少年は、昔から周りの人間には見えない
家族と買い物をしている中、ふと人気の少ない路地裏に目をやった時。夜、尿意を催して目を覚まし、トイレから帰ってきて布団に潜り込み、なんとなしに窓から外を眺めた時。少年は、人でも動物でもない異形を目撃した。
『お化けが見える? 心霊番組もやってないのに…… 怖いならお母さんが一緒に寝てあげようか?』
『そんなものいないさ、それより宿題やったか?』
両親に話したが、まともに取り合ってくれることは無かった。
『お化け? なーに言ってんだあお前? んなのいるわけねーじゃん、証拠あんのか証拠ー!』
『変なやつ! 高学年にもなってそんなの信じてんだなー!』
少年の友人たちも、彼の言う言葉を信じるものは無かった。
少年の父が持っているカメラを持ち出し、写真を撮ったとしても、その薄暗い風景に異形の像は結ばれず、音もなくニオイもなく。
いずれ、少年は信じてもらうことを諦めた。感じられなければ、知ることは難しいと悟ったのだ。
『いい? 傑は他の子よりも力が強いし、頭もいい。……だからこそ、誰かを思い遣って、率先して助けてあげられる。そんな人になるのよ』
母親から耳にタコができるほど聞かされた言葉。
自分しか感じられていない存在。彼らが自分たちを見る視線は、あまりにも悍ましくて、刺々しいものだった。
なら、
ある時、少年は異形の襲撃を受けた。理由は単純、彼が単身、異形のテリトリーである薄暗いビルの隙間に乗り込んだからである。
潰れた空き缶に引き裂かれたようなビニール袋を踏み越え、車の音が聞こえなくなった時、少年は背筋に鳥肌が立つのを覚えた。
咄嗟に包丁を前に構えて振り向いた瞬間、そこにいたのは、肉塊に口をつけたような見た目の異形。
『ぎゅロロロ……!!』
『でた……!』
少年は、地に足をつけずに不気味な笑い声をあげ、自身に向かってくる異形へ、躊躇なくその鋒を振り下ろした。
刀身が異形の表皮に触れたかと思われ、めり込んでいきながら、――しかし、少年は手応えが全くない、空気を切っているような感覚を覚えた。
『すり抜け――』
ただ殴る蹴るじゃ、異形は倒せない。それを悟ったのも束の間。少年は異形から、まるでハイタッチでもするように
『うわっ……!!!!?』
彼の160cmほどの大柄で細身の体格が簡単に打ち上がり、薄汚れたビルの壁面に叩きつけられる。肺の空気が全て抜け、背中がのたうち回るような激痛に襲われ、少年は壁に背をつけてへたり込んでしまう。
少年の霞む視界に映るのは、異形が大口を開け、唾液が糸を引く口腔を自分の顔に押し付けてくる光景。
舞い上がった埃の臭いに、異形の口から醸す醜悪な臭いが入り混じり、少年の心を掻き乱した。
(死、死ぬ、殺されるっ……!)
燃えるような激痛が、迫る異形の腹の中が、少年の心の奥底にたった一つの本能へ訴えかけた。
(
そして、彼は
極限状態において無我に至った少年は、心の底の底に、まだ
目の前に広がる真っ暗な異形の口腔に、少年は
それは、少年に宿った
――その瞬間、あと一歩で少年の胴体を噛みちぎらんとしていた異形の動きが固まった
『ぎゅろろろろろろ!?!!?』
『えっ……!!』
痛みもなく、音も気配もなく。ただ、異形は困惑しながら
互いに困惑が流れ、瞬きもないうちに、路地裏に流れていた張り詰めた雰囲気は、針で穴を開けたようにたち消えていた。
『……』
表情を落としていた少年であったが、ふと、彼は右の掌に確かな重みを感じた。ハッと今までの記憶が蘇った彼は、右手におさまったそれを目の前に掲げる。
――それは、光すら逃さぬ漆黒に染まった、透明な質感の球体。
それが、先ほどまで少年を喰らおうとしていた異形であるのは明白であった。
そして、少年はこの姿になった異形が、あくまでも彼の持つ力の、一つの
では、この物体をどうすれば良いのか。
『……』
少年は大きく口を開き、握り拳より少し小さい球体を底へ押し込んだ。
『……っおぐっ』
その瞬間、舌の上から痺れるように伝わっていく感覚。酸っぱく苦く、病気になった時に床に撒き散らした吐瀉物をかき集めて口に戻されているかのような不快感。
背筋が伸びきり、涎と胃酸が込み上げる。悪寒に打ち震える身体が飲み込むまいと必死に抵抗しているのを少年は感じる。
しかし、彼の理性は、異形を封じた球体を飲み込むという行動を強行した。
――ゴクンっ……!!
一際大きな嚥下音が湿った空気を揺らす。大きく膨らんだ少年の喉元が、まるで下へ移動していくように脈動し、膨らみは胸郭の内側へ消えていく。
『がっ……あ、はぁ、はぁ……』
終わった。
ビルに区切られて一本の線のようになったオレンジの空を見つめながら、少年は安堵し――
『っ痛ぅ……!!!』
全身をトンカチで打たれているような痛みを思い出した。
――えずきを抑えて背中を丸め、丸めた背中がジクジクと痛みを発し、そんな状態になりながらも、少年は立ち上がった。彼の母は門限に厳しかった。
『おかえ……っっっ!!! す、傑!??』
とはいえ、破けた服に埃まみれで汚れた身体。おまけに怪我をしている様子。少年の母はすぐ、自身の愛する子供を病院に連れて行った。
少年は奇跡的に大きな怪我を負うことなく、その日のうちに家へ戻ることができた。
そして、両親から諸々の訳を問い詰められた少年であったが、彼は決して口を割ることは無かった。
(皆んなには見えない、危ない存在だ。もしかしたら能動的に危害を加える奴だっているかもしれない。……倒せる僕が、どうにかしなければならないことなんだ)
星空に照らされ、薄青に見える病院の天井を見つめながら、少年は決意した。
強いものは弱いものを守らねばならない。弱者生存、それこそが世のあるべき姿。
少年――
砂埃を立てる熱風のように過ぎ去っていくひと月の休みの間に、彼はある出会いを果たすこととなる。
今後の彼の運命を大きく捻じ曲げることになる、運命的な出会いを……
◇◇◇
(そろそろ始めるか)
宝石をばら撒いたかのような星々に彩られた空には、綿菓子のような雲が濃密な影を差し、黒く染まって浮かんでいる。そんな様子の天井が見下ろす中、揺れ動くカーテンの隙間、窓から覗ける隣の家の屋根には、青白い光がちらちらと舞っていた。
蝉の魂の合唱が静寂を乱す中、自室の畳の上で寝転がり、読み飛ばしていた漫画を閉じた夏油は、大義そうに上体を起こし、左右に捻って背骨を鳴らした。彼が一瞥した壁掛け時計は、まもなく午後10時を指し示そうとしていた。
数ヶ月前のあの日と比べてより屈強に、それでいて引き締まった身体であぐらをかいた夏油は、その整った塩顔を両手で叩いた。
(最近はバケモノどもの数も減ってきた…… 奴らが出没する数には何か法則があるのかな)
よし、と立ち上がった夏油は、ぐいと手を組んで手のひらを天井に向けて伸ばし、ふうとため息をつく。タンスを開き、
(とはいえ…… 油断はしない。昨日も3匹
黒い上着に黒いサルエルパンツ。そんな格好に着替えた夏油は、部屋の電気を落とした。
暗がりの中、鈍く光る夏油の瞳が向いているのは、バルコニーつきの窓から見える隣家の瓦屋根。
その下には、自宅と隣家とを隔てるように、少し坂になった道路がある。
漫画があり、虫網と虫籠があり、ランドセルと夏休みの宿題がそのままにされた勉強机。それらを背にした夏油は、開いた窓からバルコニーに足を進め、隠しておいた運動靴を履いた――
「よっと」
そして、バルコニーの手すりに足をかけ、最も簡単に
下から突き上げてくるような風、上に飛んでいく周りの風景、迫る地面。しかし、夏油の端正な無表情に臆した様子は無く。
「……!」
硬いアスファルトに着地した瞬間、膝を折って衝撃を殺す。そうして、夏油は自宅の2階にある自分の部屋からの脱出をほとんど音もなく実行してみせたのだった。
(うん、チカラによる
ゆらりと立ち上がった夏油は、ふと後ろを振り返る。
そこにあるのは当然自宅であり、一階も二階も電気の消えたそれは、そこに住んでいるもの全てが寝ていることを示していた。
その中に含まれているはずの夏油は、表情を崩さずに踵を返した。
「行ってきます」
チカラで強化した瞬足を向けたのは、夏油の通う小学校の裏手に広がる山林であった。
日中の暴力的な陽光とは全く違う、柔らかく撫ぜる冷たい月光が降り注ぐ住宅街を、音もなく駆け抜けて行った夏油は、木々に取り囲まれた小学校の閉ざされた正門を飛び越え、校庭を飛ぶように突き抜け、北側の小門すら飛び越えていく。そして、そのすぐにある木陰に沈む道へ足を踏み入れた。
折り重なった木の葉から月光が差し込み、山道を装う。立っているだけで汗が滲み出てくるような熱気は、木々のざわめきがそっと押し流し、涼しい風がそよいでいる。
惜しいのは、そこにも静けさは無く、バッタやスズムシたちの情熱的なラブソングが奏でられていることだろう。
暗闇に包まれた山林の奥まで見渡しながら歩く夏油の足元は、度々木の枝を踏み割って音を立てた。
「ふ……」
額に滲む汗を手の甲で拭って振り払い、一息ついた夏油の目の前が開けて、長い石造りの階段が彼の前に立ちはだかる。その一番上には、下弦の三日月の浮かぶ夜空をバックに、黒い鳥居が見える。
それを最も簡単に一段飛ばしで駆け上がり、息を切らすこともなく上り詰めた夏油が鳥居を潜った先にあったのは、山の只中にありながら小綺麗にされた、神社の社。
いつもと変わらないその姿を見て、夏油は思わず顔を綻ばせ、すぐに力強い眼差しを湛える。
幼少期から異形が見えた夏油にとって、この
しかし、今となってはそれだけではなく、異形の存在を知ってしまった日から、今日まで駆け抜けてきた夏油が自らを再認識するための場所ともなっている。
参道を通り、社の威容を見つめた夏油は、静かに頭を下げ、御辞儀の態勢をとる。
(今日も、バケモノによる被害がないように)
静かに頭を上げた夏油は、生死を彷徨って手に入れた権能を行使した。
――ズグッ……!!!
刹那、夏油の立つ石畳の周りが波打ち、波紋が広がっていくように黒く染まる。
溶岩のように沸き立つ表面が脈動し、大きく膨らむ。そして、澄まし顔をしている
『グギョロロララロ』
『くろらろ』
肉塊に口をつけただけの出来損ないのような異形が、水族館から飛び出してきたマンタのような異形が、巨大な蚊のような異形が、波打つ鏡面より飛沫をたてて飛翔。夏油を囲み、崇めるように側に立ち並んでゆく。
肉塊のような異形から始まり、夏油が
夏油が、異形達が、同じく向いている方向にあるのは、木々の隙間から見える人々の活動の証たる光。
「……」
くい、と顔を上げる夏油。それは、「進撃せよ」という合図。
『ぎゅららら』
『ぎぎ』
『るろろ』
我先に、押しのけへしのけ、夏油を囲む虚な目をした異形達は、主人からの命令を全うするべく歓喜の雄叫びを立てる。
その一団は途中で四つにばらけ、広い街の四隅へと広がっていくように散っていき、瞬きのうちに見えなくなった。
(よし、今日は西側から外縁を回って――)
夏油もまた、彼らが舞い降りる街並みへ向かうべく足を前へ。
「っ……!?」
しかし、その足はぴくりと跳ねて止まり、静かに石畳の上へ下ろされた。
背中を突き刺す胸糞悪くなるようなチカラ。その奔流を、夏油の感覚が捉えたのである。
柄になく焦った表情で振り向いた先は、静まり返った社。
よりにもよって、夏油の感覚器官が警鐘を鳴らしていた場所は、清浄極まりない神社の裏手の方にあるようであった。
その事実が、夏油のこわばる表情を強めた。
(今までこんなことはなかった、何が起きたっていうんだ……!)
脇目も降らずに走り出し、その嫌なチカラの発生源へ駆ける夏油の頭の中に、一抹の思いが走る。
(……まさか、奴らを従えてる僕が何かを引き寄せた?)
いや、と頭をふり、その時、夏油は咄嗟に足を止め、ザリザリと音を立てて草むらを削った。
「……開いている」
彼の目に止まった、否、止まらざるを得なかったのは、前々から神社の裏手にある二股に分かれていた山道、その内片方の、封じられていた
それが、本来は木の柵と立て札が塞いでいたはずが、今はしめ縄を垂れ下げた鳥居が立ち、まるで入ってこいと言わんばかり。
そして、奥から染み出してきてるのは、間違いなく夏油が感じている不快感そのもの。
兎にも角にも、夏油を不快にするものがその先にあるのは火を見るより明らかである。
「……」
眉間に皺を寄せ、手元に残しておいた二体の異形を黒い泉から呼び出しつつ、夏油は封じられていたその先に足を進める。
◇◇◇
道に入ってすぐ、夏油は林の中に開けた場所へ出た。
三日月に優しく照らされて薄明るく、鬱蒼とした木々に取り囲まれ、生暖かい風が吹き荒み、丈の短い草花が揺れるその場所の中心に生えるのは、見上げる程巨大な一本の木。しめ縄が施されたそれの厳しい根本には、一つの墓石のような石の柱が建っていた。
唸り声をあげて主を守るように展開する二体の異形を引き連れ、その石の前に立った夏油の感覚器官は、まさしく、苔むして今にも風化して消えてしまいそうなそれが、不快なチカラを垂れ流し続ける元凶であると決定づけた。
(まるで封印されているって様相……なら、それが解けかかっているってことなのか……?)
一歩後退り、夏油は自身の前に異形を置く。
今の仮定が本当か嘘かは関係がない。この石を壊して止まればそれでいい。ナニカが出てくるのであれば死力を尽くして殺せばいい。何も起こらず、事態も変わらないのであれば、目の前の神聖そうな木ですら蹴倒せば良い。
据わった目で、夏油は冷徹に命令する。
「やれ」
『ぎゅろろろろ!!』
その言葉と共に送られてきたチカラの奔流を丸太のような腕に込め、異形は汚らしい雄叫びをあげて腕を振り上げ――
――バゴォォッッッ……!!!!!
風切り音と共に振り下ろし、最も容易くに拳をめり込ませ、爆散。
――その瞬間、砕けた石の根本が妖しく輝いた。
「……!」
そして、両腕で顔を隠す間際、夏油は見た。
輝きが一際増し、目を焼く程に強まった中に、何かの
そして、肌が粟立つほどの不快感が、急激に失せていくのを彼は感じていた。
――目の痛みが途切れるのに10秒。
腕を下ろし、夏油は目を開いた。
「んん、……んんん〜!!!ぃ〜やったぁああ!!!!! 190年ぶりの外! 190年ぶりの美味しい空気〜〜!!!!!」
彼が見たもの。それは、間違いなく異形の仲間。
しかし、今この異形は何をした。
「喋る、異形……!?」
思わず呟かれた夏油の言葉に反応したのか、空中にふよふよと浮かぶ、白い柔らかそうな見た目の体をした小さな異形は、パッチリと開いた両目を不服そうに顰め、青紫色の唇をした大きな口をへの字にする。
「異形て、あーたねぇ、ヒトをそんなバケモノみたいな言い方しないで貰いたいでうぃすね!」
そして、ぐるりと宙を一回転し、唖然とした夏油の周りを泳ぐように移動したソレは、徐に夏油の眼前に赴き、仰々しく一礼をしてみせた。
「
あ、でも呪霊といっても私は別に全然悪い呪霊というわけでなく、そもそもここに封印されていたのは全くの誤解からで〜。
白い異形――ウィスパーが捲し立てるように語っている姿を見て、夏油はただ唖然としていた。あるいは、ウィスパーが醸す馬鹿馬鹿しい雰囲気に当てられてしまったのかもしれないが……
ともかく、こうして彼らは運命の出会いを遂げたのである。