「……
夕叢見が食堂に入った時、
「あ、大佐! パンケーキだよ」
「ああ、それは見ればわかるが……食堂は食事が出るの?」
「大佐はおかしなことをおっしゃるね。もちろん出ないよ。これ自分で作ったの」
なんとも滑稽な会話にも聞こえるが、汎用素体は食事を取る必要がないため、軍艦の食堂は普段もっぱら休憩と談話室として使われている。食堂で食事が出るのは、本物のヒトがもし乗艦する時だけである。
「その白いのは……ホイップクリーム? そんな大量に!?」
「いや、これ私もどうかと思ってたけど、でもお店で見たのは確かにこんななの……」
「あとでもう何枚か焼いてみんなで一緒に食べればいいだろう。で、話はなに?」
天音はお尻を横にずらし、夕叢に席を譲った。
「そうそう、この間メランが言ってた
夕叢はベンチに腰を下ろしながら、持っていた通信端末をテーブルの上に置いた。するとテーブルの表面に細長いボーリングコアを写った一枚の写真が表示された。
「CE 350年代にアルヤ国営の石油会社が天津浦で行った試掘のコア、まだ
夕叢は二本の指で画像を拡大してから、コアの断面の中に白っぽくなっている一部分を指差した。
「ただの石灰岩に見えるけど……え、それってまさか」
眸はフォークを口に入れたまま目を見開いた。
「ええ、精密スキャンした結果中身がかなり均質で、人工的に作られたコンクリートではないかと言ってる。まあ、言われなければわからないよな。当時の人もただの岩だと思ってたらしい。海底深くの地層に人工物のコンクリート殻が埋まってるなんて誰も思わないしな」
「わお。海底に沈んだ超古代都市とか、もし本当だったら
天音も顔をテーブルに近づけて、指でちょんちょんと画像をつついた。
「まあまだ確定じゃないけどね。これがただのゴミなのか、それとも本当に何かが埋まってるか、本格的に調べようと思ったら大規模な調査になりそうなんで、それなりの口実も必要だ。ちょっと政策部をけしかけてく……」
夕叢がベンチから立ち上がろうとした途中、突然中腰の姿勢のまま固まった。
「どした?」
天音は不審そうに自分の兄を見上げた。
「緊急の呼び出しだ。ロストフの偵察衛星がエヴァンゲリカ本土上空で撃墜されたらしい」
「え、
「え、君たちも?」
(エヴァンゲリカが通常戦力を多少増強したところで、核兵器を持つ同盟軍には勝てない。いくら大規模な船団を出したって、アルヤにたどり着く前に沈められて海の藻屑だ。確実な勝算がなければ、こんな博打に出ることはない。やつらは狂ってはいるが、バカではないからな)
一ヶ月半前の夕叢大佐のそのことばは、不運にも現実を言い当ててしまった。蓋を開ければ、エヴァンゲリカの「勝算」とは前例のない上位天使の大量召喚と集中投入であった。あとでわかったことだが、エヴァンゲリカは今から二十数年前に偶然広範囲の電磁波を遮断する能力を持つ上位天使AK-4の召喚に成功した。広報省がこの世界に展開したよりも前のことだった。その能力をうまく利用すれば同盟側に察知されずに大軍を動かせることに気づき、これを聖戦を続行せよという神の意志だと解釈した教団はその後長い時間をかけて西側世界への三度目の大規模侵攻計画を入念に準備してきた。
共通歴401年7月の初め、エヴァンゲリカ軍の侵攻部隊がローレンティア大陸の西海岸に集結して出航準備を整えているのと同時に、治安強化の名目でエヴァンゲリカ神聖連合全土で不穏分子の一斉摘発が行われた。侵攻船団がAK-4の帳の下で中央洋を横断している間、エヴァンゲリカ全土から数万に上る受刑者がローレンティア大陸中南部のシクアワ砂漠に位置するシクアワ刑務所に続々と送られた。そして船団がアルヤ諸島に接近するタイミングに合わせ、世にもおぞましい人身御供の儀式がかつてない規模で立て続けに執り行われた結果教団は多数の上位天使の召喚に成功し、その怪物たちは直ちに東アシヤの前線へと転送された。中でも史上初めて確認された
対してAK-4によって目と耳を奪われた同盟軍は虎の子の空母艦隊がよもや初手で壊滅したことをつゆ知らず、その対応は混乱を極めた。同盟艦隊を撃滅したエヴァンゲリカの天使たちがそのままアルヤ諸島各地の空港や軍事基地の制圧に向かった時でさえ、同盟軍は依然それらが空母艦隊が撃ち漏らした残敵の悪あがきとしか思えず、少ない留守兵力で時間を稼ぎつつ艦隊の帰還を待ち続けた。結果としてアルヤ諸島に展開していた海空戦力のほぼすべてを失った同盟軍はエヴァンゲリカの船団を阻止するどころか、侵攻部隊の上陸をやすやすと許すこととなった。諸島部に駐屯していた少数のアルヤ陸軍部隊も、孤立無援の状況下でエヴァンゲリカの大軍に直面せざるを得なかった。
一方で民間でも、7月22日未明から続く謎の電波障害が日常生活の多方面に支障をきたし大きな騒動となっていたが、同盟軍から適切な情報を得られなかったアルヤ政府は事態を把握できずその対応に苦慮した。やがて各地の空港や軍事施設が敵からの攻撃を受けると、ようやく市民に対して避難の呼びかけが行われた。しかし空港や港が敵襲の恐れで封鎖され、普段の自然災害と違って避難場所の指定もなく、この場当たり的な避難勧告はかえって人々のパニックを増大させ混乱に拍車をかけた。多くの市民たちが正確な情報がない中あてもなく逃げ惑い、戦闘に巻き込まれることとなった。
CE 401年7月22日 1221 AIT
地球 アルヤ共和国 浪花市花島区
「だめだこりゃ、時間がかかる」
夏服の白と紺のセーラー服の上にグレーのパーカという格好でワンボックスカーの屋根に登った暮川綴美は、前方の交差点にできた大きな人だかりを見て目をすぼめた。
いつもなら飛んでいる陸戦隊展開軍の無人偵察機は、今日の未明に山豊島の南方沖にエヴァンゲリカの上位天使が多数出現し同盟軍と交戦に入ったことを受け、安全のためにすでに全機退避した。なので今情報を得るには、遥か南の空の上の地球静止軌道に停泊している軍の艦艇からか、地上にいる特務員一人一人自分のセンサーに頼るしかない。
広報省は対人専門の実働部隊として、艦隊の陸戦隊遠征部隊とは別に全員ヒトと同じ外見の汎用素体で構成される陸戦隊展開軍を保有しているが、コストの高さからその兵力はわずかである。地球上では普段KASセキュリティの偽装名義で
綴美も命令を受け、この日の明け方から監視任務のために小海川を渡って浪花の中心市街に入っていた。ところが政府から市民向けに最初の避難勧告が出された朝10時過ぎ頃に、学校の友人である
案の定美雪は一人暮らしの自分を心配して、彼女の家族と一緒に避難しようと誘ってきた。テレビでまだ避難の呼びかけが放送されている最中で、あまりに早いタイミングに思えた。実際電波障害の影響によりこの最初の放送を視聴できたのは一部ケーブルテレビの利用者のみで、多くの市民は時間差を置いてから人づてにそれを知ることとなった。そんな中通商産業省の官僚である美雪の父親
本来自宅のある手島区から浪花市を出るには、小海川右岸の幹線道路を通って浪花湾の北側をそのまま西に進んだほうが速いはずだが、美雪の父は道路に避難民が殺到してすぐさま大渋滞になることを予見し、人の流れと逆行して家族に一旦中央省庁のある中央区に来させ自分と落ち合ってから浪花港に向かうという段取りをつけた。市営の港湾施設は閉鎖が決まっているものの、民間の小さなヨットハーバーまでは統制されていなかったから、アウトドア好きな浩紹の趣味仲間が所有するプレジャーボートに便乗して水路から浪花を脱出するという計画だ。なおCOSからの情報ではこの時エヴァンゲリカ軍の船団がすでに浪花湾に侵入しているが、奇襲の効果を保つためか民間の船舶へは一切攻撃しなかった。そのため綴美は浩紹の計画が少なくとも現時点においては合理的だと判断した。断るための言い訳も思いつかず、また自分がついていったほうが安全だと思ったので、彼女はこの誘いに乗ることにした。同じ友人である
こうして家族と綴美を乗せた浩紹の赤いステーションワゴンは今、海辺の埋立地である
「よう、お嬢ちゃん! なんか見えたかい?」
幸いワンボックスカーの運転手は気さくなおじさんで、あるいはU-1B型のこの外見のおかげか、彼は怒らないばかりかフレンドリーに話しかけてくれた。
「ええ。この先の交差点で国防軍の装甲車と一般車両の事故があったみたいで、かなりもめてるようだ。しばらく動きそうにない。もう車を降りて歩いたほうが速いかもしれん」
歩兵戦闘車に描かれているマークを見ると、あれは恐らく浪花港の警備に向かう途中のアルヤ陸軍第36歩兵連隊の部隊だ。それにしてももう遅い。エヴァンゲリカ軍の上陸艇がすでに接岸してもおかしくないタイミングだというのに、のんきに事故処理なんてしている場合か。
「ほんまかいな! 今日中にこの荷物をお客さん所まで届けなあかんさけ、こらかなんな!」
「たぶんそのお客さんも今頃それどころじゃなくなってるから、おっちゃんも早く逃げたほうがいいとおも……」
綴美がまだ言い終わらないうちに、突然地震のようなズドンっとした衝撃と地響きのような大きな音に襲われた。うつむきながら運転手と話していた彼女は危うく車の屋根から振り落とされるところだった。
後ろに振り向くと、自分の来た方向に大量の土煙が火山の噴煙の如く灰色の壁となって一気に押し寄せ周囲を包み込んだ。真昼の日差しさえも遮られ、あたり一面が瞬く間に仄暗い世界へと変貌した。道路脇に立つビルの一棟が突如崩落したようで、山のような瓦礫が下の道路に降り注ぎ、道に溢れた多数の避難民を巻き込んだ。あちらこちらから人々の悲鳴が聞こえた。
エヴァンゲリカ軍の航空機や投射物を探知していない。これは砲爆撃ではない。ならば地上からの攻撃か?
(みゆき…!?)
千崎一家のことを思い出した綴美はワンボックスカーの屋根から飛び降り、煙の中でも見えるよう視界を赤外線の波長域を加えたマルチスペクトルモードに切り替えた。
なにが起きたかわからない市民たちはパニック状態に陥り、埃まみれになった車を乗り捨てて煙の中で逃げ惑った。土埃を吸ってしまい激しく咳き込む人もたくさんいた。しかし武器を持った敵兵らしき人影は確認できなかった。爆轟の衝撃波も感知していないことから、少なくともビルが崩れた原因は爆発ではない。手抜き工事のビルが偶然このタイミングで倒壊した、なんてことはあり得るのか?
彼女は急いで千崎家の車が止まっていた場所に戻ると、思わず背筋の凍る光景を目にした。そこには太いコンクリートの柱が落下していて、下敷きになった高級外車の赤いステーションワゴンは前半分が完全に押し潰された形になっていた。車の前席に座っていたはずの美雪の両親の生存が不可能だと一目でわかった。
「みゆきっ…!!」
それでも後部座席にはまだ熱源が残っている。綴美は一縷の望みをかけて変形したリアドアを力ずくで引きちぎり車の中に入った。
「……つづみ……? よかった、つづみが無事で……ねぇ……お父さんとお母さんの声が聞こえんよ……わたしが動けんから、お願い助けて……」
自分の呼びかけに少女はかすれた声で答えた。
よかった。美雪はまだ生きている。綴美はすぐに彼女の手を握りしめてから、一旦落ち着いて車内の様子を確認した。美雪の足は倒れたフロントシートに挟まれていて動けず、恐らく折れている。彼女の上半身にも砕けた車の窓ガラスや部品などに当たってできた切り傷を負っているが、不幸中の幸いすぐに命の危険はない。
「ええ、もう大丈夫だよ。じっとしてて、今助けるから」
綴美は座席の間に潜り、美雪の父の血と体液が滲み出る運転席下の隙間を無理やりこじ開け、彼女を車外へと引きずり出した。
車外に出た美雪は初めて車の状態や周りの光景を見て、自分の両親になにが起きたかをなんとなく理解したようで、取り乱した様子で再び泣き叫び始めた。
「……お父さん……! お母さん……! ねぇ、つづみ、お父さんとお母さんも助けてよ……! まだ車の中に閉じ込められとるんやろ!? ねぇ……!」
「大丈夫。おじさんおばさんのことは消防隊に任せて、私たちは先に行こう。きっと大丈夫だから……」
なにもかも大丈夫ではないけれど、綴美はただただ美雪を抱きしめ、泣きじゃくる彼女を必死になだめることしかできなかった。
ああ、これが自分の知っている「戦争」だ。
罪のないたくさんの民間人が、敵の姿もまだ見ぬうちにその命を奪われた。82億もの地球人類が瞬く間に絶滅したCUCE 1.2の惨劇に比べれば大したスケールではないのかもしれないが、あの時自分はただ安全な戦艦の中でスクリーン越しにその光景を見ていたに過ぎない。この耳に残る人々の悲痛の叫び声も、この鼻につく埃と血の匂いも、訓練用のシミュレーションではなく、今この世界で起きている現実なのだ。
思えば学校が始まってからまだたったの三ヶ月半しか過ぎていない。入学式の朝の空気も、美雪と友だちになれたあの日の夕焼けも、まだ昨日のようにはっきりと覚えている。されど一個人の思惑とは関係なく世界情勢は動き、戦争が始まり、大勢の人々が死んでゆく。そこにある当たり前の日常が、ものの半日で地獄へと一変した。自分が地球に降りたのは、高校の制服に袖を通したのは、美雪たちと出会ったのは、こんな経験をするためだというのか。何千年も待ちわびていたCOS実習が、こんな結末を迎えるのか。
否、こんなの絶対に認めたくない。美雪はまだここに生きている。足のけがを治すのは簡単だ。心の傷もいずれ時間が癒やしてくれるだろう。だから自分にはまだやらなければいけないことがある。腕の中でわななくこのまだ16歳の少女を、亡き千崎夫妻の代わりに自分がなんとしても守ってみせる。綴美は心の中でそう誓った。
美雪は、大切な友だちだから。
そう決意を固めた綴美は美雪に水筒の水を少し飲ませ、傷を簡単に手当てしてから、車の荷室から持ち運べる最小限の荷物を回収した。エヴァンゲリカ軍が上陸してくる前に、なんとか自分たち二人だけでも避難する船にたどり着かなければならない。COSの任務なんて後回しでよい。
「つづみ、ありがとう……もうええよ。わたしが歩けんから、足手まといになってまうよ。つづみだけでも先に逃げて……」
「バカを言うな。お父さんのお友だちは私の顔を知らないだろう。ほら、ちゃんとつかまって」
綴美はもっともな理由で美雪を黙らせ、彼女をひょいと抱き上げた。たかだか50kgほどの重さは汎用素体にとってどうということはないが、自分よりも身長の長い人間をお姫様抱っこで運ぶのはもちろん経験も練習もしたことがなく、いささか難儀した。歩き出してすぐ、やはり背中の荷物を体の前に移し、美雪をおんぶに変えたほうが歩きやすいのではないかなどと思っていると、自分の首にしがみついている美雪の怯える声が耳元で聞こえた。
「……ねぇ、つづみ……あれは…なに……?」
振り返ると、自分たちが来た道に立ち込めていた土煙がいつの間にか晴れ上がっていた。瓦礫と車が散乱した道路の真上に、ビルの三階分の高さはある大きなくすんだ色の「なにか」が音もなく浮かんでいるのが見えた。綴美はやっとビル倒壊の原因と、美雪の両親を含む大勢の人の命を奪った元凶がわかった。
もっと正確に表現すると、あれはまるで子どもが描いたぐちゃぐちゃな絵のような、チャコールで引かれた無数のかすれた線の集合体とも言うべきもので、台所によくある金属たわしか、汚い毛糸玉にも似た見た目だった。それらの「線」は一定な形状にとどまらず絶えず振動しているふうに見え、目がちかちかするほど高速に明滅している。恐ろしいことに、その「線」に触れた地上の車両や人間が、なにか見えない力によってくちゃくちゃにされ文字通り跡形もなく粉砕されているのを見た。物体の頭上に浮かぶ二次元の円は縁が光って見えることから、人間はそれを「光輪」と呼んだ。
(
(全ユニット、Boulevard。新たに出現したアンゲルスはAP-17と標記。Apatite 1-15、Boulevard。安全に注意し、AP-17の観測を継続せよ)
(Apatite 1-15。了解)
「見なくていい。もう行くよ、しっかりつかまって」
綴美とて、エヴァンゲリカの天使とやらを実際に見るのはまだ初めてだ。だが今は天使なんかに構っている余裕はない。一刻も早く美雪を安全な場所へと連れて行くのが先だ。綴美はCOSへの報告を手短に済ませ、美雪を抱きかかえて再び走り出した。
「おーい! 君たち、けがはないか?」
ちょうどその時、前の方から迷彩服を着た二人の兵士が自分たちを見つけ、こちらに向かって走ってきた。自分と違ってヒトは煙の中ではよく見えないので、彼らは天使の存在に全く気づいていない。先の交差点で足止めされていた国防軍の部隊がビルの崩落を見て救助しに来ただろうが、このタイミングはまずい。
「だめだ! こっちに来るな! 逃げろ!」
「ああ、自分らは国防軍です! 助けに来たから、お嬢ちゃんたちもうだいじょ……えっ?」
綴美は声を出して兵士たちを追い返そうとしたが、彼らはその警告の意味がわからないまま果たして来てしまった。そして彼らは少女たちの後ろに、逃げ惑う人々や車を容赦なくすり潰しながら迫ってくる異様な姿の怪物を目撃することとなった。
「うわっ!? なな、なんだあれは!?」
「あれが天使だ。だから来るなって言っただろう」
「て、てててん、てんしー!?!」
若い男たちは驚きと恐怖のあまり動きが固まってしまった。いや、自分が天使を恐れていないだけで、人間にとってむしろそれが普通の反応だ。こうなっては仕方がない。綴美は彼らに協力を求めることにした。顔にまだあどけなさが残る二人の兵士は二十歳になったかどうかという若さで美雪たちとそう年は変わらず、恐らく配属されて間もない新兵だ。頼りなさそうにも見えたが、少なくとも自分よりは身長も体格もあるので、二人で美雪を担いで逃げる分には問題ない。美雪のことは彼らに任せて、その間に自分が天使の足止めをしたほうが無難だと思った。
「友だちが足をけがして歩けない。お願いだから彼女を装甲車のところまで運んであげて!」
綴美はそう言って美雪を兵士の一人の背中に預けた。しかしもう一人の兵士が自分の腕を掴んできて離さない。
「……て、敵は軍に任せて、君も早くひ、避難しましょう! さあ、は、はやく!」
しまった。彼らから見て自分もまた一人のか弱い少女に過ぎず、美雪と同じくあくまで救助の対象であることに違いはない。そうこうしているうちに、あの天使がとうとう自分たちから20mもない距離まで近づいてきた。逃げ遅れた一人の中年女性が兵士たちを見かけ、助けを求めるためかこちらに向かってくる途中天使から出た「線」に撫でられ、悲鳴を上げる間もなく血しぶきとなって四散した。
「ひぃぃぃーー!?!! く、くるなー! この化け物がーー!!」
この世とは思えぬおぞましい光景を目の当たりにしたその兵士はひどく動揺して、背負っていた92式5.45mm小銃を手に取った。
「やめっ…!」
タタターン!!!
綴美の制止も虚しく、若い兵士の小銃から3発の銃弾が天使に向けて放たれた。天使を構成する「線」の振動が一瞬だけ鈍ったようにも見えたが、もともとすばやく明滅しているためはっきりとした変化は見受けなかった。するとすかさず今度は自分たちめがけてその「線」が飛んできた。
(…っ!!)
天使が放った「線」は自分が展開したTフィールドに弾かれ、と同時にこの天使の破壊力の原理もわかった。あの落書きのような「線」に見える事象の周りに重力があらゆる方向に乱数的に発生しており、影響範囲内に存在するいかなる物質をも乱暴に引き裂きバラバラに分解してしまうのだ。
美雪も兵士たちも無事だったが、実に危なかった。もとよりこの若い兵士たちに天使と戦ってもらうつもりは毛頭なく、美雪を一時預かってくれるだけでよかった。ところが天使という敵の異様な姿を見た彼らの狼狽ぶりは自分の想像以上に大きく、これ以上気が動転して銃を乱射されてしまっては元も子もない。
「下がれ! お前らじゃ相手にならん!」
綴美はいまだに銃を握りしめたままおののく兵士を強引に押しのけ、天使の前に立ちはだかった。
(Boulevard、Apatite 1-15。AP-17からの攻撃を受けている。反撃の許可を請う)
(Apatite 1-15、Boulevard。AP-17とアルヤ軍との交戦を確認している。反撃を認めない。安全な距離を取りつつ観測を継続せよ)
安全な距離を取れと? 冗談を言う。ここで美雪や兵士たちを見捨てるわけがない。あとでなにを言われようと、これは美雪を助けるためであり、正当防衛だ。
綴美は右手を羽織っているパーカの下に入れ、左脇下のホルスターからPE-2A1レールピストルを引き抜いた。
なにが「これを使うシチュエーションが永遠に来ないように」だ。COSからこの銃を支給された時からまだ二週間すらもたっていない。あの時の自分がまだ数人のチンピラを殺めたことでくよくよしていたのを思うとバカらしくなってくる。この数分間だけでも、その十倍以上の人間が目の前で無惨に殺されたのを見た。戦争ともなれば人間は自分の同類を数千、数万と一度に殺すのに何の躊躇もしない。つくづく自分の甘さを痛感させられた。
以前軍務学校の授業で、第2総軍参謀本部の施設を見学したことがある。入口正面の壁には、参謀本部のモットーが大きな文字で刻まれていた。
OPTIMA SPERA
PESSIMA PARA
INOPINATA EXSPECTA*1
このモットーはCUCE 1.2の惨劇のあとに書かれたものだと、教官からそう聞かされた。
彼女は、今ようやくそこに書かれたことばの重みを知った。
もう迷わない。なにが起きようと、自分のできることをやるだけだ。美雪を守るためなら。
セーフティー解除。
セミオート。
ハイパワーモード。
彼女は歯を食いしばり、両手で拳銃を構えた。
天使の形態が千差万別であるゆえ、コアみたいな弱点の存在が知られていない。逆に言えばどこを狙ってもよい。彼女はあの天使の中心より右側、「線」の密度がやや薄くなる外側の部分に照準を合わせ、引き金を引いた。
バァン!!
大きな爆音と共に派手なプラズマの炎がレールピストルの銃口から吹き出し、衝撃波が周囲の土埃を巻き上げた。天使の外側にあった数本の「線」が勢いよく吹き飛ばされ、血のような赤い液体と化して辺りに飛び散った。さっきまで蠢いていた無数の「線」が急速に中心に向かって収縮していき、撃たれた天使は断末魔の叫びの如く高い金切り声を発しながら今度は直径約2mほどの銀色の球体にその姿を変えた。天使の頭上にあった光輪も消え、小さな球体は逃げるようにすっとビルの間に隠れた。
「今だ!」
なにも確証はなかったけれど、ひとまずレールピストルの弾が天使に効いたようだ。敵が怯んだこの隙を逃さまいと、綴美はレールピストルの発砲音にびっくりして尻餅をついた若い兵士を引き起こし、美雪をおんぶしているもう一人の兵士と共に先の方へと逃がした。彼女自身は再び拳銃を構え、逃げた天使のあとを追い道路の反対側に渡った。
一方で綴美は少しだけ安心した。先ほどの兵士が持つ92式小銃の銃口初速は900m/s程度、5.45mm弾が20mの距離を飛ぶのに0.022秒しかかからなかったが、天使は難なくそれを弾いた。それに対してハイパワーモードのPE-2レールピストルが放った12.5mm徹甲弾の弾速はMach 7を超え、ざっと小銃弾の三倍の速さに達したところで、天使はそれを防ぎきることができなかった。つまりあの天使は複雑な重力操作ができても、探知能力や反応時間自体がまだ常識の範囲内に収まっていると考えていい。これなら通常兵器でも理論上あの天使を倒せることが可能だ。もっともCOSから天使と交戦する許可が下りていないゆえ、あくまで兵士たちが美雪を安全な場所に運ぶまでの時間稼ぎしかできないが、
とはいえまだ一つ大きな問題が残っている。あの天使の動力源が不明で、さしたる熱や電磁シグナルを出しておらず、どうやって追跡するかはわからないままだ。攻撃手段となるあの「線」みたいな事象を発生させている時は重力波で探知できるが、小さな球体に変化した今はそれもできない。空から監視する展開軍の無人偵察機がないため、軍の戦術データリンク上、「AP-17」という黄色いマーカーがいまだにあの球体が消えたビルの隙間に残ったままである。彼女は小走りしてビルの隅に滑り込み、壁から頭だけ出して隙間を覗き込んだ。
いない。
残念だ。綴美としてはむしろ天使がこのままビルの隙間に隠れて、追ってきた自分を待ち伏せたほうがまだやりやすい。近くにエヴァンゲリカ兵の姿がいないことから、あの天使は召喚司祭に操られているのではなく、スタンドアローンで動いていることになる。恐らくわざと民間人を無差別に襲わせ混乱を起こし、アルヤ軍の注意を引き付けて侵攻部隊の上陸を援護するためだろう。エヴァンゲリカの連中は神の教えなどと唱えながら、やっていることは腐れ外道以外のなにものでもない。となるとあの天使の動きが完全に予測不能だ。なにせあれが生物なのか人工物なのかもわからず、行動原理なども含めすべてが謎の存在だ。
あの球体の大きさなら建物の中に入り込んでいる可能性もある。そうなれば探し出すのは大変だが、自分の目的はあくまで美雪と兵士たちを逃すためであり、天使の殲滅ではない。楽観的に考えればもしあの天使も姿を現したらまた自分に撃たれると学習したのなら、このまま大人しくしてくれればそれに越したことはない。彼女はそう思って一息をつき、レールピストルの銃口を上に向けた。
その時、綴美はかすかな重力波を感知した。三次元空間の電磁力に比べ、十次元越しに伝わる重力のほうが遥かに弱いため探知は容易ではないが、さっきあの天使の攻撃を無効化した時に記録した特徴的なパターンだった。
背中に凄まじい悪寒が走り、両足をすくわれる感じがした。
(みゆきっ…!?!)
綴美はよろめきそうになりながら道路に飛び出し、美雪を担ぎながら先に逃げたはずの二人の兵士の行方を目で追った。
そして、あの三人がまさに長さ5mある大きなコンクリートの破片に直撃される瞬間を見た。
若い兵士の背中から顔を上げた美雪は、飛んできたコンクリート片の方を注視したまま、彼女の神経が反応するよりも前にその灰色の塊に容赦なく打ち付けられた。天使に吹き飛ばされたコンクリート片の持つ多大な運動エネルギーに三人の体がひどく押しつぶされ、変形し破裂して、血と骨片と臓器とをアスファルト一面にぶちまける様子を、まるでハイスピードカメラのように一フレーム一フレームずつ、すべて鮮明に見えていた。自分のセンサー性能の良さを、これほど憎んだことはあるのか。
千崎美雪は死んだ。
あの動いたり笑ったりする16歳の少女は、灰色のコンクリート片の下からにじみ出る赤黒い血糊となった。ぐちゃぐちゃになった彼女の体は、もう元の姿には戻せない。人間は脳が破壊されれば、そこに保存されている人格や記憶データもサルベージすることができず、軍の技術をもってしても助けることはできない。彼女は完全に死んでしまったのだ。
いくらレイヴァテイルでも、時間を巻き戻し、確定した事実をなかったことにはできない。千崎美雪という存在は、この宇宙が誕生して以来、高品位から低品位へ、秩序から無秩序へと絶え間なく突き進むエントロピーの奔流に押し流され、永遠に失ってしまった。
美雪は死んだ。
脳がその事実をはっきりと認識しているにもかかわらず、心はどうしてもそれを受け入れることができない。
どうしてあそこで天使に襲われたのは自分ではなく、美雪のほうなんだ。*2
自分が付いていながら、結局彼女を死なせてしまった。亡き千崎夫妻の代わりに彼女を守ると誓ったにもかかわらず、彼女を死なせてしまった。取り返しのつかないことを、してしまった。
美雪を助けられなかった、のではなく、むざむざ彼女を死なせた、という残酷な事実だけが、胸をきつく締め付けてくる。
美雪は上流家庭育ちの一人娘のお嬢様にもかかわらず、いささかな嫌みや意地悪さもなく、いつも優しくて友だちに気を使っていた。一人暮らしの自分にもなにかにつけてよく気にかけてくれた。夏休みになったら一緒に浴衣を選びに行って、お祭りや花火大会にも一緒に行くと約束していた。
なのにどうしてその夏休みの一日目に、両親を目の前で惨殺され、さらに自身もむごい死を遂げなければならなかったのか。どうして彼女のまだ16年の人生がこんな終わり方にされなければならなかったのか。
いや、美雪だけではない。あの若い兵士らだって、今日この場で命を落とした全員だって、誰しもが半日前まではいつも通りの人生を歩んでいたはずだ。
どうして。どうしてだ。
なにを間違ったのか。どこで間違ったのか。
COSの命令を気にして天使を本気で仕留めなかったのがいけなかったのか。あの兵士らに助けを求めるべきではなかったのか。車を降りて一人様子を見に行くべきではなかったのか。美雪から一緒に避難する誘いを乗るべきではなかったのか。美雪と友だちになるべきではなかったのか。あの日河川敷の公園で不良に絡まれた美雪を助けるべきではなかったのか。
いや。なにも間違ってはいない。
現実世界にifはない。過去の選択を否定したところでなんの意味もない。
ただただ、自分が未熟で、愚かで、考えが甘くて、要領が悪いせいだ。
泣きたい。
泣きたいけど涙が出ない。
美雪を見殺しにした自分には、泣く資格なんてない。その涙は死んだ美雪にではなく、自分の不甲斐なさに流すものだとわかっているから。
それでも、まだやらなければいけないことがある。
COSの命令なんてもう関係ない。美雪たちを殺めたあの天使、AP-17は、必ずやこの手で屠ってやる。
綴美は必死に唇を噛み締め、震える手でレールピストルを構え直した。
「おっと! そんな物騒なお弾きはお嬢ちゃんが持つべきものではないよ」
突然、手に持つ拳銃が一人迷彩服の軍人に抑えられた。驚いた彼女は誤ってその人を傷つけないように慌てて手の力を抜いた。
「さあ! ここは危ないから、お嬢ちゃんも早く避難しましょう!」
顔を上げると、その人の軍服の襟には二等軍曹の階級章が付いていた。しかし男の顔は、目に溢れる涙で見ることはできなかった。