CE 401年4月22日 1824 AIT*1
地球 アルヤ共和国 浪花市手島区
「なんやてめぇ、なめとんか!?」
薄暗い夕暮れ時、
「ええと、むしろなんでなめられないと思ったの? そんなダサい格好でほっつき歩いて関係ない人まで因縁をつけて……」
しかし凄まれた少女は怖気づくどころか、無邪気にもその愛らしい顔をかしげた。
「……てめぇもっぺん言うてみぃや! しばくぞゴルァ!」
予想外の口答えをされたスケバンは思わず手が出て、少女の制服の胸ぐらをぐっとつかみ上げた。
「やり合うなら私は一向にかまわないが、けがして痛い目を見るのはそっちだよ」
「なんやと!?」
「姉貴! こいつちびのくせにいちびっとんの、ひょっとしたら格闘技かなんかやっとるかもわかれへんさかい、気ぃつけたほうがええで」
スケバンは今にも手を上げそうだが、取り巻きの不良たちの一人がまだ頭が冴えているほうだ。
「あ゙? こんななりでか?」
驚いたスケバンは一旦手を離し半信半疑で目の前の眼鏡の子を見下ろしたが、また突然にたりと笑い、ポケットから一本のカッターナイフを取り出した。
「てめぇはなにもんかは知らんが、ここらはあたいらのシマやとわきまえなどないなるか、きっちり教えてやらなあかんねん」
二人の不良が後ろから少女の肩と腕をつかみ彼女を動けなくすると、スケバンはそう言いながら刃を出したカッターナイフを少女の端整な顔に近づけた。
鉄の刃が少女の白い頬に触れるやいなや、少女の左腕を押さえていたはずの不良が忽然音もなくころっと地面に投げ出された。スケバンが反応する間もなく、カッターナイフを握っていた右手はいつの間にか少女の左手にがっしりとつかまれた。次の瞬間、生まれてこの方経験したことのない激痛が高圧電流のように脳天を突き、スケバンはこれまでの人生で一番情けない悲鳴を上げた。
「ぎゃあぁぁぁ───!!」
「姉貴!?」
周りの不良たちが慌てて助けに入ろうとしたその時、甲高いホイッスルの音と大人たちの怒号が暗い公園に差し込んだ。
「おい! 君たちなにをしとる!」
「あかん、ミリ公*2や! 姉貴逃げるで!」
笛を鳴らしながら走ってくる警官たちを見て、不良たちはまだ悶えていたスケバンをかばい一目散に逃げ出した。
難なく警察をまき河川敷の公園から脱出した暮川綴美は服装を整え、一息をつくと来た時の住宅街の道に戻った。空はもうすっかり緋色と紫色の二色に分けられた。
彼女が視線を地上に戻すと、角の電柱の後ろから、一人自分と同じ紺色のセーラー服を着た女子高生がこちらの様子をうかがっているのを見つけた。
「あ、やはり暮川さんや! わたし、同じ2組の
「ええ、知ってますよ」
「よかった、暮川さんが無事で……わたしを助けるために暮川さんになんかあったら……」
駆け寄ってきたその女の子は綴美の手をつかみ、今にも泣き出しそうだった。
「警察を呼んだのはあなたですか?」
「ええ、わたし一人だけ逃げるわけあらへんやん」
「そうですか。まあとりあえず礼を言います。千崎さんがご無事なら」
「いえいえ! 礼を言うのはわたしのほうや! さっき助けていただいてありがとうございます」
美雪という名の女の子がぺこりと頭を下げた。
「しかし暮川さんばり勇気あるんですね! あんなのに自分から立ち向かっていくなんて……もしかしたら格闘技かなんか習っとってですか?」
「いいえ別に。ああいうのは威勢がいいように見えますが、むしろ弱いからつるんでるんです。というかあいつらなんなんですか? 制服を着てるから同じ高校生だと思うんですが……」
「はい、彼らは西手島工業高校の生徒やと思います。あそこには柄の悪い人が多いから近づけへんようにと大人から言われてます。本来学校はここからもうちょっと西の方にあるんやけど、まさかここまで来とうとは……」
「なるほど、不良ってやつですね。それは災難でした。千崎さんはこの近くにお住みですか?」
「ううん、わたしの家はもっと山の方です。今日は
美雪は北の方に指差した。ここら辺の住宅街は山側の方が地価の相場が高くなるので、彼女はそれなりに良い家の育ちだろう。
「ああ、今日病欠した子ですね。
「ふふ、暮川さんいつも一人でぼーっとしとうように見えけど、クラスのことをよう見とってですね!」
「まあ、見てるというか見えてるというか……」
「ごめんなさい、わたしいままで暮川さんのことなんか冷たい人やと思っとたんです。でも今日は暮川さんは実はとても勇気があって心が熱い人やとわかりました!」
美雪はなぜかうれしそうに笑ってくれた。
「それはどうも」
不良たちを追い返したのは別に自分が勇敢だからでも熱血だからでもないが、人間からそう見られてしまったことは仕方があるまい。綴美もなんだか気まずそうに自分の髪の毛を触った。
「あそうそう、前から気になっとうけど、暮川さんって大陸の方の出身ですか?」
「ええ、生まれは
あの不良たちがまた戻ってこないとも限らないので、綴美はとりあえず栗田さんの家まで美雪と一緒に行くことにした。
「やっぱり! どうりできれいな都ことばを話すんですね!」
「そうですか、あまり意識したことないです」
「こちらへは親御さんのお仕事の関係で?」
「ええまあそんな感じで。中学校ん時はストラヤにいましたけど、そのあとはこちらに」
「そうなんや! 暮川さん帰国子女やったんや、かっこええなあ……ご兄弟は?」
「双子の妹が一人、呉江にいます」
「双子さんやったんや! なんで一緒に浪花に来おへんかったんですか?」
「小さい頃親が離婚して、別々に引き取られて、それっきり」
「そんなん……じゃあ暮川さんは今はお父さんかお母さんのどちらかと一緒に暮らしとうってこと?」
「いいえ、両親はもうどちらも死んだわ。今は一人です」
「えっ!? ごめんなさいわたし無神経で……」
「ん? ああいや、別に千崎さんが謝ることなにもないですよ」
美雪はショックのあまり足が止まり口を塞いでしまったのではないか。都合の良い作り物の設定とはいえ、彼女を驚かせっぱなしにしたことにむしろこちらが申し訳なく思ってきた。綴美は美雪の背中を軽くさすりながら逆に彼女を慰めるはめになった。
「じゃあ暮川さん今は一人暮らししとってですか?」
「ええ、駅からちょっと行ったところに部屋を借りてます」
栗田家から出た二人は賑わう
「普段の家賃や生活費はどないしとう? なんか困ったことあらへんですか?」
「いとこのお兄さんとお姉さんが面倒見てくれてるので、特に不自由はないです」
「そうなんや、そらよかったです。わたしの家も同じ方向やから、なんかあったらいつでも電話してくれてええねん」
「お気遣いありがとうございます。千崎さんこそ、もう悪い人には捕まらないでくださいよ。いつでも助けに行けるわけじゃないですから」
「へへ、ありがとう。あ、あとわたしのことみゆきってええで! そのかわり暮川さんのこともつづみって呼んでもええ?」
「ええ、どうぞ好きなほうで呼んでください」
「やった! 今日つづみと友だちになれて、ほんまによかった!」
美雪がもう一度綴美の手を握ってまたうれしそうに笑った。
「『友だち』か……ふふ」
二人が別れたあと、綴美はまだ少女の体温が残る自分の手を見て、つられるように頬が緩んだ。
高校に入ってもう二週間。学校にいる時は特にやることもなく、周りの人間模様を観察しつつただ時間が流れるのを見守っていただけだが、どういうわけか今日突然想定外のことがいろいろと起こりすぎた。学校が終わってからCOSの任務開始までまだ時間があったので、ふと夕暮れの小海川の景色でも見ようと河川敷の近くまで行ってみたら、そこで偶然不良の集団に絡まれたクラスメイトを助けることとなった。初めてヒトをけがさせたし、初めて友だちもできた。不安と戸惑いと興奮とうれしさと、さまざまな感情が入り交じり頭がなんだかぼーっとしてきた。
「だめだ、もう任務に戻らなきゃ」
彼女は頭をぶんぶんと左右に振り、自分の思考を切り替えようとした。さっき美雪にはまだアルバイトがあると言って別れてきた。生活費を稼ぐためというのはもちろん嘘だが、仕事があるのは本当だ。自分はあくまで第2総軍の士官候補生でCOS実習中の身、地球観光に来ているわけではない。昼間はのんびり学校に通ってもいいが、それ以外の時間は他の特務員と同じようにCOSのあらゆる任務に駆り出されなければならない。この世界にはコンピューターによるデジタル通信ネットワークがまだ普及されていないので、情報交換のほとんどがいまだに紙やアナログ音声などの媒体に依存している。そのため諜報活動の多くは特務員の目と耳といった原始的な手段に頼らざるをえず、情報の収集と監視態勢を維持するにはとにかく多数の人員が必要だ。情報部HUMINT課課長の夕叢大佐がいつも人手が足りない、足りないと嘆いているのも無理はない。自分のような実習生が荒事を任されることは基本ないが、一晩中重要人物や施設を監視したり、時には施設に潜入して特定の情報を探ったりするなど、仕事がまだたくさんある。
学生鞄に手を入れると、そこにはいつも仕事用のサプレッサー付きの拳銃とコンバットナイフが入っていた。自動拳銃のひんやりとしたスライドに手が触れて、彼女はなんとなく気持ちを落ち着かせることができた。
「…よし」
駅前を離れた綴美は一旦自宅に寄ってグレーのパーカを羽織って出てくると、また早足で都会の暗闇に消えていった。
あれから、暮川綴美は千崎美雪と彼女の友人である
「ふうこはみゆきとはもう長いですか?」
駅前のアーケード商店街を歩きながら、綴美は風子にそう聞いた。
「おー! みゆきちとは中学校ん時から、のりことは小学校ん途中からかな?」
くせ毛のボブヘアの女の子が三つ編みをしている学級委員長の首に手を回した。風子は四人の中で誕生日が一番遅いはずだが一番大人びていて、学校でも顔が広い。
「はい、浪花に越してきた時からふうちゃんのお世話になってます」
「そうやろ? まだ弟くんが生まれる前やからな。誠治郎くんよう育たはったわ」
「ほんまに、ふうちゃんにはお姉さんとしての心得をよう教えてもうてる」
「いやいや、うちは二人とも妹やし、のりこのほうこそ男の子やからもっと大変やわ」
「ええなあ、みなさん兄弟がおって……」
一人っ子の美雪は羨ましいそうに二人のやりとりを見ていた。
「まあ、私も一人みたいなもんだし、みゆきとは一緒だな」
綴美はそう言って彼女の肩をポンと叩いた。
「あ、ごめん! わたしまた無神経なことを……」
「せやったらみゆきちがつづみちゃんのお姉ちゃんになったったらええんとちゃう? あれ、どっちが年上やったかいな」
風子が急に後ろから二人の肩を抱き寄せた。
「私は8月だから、みゆきが年上なのは合ってるよ」
8月24日、それが自分に設定された嘘の誕生日。汎用素体にとって工場からロールオフした日時が誕生日だと言えなくもないが、一体ずつ製造されているわけではないので同じロットの機体はみな同じ誕生日だということになる。だから人間のように「誕生日」という属性を気にする人はまずおらず、COS実習などの時にだけ必要に応じてそれぞれ仮の誕生日を与えられる。もっとも稼働開始から計算すれば、目の前にいるこの子たちより自分のほうがもう何千歳も「年上」だが。
「みんな同い年やん、年上ちゃうちゃう。そんなん言うたらつづみのほうがわたしより大人やねん」
四人は冗談を言い合いながら喫茶店の前を通った。
「あー、喉乾いた。冷コー飲んでく?」
風子は喫茶店のアンティーク調の木のドアを指差した。
「ふうちゃんがはしゃぎすぎやんか」
「あ、ええと、あたしまだ用事あるからこのへんで……お金もあんまりあれへんし……」
「おや、のりこがつづみちゃんより早う帰らはるとは珍しいわ。というかのりこここ最近ずっと顔さえへん気ぃするんやけど、なんかあったん?」
「そうなん?」
美雪も心配そうに法子の方を見た。
「家族のことでなにか困ったことあった? 話聞くくらいなら」
「えっ!? あ、はい……」
いきなり図星を突かれた法子は目をまん丸くして、思いの外素直に認めてしまった。人間の考えることなど
「地上げ!?」
驚いた風子はたまらず声が出て、慌てて両手で口を塞いでしまった。どうやら事は彼女たちが思っているよりはるかに深刻だ。
聞けば法子の家族は父親の転勤で浪花に来ていて、数年前に弟の誕生を機に多くない貯蓄をつぎ込み小さな家を立てた。やっとマイホームの夢を叶えたと思ったら、近頃の好景気でその街区が再開発を目論むとある不動産屋に狙われ、彼らの計画のために住民らが強引な立ち退きを迫られた。しかし不動産屋が提示した立ち退き料が不当に安く、周りで同等な条件の家を探すこともできず、また弟の誠治郎が小学校に上がったばかりなこともあって、塩谷家は彼らの無理な要求を拒み続けた。やがて他の住民たちが地上げ屋からの嫌がらせや恫喝に耐えきれず次々と立ち退きに応じて出ていき、塩谷家だけが取り残されると、その嫌がらせがより一層激化した。家の敷地内に生ごみが投げ込まれ、さらに家の周りでチンピラどもが夜な夜な大音量で音楽を流し騒ぎ立てていた。
「そんなんひどすぎるわ! ほんで前にのりこんちに行った時お隣さんみんな工事したはったのはそういうことか!」
「そんなんして……警察には言うとう?」
「うん。通報はなんべんもしたんやけど、警察は彼らは自分らの土地でツサ*3してるだけやから大きな音出せへんように注意するくらいしかでけへんと。あと生ごみの件も証拠がなかったらなんもでけへんと……」
法子はうつむいたまま両手でコーヒーカップを握りしめた。
「なんやそれ! できひんできひんばかり言うて、あんたら警察がなんも仕事しいひんだけやんか!」
「……その不動産屋、なんて名前なの?」
綴美の手に持つストローがグラスの中の氷をコロッとさせた。
「え? あ、ええと、確か
「『浮田興業』か、ふむ……」
綴美はすぐさま情報部のデータベースを検索した。
「つづみ、なんか知っとう?」
「なるほど。あそこは
「えー! あんなんほんまのヤクザやん! ただのチンピラとちゃうで」
「つづみそれほんま? なんで知っとう?」
顔の血の気が引く法子を見て、美雪は真剣な表情で綴美に問いただした。
「あ、いとこさんが警備会社に勤めたはるんちゃうかったっけ?」
「ええ、KASセキュリティよ。正確には民間軍事会社だけど」
「そうそう、それでいとこさんとこにのりこんちの警備を頼めへんかな?」
「残念ながら今のアメノミの法律では武装警備が許可されていない。彼らにできるのは情報サービスくらいかな」
「くー! もどかしいわ! 警察も信用できひんのやったらどないしたらええねん」
「そうだな……委員長んちに議員さんの知り合いはいないか? できれば国会議員」
綴美は大人のように胸の前で腕を組んだ。
「つづみちゃん冗談きついで! うちらみたいな庶民がお偉い代議士先生とお知り合いになるわけあらへんやろ。そんなんおったらそもそも地上げなんかにあわへんわ」
法子はただ静かに頭を左右に振ったが、風子にはすかさずツッコミを入れられた。
「ふむ。ならこまめに通報するしかないかな。それでも効果がなかったら上級の所管警察署か、あるいはその上の警視庁まで警察官の職務怠慢を訴えるか……」
「……あたしはええねん。ただ弟がまだ幼いから、彼らになんかされへんかだけは心配です」
「まあ、やつらとて事件を起こしたら面倒だから、これ以上過激なことはしないだろう。委員長んちとこ道幅狭いし、ダンプカーに突っ込まれることはさすがにないと思うよ」
「つづみ! のりこがそんなんが聞きたいわけとちゃうねん!」
「ええのよみゆきちゃん。つづみちゃんもふうちゃんもありがとう。あたしは話を聞いてくれただけでええねん。あたしらみたいな後ろ盾のない一般人が彼らによう勝たれへんのはわかってます。どうしてもあかんかったら、子どもらだけでも実家に避難しようとお父さんが言うてました……」
法子を安心させるつもりだったが、美雪に怒られて綴美も思わずしゅんとなった。こういう場合人間の女の子は共感を求めているのであって解決策を求めているわけではないと頭ではわかっているけれど、事の重大さだけに口を出さずにいられなかった。その後四人はしばらく黙ったままそれぞれの飲み物をすすっていて、法子の表情は沈む一方だった。
特務員としての自分の立場から彼女になにもしてあげられない。されど友だちがこのままつらい思いをし続けるのをただ黙って見過ごすほど綴美も薄情ではない。
友だち……か。
グラスの中に残ったミックスジュースを一気に飲みきってストローでズズッと音を鳴らした綴美は意を決し、思いつくある人にプライベートの通信を入れた。
CE 401年10月10日 1036 MST*4
地球 アビヤド海 マシュリク西部沖
「Serval 2、どうした。しっかりついてこい」
「5時方向、魚が2匹かかった。少し泳がせたほうがいい?」
「面白い、自分から囮になってくれるのか。よかろう、やってみろ。2は進路そのまま、1が左から回り込む。俺が仕掛ける前にあっさり落とされるなよ」
「了解」
エンジンの出力を落としたことで、さっきまでガタガタと震えていたコクピット内もいくぶんか落ち着き、無線の声がよく聞こえる。スクラッチだらけのキャノピーのガラス越しに、自分から遠ざかっていく1番機が左にロールしながら太陽の方に向かって上昇し、敵機の側面から攻撃を仕掛けるための位置エネルギーを貯めているのが見えた。
(まあそっちが回り込む間にもう片付けてるけどね)
と結雨は言いかけたが、ここは大人しく上官のメンツを立てたほうがいいことくらい彼女はわかっているので、そっとことばを飲み込んだ。彼女は一呼吸し、改めて自分の右後方から追ってくる2つの熱源に注意を向けた。模擬戦の相手バージス海尉とマキューウェン海尉の3と4番機は、もう16海里ほどの距離に近づいてきている。こちらのエレメントが見つかる前に、先に減速して1番機を逃したのはそのためだ。
ここは東アシヤの戦線から遠く離れた同盟の後方。陸戦隊展開軍の偵察機が常時監視していないため、索敵は自分の感覚に頼るしかないが、それはそれで貴重な体験だ。この金魚鉢のような透明なキャノピーも、ミシミシ言っているアナログの計器盤も、サイズの合わないぶくぶくとしたフライトジャケットも、そしてコックピット内の冷たくて薄い空気も、すべてが新鮮で面白い。ヒトが生存できない高度の空間とパイロットとの間を隔てるのは頭上の分厚いガラスと、周りの薄い鋼板だけ。自分にとって周りの空間中に飛び交う電磁波を拾うには好都合だが、こんなひょろい乗り物に乗って戦っている人間のパイロットたちは、なかなかクレイジーだとしか言いようがない。
「11時方向、敵機を視認。1機しかないぞ。どっちだ?」
「1機だけ? 罠か?」
「ミスを餌にして、自分がどこかで待ち伏せてるか。少佐のやりそうなことだ。周囲の警戒を怠るな」
「その逆もありえるんじゃないかな、ミスの腕なら」
「どっちでもいい、数はこっちが上だ。相手がまだ気づかないうちに、もう一機が回り込んでくる前に速攻で叩き落とすぞ。俺らにはそれしか勝算がない」
「了解。ミスには申し訳ないが、少佐とミスの両方を相手にするのはごめんだからな」
不公平ではあるが、彼らの無線通信は自分には丸聞こえだ。
「いいか、電探をオンにしたら逃げられる前にすぐに撃つんだ。誘導弾をケチるな。まずは一機を確実に仕留めるぞ」
「了解」
空戦中に自らエンジンパワーを落とすのは自殺行為に等しい。ウィル機とジェフ機はすぐに速度の遅い自機に追いつき、6時方向から尾行してきた。模擬空戦のルールは至ってシンプルだ。敵機をレーダーでロックオンし、空対空ミサイルの命中率が50%という仮定で、訓練用ミサイルの模擬発射動作を2回完了するまでの間にロックオンを維持できれば、敵機の撃墜が判定される。
つまり、自分が負けるはずはない。
眩しい日の光がきれいな水色で塗装されたコックピット内を燦々と照らしている。その塗装の剥がれや小傷の一つ一つまでもが目がちかちかするほどよく見える。アナログのメーターが敷き詰められたこの骨董品のような計器盤を、結雨はつい見とれた。
このスペクターのベースとなったI-11プリーズラクも実に25年も前の設計だ。低空低速での飛行性能と操縦性に優れ、良好な整備性とも相まって優秀な艦載戦闘機にはなったが、なにせ搭載する旧式エンジンが非力で、本国ロストフではすでに退役済みである。プリソニア海軍が運用するこのFA.4も6年前に自国産のエンジンとアビオニクスに換装して延命と性能向上を図った独自の改修型だが、次期艦載戦闘機の自国開発と、それまでのつなぎと比較研究用としてロストフの現用機I-14ピラトの試験導入が決まったことであっという間に旧式化した。とはいえ、エヴァンゲリカのレシプロ機相手には必要十分な性能があるので、どこかの小国に売り払えばあと二十年は飛べるだろう。
「Serval 3、敵機と交戦」
「Serval 4、交戦」
背中に敵機の火器管制レーダーから発せられるマイクロ波をひりひりと感じた。計器盤の右上にあるRWRスコープに警告灯が点き、ピ──という甲高いアラート音が鳴り響いた。
「Serval 2、スパイク、6時方向」
空はよく晴れている。下には薄い雲が散らばっているだけで、逃げ込める場所はない。結雨はスロットルを手前いっぱいに引き戻し、スティックを思いっきり胸元に抱え込んだ。ターボジェットエンジンの轟音が静まり、エアフレームがギシギシと悲鳴を上げた。
とても静かだ。目の前の風防に深い深い青い空が一面に広がった。
「なっ…! くそ、オーバーシュートした! 左にブレイク! 4、任せたぞ!」
「こっちも無理! 右にブレイク!」
体がふわっとシートから浮き上がった。揚力を失った機体はただの金属の塊となって、惑星の重力に引かれ落下し始めた。
「わざとストールしただと!? 彼女はなにをやってる! 少佐が来る前に追うぞ!」
「了解!」
スペクターの旧式レーダーは照射範囲が狭く、ましてやHMDのような装備もないため、機首方向以外の目標をロックオンすることができない。ウィルとジェフは自分との空中衝突を避けるため交戦を中断し左右に回避したのは賢明だったが、もう二度と自分を捕捉することはできないだろう。かと言って、自分もきりもみしながら落下する機体で相手と戦うことなんてできない。空気と引き離された操縦翼面は役目を果たせず、今は一刻も早くエンジンの出力を上げ、揚力を回復しストール状態からリカバリーできなければ、あっという間に海面に激突してしまう。
しかし結雨はなにもしなかった。計器盤から出る騒がしいアラート音も、機体が壊れそうな激しい振動も、けたたましい風の音も、どこか他人事のようで、この切羽詰まった感覚は心地よくさえ感じた。体はまるで海に落ちた雨粒のように、この青い大気に溶け込もうとしているのだ。シートベルトが服に食い込むほど縛り付けられていなければ、自分の体はとっくにこの透明なキャノピーを通り抜け、空へと逃げていたかもしれない。
白波の立つ海は、もうすぐそこまでだ。
彼女は目をつむった。
(10時方向に敵機、反時計回りに回り込んでくる)(3時方向に敵機、時計回りに回り込んでくる)
(まずは左の敵機)(次に右の敵機)
スロットルとスティックに置いている両手は、まるで誰かの手に添えられ力を込められたかのように、しかと操縦レバーを握り直させられた。
(機体が動かないなら、自分で動かそう)(早く敵機をやっつけてやろう)
(私は)(私たちは)(パイロットなんだから)
落下し続ける結雨のスペクターFA.4は突然重力も空気抵抗もすべてを無視したかのようにスピンを止め、ぴんと機首を持ち上げた。それはまるで鎌首をもたげて獲物を狙うコブラのように、旋回しながら追いかけてくる敵機に機首を向け続けた。
「Serval 2、2機撃墜。交戦終了」
「あれはいったいどういうつもりだ! あと少しで墜落するところだったんだぞ! いくらなんでも危険すぎる! 少佐からもなにか言ってくださいよ!」
空母に帰艦した後、結雨に激昂するウィルと彼をなだめるジェフを横目に、アヴィントン少佐はただブリーフィングルームの壁に背をもたれ、黙ってパイプたばこを咥えていた。
「なあミス・サイサキ、ポストストール機動は楽しかったか?」
「少佐!?」
アヴィントン少佐が一つ煙を吐き出し、ようやく口を開いたと思ったら、出てきたのはなんとも的外れな質問だった。
「まあ曲技飛行ならともかく、空戦であんなことやるやつ初めて見たよ。俺も単純に知りたいさ」
「もちろん。翼面から空気を引っ剥がすのが快感だったよ。もし姿勢制御スラスターがついてたら、機体をこう、ぶん回せば、もっと楽しいけどね。まあそれはもう飛行機じゃなくなるかもしれないけど」
「お前はいったいなにを言ってるんだ……」
何の悪びれもなく右手の親指と小指を開いて飛行機の形を作って楽しそうに振り回している結雨に、ウィルもさすがに呆気にとられ、反応に窮した。
「はははは、そいつは面白い! いつかそんな戦闘機ができたら
そんなこと履歴書にはっきりと書かれているはずなのになぜいまさら聞き直す必要があると、ウィルは戸惑う表情でアヴィントン少佐の方に振り返った。
「18だよ」
「飛行を学んだのはいつから?」
「さあ……生まれた時から?」
結雨は両手を頭の後ろに回し、無邪気に目をぱちぱちさせた。
「生まれた時からか……なるほど、ミス・サイサキは天性の飛行家だな、そりゃ敵わんな、あははは……」
アヴィントン少佐は声を出して笑いながら、そのまま部屋から立ち去った。残されたウィルたちは困惑する表情で互いを見合うことしかできなかった。