なにも不幸を振り撒きたいわけじゃない。
できるだけ、こっち側だけで済ませてしまえるように努めている。これまで努めてきたことだ。これからも努めるつもりだ。
できるだけ、僕の世界が嵩張らないように。正しい世界に暮らす正しい人達を傷つけてしまわぬように。綺麗な人達の生命を汚してしまわないように。
静かに、ひっそりとしていられたら、それが全うできたらどれだけ幸せだろうか。
穏やかに、静謐と共に生きられれば。それが最初から、許されていたならば。
森の中で、木々に紛れて、地から足を離して枝の上に登り、或いは地の下へと深く潜って身を丸めて。
生きてきた。がむしゃらに生きてきたのだ。ただそれだけだったと思う。他に何を考えられただろう。考えることさえも困難な時だってあった。
森と大地の境目、森の縁から見つめてきた。
薄暗い枝葉の隙間から、森の外の広い世界を見つめていた。
憧れだったり、侮蔑だったり。
羨ましくて、悔しくて、哀しくて、もどかしくて。
そうして気がつけば、拗れてしまっていた。
元通りになどできない。全てあの頃から変わってしまったと言うのに、僕を形作る本質は何も変わらない。変わってくれなかった。そうであったら楽だったのに。
捻くれて、拗れた現実との接し方は、結局のところ奪うことでしか生きることを成り立たせてくれない。
誰が悪いだとか、どうしてだとか、考える余地がありすぎた。
全てが悪くても、それを責められるほどに恥知らずにはなれなかった。
僕も悪い。君も悪い。でも、僕だけが責められるなど。僕だけが責めるなど。
互いに責め合うだなんて、美しくないと思った。漠然とした感覚は明確な形を持つようになった。
暮らしとして。暮らしを構成する、色々な物事として。
いつか清算される日が来るのだろうか。
それとも、罪ですらないのだろうか。
罰は罪に対して与えられる。罰を受けることで初めて、罪は赦されるのだから。
なら、罪すら持てなかった僕たちは何者なのだろう。
罪すら負わずに生まれたのに、罰だけを与えられてきたように感じてしまうのは、まるで赦しなど最初から考慮されていないかのよう。
僕たちが背負う罪は、僕たちの存在の表面にこびりついた付属品でしかない。これまで犯してきた罪は、僕たちの存在の始まりから結びつけられるけれど、肝心の最初とは、その源とはどうあったって結びつけられない。納得がいかない。
取り外しできない、僕たちの存在そのもの、その始まりから終わりまで、何処にも定義などない。定義できるはずもない。
罪も罰も、そこからくる赦しでさえも。
嗚呼!なんということだろう。
残酷だ!悲哀だ!
何処にも居場所などない!
一体誰が歓迎できるだろう。僕だって、そちら側で生まれていれば。僕だって、そちら側で生きることができたならば。きっと手放さなかったはずだから。きっと見ないようにしたはずだから。手を差し伸べることなんかよりも、大事な大事な今の当たり前を維持することに必死になったはずだから。
でも、だとすれば、一体誰に問えばいい。
一体誰に、頼めばいい。
一体誰に、何処へ、どうすれば。
許されるのか。赦しを得られるのか。与えられるのか。
一人で立つことは、褒められるべきことではないのか。
自らの両足で立ち、両手を使って生きることも、何一つ正しいことなどないのだろうか。
過ちは、たった一つの過ちが全てを悪に塗り替えてしまうと言うのか。向こう側に落ちて仕舞えば、もう元通りにはならないとでも言うのか。向こうに戻ることも。
悪とはなんなのだろうか。僕は悪だ。けれど、生まれたばかりの時はどうだっただろう。きっと悪なんかじゃなかった。
最初からこちら側に生まれた僕はどうすればいいのか。塀は高い。超えられそうもない。
凡人で、当たり前にたくさんいる、普通の人間だっただけ。それだけだった。そして、それまでだった。
大多数に含まれる命は、生まれた瞬間から塀の外で育てられ、塀の向こうに出ることが許されることはあり得ないのだろうか。自力で、越えられたならば。
なまじっか、越えることができないわけではない事実が、弱くて、普通の、塀を越えられない僕たちの分際を責め立てる。怠惰だと、愚かだと。
そうして安心したいんだろう。わかってる。わかっているんだ。僕も、そっちに立っていたら同じことをしていただろうから。
でも、それだけなのだろうか。それしかないのだろうか。
縋ることだけが、正解だとでも言うのだろうか。
生まれてから、死ぬまで、縋り続けることしか許されないのか。
強き者だけに許されるとでも言うのか。
強き者だけが赦されるとでも言うのか。
日陰に暮らす命に、どうか魂の平穏が訪れんことを。
穢れなき始まりを。赦し許された終わりを。
僕にも、君にも、当たり前に与えられんことを。
どうか!
冬の汗の匂いがしたんだ。
雲間からさす月明かりが僕たちを照らしていた。
他の明かりは街灯だけ。それだって切れかかっていた。
でもまだ切れちゃいない。今はそれだけで充分に思えたんだ。
まだ何も終わっちゃいない。
まだ何も始まっちゃいない。
だから、大丈夫なんだと。
路地裏での出逢いは唐突で、僕たちは奪われる側と、奪う側に立っていた。でも、今は違った。
反射的に少年の
造作もなく分解し脇へ捨てた。
少年の目は見開かれ、疲れたように笑ったように見えた。
その不敵な、安堵と怯えの混じった笑みは、怖気がするほど寂しいものだった。
気がつけば、有無を言わさず抱き締めていた。
突然の抱擁は、それでも何かを少年に届けたようで。
そう時間も経たぬ間に、少年の手が僕の背中へ伸びた。
抱き留めて、どこにも行ってしまわないようにと。
体は震えていた。
その視線から逃れたくて。
その視線が許せなくて。
僕はただ哀しくて。
もどかしかっただけなのだ。
だから咄嗟に手が伸びた。
少年の視線を切るように。
そう、ただそれだけなのだ。
抱きしめた身体は細く、小さく、薄かった。
今にも砕けてバラバラになってしまいそうなほど、脆く感じた。
恐る恐る、抱く力を強めた。
そして、目と目を合わせた。
いとけない、諦念と憎しみに染まってしまった瞳と向き合った。
鋭い眼をしていた。お互いに。
陽がすっかり堕ち切ると、吐く息は白くなった。
夕暮れが終わって夜が来た。
路地裏に響く冷たい風に煽られて身を縮めると、鼻先が少年の吐息でしっとりと濡れた。
僕は少年に手を差し伸べた。
少年は僕の手を取った。
路地裏は、寒かった。
陽の光は建物の影だけを伸ばし、その下で這いずる僕たちの気も知らないで肥えていく。
ここは寒い。
身を。
だから身を寄せたのかも知れない。
少年の手は冷たかった。
僕は手袋を外し、手を繋いだ。
少年の手を引いて、並んで歩いた。
陰気なストリートを抜けて、目抜通りから見上げた摩天楼は、どれも歪んで見えた。
いつか重みに耐え切れず撓む日が来るんじゃないかと、そこで生きる人の身が案じられた。
少年と出会った次の日のことだった。
彼女の名前を知った。レベッカというらしい。
今日は取り敢えず自己紹介と衣食住環境の整備に時間を費やした。
彼女は従順だった。時折こちらをじっと見つめるが、それ以外は言われるがままに身を清め、着替え、食事を口にした。
着物はホテルのボーイに買いに行かせたものだから、今だけの仮のものだ。ちゃんと自分で見繕わなければ帳尻が合わない。
結局その日は丸一日ホテルで過ごした。彼女が暴れたり、泣き出したりはしなかった。ただ、視線から観察されているのは感じた。
僕の仕事柄あちこちを飛び回るから、その都度この子にもその地での物の勝手を教えるつもりだ。
レヴィが盗みを働いた。
なんて事のない物だった。
高くも安くもない物だった。
昨日まで不満一つ漏らさなかったのに、ある日突然だ。
ホテル暮らしも慣れた頃だった。
どうしてなのか、尋ねても教えてくれなかった。
なぜだ…わからない。
でも、叱ることはできても、怒ることなどできなかった。
…世界の常識は、案外、デコボコしているものだから。
自分の常識を、そのデコボコに押し付け続けるのは苦痛が伴うのかも知れない。
自分の常識しか知らない僕は、素直に店主に謝罪する以外に何もできなかった。
平身低頭。格好悪い姿を見せたくなかったので、レヴィはホテルに置いてきた。店主から何か余計なことを言われて傷つく姿を見たくなかった。とはいえ、盗みを働いた方が悪いのだが…。
…ホテルに置いてきたつもりだったけど、ずっと気配が後方10mほどから感じられていたので、多分ついてきていたんだろう。不安だったのかも知れない。
僕には僕に出来ることしかできない。
だから、出来ることをした。
謝り、教え、語り、諭した。
一ヶ月も経つ頃には、盗むことはなくなっていた。
すごいぞレヴィ!ヱライぞレヴィ!
僕は感激して彼女のことを抱き締めた。
少しむずがって見せたけど、それでも決して逃げなかった。
僕は幸福を感じて、その晩、慣れない酒を嗜んだ。
アメリカは物騒だ。これはいけない。
僕はレヴィを学校に通わせたかったが、この国には銃が多すぎる。
引っ越そう。
思い立ったが吉日と、今の案件でアメリカでの仕事は一旦切り上げることにした。
そんなことより、今は文字を教えている。
次行く国で不自由しないようにと、付きっきりで日本語を教えている。
そうだ。日本語だ。
日本は、まだ治安がいいところだ。
レヴィには出来るだけ安全な場所で暮らして欲しいからだ。
…独り立ちするまで。それまで、あとどのくらい時間が残されているのだろう。
案外短いだろうな。体感はもっとだ。
だから、今を噛み締めよう。
無事に日本への引越しが完了した。
今度という今度は、僕も商売あがったり、貯金を切り崩しながら生活できるものと思い、覚悟はしていたのだが…それも杞憂だった。
どんなに安全な国でも、僕の仕事には常に一定の需要があるらしい。
金払いはいいので、そこだけは喜ぶべきことだ。
…今週に入ってからすでに3人分を済ませた。
入念に手を洗ってからレヴィを抱擁する。
依頼は吟味している。事前調査もバッチリだ。
でも、ダメなものはダメなんだ。
だからかな…無意識に腰がひけていた。
レヴィに指摘されて初めて気がついた。
…バレるのも時間の問題かも知れない。
嫌われるかな。
それは仕方ない。
でもそれは、やだな…。
仲良くなったお得意様から御依頼があった。
パートタイムの護衛依頼だった。
いつもなら受けないが、今回は特別だ。
その人情をかえりみて受けることにした。
まあ、要するに子守である。
なんでも子供ご本人からの直指名があったらしい。
気に入られたのだろうか。
きっかけは?さあな。
目つきの悪い、ノッポの同僚が出来た。
護衛対象のお嬢様の騎士気取りらしい。青いな。
でも、実直なところは好きだ。
僕よりも若くて、熱い感じで、冷めてる感じの…矛盾を感じる男だ。
…わかる気がする。
この業界には、案外、そういう人が多いし。
たぶん、誰も彼も理想が高すぎて、何でもかんでもやりきれなかったりするんだろうね。
僕にはどうしようもない。
こういうタイプは、どんなに論理に照らして説明しても、自分の論理で納得できないとダメな人だ。
だから、普通に接することにした。
それで大丈夫なはず。だって礼儀正しかったし。
懐かれた。
レヴィより幾分年下のお嬢様と、幾分年上のお兄さんから。
ビジネスライクにお守りしてただけなのになんで…?
同僚付き合いだっておんなじだ。結構ドライに接してた自覚があるのに…。
ま、子供自体は悪い子ではないし、大きいお友達もこき使う分には悪くないのでよしとしよう。
そんなことよりレヴィのことだ。
最近、機嫌がすこぶる悪い。理由を尋ねても怒る。理由を尋ねなくても怒る。理不尽だ。
とはいえ、一番大事なものを一番優先するのは当然なので、素直に謝ることにした。
「わからなくてごめんなさい」
「でも本当にわからないんだ」
「どうか教えて欲しい」
根気強く聞き出すと、僕から知らない臭いがするらしい。
ヱ!?
銀次のやつかな?いやでも、そんなにチャラけた奴じゃないし…。
うーん…向こうの事務所はタバコでモクモクしてるし、香水も色々臭ってくるからなぁ。
特定できなかったので、その日はレヴィが不貞腐れたままおやすみを言った。ごめんて。
でも、夕飯もちゃんと食べてくれた。ヱライ!
お風呂もちゃんと入ってヱライぞ!
今日もいい子だ。おやすみなさい。
顔馴染みから伝えられたことだけれど、アメリカのお得意様から緊急の依頼があった。
内容自体は問題ナシ。
向こうについてから三日で済むだろう。
だが、最近はそもそも出張依頼や長期依頼自体を受け付けていなかったので、再開されたと勘違いされても困る。
向こうにその旨を伝えると、過不足なく案配してくれるらしい。
ただ、条件があると言われたので身構えると、それそのものは難しくもなんともない内容だった。
レストランで食事とか久しぶりだな…どんな服着てけばいいのかな。いつも通りでいいか。
とはいえ、ディナーをご馳走になって、情報操作までしてくれると言うのならお安い御用だ。
どんなものを食べるんだろう。どこでかな…。
美味しかったら今度レヴィを連れて行こう。
レヴィと言えば、最近は学校に通い始めたのだが、どうにも人気がスゴいらしい。…パパはちょっぴり心配です。
…学校に入り直す勇気は賞賛に値する。僕は全力で応援するよ。
君の学校生活が平穏なものでありますように。
僕はレヴィをどうしたいんだろう。
大人になってから、社会に出る時になって、どうすればいいんだろう。
レヴィだって真っ白じゃない。でも、それがなんだって言うんだろう。
あっちの世界、日向の人間にだって嫌なヤツ、悪いヤツ、狡いヤツは沢山いる。
日陰だって同じじゃないか…。
あ、でもそうなると、日陰に就職しなくちゃ変か…。
お互いの領分を侵さずに、平穏に暮らせたらなぁ…。
こんな僕が言えたことではないけれど。
僕は疾うの昔に真っ黒だもの。
塀が高くてね。登れなかったんだ。
登りたくても、登れたとしても。
僕にはその才能も、勇気も、何もかもが足りなかったんだ。
誰が悪い、とかじゃないよね。たぶん。
それじゃあ帳尻が合わないよ。
このことについては、また今度考えることにする。
少なくとも、今の僕は幸せなんだ。
久しぶりに会った顔馴染みは、また一段と美しさに磨きがかかっていた。
おめかしもしていて、とっても綺麗だった。青いドレスとか着るんだね。とても似合ってる。
「元気にしてる?今はなにをやってるの?」
「元気よ。言えるワケないじゃない」
再会の度に、まずは僕がそう問いかけて、彼女がそう応えるまでがセットだ。
「今日はいないんだね」
「何のことかしら?」
「狙撃手」
「ええ、その人なら今は中東あたりにいるわ」
何となく前回との違いを指摘したら、思いがけない答えが返ってきた。
僕は目を丸くしていたと思う。
「飛ばされたの?」
「飛ばしたの」
「君が?」
「悪いことかしら」
「べつに」
顔馴染み…イディス…はクスクス笑った。
彼女はいつも、こうやって僕を揶揄うのがお気に入りなのだ。
狙撃手には酷いことをしてしまったな…。居てもいなくても、別に僕は構わないのだが…。
何かが彼女の癇に障ったのか、あるいは彼女以外の誰かが手配したんだろう。
彼女は完璧主義者だから、小さなズレや、予定外も嫌う。嫌うだけで、対応できないわけじゃないが。
他愛のない話をして、一緒にご飯を食べた。
それから部屋に案内されて、そこで肩を寄せ合った。
ベッドの上で彼女が囁いた。
「日本人の人質を救い出して欲しいの。アナタ、今は日本在住でしょ?だからっていうのも乱暴だけれど、折角なら失敗のリスクが限りなく低いのに越したことはないでしょう?」
なるほど。だがしかし、僕の家業は殺し屋である。
「えぇ…僕の専門じゃないけど…いいの?」
「あら、やってくれないの?」
「そうは言わないけど」
「それとも…出来ないのかしら?」
彼女が挑発するようにドレスを緩めた。肩紐が遊んで、白い胸元がまろびでた。
「ぷ、ふふ」
可笑しかったので、笑みが溢れた。
「恥をかかせる気?」
「わざわざそんなことしなくても…」
言うが早いか押し倒された。彼女が撃ち下ろすように僕を見つめていた。
「それで、受けてくれるのかしら?」
「うん。いいよ」
レヴィに僕の仕事は人助けだと言っても、嘘じゃなくなるからね」
「…聴こえてるよ。たくっ…もう…」
あ、ごめん。
声に出しちゃってたらしい。
「心配しなくても…今でも充分救われてるわ」
「そうでもないさ」
「そう…ねぇ、難しいお話はここまでにしましょう?」
そう言って彼女はドレスを脱ぎ捨てると、僕の上に跨った。
白い肌が眩しかった。
「暗くして」
「いいわよ」
本来なら逆の台詞を、やっぱり今回も僕が言う羽目になった。
彼女は勝ち誇ったように、微笑んでいるに違いない。
「ねえ、今は誰かいるの?」
はたと思い出したように彼女が問うた。
「いや、いないけど」
「なら、いいの…ね?シましょうよ」
暗闇の中で白い肌が、光の暈を纏った月のように輝いて見えた。月の裸は、こんな風に光るんだろうか。
「綺麗だね」
「そうね」
潤んだ青い瞳が間近まで降ってきて、鼻先が頬骨をくすぐった。
耳に舌が恐る恐る入ってきたので、気が付けば彼女の頭を撫でていた。
手入れされた金髪からは、なんだか知らんがいい匂いがした。僕の好きな匂いだ。
背中に爪を立てられると痛いので、僕は寝たままでいた。万全の状態で仕事をしたかった。
代わりとばかりに首に噛みつかれた。歯形が残って、しばらく痛かった。いや、ほんとに、痛いよ。
ジャングルは嫌いだ。
だって熱いし。暑いじゃない、熱いのだ。
蒸し蒸しするし、虫が多くて、どこもかしこも変な匂いがするのだ。
人も、物も直ぐに腐るせいで、臭いったらありゃしない。
政府からの依頼だから額面は良かった。でも、間違いなく面倒なことになった。
やたらと噛みついてくる敵兵士が一人。無駄にしぶとくて面倒臭い。相手をしてやってもいいが、格闘中も喋る喋る。思想だの革命だの煩くて辟易とするのだ。
…腹いせに麻薬のプランテーションを五つ吹き飛ばした。プラスチックを精製して、特大のハート型に成形したやつで、跡形もなく生産施設だけ全焼させた。
そしたら追撃が激しくなった。
逆鱗に触れたらしいが、こっちの堪忍袋の方が先に切れたのだ。
麻薬も殺しも同じだ。まともじゃない。まともなやつはそんなことしないものだ。
でも、麻薬とか殺しをするだけならまだしも、思想が絡むとより一層厄介だ。
やれ正義だ、やれ真実だと騒ぎ立てるのだ。他人の迷惑も考えない連中は嫌いだ。
僕だって恥じながら生きているのに、いわんや君たちをや、である。
…不愉快だ。
人質は既に救出したし、早く日本に帰りたい。
レヴィに会いたい。
三日…。時間が思ったより掛かってしまった。
早くレヴィの元へ帰りたい。
とはいえ、後始末もしなくちゃだ。
今回はだいぶ骨が折れたけど、それでも結局最後は僕が生き残った。わざわざ寝技に持ち込むまでもなかった。
三日もぶっ通しで追跡すればそりゃ疲れるよ。うん。
あぁ、でも殺してない。生きてる。
なに、ちょっと撫でて転がしただけだ。死んじゃいないさ。
誰のことかと言えば、ガルルルルって感じの女兵士のことだ。思想が強すぎて腹が立ったけど、一周回って感心してしまった。よっぽど見どころがあるなと。
引き渡してもよかったが、今の僕は、つい先日イディスと楽しい時間を過ごしてからずっと人肌恋しいのだ。
レヴィに会いたい。でもまだ会えない。
ので、諦めて、この子を抱いて寝ることにした。
温かい。意外と柔軟にできているんだな。
グルルルと唸るのでイッヌみたいだ。飼っていた経験は無いのだが…。
おお、ヨシヨシ。思想の話とかしてどうぞ。眠たくなるから丁度いい。
…眠たくなってきた。じゃぁ、また明日。
…懐かれた。これじゃあ、すっかり犬じゃないか。
一晩の内にどんな心境の変化があったか知らんが、とにかく従順だ。素直だ。お利口さんである。
すると人間というのは単純なもんで、なんだか可愛く見えてくるのだから不思議だ。
実際、顔も、身体も、匂いも、全部好みだったから尚更である。…だから殺さなかったのかな。
寝首とか、掻けるなら掻いてもいいけど、難しいと思うし…手足は自由にしておいた。
それと、今日も一緒に寝ることにした。
なんかずっと話しかけられる。
思想のこととか、活動のこととか。
それに対して僕は生返事…するのも悪いから、結構真剣に答えてる。
マルクス・レーニン主義なんかよりも楽しいことは沢山あるのだ。そのことをこれから教えてあげよう。
とりあえず、何か美味しいものを食べて、綺麗な服に着替えよう。ジャングルを踏破したせいで僕の一張羅もすっかり泥だらけだ。クソが。
入ったホテルの部屋の中で、ルームサービスを使って美味しいご飯を食べようと僕が言うや否や、彼女…ロザリタ…は暗い顔をした。
そして言った。
「私は革命に身を捧げた」だの、「今更、私に食事を楽しむ権利などありません」だの。
幸せになることなど許されないだと?
馬鹿め。
なら最初から人殺しなどするな。
曲学阿世の徒が偉そうに高説を垂れるな。
育ちが良く、学識もあるのに…望んでこの道を歩むなど。
全ての選択肢の中から最も禁忌に触れるものを自ら選択しておいて、暗に僕のことまで責めようというのか。
これ以上、何を責めれば気が済むんだ。
美しい人よ!なぜ僕のそばにいる!
僕は腹が立った。怖がらせてやろう。
君はまだ何も失っていない。君はこれから奪われる側に回るのだ。
そう思い立ち、唇を奪った。
長いおさげを乱暴に掴んで奪った唇は、互いの濃い血の味がした。
だが、彼女は逃げなかった。
それどころか、僕の背中に腕を回す始末だ。
……誤算だ。
ロザリタは吹っ切れたようだった。
酷く嬉しそうに、従順に僕のあとをついて歩くようになった。
可愛いけど怖い。
僕の対応が悪かったんだろうか。
そうこうしている内にボゴダに着いたので、予定通りに服を買い直し、ご飯を一緒に食べた。その日の夜も一緒に眠った。温かかった。
彼女はそのスラリとした長身に映える、カッコいい服を選んでいた。と、それから何故かメイド服を欲しがったので、せがまれるままに買ってしまった。
レヴィお嬢様と呼ばせよう。そうしよう。
喜ぶかな…うーん。
レヴィに会いたい。
一週間ぶりに家に帰ったら、レヴィがホットパンツにヘソ出しタンクトップ姿で出迎えてくれた。
は?
おまッ…え?
は?
僕は発狂した。
「レヴィ!なんて格好をしているんだ!お腹を冷やすと悪いから、頼むから上に何か着てくれ!」
「あぁん?悪いかよ?何着ようがあたしの勝手だろ!ニホンの夏は暑いんだよ!」
「そ、そんな!?」
反抗期だ!反抗期だ!反抗期だー!うがーー!
「んなことより!誰だよそのオンナ!説明、してくれるんだよなぁ?」
レヴィは前屈みになって、出会ったばかりの時のように鋭い視線を僕に向けた。
そんなことよりも、言葉言葉!
「怖いから、もっと優しい言葉を使ってよ」
「お、おぅ、わりぃ」
「素直でよろしい」
納得してから、僕はロザリタに手で催促した。
「レヴィお嬢様、お初にお目にかかります。私、本日より当家のメイドを務めさせていただきます。ロザリタ…ロベルタとお呼びください」
「はぁ!?は!?ぅおい!どういうことだよ!?」
一歩進み出て、付け焼き刃ながらも見事なカテーシーを披露したロベルタに拍手を送ると、レヴィが目を白黒させて僕に詰め寄った。
今度はレヴィが驚く番だったようだ。交互に驚いたのでバランスがいいなんて、ヘンテコなことが頭に浮かんだ。
「もう知らね!あたし、寝るから!」
「夜ご飯は?」
「食べる!」
レヴィは一頻り叫んでから、自分の部屋に引っ込んでしまった。
うーん。難しいお年頃なのだろうか。
だが反省点も確かにあった。いきなりメイドは順序を飛ばしすぎた。まずはお手伝いさんから慣れさせるべきだった。僕もレヴィも出自は似たようなものだし。
けど、今更メイドじゃなくて…と言うのもなぁ。
いきなりメイドは早すぎたよね。僕も頑張って慣れるから、一緒に頑張ろ。ね!
その日の晩御飯はちゃんとレヴィとロベルタと一緒に卓を囲んで食べた。うむ。これよこれ。
ちょっとしたすれ違いはあったものの、ようやく我が家に帰ってきた実感が湧いた。
でも、ヘソ出しはNGで。
破廉恥なファッションの原因はなんだろう。
レヴィ?まさか!この子に限ってそんな趣味は無いと断言できる。
つまり、悪いのは全部日本の季節なのだ。四季が悪い。もっと言えば夏が悪い。
…なるほど、暑いのが悪いのか。
ならば…よし!ロシアに行こう。
ロシアは寒いから!
日本に次の春が来るまで、僕はレヴィとロベルタを連れてロシアに行くことに決めた。
降り立ったモスクワは期待通りの寒さだった。
レヴィはお腹を壊す前にヘソを隠した。これで一安心…とはいかなかった。
何せ寒い。寒い!
これではレヴィが風邪を引いてしまう。風邪に苦しむ彼女の姿など想像したくもなかった。
早く暖かい場所へ行かなければ。
僕は毛皮のコートまで買ってレヴィに着せた。ロベルタにも同じものを買って着せた。
着膨れてポカポカしている様は見ている分には可愛らしいが、やや不便である。心なしかレヴィのご機嫌も斜めだ。
壁の薄いホテルに泊まる気も起きず、僕は古馴染みにコンタクトを取ることにした。ウチに泊めて?と。
彼女はワンコールで出ると、僕に要件を尋ねた。
「今モスクワに着いたとこ。思ってたよりも寒いから、折角だしイイところに泊まろうと思って」
「すぐに迎えを遣るわ。今は空港かしら?」
穏やかな低音が耳に心地よかった。熱い吐息を思い出して、耳の芯に熱が宿った。
「うん。よろしく。いつも悪いね」
「いいのよ…愛してるわ」
「あ、うん。僕も愛してるよ」
いつも必ず言われるので、多分挨拶代わりなのだが、にしても声音がしっとりしているので、僕の心臓はドキドキさせられるのだ。
迫真である。
きっとからかわれているんだろう。年上のお姉さんだしなー。
間も無く、黒くてゴツい車が列をなしてやってきた。
空港前の一番いい位置につけたセダンから、巌のような男が降りて僕たちの方に早歩きで来てくれた。
「ボリス、久しぶり。元気にしてた?」
「はい。お陰様で、何もかも順調です」
「それは重畳。じゃあ、よろしく」
「大尉がお待ちです。さぁ、どうぞ車の方へ」
この厳つい元軍人の男はボリスと言った。顔面を斜めに横断する傷を拵えて、精悍な面持ちで、いつでも泰然としていて頼もしい。
だが、今日はどうにも落ち着きがなかった。
「どうしたの?変だよ」
車に乗り込むなり問いかければ、ボリスは苦笑して、汗をかいてもいないのに顔を拭う仕草をした。
「いえ…今日はお一人では無いのですね」
「うん。娘と使用人?えーと、家族同伴てことで」
僕が言うと、ボリスは口をあんぐり開けた。珍しい表情である。
「家族同伴ッ…りょ、了解しました。では、お連れ様はこちらへ」
レヴィとロベルタが怪訝な表情を浮かべたが、僕の顔を見ると何も言わずにボリスに従った。
僕たちが二つの車両に分乗するや、すぐさま車列が動き出した。出発進行。いざホテルモスクワへ。
車内ではお通夜みたいな沈黙が降りていて、ボリスも目的地に着くまで終始、居た堪れない表情だった。なんでぇ?
その男は、巻きつる式の、薄い金属製の丸メガネを掛けて。
黒いシャツに黒いネクタイを締めて。
黒いスーツに黒いスラックスを羽織り。
灰色のコートに灰色の帽子を被っていた。
全身黒づくめの中で、カーキ色に染められた革手袋とチェックのマフラーだけが明るく浮いて見えた。
太ましいマフラーは、絞首台の分厚い縄のように男の喉に深く巻き付き、手は冷たい泥に浸されている様にも見えた。
靴の底が甲高く硬い音を響かせた。
雑踏の中に溶け込みながら進む男の歩は速い。
這い寄り、刺す。そして去るのみ。
気づいた時には標的は群衆の足元に沈んでいる。
静かに。淡々と。一部の揺らぎもなく。
完璧な仕事ぶりは人々を戦慄させた。
男には名前もない。
年齢不詳。経歴不詳。
背の丈は170cm前後。
中肉中背の若い男に見えるが、生まれも、人種も定かではない。
男の髪は黒く、鷲鼻で、緑色と橙色が複雑に混じり合う色素の薄い蛍石の様な瞳をしていた。
多言語を操り、仕事の得物は選ばなかった。
いつ頃からか、陽の当たらない世界に溶け込み、気がついた時には畏敬と崇拝の対象として君臨していた。
淡々と依頼を受けては、完璧に熟し続けた。
いつしかその名は伝説となり、あるいは新たな神話となった。
現実とのすれ違いを見せつける様に、どんな困難にも挑み、これを成し遂げてみせた。
ただし、陽の当たらぬ場所においてのみ。
人殺しは腐っても人殺し。それ以上でもそれ以下でもなかった。
肉屋が肉を売る様に、殺し屋は殺しを売った。
奪って、糧を得て、生きている。卑しい存在だ。
だが、そのことと、信念や信義を持たないことはイコールではない。
寧ろ、陽の当たらぬ場所でこそ活きる、死刑執行人足らんと欲した。断罪者たらんと。
その結果が、今の悪名高い無数の仇名に繋がった。
だが、それでも、復讐をタダ同然で請け負うことを止めるつもりなどなかった。
ただ、情と熱を胸の奥深くに仕舞い込んで、屠畜人の様に、一つ一つの命に触れた。
一片の曇りもなく、決して愉しめぬ生業に、この誇れぬ仕事に、それでも存在意義を欲した。
需要ではなく、存在意義を。
だがある日はたと気づく。そんなものは、どこにもないことを。
同様に知る。否、再び理解させられたのだ。
自分には、これ以外に糧を得る術がないのだと。糧を得る術を他に知らないのだ。
今更知ったとて、こびりついた虚構の権威を失えば、待っているのは死のみ。
恐怖だけが自分を生かしてきたのではあるまいか。
長く君臨した。恐怖として。
君主ぶった破落戸の親分だって怯えて眠る。
僕は死だ。死そのものなのだ。
それが僕だ。僕の日常だ。
面倒くさいことは嫌いだ。弱いことも嫌いだ。
守れないかもしれないから。失うことが怖いから。
だから常に奪う側にいなくてはならなかった。
人を殺す。命を奪う。その免罪符になりはしないが。
ある時…仕事が入らなかった時…があった。
その時に思った。
恥ずかしかった。惨めだった。
僕は奪いすぎたのだ。
それしか知らなかったとしても、全ては生きる為に、自分の意思でやったことだ。
何よりも、誰よりも、それこそが、僕が一番得意なことだった。僕が唯一、1番になれるものだった。なんて。
馬鹿馬鹿しい!嗚呼!なんてことだ!
だが、過去に戻ったところで、やり直せたところで、僕はきっと同じことを繰り返す。
また同じ道を選択する。
ならば、ならばこの生以外に、変わらぬ道はない。変わることができる道もない。他にありはしない。
たとえ、生まれ変わったとしても。
違う世界に生まれ変わったから、どうだと言うんだ。なんだと言うんだ。
僕は僕のやったことを覚えているぞ。知っているぞ。全部全部、見てきたんだ。
前を見ろ。そこに明日はない。
今だ。
ただ、果てしない今だけがある。明日も明後日も。
一度知ってしまった幸せを手放すことはできない。失うことなど耐えられない。
「ない」ことが当たり前の時代も、今は昔。
「ある」ことが当たり前の時代を生きる身で、当たり前の「ある」を失う覚悟はなかった。
いつか必ず、報いを受けるとしても、僕はその報いが永遠に、この身に辿り着けないようにするまでだ。
それしかない。
使えるものは全てを使って。
恐怖だ。
恐怖だった。
ただ恐怖が揺らめいていた。ゆっくりと追いかけてくる。迫って来る。
じわじわと、生きながらに僕を殺そうと。
今更焦ったところでどうにもならないことだと言うのに。末期の始末は悪いだろう。
分かりきっていることだとしても、堪え切れず、逃げ出した。新しい方向へと。
信念に傷がつくのを恐れつつも、己の弱さに屈した。
僕は与える側に立ちたかった。
今も尚、誰かの運命を、誰かの生命を盗みながら、奪いながらも。
闇雲に目の前の誰かに手を差し出した。
果たして、その手は取られたのだ。