世の中は常にもがもな。
移ろう世の中でも変わらない心がある。
あの日、出逢った《あの人》との思い出は……絶対に忘れる事の出来ない、大切な思い出。
あの出逢いは運命だったのだろうか?
はたまた偶然だったのだろうか?
……そんな事はどうでもいい。
大事なのは、なぜ出逢ったのかではない。
どの様な時を共に重ねたか、だ。
オレと不思議な《あの人》とのかけがえのない、あの時間は……いつまでも色褪せる事のない思い出は、2人を結ぶ永遠の絆の証。
あの時があるから、今のオレが在る。
もしも、あの出逢いが無ければ……オレはどうなっていたのだろうか?
そんな事、考えるだけ無駄だ。
だって世の中には『もしも』なんて物は存在しないのだから。
存在し得ない物よりも、確かに存在する物にこそ想いを馳せるべき。
そうして人は、今を、そして未来を、生きていくのだから。
*
「はぁ〜……」
溜め息が1つ、こぼれ落ちる。
溜め息をつくと幸せが逃げる、なんて格言があるがあんなのは嘘っぱちだ。
だって今のオレには逃げる幸せなんて有りはしないのだから。
「公園……」
懐かしいな。
小さい頃はここで元気いっぱいに遊び回ってたっけ。
……まあ、昨今の風潮の所為で遊具は全て撤去されていて単なる広場みたいに様変わりしているのだが。
やれ危険だの、やれ怪我をするだの……まったく下らない。
子供は怪我してなんぼだろうが。
なんて世の中に下らない愚痴を心の中で溢して公園に足を踏み入れると……1人の少女が視界に映った。
長くて黒い髪を前髪で掻き分けた、紫色の瞳の少女。
少女は……公園のど真ん中に佇んでいた。
他に人は居ない。
「……………………」
少女と目が合った。
ペコリ、と会釈をされた。
オレも咄嗟に会釈を返す。
小柄な少女だ……150cmぐらいか?
背格好や体格を見るに、多分……中学生。
って事はオレより年下か。
思考を巡らせていると、少女は視線を下に落とした。
その視線の先にあるのは……キーボード。
パソコンの入力装置の方じゃなくて、楽器の方のキーボードね。
「何かリクエストある?」
少女が視線をこちらに向けて、そう言った。
淀んで燻んだ闇色の瞳に魅入られそうになる。
“綺麗”と“可愛い”が同居したような顔立ちも相まって、少女の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
「流行りの曲は一通り弾けるよ。リクエスト無いなら、私が勝手に弾くけれど」
少女の言葉で思考の海から現実の陸に引き上げられた。
……弾いて欲しい曲をオレに聞いてる?
オレの為に弾いてくれるのか?
「あー……流行りの曲とか分かんないんで、なんでもいいっスよ」
少し気恥ずかしさを感じ、目を逸らしてポリポリと頭を軽く掻き毟る。
少女は「んっ、了解」と静かに返事をして鍵盤に向き直った。
少女が弾こうとしてるキーボード……割と古めのモデルっぽいな。
それに所々に傷がある、長年使い込んでいる証拠だ。
……オレより年下っぽいのに?
「スーッ……ッ……」
少女が目を閉じて深呼吸をする。
その瞬間、少女の纏っていた雰囲気が……一変した。
ミステリアスな雰囲気から、修羅のような雰囲気へ。
あまりの変貌ぶりに、全身が硬直して強張った。
「……………………」
そして少女が小さくて細い指を鍵盤に這わせる。
少女の奏でる旋律がアンプを通り、スピーカーから放たれる。
その旋律が鼓膜に届いた瞬間……強張っていた全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
優しくて、暖かくて、包み込むような……それでいて、力強くて、繊細な音色。
悲しみ、苦しみ、怒り……様々な負の感情も見え隠れする。
色々な感情が綯交ぜになった音色を乗せた旋律が全身を駆け巡り、耳を、手を、心を……震わせた。
「ふー……ご静聴ありがとうございました」
パチパチパチ、と惜しみない賞賛の拍手を送る。
心からの、素直な気持ちだ。
「いやー、すごいっスね。技術的な事は分かんないけど……うん、とにかく凄かった」
再び少女に拍手を送る。
少女は軽く微笑んでペコリと頭を下げた。
「なんて曲だっけ、今の。……う〜ん」
握り拳を顎に置き、記憶の海へ潜る。
どこかで聞いた事があるような……。
「……あっ!」
ピンッ! と来た。
そうだ、あの曲だ。
「蛍の光!」
「別れのワルツだよ」
違ったみたいだ。
恥ずかしい……顔が熱くなってきた……。
「まあ、どっちも原曲は一緒だから間違いとは言い切れないけど」
「そうなんっスか?」
「オールド・ラング・サインって曲が元になってて、蛍の光は日本語の歌詞を付けたアレンジ、別れのワルツはアメリカ映画の『哀愁』で使用された時のアレンジなの」
「へ〜」
こんなにちっこいのに、博識なんて凄い子だ。
どことなく雰囲気も大人びてるし、中学生とは思えない。
「こっちが蛍の光、さっきの曲は3拍子だったけどこっちは4拍子でしょ?」
少女がそう説明しながら再び鍵盤に指を這わせて旋律を奏でる。
「いや、違いが全く分かんないっス」
「……そう」
少女がしょんぼりと肩を落とす。
……音楽ド初心者で申し訳ない。
「……で、少年。キミはこんな時間に何してるの? 見たところ高校生でしょう? 学校サボり?」
少女はキーボードをバッグに仕舞いながら、オレにそう言った。
今は午前10時頃。
しかも平日だ。
普通の学生なら学校に行って授業を受けている時間。
「そんなところっス。学校、行きたくない気分だったんで」
「ふ〜ん、そっか」
キーボードとスタンドをバッグに仕舞い終えて、そのバッグを肩に掛けて背負う。
一連の動作が手慣れているように見て取れた。
演奏の腕前といい、知識量や纏っている雰囲気といい……只者じゃないよな、この子。
「学校はちゃんと行かないとダメだよ、少年」
「……あんたも、人の事言えないんじゃないっスか?」
「は?」
少女からドスの効いた低音が発せられた。
元からウィスパーな声ではあったけれど、もっと低く響いてくる声。
確実に人を何人かヤってる声だ。
「いや、だってあんた、中学生なんじゃ……」
「23だよ」
23。
……23歳?
……オレの5個上!?
「はっ!? えっ……はぁ!? 成人!?」
「そう言った」
いやまあ、ちょっと大人びてるな〜とは思ったけれど……。
……いや、よく見ると、首元にネックレスみたいに指輪を掛けていて……その指輪とは別に左手の薬指に指輪が嵌められていて……
「……結婚してるの!?」
「旦那さんいるよ」
中学生だと思ってた少女は、オレの5つ上で既婚者でした。
……マジかよ。
「いや、その……すんませんっス……」
「いいよ、気にしてないから。慣れてるし」
本当に気にしてなさそうだ。
だって無表情っぽいけど、纏ってる雰囲気がなんだか柔らかい感じがするから。
「少年はいくつ? 高校何年?」
「18、高3っス」
「初対面でいきなり負けを認めなくても……」
「降参じゃねぇよっ!!」
ケラケラと笑ってのける少女……っぽい女性。
この人、自由奔放というか……掴み所がない。
調子狂うな……。
「で、話を戻すけど。キミ、その制服着てるって事は〇〇高校の生徒でしょう?」
「まあ、そうっス。よく分かったっスね」
「幼馴染がそこで教師してるから」
「へ〜」
まあ、学校の先生とはプライベートな話なんてしないから心当たりなんて皆無なのだが。
「あんた……じゃなくて、えっと……」
そう言えば、この人の名前聞いてなかった。
それにオレも名乗ってない。
「オレの名前、か……」
「名乗らなくていいよ」
自己紹介をしようとした矢先、少女……っぽい女性に止められた。
……何故?
「別にお互いに名前なんて知らなくても、お話できるでしょ?」
それはそうだが、なんというか……礼儀というか。
……言い返そうと思っても、少女……っぽい女性の眼力に抗うことが出来なかった。
完全に彼女の雰囲気に飲まれてしまった。
「まあ、そう言うなら……」
「私の事は好きに呼んでいいよ、少年」
「……じゃあ、お嬢で」
「お嬢」
なんか良家のお嬢様っぽいし。
白いロングワンピースにベージュのキャスケットとかモロにお嬢様だ。
自分の身長程の高さのバッグを背負ってるって点を除けば。
「……お嬢は家事とか仕事とか、いいんっスか?」
「旦那は単身赴任ってヤツだからね、それに今は仕事はオフ期間」
2人で並んでベンチに座る。
「どうぞ」と言われて手渡された水のペットボトルボトルを受け取り、栓を開けて口付ける。
別に喉が渇いていた訳ではないけれど、水はすんなりと食道を通り過ぎていった。
「……どんな仕事してるんっスか?」
「《これ》で食ってる」
お嬢はチビチビと飲んでいたペットボトルから口を離し、右手の親指で背もたれに立て掛けているバッグを指差した。
「やっぱりその道のプロだったんっスね」
道理であんなに上手い演奏をするわけだ。
……プロの生演奏をタダで聞くとか、犯罪なのでは?
「あっ、金払うっス。いくらで……」
「キミ、面白い事言うね」
クスクスと口元を覆いながら笑うお嬢。
品の良い仕草から、育ちの良さが完全に滲み出ている。
「次は私から質問。……なんで学校行きたくないの?」
「それは……」
眼に映る光景がお嬢から地面へ移る。
オレはそのまま、何も言えずにいた。
「まあ、無理には聞かないけれど」
「いや、その……分かんなくて」
「分かんない?」
視線を地面からお嬢に向ける。
半分ほど中身が残っているペットボトルを持ちながら首を傾げているお嬢。
仕草がいちいち、幼い感じがするんだよなこの人。
「学校に行く意味っていうか、生きる意味っていうか」
「……………………」
「あっ、すんません。こんな話して……」
「分かるよ」
「えっ?」
お嬢の雰囲気と、目の気迫が……再び、鍵盤に触れている時のような感じに変わった。
「生きてる意味を見失った経験、私にもある。だからその気持ち、分かる」
「……………………」
「でも、私の苦しみは私だけの物で、キミの苦しみはキミだけの物。だから私にキミの苦しみをどうにかする事は出来ない」
何も言い返せなかった。
……肯定も、同調も、反論も……紡ぐべき言葉を見出せなかった。
「まあ、私から言えるのは……友達とか仲間とか、家族とか……大切な人が居れば生きる気力は湧いてくるよ、って事」
「大切な人」
「独りでいるより、ずーっと素晴らしい事だよ。大切な人と一緒にいるって」
大切な人……か。
「お嬢の一番大切な人って?」
私に大切な人なんていない。
だけど、要らないとは思わない。
独りじゃ、生きていけない事ぐらい知ってるから。
……なら、この人をオレの標べにしよう。
「人生23年、色々な人に出会ってきたけど……妹」
妹。
……お嬢、妹いるんだ。
ひとりっ子のオレには分からん感覚だ。
「妹とは仲良くしてるんっスか?」
「うん。仲違いしてた時期もあったけれど、仲良く連絡取り合ってる」
頬を綻ばせてそう語るお嬢の姿は、とても清々しくオレの目に映った。
本当に……心の底から、妹の事を想ってるんだ。
〜♪
デフォルト設定のスマホの着信音が響き渡る。
オレのじゃない。
ということは、必然的に誰のかは明白なわけで。
「もしもし」
お嬢が腰ポケットからスマホを取り出し、通話に出る。
……デフォルト設定はどうかと思うよ、お嬢。
「んっ、分かりました。すぐに行きますね」
そう言って通話を切り上げ、スマホを腰ポケットに戻す。
事務的な対応だけの会話、通話の相手は仕事関係の人だろうか?
「私、そろそろ帰るね」
お嬢は立ち上がり、キャスター付きのバッグを背負って公園の出口へ歩を進める。
「少年、学校にはちゃんと行くんだよ」
振り向いてニコッと微笑みを向けてくれるお嬢。
オレはそんなお嬢の目をしっかりと捉えて……
「ずっと黙ってましたけど、オレ女っス」
「……えっ?」
曇り空に一筋の淡い光が差し込んだ。