火と玻璃の海の向こう   作:KenRB

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(夕叢お兄さん? はい、元気です。大丈夫です。なんでしょうか?)

(私今どこにいるか当ててみる?)

 夕叢大佐はあまり無駄口の利くタイプではないので、そういうふうに話を切り出されるのはちょっと意外だったが、暮川綴美は言われた通り彼から共有してきた視覚データに接続した。

 目の前の光景はフォルスカラーのかかった赤外線波長の画面に切り替わり、どこかのどかな田舎町の夜景が映し出された。時折聞いたことのない鳥か野生動物の鳴き声も聞こえてくる。彼のいる場所の時間が深夜で、かつ今が夏の北半球だということだけはわかった。これらの情報から逆算すれば、もうあの場所しかない。

(もしかして……エヴァンゲリカ本土ですか!?)

(正解。実はちょっと厄介なことになってて、天音も眸もルシールやメランまで、今みんなここにいるよ)

(なにがあったんですか)

(COSがまだ通達してないが、君たちの耳にだけでも先に入れておこうと思って。先の大戦後もエヴァンゲリカは西側世界への野心を諦めることなく、時間をかけて着実に軍備の再建を進めてきたのは知ってるはずだ)

(ええ、彼らの教義ではすべての不信心者に対する聖戦を唱えているので、いずれ西側諸国への侵攻を再開するだろうというのが基本的な認識ですよね。その具体的な計画をつかめたのですか?)

(それが意外と早いかもしれん。実はやつらが数年前からキシスカ海の両岸で造船所の増設や新設をしていたが、その多くが覆いを被せられたり偽装されているため、同盟側に気づかれていない。しかし電力の消費量や工場の稼働状況から見ても、ここ数年船や航空機を増産しているのが明白で、何らかの戦争準備をしているのは確かだ。そして先週からついに西海岸の各港に大量の燃料と武器弾薬の搬入が始まり、これにはさすがに同盟軍も察知したが、今から10時間前、西海岸上空を通過するロストフの偵察衛星が天使(アンゲルス)からと思われる指向性エネルギー兵器によって撃墜された)

(その高度の目標とも交戦する能力があるんですか!?)

(ああ、もしかすると我々の偵察機の活動もこれまで把握されていた可能性を考えると、実に冷や汗ものだ。その探知能力がアンゲルスによるものかはまだ不明だが、戦略局は当面エヴァンゲリカ本土上空における一切の戦術偵察飛行を禁止、戦略偵察も円盤のみで行う方針を決めた。それで地上での情報収集に今現役の第二世代が急遽総動員されたわけだ。万が一の時、第一世代だけじゃアンゲルスに対処しきれないからな)

(……大変なことになりましたね。てことは私たちも招集されるんですか?)

 綴美は思わずどきっとした。

(それは大丈夫。君たちまだ任官されていない士官候補生は今回招集されない。桜庭(おうば)先生にも確認した)

(そうですか。じゃあ私たちにできることは……)

(いずれにせよエヴァンゲリカ軍が近いうちに何らかの大規模作戦を始める可能性は極めて高い。問題はその目標だが、先ほどパームビーチへの潜入に成功したメランの班から、どうやら目標はアルヤとその周辺が含まれているとの情報が入ってきた。先の大戦と同じように、西側世界での足掛かりがほしいんだろう。大陸であるストラヤより、アルヤ諸島のほうが攻めやすいとでも思ったのか。詳細についてはまだこれからだが、とりあえずアルヤにいる君たちにそのことを先に伝えたかった)

(そんなことが……しかしアルヤには同盟海軍と空軍の主力が駐留しています。あえてここを侵攻する理由は……)

(その通りだ。エヴァンゲリカが通常戦力を多少増強したところで、核兵器を持つ同盟軍には勝てない。いくら大規模な船団を出したって、アルヤにたどり着く前に沈められて海の藻屑だ。確実な勝算がなければ、こんな博打に出ることはない。やつらは狂ってはいるが、バカではないからな。だからこれが単に何らかの示威活動か、それとも本気で同盟に全面戦争を仕掛けるつもりかはまだわからない。どのみち用心しておくことに越したことはない)

(わかりました。こちらも日常の情報収集任務でなにか関連する情報があったらすぐに伝えます。わざわざ教えてくださってありがとうございました。夕叢お兄さんも先輩のみなさまも、どうかお気をつけて)

 

CE 401年6月9日 1738 AIT

地球 アルヤ共和国 浪花市手島区

 

「……つづみ?」

「つづみちゃん? おーい、なに頼む?」

 斜め向こうに座っている風子がブンブンと目の前で手を振ってくれた。

「あ、じゃあ私はこの三色メロンパフェで」

 夕叢大佐とのプライベート通信を切った綴美はとりあえずメニューブックの写真に指差した。

「大丈夫? 疲れとらん?」

 隣にいる美雪も心配そうに自分の顔を覗き込んだ。

「うん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

「ほほ、期間限定のやつを頼まはるとは、ひょっとしてつづみちゃんって意外とミーハーとちゃう?」

「どうして?」

「ほらさ、つづみちゃんっておしとやかな呉江美人な感じとちゃう? なんかもっとこうおぜんざいとかわらび餅を頼んでそうやのに」

「それいうなら委員長のほうでしょう」

「え? あたしそんなおしとやかとちゃうちゃう」

 不意に綴美に話を振られた法子は恥ずかしそうに顔の前で手を振った。

「でものりこほんまによかったな、地上げ屋がいいひんくなって。いっときほんまに顔暗かったやんな、どないしよう思ったもん」

 風子がまたいきなり法子に抱きついた。

「ほんまにびっくりしたで、新聞読んだ時。あの浮田興業がまさかダンプカーに突っ込まれたとは、世の中皮肉なもんやな」

「まあ、それも自業自得ということで」

 綴美は何気ないふうに紙ナプキンでコップの底についた水滴を拭いた。ここに事の真相を知っているのはもちろん彼女だけ。塩谷家に嫌がらせをしたチンピラどもはCOSの特務員に始末され、その犯行は金橋組の敵対組織になすりつけられた。あとはヤクザどもが勝手に抗争をやって自滅してくれた。浮田興業の事務所にまでダンプカー突撃を食らったのはちょっと予想外だったが。

「ほんま、あれだけ毎晩騒いどったのに、ある日急におれへんくなったもんやから。再開発の話自体ものうなったんやて。そんでお父さんが今の家の周りがめっちゃ静かでええって言うとった。誠治郎もお友だちと遊ぶ空き地がいっぱいできて楽しいって」

 ダメ元で夕叢大佐に相談したことが正しかったかどうか正直今でもわからないが、法子に笑顔が戻ったことだけは本当によかったと思った。

「ほんならのりこんちが安寧を取り戻したお祝いにみんなでどっかぱーっと遊びに行こうや! 体育祭の打ち上げも兼ねて!」

 風子は手に持つコップを高々と掲げた。

「打ち上げは先週もうやったやん、ふうちゃんは遊ぶ口実がほしいだけやろ。まあ言うてももうすぐ梅雨(つゆ)やから催し物もなんもあらへんし」

 女の子たちがきゃっきゃやっていると、ほどなくしてウェイトレスが注文の品々を運んできた。

「おー、それうまそうやな! いかにも夏って感じ!」

 三色メロンパフェの実物を見た風子もいたく感動したようだ。

「いいですよ、食べても。どうせ私には多すぎるから」

「え、ええの? やった! つづみちゃんほんまにええ人や! 一生ついて行くで!」

「ふうちゃんはほんまにいちいち大げさやから……あ、そうや、夏言うたらつづみまだ桜塚(さくらづか)神社の夏祭り行っとらんやろ? 今度みんなで一緒に行こうや」

「夏祭り?」

「うん! ここらへんに桜塚神社という大きな神社があってな、毎年お盆の時にお祭りをやるんや。出店もようさん出るし、みんなで盆踊りするんやで」

 美雪は両手を上げて踊るふりをしてみせた。

「へぇ……踊るんだ」

「あ、でものりこお盆時家族で実家に帰らはるやんな」

「ええのよ、三人で一緒に行って。つづみちゃんずっと海外にいてはったもんね、お祭りに連れて行ったげて」

「あ! 小海川の花火大会は? あれなら8月の頭やし、みんなで一緒に行けんで!」

「あれは確か8月の第一土曜日開催やから、今年は……8月の6日や」

 法子が手帳をめくって日程を確認してくれた。

「おー! さすがは委員長殿、まめやな! そうやそうや、夏の催し物言うたらそれや!」

「ちゅうことで8月はみんなで花火大会、それからお祭りで決定や! ああ、夏休みが待ち遠しいわ」

 美雪はうれしそうに手を小さく叩いた。

「まだ中間考査終わったばっかりなのに、みなさん気が早いですね」

 綴美は頬杖をつきながら盛り上がる女の子たちを見守った。

「くー! つづみちゃんは勉強ができたはるからそない余裕があるんや。うちらは先の楽しみがあらへんとこんなん辛気くさい学校やってけへんのやで。『人生短し遊び尽くすべし』ちゃうかったっけ?」

「そらつづみちゃん学年トップやからな。数学も理科もロストフ語も全部満点やとほんまにびっくりしたで」

 法子が羨望どころか崇敬に近い眼差しを自分に向けてきた。

「あ、いや、自分もびっくりしたっていうか」

 それに関しては綴美自身も忸怩たる思いだ。学校ではとりあえず優等生をやっておけば先生たちが大目に見てくれてのちのちいろいろとやりやすい、という天音お姉さんのアドバイスを聞いてそのまま実行したら、まさか高校最初の中間テストでいきなりぶっちぎりの学年トップを取った。自分もさすがにテストの成績は多少手を抜いたほうが怪しまれないと思ったが、国語や社会といった主観の入る科目はともかく、数学や理科のような絶対の正解がある科目はどうやったら間違えられるか結局わからずじまいで、まだまだ自分は未熟であった。

「ふうちゃんもたまにはつづみを見習うてみたら? 遊んでばっかりせんと夏休みこそつづみに勉強を教えてもらいい」

「あ、あたしもつづみちゃんに勉強を教えてほしい」

「なんやねん、先にお祭りだの夏休みだのって言い出さはったのみゆきちやんか」

「まあまあ、私は全然かまわないよ。時間さえあれば」

 そうは言っても、本当に夏休みになったら一日中COSの任務に駆り出されずに自由な時間を得られるだろうか。彼女たちへの空約束にならなければいいが。

 綴美は頬杖をついたまま窓の外を見た。浪花市の一つのランドマークである、小海川右岸の住宅街と市中心部を結ぶ小海川大橋という立派な鉄橋が、琥珀色の空に大きな青鈍色の影をはめ込んでいる。6月にも入ると、北半球の日がすっかり長くなった。

「あ、そうや、つづみ浴衣(ゆかた)持っとう?」

 美雪が突然自分に聞いてきた。

「ゆかた?」

「うん! 花火大会とお祭りに着ていくんねん」

「ああ、それ持ってないわ」

「あ、やっぱり。聞いといてよかったわ。ふうちゃんものりこも余分なの持っとらん?」

「いいえ、あたしには……」

「うちにも妹らのあるっちゃあるんやけど、つづみちゃんはさすがに入らへんわな」

「そやな、新しいの買うしかあらへんか……あ、つづみお金大丈夫?」

「ゆかたって高いの?」

「うーむ、作りにもよるな。着物屋さんが仕立てたような高級なやつはそら高いけど、今はそれより安い普通のやつも一般の服屋さんでようさん売っとうから。まあ安い言うても8圓から12圓くらいはするで」

「なんだ、それくらいなら全然持ってるよ」

「……つづみほんまに大丈夫? 自分から言うといてごめんやけど、生活費をバイトで稼いどうの知っとうから。ほんまにあかんかったらわたしらもなんか考えるから、無理せんでええねんで」

 美雪は優しいから気を遣ってくれているのだろう。

「おー! つづみちゃんひょっとしたらバイトで結構稼いだはるん? 毎日行ったはるもんな」

「ええ、まあ……」

 この世界はアナログなゆえ特務員も普段から現金を使う機会が多々あるため、COSからは多額の現金を支給されている。なので金を持っているのは嘘ではないが、それをアルバイトで稼いでいるのはもちろん嘘だ。綴美もここはことばを濁すしかなかった。

「そういうたらつづみちゃんいつもなんのバイトしたはるん? なんかええバイトあったらうちらにも教えてや。夏休みにいろいろと入り用がありそうなんやわ」

「それは……いろいろと……」

「いろいろと……?」

 やばい。風子がさらに追撃してくる。夏休みに遊ぶ気満々みたいだから本気で軍資金がほしいのだろう。確かに彼女たちには毎日バイトに行っていることをいろんなアルバイトを掛け持ちしていると説明しているが、その具体的な仕事内容まではいちいち設定していなかった。つくづく自分の詰めが甘いと痛感した。

「……つづみちゃん、なんぼお金がほしいから言うて、いかがわしいバイトは絶対にあかんで!」

 口ごもる自分に法子も目を丸くして睨んできた。この子も普段控えめな性格だが、こういう時だけは学級委員らしく思った。

「委員長までなにを言い出すのか……ちょっと話飛躍しすぎってば」

 逃げ切るのが無理だとわかったら、ここは潔くプランBに切り替えるしかない。

「ああ、まいったな。秘密にしておきたかったのに……お前らには本当にかなわないな」

 綴美は両手を組んだまま手のひらを前に向けて腕を伸ばした。

「え! ほんまにいかがわしいバイトなん!?」

 風子がなぜか自分の胸のサイズを手で確認するふりをした。

「だから違うってば! 毎日バイトに行ってるのは嘘だよ。別にそこまでお金に困ってないから」

「ほなつづみ毎晩なにしに行っとう?」

「バイトに行ってない時は、実は楽器の練習をしてるんだ」

「なんの楽器なん? バイオリンとか?」

 楽器と言われたら真っ先にバイオリンが出てくるあたり、美雪の育ちの良さがよくわかる。

「ギター、ベース、ドラムセット、いろいろあるよ。まあ私背が低いから、今んどこドラムスが一番合ってるかな。座って叩くだけでいいんで」

 綴美は両手の人差し指をドラムスティックに見立てて、ドラムスを叩くふりをしてみせた。

 嘘を隠すためにさらに別の嘘をつく、嘘の上塗りとはまさにこういうことだ。汎用素体だからといってヒトより嘘をつくのが上手なわけではない。ただ暮川(くれかわ)天音(あまね)お姉さんに憧れていつかは人間の世界で音楽をやってみたいなのは嘘ではない。楽器の演奏自体はできる。楽器もいつでも買えるから、万が一彼女たちに演奏を披露してと言われてもなんとか対応できる。もうこれで言い通すしかない。

「え? それ不良がやるやつちゃうん?」

「うっひょー! つづみちゃんやっぱかっこええわ! まあ確かにうちの高校じゃお堅いし、軽音楽部なんてあらへんもんな」

「そやから秘密にしたかったんやな。なんか変に疑うてほんまにごめん!」

 美雪が手を合わせて謝ってくれた。

「ううん、いいのよ。こちらこそずっと騙しててごめんね。だから浴衣は普通に買えるよ、心配しないで」

「そらよかった、ほな夏休みになったらつづみの浴衣一緒に選びに行こう」

「うん、ありがとう」

「よっしゃー! ほんならうちもがんばって割のええバイト探すで!」

 風子はそう言って拳を突き上げた。

「ふうちゃんはまず勉強をがんばらなあかんやろ」

「……つづみちゃん、バンドをやるのはええけど、あたしも先生には黙っとくから、悪い人と付き合うことだけはしたらあかんで!」

 本当に、この子たちは友だちとして自分のことをすべて受け入れてくれて、いつも真心で接してくれる。それなのに自分は彼女たちには嘘偽りの身分しか伝えられず、嘘に嘘を重ねることしかできない。時々いっそ彼女たちにすべてを打ち明かしてしまいたい衝動に駆られるが、それは単に自分を楽にしたいだけなのもわかっている。COSの任務のためだけでなく、彼女たちの人生を守るためにも、綴美は唇を噛み締る思いをし続けなければならない。

 女の子たちはわいわい言いながらファミリーレストランを後にした。南の海から吹いてくる生暖かい風が小海川を遡ってきて、この後一ヶ月半ほど続く梅雨の季節の到来を予感させる。それが過ぎると今度は炎天の夏がやってくる。そして少女たちが待ち望んでいる高校生活最初の夏休みも、いよいよ始まるのだ。

 

 

(アインタイーブの大書庫はどうだった?)

(落ち着いた静かな場所だよ。思ったより広くなくて、ちょっとほこりっぽいけど、標高が高くて乾燥してるからかび臭くないだけマシだわ。私は嫌いじゃない)

(そうかそれはよかった)

(とにかく所蔵品が多くて、まだ全部確認したわけじゃないけど、保存に関しては特に大きな問題はない。ただやはり『箱』そのものが……)

(建物の問題か)

(ええ、なにせ築200年近いの文化財だからね。耐震改修もまだだし、なにより日常のメンテや清掃だけでも大変な手間がかかる。今までは民間の業者に依頼していたが、金欠になると職員の負担が増える一方だよ。これで職員たちも辞めだしたらいよいよもうお終いね。正直私たちいいタイミングで来てると思うわ)

(なるほどね、やはり所蔵品と建物は別個に考えたほうがよさそうだね。真縞さんにそう報告しとくよ)

(あの人、ラスシャマルの水晶が空振りだったことにがっかりしなかった?)

(まさか。ずっと買い取れ買い取れってうるさいんだから。財団が手に入れたらもっと詳しく調べられるってむしろ意気込んでるよ)

(あはは、私たちより2万歳以上年上なのに、あきらめの悪い子どもみたいだね)

(本当だよ、毎日これ見たいあれほしいってどこの欲張りな子どもかよ。ただでさえオペレティブの人手が足りてないのに。まあ、また戦争が始まって多くの文化財がすでに失われて、焦ってるのもわかるけどさ)

 

CE 401年10月12日 1648 CDT

地球 コーデュエネ共和国 アインタイーブ県アインタイーブ

 

 小宅依実がアインタイーブの大書庫に来て3日目。彼女は今日も閲覧室の窓辺で大書庫の蔵書を読み漁っている。「読む」といっても、人間のように一字一句に文字を追うのではなく、ページをめくった瞬間、視覚センサーや触覚センサーがそのページの状態や様子をキャプチャすると同時に、その上に書かれた文字情報も自動判別し、データベースへとアップロードして瞬時にアーカイブ化されていく。もちろんすでに使われなくなった古代言語や未知の言語に対する認識の精度はまだ低いが、それも大量のデータの蓄積と共に徐々に修正されていく。これはまさにアーカイブ部の重要な仕事の一つだ。しかしはたから見れば、彼女は単に不真面目に本のページをパラパラしているだけで、ヒトにはそれが「読書」とは同じ行為だと到底理解されないだろう。

 その日の午後遅く、依実は外から大型車両のものと思われる複数の軽油エンジンの音が近づき、その後人の言い争う声がし出したのを聞いた。気になって正面玄関から出ると、一台の軍用車を先頭に、砂漠迷彩に塗られた旧式のBTR-65装甲車一台と複数の軍用トラックからなる車列が大書庫の前に止まっているのが見えた。コーデュエネの隣国マシュリク陸軍のカーキ色の軍服を着た軍人数人がシェリザード・コバネを取り囲んで何やら言い合っているようで、彼女はすぐに人だかりの方に近寄った。

「だからもう閉館の時間だと……それに大人数の団体見学は先に予約をいただかないとすでに何回も説明して……」

「ぐちゃぐちゃ言い訳ばっかりしおって、なにもやましいことなかったら中を見せてくれたっていいじゃねえか!」

 軍人たちの先頭に立ってシェリザードに詰め寄っているのは、一人背の高くないもののがっしりした体格の髭面の中年男だ。軍服に付いてる大佐の階級章から見て、連隊長クラスの指揮官のようだ。して彼が従えているこの軍人たちは連隊本部中隊といったところか。

「シェリザード・ベイ、なにかあったか?」

 依実はシェリザードの後ろから声をかけた。

「誰だ貴様……おい貴様、アルヤ人じゃねえか!? なぜここにいる!」

 声を荒げていたマシュリク軍大佐が一瞬自分の方を見て、またすぐ二度見してきて目を丸くさせた。

「それがなにか?」

「『なにか』だと? 白々しい! アルヤ人はエヴァンゲリカどもを招き入れた邪教徒(アル=ワサニーユーナ)の仲間だって誰もが知ってること! 貴様がこいつらとはどういう関係だ、説明しろ!」

 大佐は突然依実の方を指差して大声で叫び出した。明らかに思想の強そうなことばに、彼女はこいつは話の通じない人間だと一瞬で察して頭がキーンとなった。

 エヴァンゲリカの奇襲攻撃がたやすく成功し、同盟軍に大損害が出たのはアルヤが敵を手引きしたからだ、というのは開戦当初からエヴァンゲリカが認知戦の一環として流布したデマの一つに過ぎない。実際に侵攻を受けたアルヤの惨状を見ればそんな主張がいかに荒唐無稽かをすぐにでもわかるが、普段から無関心な人にとって大陸の反対側の出来事などどうでもよく、結局人間は自らの信じたいものしか信じない。そのせいで無数のアルヤ人難民は国を追われた悲しみだけでなく、卑劣な流言飛語に今でも苦しめられている。そんな周回遅れの悪質なデマを信じて疑わず、ましてや初対面の人間にも躊躇なく悪態をつく時点で、この人がどんな地位にいようと人間性はもう見えている。

「やめてください! 彼女はKAS財団の方で、我々大書庫の大切の客人だ」

 シェリザードがとっさに手を伸ばし、彼女と髭面の大佐との間に割って入った。

「客人だと!? ははん、どうやらこの大書庫とやらは盗人だけじゃなくて、エヴァンゲリカの一味をも匿う邪教の拠点にもなってるとは!」

 マシュリク軍大佐がますます興奮し、唾を飛ばしながらさらにまくし立てた。シェリザードの助太刀に入ったつもりが、かえって事態を悪化させてしまったようだ。

「根拠のない言いがかりはやめてください!」

 シェリザードも必死に声を張り上げた。

「言いがかりだと!? 現に中を見せろって言ってんだよ!」

 この相手とはいくら言い争っても無駄なことがわかっているので、依実はシェリザードの手をどけて再びマシュリク軍大佐の前に出た。

「ここはあなたの国ではない。この大書庫になにか思うところがあれば、自分の国に帰ってしかるべきところに陳情にでも行って、マシュリク政府に対応を要望したらよろしい。マシュリクが仮にも民主主義の国ならばな」

「貴様なんと……!」

 一個人の思想信条に自由が認められているとしても、マシュリク陸軍の軍服を着ている以上、その言動が国を代表するものと見なされる。依実に思わぬ正論をぶつけられた大佐はことばに窮し、顔が真っ赤に染まった。

「大佐、そろそろ帰営の時間が……」

 彼の傍に立つ一人参謀らしき細長い男がやんわりと大佐をなだめた。

「ふん、我がマシュリクの文物を盗んだこの大書庫とやらの悪事は必ず暴いてやるからな! 敵の邪教徒をかばってることも! このアルヤ女め、覚えてろよ!」

 髭面の大佐はそう言い捨てて部下たちと車に乗り込んだ。

「……はっ、はは、時たまこういう抗議をする人が来るのはもう慣れてるけど、まさか銃を持って装甲車を乗り付けてくるとはたまげたものだ、ははは……」

 ほこりを立てながら走り去っていく軍用車両の列を見送ったシェリザードは一生懸命明るく茶化そうとしたが、その体が甲斐性もなくがたがたと打ち震えていた。依実はそっと、さっき自分を守ろうとしてくれた男のまだわななく手を握った。

 大書庫の正面階段を登りながら、彼女はある人とのプライベート通信をつなげた。

(もしもし、夕叢お兄さん? ええ、元気だよ。実はちょっと調べてほしいことがあって……)

 

「マシュリク軍!? シェリザード大丈夫だったの!?」

 夕食の卓に着いた時、依実からことの顛末を聞いたレイラ・カミシュロがシェリザードのところに駆け寄り、彼の肩をもんでねぎらった。

「しかしなぜマシュリクの軍隊がここにいるの? ここがコーデュエネのはずなのに」

 職員の一人が不安そうに言った。

「西フラカ戦争のためよ。南西諸国軍の部隊が西フラカ派兵のため今ラミサの周辺に集結している。今日はここから東の国境地帯に合同演習があったから、コーデュエネ領内にいても怪しまれることないだろう」

 依実が野菜のスープにスプーンを入れながらそう答えた。今日の夕食も相変わらず素質で、少しばかりのひき肉が入ったなすの肉詰めがメインディッシュだった。

「ラミサは近いからな」

「コーデュエネ軍もだよ」

「なんで西フラカなんかの戦争に……?」

「そうだった、新聞に書いてあったわ」

 職員たちがひそひそと会話を交わした。

「やはり警察に報告したほうがいいかしら」

 レイラはシェリザードの座っている椅子の背もたれをつかんだまま言った。

「むだだよ。警察が兵隊の相手を務められるわけないだろう」

 シェリザードはそう言い放って、羊のヨーグルトの入ったボウルに手を伸ばした。

「しかも外国の兵隊だしね、外交問題になっちゃうかしら……でももしあの人たちが本当にまた帰って来ちゃったらどうしたらいいの?」

「大丈夫。あいつら放ておいても来週辺りにラミサで船積みされて西フラカに出荷されるから、そんなちんけな脅しに気にしなくていい。私がここにいるってことは、財団もここにいる。なにも心配する必要ないわ」

 依実は何事もなかったような顔で引きちぎったバズラマを残った野菜スープに浸した。

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