記憶の縫合   作:笹書房

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第一話

 私は寝起きの悪い方である。目を覚ましてからの数刻の記憶は、曖昧なのが常だ。起き抜けに弄ったはずの携帯電話が見つからず、ベッドから出てから十分も探し続けたことがある。結局そいつは枕の下に潜り込んでおり、二度寝した私が押し込んだのであろうとそのときの私は結論づけた。記憶の不連続というのは、大抵このように (ある程度の謎を残すことはあれど) 平和のうちに解消されるものである。

 だからこそ、目を覚ました私は、しばらく茫然としていた。いつもと軋みの違うベッドも、無機質な照明と監視カメラのついた真っ白な天井も、私の記憶の延長線上には存在しなかった。ぎっしり詰まった疑問符で重くなる頭を持ち上げてようやく起き上がった私は、その白く清潔な部屋の中を歩き回った。無論、何か頭を軽くするような情報を求めてのことである。

 しかしながら、得た情報は私の頭をどんどん重くしていくばかりだった。1つしかないドアには鍵がかかっている。窓は嵌め殺しの大きな窓が1つだけ、おまけにその向こうにはまた別の似たような部屋が広がっている――言い方を変えれば、ガラス板で仕切られた大きな部屋の片側に私は閉じ込められているわけだ。部屋の隅に備え付けられている設備の中身がユニットバスだと知って、この部屋が「外に出なくても生きていけるように設計されている」と気づいたとき、私はついに崩れ落ちた。今ここにいる理由、そこに至るまでの過去の物語……それを探していた私が得られたのは、自分がこの部屋に「収容されている」という無慈悲な結論だけだったのだから。

 

 理解不能な現状に打ちのめされた私は、ベッドに腰かけて俯いていた。状況を変える何かをただ待つ時間は、とても長く感じた。隣の部屋のドアが開く音に私が顔を上げたのは、実のところ私が目覚めてからほんの十数分後のことだったのかもしれない。私の全神経は、ガラス板の向こうに注がれ、入ってきた人物の情報を拾った。纏った白衣も、背格好や所作も見覚えがある。その人間は、私のよく知っている男のはずだった。しかし、彼の眼鏡の奥の両目は何やら見たこともない色を孕んでいて、彼がマイクのスイッチを入れて話し始めても、私は彼の心情を読み取ることができなかった。

「目が覚めましたか、博士」

「野崎君、野崎君じゃないか。私はどうなっている。ここから出してくれ」

 渦巻いていた不安が口をついて出る。見知らぬ部屋で見知った人間に出会えたことで気が緩んだ私の、縋りつくような言葉。しかし、それは彼には届かなかった。相も変わらず感情の読めない声色で、彼は簡潔に答えていく。

「すいません、あなたをここから出すわけにはいかないんです」

「なぜだ」

「今のあなたには、経過観察が必要だからです」

「どういうことだ。私の身に何かあったのか」

「詳しいことはお教えできません。どうか少しずつ、ご自分で思い出してください」

 私の疑問にそれ以上の答えは与えられないまま、彼の話はこの部屋での暮らし方に映った。食事は日に三度、壁の穴を通じて提供されること。人道に配慮し、ユニットバスに監視カメラはついていないこと。着替えや歯ブラシ等のアメニティは、郵便受けに入れておけば新しいものと交換できること。彼の説明はあくまでも事務的で、私の顔よりも手元の紙を見ている時間の方が長かった。

「これで一通りの説明は終了です。それでは、ご健闘を祈っています」

 微妙に意味の汲み取れない応援の言葉を最後に、彼は部屋を後にした。そういう所がいつもの彼と同じだっただけに、去り際の彼の顔に浮かんだ表情――研究室での談笑とは明らかに異なる、いっそ非社会性さえ帯びた微(・)笑(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)も(・)の(・)に気圧された私は、彼を引き留めることができなかった。

 

 彼がいなくなって一人になると、私は無性に腹が立ってきた。

 私のこれまでの人生は、何の問題もなく進んできたはずだ。それなりに裕福な家に、それなり以上の明晰な頭脳を持って生まれた。若くして「博士」と呼ばれるほどの地位まで上り詰め、いかしたガールフレンドまで手に入れた。私は本来ならば彼と同じ、いや彼よりも権威のある研究者として、彼に指示を飛ばす立場のはずなのだ。なぜ白衣を剥ぎ取られて入院着にくるまれ、こんな小部屋に押し込まれて、彼の命令を聞かなければならないのか。

 そうだ、なぜ! 私の頭を、その言葉が回る。詰まるところ、問題は何も解決してはいないのだ。私の輝かしい人生と、今の信じ難い状況とを繋ぐ答えを探して、必死に記憶を探る私の脳内に、おぼろげな会話の断片が浮かんできた。

 

「記憶っていうのは、物語みたいなものなんだ」

 短く切りそろえた黒髪を揺らし、彼女は言う。

「経験した出来事だけじゃ、記憶は完成しない。バラバラのページを糸で綴じて本にするみたいに、出来事どうしを因果関係で繋いで、ようやく人は起きたことを受け入れられる」

「……だから、私の研究は無駄だ、というわけかい?」

「ううん、そんなことない。これはアドバイスだよ。君が記憶の神秘を解き明かす日を、私は待ってるから」

 

 それは、彼女との記憶だった。私が愛した、たった一人の女性の記憶。安らかで美しいはずのその思い出が私の心をかき乱したのは、彼女の顔にかかった霞のせいである。私は、最愛の人の顔をも忘れてしまっていたのだった。忘れてはいけないはずのものを忘れている――その事実はあまりに衝撃的で、私自身の置かれている不条理な状況さえも、一時の間忘れさせるほどだった。

 しかし、その回想は、私に道を示してもくれた。記憶メカニズムの研究者としての私の信念を、彼女の言葉は思い出させてくれたのだ。記憶とは、因果の糸である。その糸が失われたことで、私の本から欠落した経験の断片……即ち、私がここにいる理由と、彼女のこと。私が失った2つの思い出は、きっと1つの物語で繋がっている。その物語を、私は取り戻さねばならない。この閉ざされた部屋の中で、私はきっと――答えを見つけ出す。

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