エヴァンゲリカの侵略軍は補給と援軍を絶たれ、ストラヤ大陸で袋の鼠状態となった。同盟陸軍も質・量ともに敵軍を上回り、同盟の参戦により戦争は早期に終結できると思われた。特に第一次東西大戦の時代と違って、航空機や無線機の発展により、航空機による着弾観測や直接対地攻撃で天使に対し迅速かつ正確な攻撃を加わることが可能になり、同盟軍側ではすでに対天使戦術が確立されていた。また多連装ロケット砲や急降下爆撃機・増粘燃料焼夷弾などの新兵器も登場し、西側諸国では科学技術が進歩した現代ではエヴァンゲリカ軍はもはや恐れるに足りないという楽観論すら上がっていた。

一方でエヴァンゲリカ軍はすでにストラヤの多くの鉱山・油田や工場施設を占拠しており、燃料弾薬などの補給はある程度の自給自足が可能であった。兵士らも自ら土地を開墾し食料を確保するなど長期戦の構えを見せ、さらに占領下の都市でストラヤ市民の大量虐殺を行い上位天使を多数召喚することに成功し上陸した同盟軍に襲いかかった。新興国であるストラヤは沿岸の都市部から一歩外に出ると国土の大半はインフラ未整備の未開地であり、鉄道も道路も十分でなく、敵遊撃部隊の襲撃も加わり、満足に維持された兵站なしでは同盟軍も兵器の優位性を発揮することができず思わぬ苦戦を強いられた。砲兵や戦車が弾切れすると、頼れる火力支援は遥々飛んでくる空母の艦載機や長距離爆撃機しかなく、それもなくなれば地上の部隊はたちまち天使の餌食となり、結果同盟軍はストラヤの荒野で多くの人員と装備をただ無益に消耗することに長い時間を費やした。参戦当初の西側諸国の楽勝ムードに反し、同盟軍は最大時にストラヤ大陸の四分の三を失い、逆に大陸西岸に追いやられる有様となり、フラカ大陸東岸やスンダリ諸島の一部まで戦争が飛び火した。中でも大陸中央部の都市レッドスプリング(Red Spring)を巡る戦いは壮絶を極め、同盟軍が9万を超す死傷者を出しながらも、戦争終盤に核兵器を使用するまで街を奪還することができなかった。

このように最終的に戦争の趨勢を決したのはロストフ連邦が世界に先んじて開発した核兵器である。CE 364年2月に初の核爆発実験が成功すると、すぐさま兵器化の研究開発と核爆弾の量産が始まり、ストラヤの戦場に投入された。その凄まじい威力で荒野をうろつくエヴァンゲリカ軍の上位天使が一掃され、さらにストラヤの主要都市に巣食う天使どもも街と共に灰と化した。それから大陸に残ったエヴァンゲリカ軍の残党を掃討するにはさほど時間を要しなかった。同盟側がついに戦争に勝利したが、その代償はあまりにも大きかった。戦場となったストラヤは総人口の半分近い500万人を失い、主要都市のほとんどが破壊された上放射性降下物に汚染され、戦後の復興と再建に長い年月を要した。

 

第三次東西大戦

Third East-West War, EWWIII (CE 401.7 -)

第二次東西大戦終結時、当時西側陣営の中からすでに核という新兵器を引っ提げて一気にエヴァンゲリカ本土に攻め込み、その脅威を永久に取り除こうという声が上がっていた。しかし当時の核兵器はまだ核出力の低い核分裂兵器であり、運搬手段も大型爆撃機から投下する航空爆弾や命中精度の低い中短距離弾道ミサイルしかなく、長距離の渡洋侵攻には不向きだった。結局同盟はエヴァンゲリカに追撃を加えることなく、戦災の傷跡を癒やすべく戦後の復興と経済の再建を優先することにした。その後ロストフ軍を中心に大陸間弾道ミサイル・原子力空母・弾道ミサイル原潜などエヴァンゲリカ本土を直接攻撃可能な戦力を手に入れたが、同盟は西側諸国同士の紛争や内乱、テロへの対応に奔走し、結果エヴァンゲリカとは緊張状態を保ちながら、世界規模の大戦は起こらず40年近い歳月が流れた。

CE 401年7月20日、訓練中のアルヤ海軍の哨戒飛行艇が突如山豊島の東約900kmの沖合にてエヴァンゲリカの大船団を発見。敵軍の船団がどのように同盟の監視衛星と哨戒艦の警戒網をくぐり抜け、この近さまで発見されずに接近できたのは未だに不明だが、電磁波を撹乱する能力を持つ天使を利用したとも言われる。遠洋能力の乏しいエヴァンゲリカが狭いクラ海峡ではなくわざわざ広い中央洋を渡って侵攻してくることは第二次東西大戦の前例もあり、同盟側にとって全く未想定というわけではなかったが、同盟軍の優勢海空軍戦力の前では単なる自殺行為だということをエヴァンゲリカ側もよく理解しているはずで、そのような愚行に出ることはないと思い込んでいる節もあり、このような状況に対し同盟軍が準備不足だったことも事実。しかしエヴァンゲリカの意図はまさにアルヤ諸島を大陸侵攻の足がかりにしようとすることを察知した同盟軍は、直ちにアルヤに展開しているアルヤ・ロストフ・プリソニアの空母を中心とした同盟の誇る海空軍の主力部隊を迎撃に差し向けた。

これまでに陸地から遠く離れた洋上での天使との遭遇例はなく、ミサイルすら装備していない時代遅れの旧式軍艦が形ばかりの護衛に付いているエヴァンゲリカの輸送船団は同盟軍の空母艦隊にとって格好な標的にしか見えず、戦いは圧倒的戦力差を持つ同盟軍の一方的な圧勝に終わると思われた。ところが同盟艦隊が出航後まもなく、史上初めて確認されたオファン級を含む多数の飛行・潜航能力を持つ上位天使の襲撃を受け、その恐るべき威力の前に為す術もなく壊滅した。予想外の大損害でパニックに陥った同盟軍はなんとか残存兵力をかき集めるも、エヴァンゲリカの輸送船がすでにアルヤ各地の港になだれこみ、制空・制海権を失うことに慣れていない同盟軍が不利な戦いを強いられ、攻撃を受けた各都市はたちまち敵味方民間人が入り乱れる阿鼻地獄と化した。孤立無援となったアルヤ諸島部は瞬く間に敵の占領下に置かれ、沿海部でも同盟の手薄な守備部隊が多数の上位天使を投入したエヴァンゲリカ軍に容赦なく蹂躙され潰走した。

戦況を挽回すべく同盟陸軍の主力部隊が駐屯していたロストフ北東部より南下するも、ロストフとアルヤを繋ぐ大陸東岸の鉄道が爆破されるなど、敵工作員の破壊工作を受け進軍が遅滞。結果、戦術核の使用によりエヴァンゲリカ軍の快進撃をどうにか食い止めることができたものの、現状大陸での戦線を維持するのが関の山で、海空軍の戦力回復なしではアルヤ諸島の早期奪還がもはや不可能だと悟った同盟軍最高司令部は、エヴァンゲリカの占領下にいる諸島部の7千万の人口はいずれ天使召喚するための生贄となり、放置すれば大陸戦線までもが崩壊するのを危惧し、アルヤ諸島部への飽和核攻撃を決断した。アルヤ軍の代表が自国と連絡が取れない状況をいいことに、反対意見を押しのけての強行決定である。建前上人道への配慮から攻撃目標は島に展開しているエヴァンゲリカ軍の目標に限定されたが、島に残るアルヤ軍部隊との通信が寸断される中、目標の選定や着弾の誘導はおろか、避難の呼びかけすらままならない状況では、実質上友軍と民間人を巻き込むことも厭わない無差別核攻撃だといっても過言ではなかった。

CE 401年8月4日。開戦からちょうど二週間となったこの日の未明に、ロストフ宇宙軍と空軍を中核とした同盟の戦略核戦力がアルヤ諸島の都市に対し飽和核攻撃を敢行。発射された核弾頭の大半は予想通り天使により迎撃されたが、数発が着弾に成功。敵上陸部隊の一部と複数の天使を撃破したなどある程度の戦果を上げたものの、避難できなかった多数の民間人も巻き込まれたと見られ、開戦以来最大の惨劇となった。

そして開戦から5ヶ月が経ち、戦いの舞台が大陸へと移った今、戦局は未だ一進一退の泥沼の中にある……

 

第四次西フラカ戦争

Fourth West Fraqa War (CE 401.9 -)

ソンガイ帝国は西フラカ及びクブラ以南地域に位置する大国だが、専制帝政を敷き土着宗教への信仰も篤く、同盟には加盟せず近代化していく他のクガラ諸国とも距離を置いている。国土面積は広いものの自然環境が厳しく、特に近代以降は砂漠化の脅威に晒され、自然資源や人口を求め、ウルッバ諸国の影響が強い西フラカ沿岸の国々を度々侵略し、同盟の軍事介入を招くなどますます国際社会から孤立している。

CE 401年9月末、第三次東西大戦で同盟軍が大打撃を受けたことを再び勢力拡大の好機と見たか、ソンガイ国内で宗教指導者のタグル師(Ayatullah Taguru)を中心とした保守強硬派が穏健派の皇帝カーディル2世(Qadir II)を軟禁状態にし国の実権を握ると、西フラカ沿岸の隣国クアクア(Quaqua)やコートドゥロル(Cote de l'Or)への侵攻を開始した。これを受け同盟は直ちにクガラ地域の加盟国に軍事的対応を求めたが、キリニャガやアザニア・クワズールはすでにストラヤ防衛のため兵力を供出しているとして派兵には消極的で、ソンガイと隣接するンゼレ共和国も軍備不足を理由に単独での出兵を拒否、代わりに同盟を通さずに独自に民間軍事会社のKASセキュリティに援軍を要請した。

一民間軍事会社であるKASセキュリティが対テロ戦や治安戦のみならず、同盟の加盟国が参戦する正規戦にも介入し、その影響力がさらに増すことを危惧した同盟は急遽プリソニア・ロストフの空母艦隊と南西諸国軍を中心とした地上部隊の派兵を決定。史上初めて同盟軍とKASセキュリティとの共同作戦が行われようとしているが……

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