習作 朝日の当たる場所へ   作:ヤン・デ・レェ

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習作 雪緒のこと

 

「おじさま、おはようございます」

 

「おはよう雪緒」

 

「おはようごぜえやす、先生」

 

「銀次もおはよう」

 

白い息を吐きながら、三人は家の前で挨拶を交わした。冬の朝の事。

 

雪緒がベージュのコートに身を包んでマフラーを巻き、手にはムートンの手袋、足元には温かそうなブーツを履いた冬の装いなのに対して、護衛の銀次…松崎銀次…の恰好は薄手の黒いロングコートの下、風通しのよさそうなシャツとズボンに艶の無い革靴を履いていた。

 

寒々しい格好であるが、これも仁義でなんとかなるのだろうか?寒いものは寒いはず…という疑念は一旦呑み込んで、彼は今日も今日とて、雪緒の手を握った。

 

彼女のことを学校まで無事に送り届けるのが仕事だからだ。

 

 

 

雪緒は彼のことを「おじさま」と呼んだ。

雪緒に仕える銀次は彼のことを「先生」と呼んだ。

 

門構えから立派な、組の事務所とは違って、極道の組長家族が暮らしを営む場所としての邸宅に、彼は勤めていた。

 

まだ幼い雪緒お嬢様の世話役兼遊び相手、そして護衛として。

 

彼が仕事に就く以前から彼女の側に仕えて、同じ役目を務めてきた銀次は、自分の役目を奪われるのではないかと、まるで懐かない猫の様な警戒ぶりだった。

 

だが、彼が選ばれたのは組長龍三からの押し付けではなく、肝心の雪緒からのご指名だった。

 

雪緒は銀次が彼に会うより以前に、彼と会ったことがあった。

 

というのも、迷子になった雪緒を、最寄りのくみの事務所まで送り届けてくれたことがあったからだ。

 

すでにその界隈では名を馳せていた男の手腕と、迷子になった子供を家まで送り届けた誠実な実績を見込んで、鷲峰龍三が頭を下げた、という経緯があった。

 

とはいえ、せがんだのは雪緒だった。銀次の次、二人目の誰かを特定の誰かにするのなら、あの時のあの人がいいと、そう父親に強請った。

 

雪緒の希望とあれば仕方ない。二人体制を渋々受け入れた銀次だったが、根が真っ直ぐな彼である。由紀夫の雪緒の懐き具合が本物だとわかると、すぐに態度を改めた。

 

無礼な態度をとった謝罪も込めて、「旦那」と呼び始めたが彼が固辞したため、一等免じて「先生」と呼ぶに収まった。

 

実際、彼が鷲峰組の邸宅に勤めるようになってからというもの、周辺の筋ものがすっかり大人しくなっていたのだ。

 

雪緒の安全が第一の銀次にとって、これは有難いことに違いなかった。

 

彼の方は彼の方で、雪緒と銀次を気に入っていた。

 

金払いだけは良くなかったが、懐が寂しい訳ではないので気にならなかったので、雪緒の護衛依頼を快諾した。

 

具体的な仕事内容は、雪緒の登下校を陰ながら見守り、トラブルに巻き込まれないようにすることだった。平穏な学校生活を送れるように、と言う話なら難しかったが、学校の外でのことならば彼にとって朝飯前だった。

 

しかし、時間が経つにつれて講師の境が曖昧になっていった。それくらい、雪緒と銀次に懐かれていたのもあるが、彼自身、非日常と日常の境目が曖昧になるくらいには、久しく銃を見ない日本での生活に馴染んでいた。

 

家に招かれて、雪緒の生活の近くにいるようになると、自然とテスト勉強を見てやったり、宿題を一緒に解くだとか、私的な機会が増えていった。

 

そのうち彼も、頃合いを見て雪緒を外に連れ出すようになった。極道の娘が、最小限の護衛だけでお忍びだとか気にすることなく遊べる機会は貴重だった。父親の龍三からも頼まれていた。

 

遊園地に連れ出し、水族館に連れ出し、映画にも行った。彼がいれば何にも怖がる必要がなかった。

 

雪緒は彼に、自然と他より深い親愛の情と感謝の念を抱いて接するようになっていた。

 

 

 

彼の感覚で言えば、雪緒はレヴィよりも年下の、レヴィよりも大人びた少女だった。

 

経済的には恵まれた環境で育ち、愛されて育ってきた雪緒は眩しく、愛嬌があった。

 

彼は彼女のことも銀次のことも嫌いではなかったし、良い機会だと思っていた。

 

レヴィにしてやる色々なことを、まずは雪緒で試すことにしたのだ。

 

一片の邪気も悪意もなく、彼は雪緒に親しく接し、とめどなく愛情を注いだ。

 

そんな彼のことを、雪緒は「おじさま」と呼び慕った。

 

迷子になり、泣いているところに現れた見知らぬ人は、今ではその顔を見たければ毎日が始まらないように感じるほど、大切な存在に変わっていた。

 

でも、まだ、それだけだった。父や銀次や、他の組員と同様に、自分に愛情を注いでくれる、そう言う誰かの中の一人でしかなかった。

 

それが変化したのは、中学に上がる頃のことだった。

 

思春期特有の、憂鬱で、何かにつけて揺らぎない意味を求めたがる、雪緒の青い好奇心がそれをもたらした。

 

実家の家業に対する反発からか、この頃の雪緒は意識的に家のことを考えることを避けていた。或いは考えすぎて、憂鬱に塞ぎ込むことが増えていた。

 

だから、特に身近にいる父と銀次を含む、渡世人が纏うものに特有の、厳格で古めかしい仁義の気配とは異なる、まるで…朝日に当たる場所で暮らす人間が纏うような、穏やかな日常に取り残されたような、そこだけを切り離して持ち歩いているような、「おじさま」の特有の雰囲気に惹かれたのだ。

 

だから、雪緒は尋ね、知ってしまった。気がついてしまった。

 

彼には血の繋がらない娘がいることを。

 

彼がその娘を深く愛していることを。

 

そして、これまで自分に注いでくれた愛情が、全て自分だけの、自分のためだけのものではなかったと言うことに。

 

雪緒は生まれて初めて恋をした。

 

醜い、されど純粋な。

 

 

 

以来、雪緒には人の上に立つ人間の才覚が備わったように見えた。

 

人が変わったように、彼女は人を使うことが上手くなった。

 

 

 

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