「ママ…僕がパパを撃ったんだ…」
「ママ…僕は兵隊にはいかなかったよ。パパみたいには成りたくなかった。国の殺し屋になんかなりたくなかったから」
「戦争だからしょうがないって馬鹿みたいだ。そんなことで、男も女も子供も殺すのなんておかしいよ」
「人殺しで褒められるなんて…そんなの嘘っぱちだ。人殺しは人殺しだったじゃないか…僕がそうだったじゃないか」
「僕はママを守るためにパパを撃ったのに、誰も僕の事を褒めてくれなかった。ママでさえ」
「…別に褒められたかったわけじゃないよ、でも、どうしてみんなが僕のことを怪物を見るような眼でみるようになったのか…それだけがわからないんだ」
「戦争になれば理由なんてどうでもいいんでしょう?じゃあ、僕は?僕には理由があったのに」
「ママ…ママはどうして泣いているの。パパはもうママに酷いことなんかしない。だから、ほら笑って。喜んで。褒めて」
「ママ…僕はただ、ママを守ろうと思って…それだけだったんだ」
「パパを殺すつもりなんかなかった。でも、銃しかなくて、それを使っただけなんだ。弾がやったんだ。パパを殺したのは、銃がやったんだ…僕じゃない。僕じゃないんだ。本当の話なんだよ」
「道具を使ったのは僕だ。でも、道具がそんなことをするだなんて、僕が決めたことじゃなかったのに」
「ママ…どこに行ってしまったんだい…僕はまだ、ずっとここに居るよ」
「ママ…パパの元にいってしまったのかい?なんで?どうして?あんなに憎んでいたのに…」
「ママ…僕はどうすればよかったの?」
「ママ…僕は国の兵隊よりもマシな仕事をしているよ。悪い人だけを撃つ仕事なんだ。これでご飯を食べて行けるようになったんだ」
「ママ…パパみたいな人を撃ったら、どうして怒られるんだろうね。兵隊はなんでもかんでも壊すじゃないか。僕は警官を殺してないし、女子供だって撃っちゃいない。兵隊よりもお行儀よくしているんだ」
「ママ…もう僕には何もわからないよ。考えることに疲れてしまったんだ」
「ママ…だからね、もうさようならだ。僕はもう忘れてしまおうと思うよ。考えないようにするんだ。それから楽しいことを見つけるよ。生きていて良かったと思えることを見つけるよ。僕は幸せになるんだ」
「僕はママを探そうとは思わない。でも、僕を受け入れてくれる誰かを探すよ。それまで、何とか食っていくためにも、僕に出来ることをやるよ。必要とされているんだ、どんな形であれ、ね…」
「ママ…」
ホテルの一室。ベッドの上はとっちらかっていた。一組の男女が裸でマットレスに体を預けていた。女の方が肘を支えにむくりと体を起こして男の方に顔を向けた。目つきが悪い女だった。
「あたしはママじゃねえ」
「…ごめん…」
「悪いとは言ってねぇ…」
男のうわごとに反応した女の方が優しい声で言った。男の方はぼんやりと目蓋を持ち上げ素直に謝ると、それからまた目を瞑った。女は肘をシーツの中へ戻して、それから肩まで身を引っ込めると男に密着した。やけに寒かった。
声を潜めて、ぽしょぽしょ囁く声がした。
「また悪いもん見たのか」
「思い出しただけ」
「最近多くねえか?」
「多分…そういう時なのかも」
薄く笑った男は仰向けの身体を横に倒して女と向き合うと、自然と頬をすり合わせた。男の体が震えていることに女は気づいた。腕を背中に回す。どこだっていい。二人は互いの肌を温めるように撫で合いっこした。
男の顔が近づいて、鼻先が触れ合い、頬を擽り、時折唇が触れ合った。女の顔に朱が差す。男は静かに目を瞑り、祈るような表情を浮かべながら女を愛でていた。
「ふぅん…な、まだスるだろ」
「そうしたい気持ちは山々だけど…」
「ンだよ、あたしじゃ物足りないってか?」
「もう時間だ」
「もう?」
「うん…いかなくちゃ」
気分がノってきた女からの提案は、男から躱される。だが、女の方は知っていたとばかりに鼻で軽く笑い、男の方に聞こえるように舌を打った。
「チッ…じゃあ、終わったらこいよ。事務所の方で待ってるよ」
「悪いよ。いつ終わるかも分かんないし」
男がベッドから起き上がろうとするのを、女は背中から抱きとめた。柔らかい胸が潰れて、女の熱が男の中心に注がれるような感じがした。女は男の耳元で囁いた。男がそういう仕草に弱いことは知っていた。
「あたしが待つって言ってんだよ」
「忙しかったら」
「アンタが気にすることじゃない」
「…ありがとう。嬉しいよ」
肩越しに唇が触れ合った。女は舌を突き出した。歯をつつく。だが、男は舌先を擽るだけで絡み付けてはくれなかった。女の眼力が強くなり、男が折れた。様式美みたいなやり取りだった。何度も繰り返されてきたのだろう。首の後ろに腕が回されて、身体がねじれて向き合い、足先が絡み合い、身体が密着した。
少しの間、男は女だけのものになった。
「ん。早く帰って来いよ。ちゃちゃっと終わるだろ?」
「さあ、どうだろう」
「…ちゃんとあたしのとこに帰って来いよ。寄り道はナシだぜ、ベイビィ」
男がとぼけたことを言ったので、女が釘を刺した。男は自分が、女は男が、度を越して多情だということを知っている。知った上でこうして何度も逢瀬を重ねているのだ。無論その都度、しっかりと釘は指しておくのだが。その効果は一向に表れた試しがない。女の方にも、やめるつもりは更々なかった。いつも関係性をなあなあにしてしまう自分の事も、自分にそれが幸せだと思わせる男のことも女にとっては今更だった。
「ははは…善処するよ。僕がよく行くところと言えば…」
「聴かなくてもわかってる…さっさと行ってきやがれ」
「稼いでくるよ…ま、ほどほどにね」
彼と最初に寝たのは何時だっただろうか。女にはまるで遠い昔のように感じられた。男がこの島…ロアナプラ…を訪れてからそれなりの時間が経っていた。
最初に見つけたのは自分じゃなかった。何番目なのかは知らないが、彼が彼女を、彼女が彼を見つけ合った。だから、今もこうして続いていた。まぁ、今も彼の情はあちこちにばら撒かれていて、それは増え続けているんだろうなと、女は頭のどっかで現実感もなく考えた。
女の方は彼だけで満足できるのに、男の方は女だけでは満足できない。彼は女に好きにしていいというが、女の方は男に雁字搦めにされてしまっているせいでそんなこと思いつきもしなかった。他の男を探すなんて想像も出来ない。男を漁るなんて論外だ。
理不尽な関係性だ、とは女とて思っている。けれど、その関係性でさえも女のことを満たすには充分過ぎたのだ。捨てることも突き放すことも出来なかった。彼女は彼に夢中で、彼も女に夢中だった。彼の愛は本物で、情だってどこまでも深い。縋りつけば助けてくれる。頼まずとも身を挺して守ってくれる。それは信頼や親善の情と言うよりも、もっとドロドロとしていて純粋な、敬虔で冒涜的な熱情だった。
彼が望めば喜んで身を差し出すだろう。殺されたっていい。その時は、流石に愚痴ぐらい吐くだろう。罵倒もするに違いない。
けど、結局彼の為に身を捧げる事には、ほんの少しだって迷いはないのだ。そんなことはわかりきっていて、だからダラダラ続く今の関係性が女の心身を溺れさせて逃がさない。都合の好い存在でいることが、今の彼女にとってなによりも都合が良かった。
他の女も、同じコトを考えてんのかな…浮かんでは消える言葉を胸の奥に再度仕舞いこみ、彼女は男の背に手を振った。
「いってらっしゃい」
「いってきます…またね、レヴィ」
男が身支度を終えて部屋から出て言った。ドアが閉まる音が響いた。レヴィは寂しさを感じる自分に腹が立った。
「はぁ…あたし…なんで、あんなヤツなんか…クソッ」
顔を枕に埋めて涙を拭った。次にレヴィが起き上がった時、日は既に高く昇っていた。シャワーを浴びて、彼が自分にと用意した朝食をホテルのスタッフに用意されるがままに食べてからホテルを出た。一晩の代金は彼が払っていた。おかげで、財布の中身は変わらなかったが、レヴィは無性に体が軽くなった様に感じた。軽い体に反して、不思議と心は嵩が増したような気がした。その感覚が憎らしくて、愛おしかった。
時間ギリギリにコロンビアの便に乗り込んだ灰色の男が一人、窓の外から雲海を眺めていた。席には事前にファイルが置かれていた。落とし物じゃない。れっきとした依頼だった。ドキュメントファイルの封を切ってから時間が経っていた。中身の資料は読み終わっていた。彼の視線の先には雲海しかなかった。ここから落ちたら死ぬだろうな、とか、そういう取り留めのない考えが浮かんでいた。
ポーンと機内放送が鳴った。機長が数か国語で説明していた。彼は聞いていなかった。彼の視線の先の景色は、何時の間にか青と白の雲海から、中途半端に都市化された街と、街を囲む密林の濃い緑色へと移り変わっていた。そして、何の気なしに目を瞑った。遠くで銃声が響いた気がした。
次に瞼を持ち上げた時には、既に町の中にあるホテルの一室に居た。ベッドの上には機内で見たものとは別のファイルが広がっていた。一度見たものは忘れない。忘れていても、その時が来れば思い出す。だから彼は手に取ることも無く、それらを全てライターで炙った。
「ドクター、ドクター」
声が響いた。部屋の中でまた目を瞑ろうとした時だった。起き上がってドアを開けると、そこには特徴のない現地人の男がいた。目つきは兵士のそれだったが。
「ああ、よかった…ドクター、初めまして…主に道具のご用意と車両での移動を担当します」
「よろしく」
短い会話を済ませ、彼は目を瞑ることなく男の案内に従ってホテルを後にした。型落ちのセダンに乗り、途中で農業用倉庫に隠されていた別のセダンに乗り換えた。土埃が窓ガラスにこびりついていた。スモークなんか必要ないくらいに、後部座席の車窓は汚れ濁っていた。
「報酬は既に振り込まれています。あの額を前払いとは驚きました…ラングレーに担当官がいらっしゃるので?かなり信頼されているご様子でしたが…」
「そういうこともある」
「このあたりはFARCの活動が盛んだった所為で荒れ放題ですよ。日本企業も次々に撤退しました。最近じゃあ少しずつ戻って来てはいますがね…まだまだ三割ってところです」
「知ってる」
「マグダレナ営業所での人質救出作戦には貴方が関わっていたとか…本当ですか?第二のカルロス・ジャッカルを仕留めたのは貴方だって専らの噂ですよ。知ってましたか?」
「さぁ…その時のことも、あんまり覚えていないんだ」
「はぁ…そ、そうですか」
「ああ、本当に…その後のことは少しだけ覚えているような気もするが…他人に聞かせられるようなことじゃないんだ」
案内人は饒舌だった。対して、彼は寡黙に見えた。
だが、実際のところは寡黙と言うよりは記憶を洗い出して、案内人の質問に正確に答えようと努力していた。その努力は実らなかったが。いずれにしろ、彼は時折、頭を押さえ、目頭を指の腹で拭う仕草を見せた。案内人はバックミラー越しに彼のこれからの仕事ぶりに不安を抱いていたが、雲の上の人間が無条件に信頼している相手に対して無礼を働くことはなかった。気まずい沈黙が続いた。
古いセダンは川沿いの道路を進み、ジャングルに接する道なき道を進み、遠くに煮炊きの煙が見えて来た所で停止した。
「ここまでになります」
「ああ」
「定刻まではここで待機します。そのあとは自力での脱出を」
「わかった」
「…では、お気をつけて」
男は車を降りると、ふらふらすることも無く、しっかりとした足取りで煙が立つ方向へと向かった。躊躇なく密林へと入り込み、アスファルトの上を歩く様な軽快さで鬱蒼とした森の中を進んだ。急ぐ様子も、また走る様子も無かったが、常人からはかけ離れた速さで森を抜けて、視界に要塞化された農場を収めると、彼は徐に腹の辺りをまさぐった。
腹部とスラックスの間にある空間にはホルスターが隠匿されていた。スリーピースのベストのポケットにはそれぞれに予備のマガジンを入れていた。他にも、全身のあちこちに色々な商売道具を備え付けていた。彼は灰色のコートの前を開き、帽子を被りなおした。肩から埃を払うと、ぼんやりと虚空を見つめてから息を深く吸い込み、瞼を閉じて息をゆっくりと吐いた。銃を抜き、瞼を持ち上げた。
そして歩き出した。握られていた銃には、小型のサプレッサーが取り付けられていた。装弾数は13発。使用弾薬は.380ACP弾。中型拳銃に用いられる必要十分の性能を持った弾薬である。彼は仕事の際に必ず一発だけ残して弾は撃ち切るようにしていた。この時も、一発は既に装填された状態でマガジンを差し込んだだけだった。撃鉄を起こし、銃を緩く握りなおした。
歩く。進む。農場の要塞化は周到だった。高いコンクリートの塀も、鉄条網も、監視塔もあった。しかし、それらの防衛設備も彼の前では大きな障害にはならなかった。彼は手始めに監視塔の射手を鉄条網越しに射殺していった。一人、また一人と。異変に気がついたが最後、眉間に弾丸が吸い込まれていった。
彼は農園の周囲をぐるりと一周して射手を処理すると、堂々と正面の検問に向かった。監視カメラに銃口を向けて引き金を引く素振りなど見せなかった。まるで監視カメラ越しの視線や気配すら見切っている様な振る舞いだった。
彼は平然と鉄の門を押し開くと、門をくぐった。軋んだ音がしたが、誰も意識しなかった。
検問所ではポーカーに興じる男たちの姿があった。壁に自動小銃を立てかけていた。彼は部屋の前を通り過ぎる数歩の間に三人の頭を正確に撃ち抜いた。立ち止まることなく進む。検問所らしき場所を抜けて、彼はのんびりと歩いて、麻薬のプランテーションの奥に見える家屋へと向かった。
プランテーションで働く人に会うたびに、彼は帽子を片手で軽く持ち上げて会釈をした。中には女と子供もいた。女と子供は撃たない。これは彼の矜持であった。
だらりと垂らされた腕の先には、隠されることも無く銃が握られていた。数人の男女を見かけると、銃をぶら下げている彼に反応しようとした男だけを撃ち抜いて、彼はまた進んだ。呆然とした女性と子供だけが後に遺された。
彼は沈黙して、愉しまず、淡々と仕事をこなした。過不足なく。確実に武器を持った男だけを射殺した。武器を持つ女や子供を見つければ、彼は瞬時に武器を破壊した。ただし、刃物を向けられた場合に限り、彼は容赦なく相手の手足を撃ち抜いた。急所ではない。大きな血管も通っていない場所を精密に狙った。的確に肉だけを裂き、骨を掠めてこれを打撃することで無力化していった。
無人の野を行くがごとく進む彼は終始無言である。沈黙すること、そして撃ち合いをしないこと。この二つが殺しをする上での彼の矜持である。沈黙も、撃ち合いをしないのも、人の死が見世物として扱われるのを拒むためだ。人生は映画や舞台ではない。自分の行為がカタルシスを与えない様に、違和感だけが残るように、と。
これは戦争とは違う。自分は兵隊ではない。そのような強い自覚が彼にはあった。自分は舞台で踊るつもりはない。その意志を明確に行動で示すためのアウトローの論理だった。悪人の自覚はある。その上で恥じ入りながらも、頭を低くして、裏社会の秩序を体現する殺し屋として生きてきたのが彼と言う男だった。
暫くの間、家屋の中では発砲時にガスがサプレッサーから抜ける音と、吐き出された薬莢が床の上をカリカリと転がる音だけが聞こえた。
結局、その日、その場所では一度の銃撃戦も起こらなかった。彼はいつも通りに仕事を進め、要塞化された農場は一時間と掛からずに無力化された。男の死体が道のあちこちに散らばっていたが、そのどれもが抵抗の後がなく、また糸が切れた人形のようであった。家族持ちだとわかる男は胸か喉を撃たれ、独り身だと思われる男は喉か、或いは頭を撃ち抜かれていた。顔面の損壊は全ての遺体に共通して少なく、一見すると頭から血を流している以外は眠っている様に見えた。
内部の一掃が完了したことに納得した彼は周囲を見回して要塞内部の溜池を見つけると、予備動作も無く発砲した。
バス!バス!バス!
三度、ガスが抜ける音が漏れて、彼は徐に弾倉を引き抜いた。既に二度交換し、二つ目を撃ち切らなかったのが気にかかっていた。帳尻合わせの為に、最後に装填された一発を除いて撃ち切った。空になった弾倉を一瞥してから、彼はそれをベストのポケットに差し戻した。
彼は女子供がプランテーションから完全に退去したことを確認してから、内部を散策し、あちこちで鼻を利かせた。間もなく、彼は麻薬の貯蔵庫を複数個発見し、これに家屋に隣接する車庫から拝借したガソリンを撒き、これに火のついたライターを投じた。
瞬間、炎上。真っ黒い煙が燃やされた貯蔵庫の数だけ立ち昇った。轟轟と音がした。麻薬も、それを隠すための穀物も。全ての者は等しく空気を食いつくす勢いでよく燃えた。
衣服が焦げ臭くなることを憂慮した彼はそそくさとその場を後にした。
コツコツコツコツ…。行きでは聞こえていなかった靴底の音が響いた。
燃える貯蔵庫が発する熱を背中に受けて、彼は少し汗をかいていた。暑い。喉が渇いていた。彼の足はつい先ほど一掃したばかりの家屋へと向かい、そこにあった大きな冷蔵庫から瓶のコーラを二本取り出した。手にしたそれは、二本ともよく冷えていた。
パタム。彼は優しく冷蔵庫を閉じてから家屋を出た。
家屋を出ると炎が要塞全体に延焼していた。ぼんやりとどこか遠くを見つめながら、彼は瓶の冠を剥ぎ取り、ゆっくりとコーラをあおり、中毒性のあるスパイシーな風味と炭酸の清涼感を味わった。てくてく。彼は要塞の中を元来た通りの道順で辿り、検問所を視野に入れた。そのまま門を、来た時と同じようにくぐり、それから案内人との合流地点まで歩みを止めることは無かった。
「お疲れさまでした」
「あ、ああ…」
気が付いたら、彼はいつのまにかホテルの一室に戻っていた。飲み切ったと思われるコーラの瓶は二本とも彼の目の届く場所から無くなっていた。
部屋の入口で労いを受け取り、報酬が振り込まれたことに了解したことを伝えたり、それから…次の仕事も、彼の担当官がわざわざ直接交渉を通じて依頼する旨が伝えられた。自分へ依頼する為に交渉の真似事なんぞする必要がないことくらいは彼にも理解できた。
が、それでは担当官の彼女が納得しないということだろう。彼は脳裏に一人の女を想起した。それから素直に頷き、嫌に恭しい案内人の態度を訝しむこともなく優しくドアを閉じた。
目を瞑り、息を深く吸い込んだ。それから瞼を持ち上げ、ゆっくりと息を吐き出した。
先ずは手を洗わなければならなかった。彼は浴室に入ると、シャワーを浴びる前に洗面所の蛇口をひねった。温めのお湯になるまでしばし待ち、指先を水につけて温度を確かめた。丁度良い温度になったことに納得してから手で水を受け止めた。ジャバジャバと温かい水が彼の手を包みほぐした。
彼は、ふーっと重たい息を鼻から吐いた。
水を出したままにして、汚れが落ちるようにと考えて石鹸をありったけ使って手を擦り洗った。揉みこみ、何度も擦った。
彼はまた、ふーっと重たい息を鼻から吐いた。
洗った手から乾いたタオルで水気をしっかりと奪ってから、彼はシャワーを浴びた。
シャワーを浴びて、着慣れたパジャマに着替え、それから食事を摂った。
食事を摂る前に、彼は手を洗った。食事を摂ってからも、彼は手を洗った。そして歯を磨き、それから彼は手を洗った。
ベッドに仰向けに寝転んだ彼は、ぼんやりと天井を見上げていた。瞼が重くなってきた。
明日はどこで目覚めるのだろう?
ふと彼はそんなことを胸に抱き、ふーっと重たい息を鼻から吐き出してから睡魔に身を委ねた。