女難の殺し家   作:ヤン・デ・レェ

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毛繕い

鷲峰龍三は透明人間を望んだんじゃないだろうか。立派に仕事をこなす透明人間を。だから、余計なことは一切しないというお墨付きの、一流の仕事人である僕を選んだんだろう。その目論見は思わぬ角度から突き崩されたわけだが。ともかく、仕事をきっちりこなすという点だけ見れば僕は適切な人選だったと思う。なぜなら、僕には彼の愛娘へのいかなる情とも切り離されていたし、親愛の情以上を抱く機会に恵まれていなかったし。だから、汚い仕事を押し付ける上では、誰も心を痛めないし、何より取りこぼしの心配がないのが大きかったんだろうと思う。彼らは名の通った極道だったし、その独特の哲学を何かにつけて押し付けてくる点を除けば、居心地のよさそうな、輪郭のしっかりとした組織に見えた。長々といったけれども、結局のところ、僕は鷲峰龍三からの依頼を受けることにしたのだ。

 

これはすべて僕の個人的な推測に過ぎないのだが、それでも、ある一定水準を満たせるだけの信ぴょう性があると断言できる内容だ。

というのも、どれもこれも、鷲峰龍三との直接的な会話から汲み取った内容だからだ。僕は当事者であり、龍三もまた当事者だった。

その年の冬のことだった。雪に太陽光が反射して鈍く銀色に光る東京の街並みのことを、僕は懐かしい気持ちで眺めていた。ロアナプラにはこういった情緒がなく、また独特の安定と不均衡とを僕に与えてくれるのだが、この話は今はおいておこう。とにかく、僕のもとに連絡が入ったのだ。仕事の依頼だった。

 

最近の仕事といえば、専ら麻薬組織の隠された貯蔵庫を燃やすことばかりだった。アメリカのお得意様からの依頼を定期的にこなす程度で、はっきり言って全く張り合いなどなかった。だが、仕事に張り合いがないこと自体に関して不満など抱くはずもなかった。気分は上々。いや、安定していたというのが適切な表現だった。僕の心は静けさの中で充実をかみしめるように佇んでいたのだ。

延々とそのままでも、僕としては何ら問題はなかった。けれども、様変わりな依頼に対して興味が湧いたというのも事実だった。自分に嘘はつけない。僕は龍三からの依頼を了承し、日本に飛んだ。

 

仕事の内容は龍三の一人娘のボディガードをすることだった。守るだけならともかく、まだ幼い雪緒お嬢さんは新顔の僕に興味津々だった。親分である龍三からの太鼓判もあって、組の空気感に溶け込むのは早かったが、好奇心旺盛な彼女の世話まですることになった点については頭を悩ませた。僕は子供が苦手なのだ。恐ろしいとさえお思うし、この先、この子供がどれ位の時間、幸福の中で暮らすことができるのか、幸福の中で守られて育てられることができるのか、そのことばかりが気がかりになってしまうから。だから僕は子供が苦手なのだ。ただ、苦手なだけで嫌いではないし、憎んでもいない。むしろ、慈しまれて当然だとさえ思う。けれど、そのことを上手に行動に落とし込めるかは別問題だった。

 

それにしても、龍三の娘、鷲峰雪緒は僕に懐いた。とてもよく懐いてしまった。どうしてなのか、僕は直接彼女に尋ねた。なぜ、そんなに楽しそうなのか、と。これに対して雪緒の返答はこうだった。

 

「先生は普通の人だからです」

 

雪緒は僕の姿を視界に収めると、目に見えて明るく快くなり、その幸せな雰囲気を周囲に振りまいて憚らなかった。そのせいで、古株のほかの組員からの嫉妬が僕のほうに向くことも少なくなかった。早い話が有難迷惑だった。組員の彼らがもっと大人であれば、成熟した人格をしていたならば、僕はいらぬ気苦労を背負わずに済んだものを、結局のところ彼らはヤクザであり、怒りや嫉妬などの激しい感情を赴くままに表に出しがちであった。思うに、鷲峰組という狭い世間の中に、泥被れた鴈の群れの中に突然現れた白鳥が雪緒なのだ。そして、その綺麗な白鳥を暗黙の了解のもとで皆で遠くから見守っていたら、自分と同じくらい汚れたカラスが横から白鳥にべたべたと触れているぞ、というわけだ。美しい白鳥が間違いを起こすはずもないので、敵意はすべてカラスのものになる。気持ちはわからなくもなかったが、悪いのは誰でもないだろう、というのが正直な所感である。

 

幼い雪緒お嬢さんのお守りを僕がこなした期間は、だからあまり長くなかった。目に見え、耳に聞こえる部分だけでも、相当な不満があっただろうから。それでも僕の仕事が何年にもわたって続いたのは、依頼主である龍三が僕の続投を望んだからだったらしい。龍三親分としては頼んだ手前手を引っ込められないのだ、とは若頭の坂東何某から耳打ちされた内容だった。

 

「親父は先生にこのままお嬢の用心棒を続けてほしいと思っとるんですわ。せやけど、若い衆が己らが頼りないから侮られてるんとちゃうかと、無茶しようと考え出す馬鹿もおりますねん」

 

「ですからここは、先生から親父に一言…お願いします!この通りです!」

 

そう言い、頭を下げる若頭の言葉は渡りに船だった。喜んで目の敵にされるたちではない。雰囲気の違う仕事も十分経験できた、そう思い素直に僕のほうから龍三に申し出た。雪緒が小学校を卒業してすぐのことだった。僕の代わりに、若い衆の中でも指折りの銀次という男が代わりの用心棒につくという話を、去り際に龍三から直接教えてもらった。だから、雪緒のことは心配ご無用、そんな気遣いだったのか、当てつけだったのか…彼が死んだ今となっては想像するしかない。果たして、僕はお別れも言わずに、雪緒の目の前からパッと消えたのだ。ポッと出て、パッと消えたのだ。

 

 

 

春過ぎ、受験シーズンがひと段落したころ、僕は久しぶりに雪緒に会う機会があった。彼女は生来の利発さもあってか、波乱なく高校生へと上がり、いわゆるお嬢様学校に通い始めたばかりだった。

 

僕はといえば、南米の密林でコカイン畑を焼いていた。最近はヘロインを焼くことも増えた。つまり、前と全く同じような日々を暮らしていた。仕事が入れば現地に向かい、そういう農業みたいに焼いて焼いて焼きまくった。それ以外にも護衛依頼だったり、暗殺だったりと忙しくしていた。実入りは十分だった。財産だってある。でも、不思議とリタイアしようとは思わなかった。思いつきもしなかった。僕はこんなにも疲労感を感じているというのに、よろけたまま、倒れることもなく、立ち止まることもなく、微々たる変化にさらされ続けて、前へ前へと進み続けているみたいに、そう感じているのだった。すくなくとも、明日も予定は埋まっていた。明日は人を埋めるのだ。自分で撃った人間を、馴染みの掃除屋が掃除しやすいように、決まったところに埋めておく。そういう予定が埋まっている。だから、僕は以前と何ら変わっていなかった。何ら変わらない調子で、僕は学校帰りの雪緒に彼女の家の居間で対面し、そこで何の気なしに彼女に声をかけたのだ。

 

「ひさしぶり、雪緒。元気にしてた?」それが僕の第一声だった。僕の姿を見た雪緒は口をぽかんと開けたりもせず、ただ深い笑みを浮かべた。そして「三年ぶりですね、先生」と噛み締めるように言うと、自然な素振りで僕の隣に腰を下ろし、膝を擦り身を寄せたのだった。その仕草には迷いのようなものが全くなく、練達した打撃を打ち込む予備動作にさえ見えたが、僕はその一連の所作から彼女のことを安全と見做して、彼女の好きにさせた。結果、彼女の上半身はあっという間に僕に体重を預けてしまい、彼女の腕は僕の腕に絡まり、ちょうど胸に抱くような恰好になっていた。僕は一応、危険というものを知っているから、そのどれかに該当するものかと頭脳に血を巡らせたものの、該当する危険は見当たらず、やはり彼女の好きにさせることにした。彼女の細く長い、汚れもささくれもない白い手指が僕の体の上を這いあがり、慎重に体の輪郭をなぞり、それから大胆に脇腹を撫ぜ、首筋を辿った。これは危険だろうか?僕は自問し、それから否を諳んじた。彼女の指先はよく手入れされていて、まったく滑らかだった。爪は白い電灯の光を反射して赤く火照って見えた。それでも、いったいどうしてこのか弱い少女が僕を傷つけられただろうか!僕は全く安全だった。彼女もまた、この時、この瞬間までは確かに安全だったのだ。

 

「ねぇ、先生…先生はどうして私を置いて行ってしまったんですか?」

「え?なんだって?」

「どうして、連れ出してくださらなかったんですか?」

「ここが君の家だろう?君も、そう言っていたじゃないか」

 

僕は記憶をはっきりと持っている。彼女は自分の家に対して複雑な思いを抱いていたが、それでも自分の家と呼んだ。今もだ。そこには確かな愛着があり、そのことを自覚してさえいる。けれども、それだけではないことも、なんとなくうかがえる口ぶりだった。敏感に感じ取られたその感傷が、ひどく老い萎びて感じるのが不思議であった。繰り返し繰り返し考えられた、思考が摩耗した痕跡が感じ取れる、あっさりとしていて無関心を装った投げやりな応答からも、そのことは明らかだった。

 

「そうですね、ここが私の家です。ここ以外に、行く場所はありませんから。でも、先生なら、どうでしょうか。先生なら、どうとでもしてくれたんじゃありませんか?」

 

雪緒の言葉に僕は狼狽しなかった。むしろ、好奇心がむくむくと膨れ上がってくるのを感じていた。目の前の女は、どうしてか、自分から進んで均衡を突き崩そうと必死である。その均衡とは彼女の暮らす生活、つまりは暮らしそのもの、世界そのものを根本的に破壊してしまう危険を秘めているのだ。身を投げるに等しい行為を、彼女はあっけらかんと口にした。それは自殺願望者にも似た、危険を危険と認識できていない、あやふやな世界の輪郭との融合と再構築の間隙なき錯綜に根本原因があり得そうなところではある。ではあるが、彼女は正常だ。正常なままで、しっかりと澄んだ両目で僕の目を射抜きながらそう言うのだ。僕は困惑した。

 

「…ずいぶん、いきなりだなぁ。でも、僕は雇われ人だったんだよ?お金をもらって、そのお金でご飯を食べているんだから、できることとできないこと、することとしないこと、そういう区別があるんだよ…」

 

しかし、雪緒の目は逸れない。折れない。砕けない。まっすぐに僕のことを射抜いていた。いったい、僕が何をしたというのか。よそ者で、よっくど、ここの連中よりもたくさん殺してきた僕に、雪緒は一体全体何を望んでいしまっているのか。何を展望しているのか。そのことが僕にはまるで理解できなかった。だが、僕の釈明など求めていないことだけは明らかだった。彼女は今を欲しているのだ。今ここから、今この瞬間から、僕が、雪緒に、彼女の望む誠実さを証明することを固く望んでいるのだ。彼女はそういう目をしていた。

 

「それこそ、銀次の奴はどうなんだい?彼のことは龍三のお墨付きだった」

 

僕は続けてそう言ったが、雪緒は首を振ることもせず、僕のことを見続けている。眼鏡の奥の理知的な瞳が、蕩けることもなく、硬さを保ったまま、狂気的な冷静さで僕を射貫き、今この瞬間に確固として縫い留めていた。

 

「銀さんじゃダメなんです。あのひとは骨の髄まで極道ですから…父もそうです」

「お父さんのことはお悔やみ申し上げるよ。いい人だったね」

「…そう、ですね。惜しまれる人でした。本当に…ただただ、惜しまれる人でした」

 

僕の言葉が墓穴を掘った。雪緒はうつむきもせずに、目をやや細め、それから冷淡に僕を見返した。それが彼女の実の父親に対する自身の考えを僕に表明するための、一番冴えたやり方だったらしい。侮蔑こそないが、軽蔑に近い失望が雪緒にはあった。思えば昔、雪緒から好きな女のタイプを聞かれたことがあったっけ。その時の僕は賢い女が好きだと話したことがあった。そのことをなぜか、僕はこの時思い出した。雪緒はグースよりもはるかに賢い。しっかりと鷲の名前に恥じない気高さもいつの間にか身に着けていたらしい。僕は感嘆し、包み隠さず言葉にした。

 

「…この三年で、君はずいぶん変わったようだ」

 

ここにきて、僕の言葉を受けて、雪緒は初めて笑った。笑みを浮かべたという方が正しいだろう。女狐のような歪んだ笑みを浮かべた。その笑みは僕の好みの女どもがよくする仕草に心底似ていた。僕は反射的に勃起していた。彼女の視線が一瞬、僕の股を掠めて、それからまたあの冷淡なものに戻った。

 

「ふふ、そうでしょうか?…そうかもしれませんね。それにくらべて、貴方だけはまるで変わらない…まるで一人だけ川の流れに流されずにいられる巌のような人ですね」

 

そう言いながら、雪緒は手のひらを浮かせるようにして、手のひらの熱を僕の太ももに這わせると、思い切って撫でた。

 

「流れに逆らってる自覚はないけどな…流されてばっかりだし」

 

正直に白状するつもりで言うと、雪緒は眼鏡越しの黒黒とした瞳をヤギのように細めて、湿っぽく笑って言った。

 

「だからですよ。好きな方に、流れを選ぶことができるお人だから…」

 

それから、それからだ、真珠の粉を凝縮したような輝きのこもった爪先は、少しの迷いもなく僕の首の肌の上を滑り、耳たぶを撫でた帰り道で、首の動脈のほど近くを素早く引き裂いた。それは赤い薔薇が首から咲き誇ったような感動的な出来栄えだったに違いない。まず僕は彼女の両手を片手で以って折ってしまわない程度に体から離れた場所に引き離し、それから体重を掛け合っていた二つの体を、宙に投げ出された肉塊と、それを地面との間に挟む重石とに一瞬の内に役柄を入れ替えた。首から血が流れ落ちて、雪緒の眼鏡のレンズに滴った。跳ね散らかして、白いセーラー服に赤い染みができたのがはっきりと目撃された。それは生肉で作った薔薇を崩す時のように、余りにも卑猥で冒涜的な光景だった。

 

「抱いてください。さもないと人を呼びますよ」

「叫んで、先生にひどいことをされたんだと白状しますよ」

「でも、抱いてくれたら二人だけの秘密にしておきましょう」

「コレが一番いい方法だってことくらい、先生にだってわかりますよね」

 

血が、止まらない。僕は首を抑えようとして、片腕だけで雪緒を拘束していた。片腕だけで彼女を押さえつけることなんて簡単だった。でも、彼女が本気で口をはくはくしだす段になって、僕はようやく彼女が本気だということに理解が及んだ。飢えた鯉みたいに、はくはくと口を動かしただけで、彼女は僕の迷いにとどめを刺した。うまい手だった。

 

「誰か」

 

その声が咽喉を伝い、登りきる前に、僕は自分の口で雪緒の口を塞いだ。首からの血が止まらなかった。セーラー服を少しずつだが、真っ赤に汚していく様子は目に毒だ。僕は腹立たしくなって、彼女の長くて美しい髪を、黒い瀑のような髪を乱暴につかもうとして、彼女が泣いていることに気が付いてやめた。

 

「泣くなら、初めからしなければいいのに…」

 

口に出ていた。けれども、雪緒は悦に浸り、酔った様子で囁いた。

 

「うれしくって、つい涙がこぼれたんです」

「本当かい?」

「本当ですよ…さぁ、さぁ、もう今からなかったことに、なんてナシですからね?最後まで、私を先生のものにしてください」

「…どうしてそんなに」

「終わったら、すべてお話しますから」

 

だから。そう言って、雪緒は自らセーラー服のリボンを引き抜いた。押し倒した僕と、押し倒された雪緒の関係性は、否が応にもつんのめって、前のめりにもつれ込んでいった。手と足を絡めて、一時間。まだ若く青く硬いものを、柔らかく自分好みに変えるのに一時間。占めて二時間、その間、誰一人の気配もしなかったのは奇跡だったのか、それとも雪緒の采配なのか、すべては藪の中だった。

 

 

「雪緒は将来何になりたいとかあるの?」

 

雪緒の答え合わせを待たずに、僕はそんなことを尋ねた。雪緒は晴れやかな表情で言った。

 

「ありません」

「なにも?」

「なぁーんにも…ありません。ないんです。ありませんよ、そんなもの」

「先生にはあったんですか?それとも、今もあるんですか?」

「いわれてみれば、無いなぁ…無かったし、無いよ。今も昔も」

「でも生きてますね」

「うん。死んでないよ」

「だから、ですよ」

 

雪緒ははにかんだように笑みを浮かべ、心底安堵した様子で僕にすり寄った。僕に、拒むすべはない。

 

「あぁ、長かった、本当に、怖かった…今、ようやく、安心できました…生きてていいんだって」

「皆、君の周りの皆は、そう思ってるよ。多分ね」

「違うんです。そうじゃないんです。私が、私自身が、そう、心の底から思いたかったんです」

「でも、じゃあ、どうすればよかったの?何で僕なの?」

「貴方が、そういう人だから、ですよ」

 

雪緒は般若のように睨み目を利かして僕を見た。親の仇を見るような目で見て、ふにゃりと猫のように華やいだ笑みを浮かべた。

 

「うふふ、あはは…これで、私は先生のものですね」

「そ、そうだね」

「守ってくださいますか」

「え?まぁ、うん…君はもう僕んだから、大したことじゃないけど、それでいいなら…君を守るよ」

 

その言葉を聞いて、雪緒は安心しきった様子で瞼を閉じた。最後まで惜しむように僕の首の傷を撫でながら、雪緒は眠った。血はいつの間にか止まっていた。

 

 

次の日、僕は雪緒が鷲峰組を継ぐという話を聞いた。死んだ龍三の代わりに組を継ぐのだという。坂東何某が騒いでいた。銀次も騒いでいた。二人は僕が何かしでかしたのだと睨んで何があったのか話すように言い募った。だが、その悶着を仲裁したのはほかでもない雪緒本人だった。

 

「私は私の意志で立つことを決めました。お二方も、極道のお家に生まれたからには遅かれ早かれこのような将来が私に待ち受けていたことをご存じだったはずです。ならば、どうして今更になって慌てふためくことがありましょうか。漢なら肚をお決めになって下さい。私の肚はとうに決まっています」

 

雪緒の演説に圧倒されたのか、若頭の坂東何某と銀次はその場で跪き、新しい親分に忠誠を誓った。視線で人を殺せそうな二人は、まだ目だけは僕に何事があったのかと訴えかけていたが…僕が語るはずもなく、雪緒が打ち明けることもあり得ないだろう。なにせこのことを二人だけの秘密にするのだ、と言ったのは雪緒の方なのだから。

 

次の日、僕は何事もなかったかのように仕事をした。依頼主は雪緒で、依頼内容は暗殺だった。標的は雪緒が組を継ぐうえで障害となる香砂会の会長である香砂政巳。これの殺害が日本での久しぶりの仕事になった。真昼間に政巳の邸宅に入り込んで射殺した。目撃者はあえて残した。ボディガードの両角何某が目撃者になった。

 

そのあとは香砂会と鷲峰組の問題だ。親分と子分の問題だ。どうにも香砂会は子分いじめがよほど酷かったらしい。子分が耐えに耐えかねて銃の引き金を引いたのだ…という筋書きになった。

 

雪緒は十五歳で跡目を継いだ。そして、香砂会との全面抗争を圧倒的に有利な段階から開始し、これに勝った。抗争は三年に及んだ。年に一度、僕は雪緒の仕事をした。ボランティアじゃない。金はちゃんともらっていた。随分な額を、雪緒は惜しげもなく融通してくれたものだ。だから、僕も真面目に仕事を熟した。破壊工作、妨害工作、要人暗殺なんかをね。汚い仕事は裏で僕がすべて処理したから、鷲峰組は真正面から香砂会を打ち破ったように傍から見ればそうなるわけで。この若き女組長に最早誰もモノを言えなくなってしまったとさ。

 

十五の分水嶺を超えて、雪緒の名は関東一円の任侠組織に轟いた。鷲峰組は往年の覇気を取り戻す代わりに、それらを上回る武威を手にした。構成員の忠誠心はほかの幹部を通してではなく、雪緒個人に直接つながっている。これは素晴らしいことだ。老いも若いも喜んで雪緒の為に懲役でも鉛玉でも食らってくれるだろう。今の彼女には便利な身代わりが百人以上いるんだから。

 

彼女の守役だった松崎銀次は若頭代理のような役目に落ち着き、香砂会との抗争で大暴れした功績もあってか大出世したらしい。知らんけど。それともう一人、坂東次男は今まで通り若頭として組織のナンバーツーを張るらしい。組織を実質的にけん引していくのはこの坂東だろうな、とは雪緒の所感だ。極道稼業も一人では無茶なことを、香砂会との抗争で実感したらしい。

 

分不相応の権力と財力を手に入れて尚、雪緒が僕に対して傲慢になることはなかった。むしろ、今まで以上に強く寵愛を求めるようになったのは気のせいだろうか。彼女が仕事を依頼するとき、それは彼女を抱くときの秘密の合図だ。彼女の将来なんてものは、僕のものと一緒で、そんなものは存在しないのだ。今しかない。今だけが存在しているのだ。だから、僕と雪緒は仕事の依頼を請け負う側と依頼する側に分かれながら、今日という今を、互いを抱いてやり過ごすんだ。なんとなく、こんがらがっている間は、その間だけは僕たちは自由で守られた存在だと感じられるから。互いの存在が硬く身を守る鎧になって、面倒くさい現実から守ってくれるのだから。そしてまた明日が来て、僕は雪緒から貰った仕事を熟してロアナプラに戻るんだ。

 

立ち止まったら転げ落ちてしまう剃刀の刃の上を這うように生きている自覚が、望んでないのに浮かんでくるのが耐えられないんだ。だから一所に自分を置き去りにしてしまわないように、僕は色々な色に身を染める。後悔から一番遠いところで死ねることを祈りながら、毎夜、誰かの肌の匂いに安らぎと納得を見出しながら生きているんだ。

 

 

 

 

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