深い山の奥から聞こえてくる蝉の声、軽トラックが何事もなかったように遠ざかっていく音、パッポー、と横断歩道を渡れと促す機械の声。
それだけしか聞こえないはずの、魚屋の前にある交差点で、夏油は1人、
強い日差しが降り注ぐだけで何もないはずの、白いガードレールに守られた歩道。そこにいたのは――
「――にゃうう、また負けた、ニャン……」
地面に2本の足をつけてまんまるな顔を項垂れさせてトボトボ歩いてくる、首に水色の鈴をつけ、腹巻きをまいた赤白の猫であった。
「……あの、猫? も喋ってるし、意思があるように見えるけど」
ぼそりとつぶやかれた夏油の言葉に、彼の顔の隣に人しれず浮かんでいた、白い人魂のような存在が揺れた。
「自我を持つのは強力な呪霊、というのが殆どでうぃすが、何事も例外はあるんでうぃす。んまー…… 」
彼――ウィスパーは、へろへろと歩いてくる猫の足先から片方に切れこみが入った猫耳まで注視し、むむむと唸る。
「あの猫の呪霊は、普通の呪霊のように人の怨念がより集まって自然発生するような生まれ方ではなく、1人の
「地縛霊……って!」
と、その時であった。猫の呪霊が大きくふらついた。
「にゃふっ……」
「あっ……!!」
夏油達の目の前まで来て、その猫の呪霊は、まるで糸が切れてしまったようにパタリと倒れてしまう。
慌てて駆け寄り、夏油はその猫の呪霊の頭に手を回し、そっと土埃にまみれた身体を起こしてやった。
「こんなぼろぼろに……」
「呪力による攻撃でなくては怪我すらしないはずでうぃすけども
その夏油に追随しようとして、ふと、
「おまえ、ニンゲンにゃ、なんで見えて…… にゃう…… オレっちは、トラックなんかに……」
「トラックなんかに……? 君はいったい何故トラックに挑んで――」
「――ストーっっプ!」
「のわっ!?」
と、そんな2人のやりとりに割り込む白い影――ウィスパーは、やけに焦ったように夏油へ顔を押し付け、青紫の唇をオタオタとさせ、
「まぁまぁ積もる話もあることでうぃすが、ほら、炎天下の道路の真ん中でこの猫呪霊を置いておくのも酷ですし! ここは一度お家に帰って菓子やジュースでも飲み食いしながら話を聞くってことにしようじゃないでうぃすか!」
「え? ……まぁ、良いけども」
「ささ! 善は急げでうぃすから! 早く早く!!」
忙しなく身体をグネグネと変形させながらの要求に、夏油は訝しげな視線をウィスパーに向けながら、猫呪霊を優しく抱えて立ち上がり、押してくる圧力に負けるように家路を歩き始めた。
(全く…… 油断もスキもあったもんじゃないでうぃすね!)
キョロキョロと辺りを見回し、ほうとため息をついたウィスパーも彼の背中に続いた。
(……ん? 何か忘れてるような)
魚屋を後ろに、ふと夏油は頭に過ぎるものがあったが、腕の中に収まる存在が小さく鳴いたのを聞いて、気のせいか、と頭を振った。
◇◇◇
(お使いを忘れてたのかぁ……)
バリバリと何かをむさぼる音を前にしながら、自室のベッドに腰を下ろした夏油は眉尻を下げてため息をつく。
そして、目の前の畳に直に置かれたお盆、そこに盛られた煎餅やら飴やらのお菓子の山から、特に“チョコボー”を選り好みしてひたすらバリバリ食べ、お腹を肥やす猫の呪霊にしょっぱい目線を向けた。
(死んでも腹が減るってのは不思議だよなぁ)
「にゃふ! にゃふふ…… こんなにチョコボー食べたの始めてだニャン……!! ありがとニャン! えっと……」
「僕は夏油傑。夏油でも傑でも、好きに呼んでくれ」
「じゃあ、スグル! 本当に感謝するニャン!」
隣に積んだチョコボーのゴミの山にまた一つ包装を重ねた彼は、口元の食べかすを小さな手で払って、先程のやつれようが嘘のように飛び上がって空中で一回転。しっかり立ち上がった。
その猫の呪霊の目線にウィスパーがふよふよと降りてくると、煎餅を一枚お盆から拝借しながら口を開く。
「そういえば、アナタのお名前は?」
にゃ? と声を上げた後、猫の呪霊は耳をはためかせる。
「にゃ…… オレっちの名前……」
「……名前をわすれているんでうぃすか?」
「忘れるも何も、オレっち最近死んだから、名前も何もないニャンよ…… 死ぬ前のこともあんまり覚えてにゃいし」
バリバリ食べかすを飛ばしてくるウィスパーに辟易しながら言う猫の呪霊に、それに気づかない害悪は、ふむ、と夏油のそばへ移動し、ぐぬぬぬと、物理的に頭を捻り出した。
それを無視し、夏油は二又の尻尾をゆらゆら振っている猫の呪霊に改めて向き直る。
「――君がなんであんなことをしていたのか、教えてくれないかい?」
夏油の言葉に、にゃ、と声を漏らし、猫の呪霊はうつむき加減になる。
そして、頭が捻じ切れそうになりながら唸るウィスパーをBGMに、彼は静かに語り始めた。
「……オレっちは、見ての通り猫の霊ニャン。それも、その辺の猫じゃニャくて、飼い猫だったのニャン」
語りながら、彼は思い出す。他の全てを忘れてしまっても忘れることのない、魂に刻まれた記憶を。
「オレっちを飼っていた家、そこの一人娘のJK……“エミちゃん”は、特にオレっちを可愛がってくれて…… 何か買い物に行く時も連れて行ってもらったし、オレっちに悩み事を相談してもくれたし、お互いに心の通じ合った親友だったのニャン!」
――彼の脳内に映される風景。
『ふにゃぁぁあん!!』
『しっかり捕まってなさいよ■■■■! いっくわよー!』
彼女――エミちゃんの漕ぐ自転車の前カゴに乗せてもらって、一緒に同じ風を感じた日々。希薄となった過去の記憶から断片的に思い出されていく情景に、思わず猫の呪霊は顔を綻ばせ――
次の瞬間、苦しそうに肩を落とした。
「でも、オレっちは、あの交差点で…… オレっちは弱い猫だったから、トラックなんかに轢かれて、死んでしまったのにゃあ……」
「……!」
目を見開いた夏油の前で、猫の呪霊はキュッと背中を丸め、
「そして、そんなオレっちに、エミちゃんは……!」
――燃えるように熱く、痛む身体。ピクリとも動かず、とてつもない衝撃がいまだに電流のように駆け巡っているように感じられる中、彼は聞いた。
『車に撥ねられたぐらいで死んじゃうなんて…… 』
はたまた、その時にはすでに死んで、呪霊と化していたのか。ともかく、彼は聞いてしまった。
『
「――えっ……!? そんなことを……!」
「いや! エミちゃんが愛想つかすのも当然ニャン! トラックに負けるようなオレっちは、うにゃあ……」
立ち上がりかけた夏油を制止し、あまつさえ理不尽を自分のせいと言い聞かせるような猫の呪霊に、夏油は言葉も出せなかった。
猫の呪霊はいきりたち、鼻息荒く言葉を続ける。
「だから、オレっちは決意したニャン。トラックにも打ち勝てる強い猫になって、またエミちゃんから笑顔を向けられるような猫になる! そしてエミちゃんに会う! ってにゃ……」
しかし、またヘナヘナと萎びたようになって膝をついた彼は、絞り出すように言った。
「でも、でも……! 結局オレっちはまた負けたニャン…… こんな弱いんじゃ、エミちゃんがオレっちに振り向いてくれる筈もないニャン…… 本当にダサいにゃん……」
そうして、猫の呪霊は、短い足の爪を畳の隙間に滑らせて、口を閉ざしてしまった。
夏油はそんな猫の呪霊の話を聞き衝撃を受けていた。
――理不尽を受け、なおそれを自責の念とし、自ら立ち向かおうとする。
「……そんなことないさ」
そんな、人間でもできないような姿勢の彼に、夏油は柔らかい表情で言った。
「君は、そのエミちゃんを一度も恨み、見返そうと思うことなく、自分が強くなっていこうとしているんだ。それが弱いなんてことないよ」
「でも――」
「
にゃ、と声をあげ、猫の呪霊は不安げに顔をあげる。そして、夏油の顔を見て、彼はすんと鼻を鳴らし、潤んだ瞳から一つ、水滴を畳に垂らした。
「うう……スグルはいい奴ニャン」
ぽて、と腰を下ろし、ポロポロ涙を流し続ける猫の呪霊を見て、ベッドから立ち上がって彼の脇に手をやった夏油は、再びベッドに腰掛け、その大腿の上に猫の呪霊を乗せ――
「―――決まりましたァァァい!!!」
「にゃにゃあっ!!?」
「うわっ!? なんだウィスパー!?」
忘れさられていた白いバケモノが頭の捻りを解き、急に雄叫びを上げては夏油達の前に躍り出た。
「地縛霊の“ジバ”に猫の鳴き声の“ニャン”で“ジバニャン”!!! あーたの呼び名を考えてたんでうぃすよ!」
ポカンとして自分に浸るウィスパーを眺めていた夏油は、眼下の猫の呪霊に目をやる。
彼もまた、ウィスパーに対して呆れたのか、助けを求めるように夏油へ目線をやっていた。
「こいつはなんなのニャ? 頭にマキグソ乗っけてるし」
「んっだとおいこのジバやろっ――」
「さあ…… まぁ、悪いやつじゃないよ」
己の憤慨を全く無視して苦笑いをしあっている1人と1匹を前に、ぷしゅーとため息を吐き出したウィスパーは猫の呪霊へ擦り寄った。ふにゃ!? と猫の呪霊は夏油へすがった。
「まあ今回はいいですけどォ、ねえねえジバニャンてよくないですか!? アナタ名前思い出せないんでしょ!? ジバニャンってすごい秀逸でアナタを表したすんばらしいセンスある名前だと――」
「んにゃぁぁあ!! 分かったニャ!! ジバニャンでいいにゃ! ニャーからすり寄るニャア! マキグソ!!! キモい!」
「あんだとおおおおお!!?!?」
猫の呪霊、改め“ジバニャン”が夏油の腹にすがり、その背中にぐりぐりとウィスパーが突撃し。
とうの夏油は、2人の騒ぎに声も上げず、ただなされるがままとなっていた。
◇◇◇
「……」
ぱっぽー、と信号機の音が響く中、頭を丸めた屈強な男――夜蛾は、横断歩道の真ん中に立ちどまっていた。