騒がしかった夏油の部屋の中に、再び蝉の鳴き声が響き、そよ風が開け放たれた窓のカーテンを揺らしている。
ふと、ウィスパーは口を開いた。
「しかし、そのエミちゃんでしたっけ? なんでジバニャンに対してそんな、“ダサい”なんて暴言吐いたんでうぃすかねえ」
「あ、聞いてたニャンか……」
ウィスパーへジトっとして視線を送るジバニャンをよそに、彼を太ももにのせる夏油もウィスパーに同調するように首を縦に振る。
「確かに、ジバニャンの話を聞く限りはとても大切にしていたんだろうに…… 最後の最後にそんなことを言うのかな?」
「実は“大切にされていた”というのは、ジバニャンが度を超えたMだったからそう感じていただけで、実はめちゃくちゃに虐待され――」
「フシャーーーー!!!!! エミちゃんを悪く言うのは許さないニャン!!!!!!」
「どきゃっ!!!!」
ジバニャンは夏油から飛び上がり、不埒な発言をしたウィスパーを黙らせに蹴りかかる。その猫由来のスピードで突き出された足はウィスパーの白い背中に突き刺さり、情けない声と共に畳へ落下する、
「……会って、確かめられないかな」
その中、夏油がふと口走ったことに、ウィスパーを地面に縫い付けて殴り続けていたジバニャンと、タンコブだらけで呻いているウィスパーの顔が向く。
「ニャウ…… 会うって、エミちゃんと……」
「ぶるるるる……! まぁ直接聞いて本心を尋ねるのが1番早くはありますけどぉ」
拘束が緩まったのを敏感に悟り、ブルブルと身体を震わせてたんこぶを引っ込め、ぬるりと抜け出したウィスパーは、困ったように腕を組む。
「――私とスグル君は、そのエミちゃんのことを何も知らないでうぃすし、エミちゃんは当然、私たちのことを知らないでしょう。おまけに呪霊の私やジバニャンは、たぶんエミちゃんの視界に映ることすらできませんよお?」
「……それでも、何もわからないまま過ごすのは辛いだろ?」
明かりがついてなく、外からの陽光が照らしている薄暗い部屋の中を沈黙が満たす。
その時、ジバニャンは急に、腹巻の中に手を突っ込んで弄り、あるものを取り出した。
それは
「スグル、この写真に写ってるのがエミちゃんニャン」
その写真に写っているのは、制服に身を包み、ツインテールをした茶髪の女の子。
ハッとして写真を覗き込んだウィスパーと夏油に、ジバニャンは後ろめたそうに言葉を続ける
「家の場所もわかるニャン。そこだけは、何が起きたって忘れられないニャン」
「……」
写真を腹巻きの中にしまいこみ、ジバニャンは尻尾を下げ、その先端に灯った炎の勢いは弱まる。
「手のひら返す見たいニャけど、ほんとはオレっちは、エミちゃんに今すぐ会いたいニャン。……でも、でも…… オレっち、エミちゃん
エミちゃんが今、自分に対して抱いている気持ちはなんなのか。エミちゃんは、自分に何を思っているのか。
喉から手が出るほど知りたいこと。しかし、それを知ろうとすると、死んでいるのに足がすくむ。
あのエミちゃんが自分に愛想を尽かすはずが無い。そんな確信が自分の心の奥底にあることを否定し、愛想尽かされ、それは自分が弱いから。だから、強くなってから改めて会う。
そうやって
今だって、虚勢を撤回して本心を言えたのは……
「一緒に行こうよ。君に代わって僕がどうにか本心を聞き出してみせる」
信頼できる人が手を差し伸ばしてくれたから。
「……やっぱりオレっち弱いにゃん。助けを求めるニャンて」
いじけたように、再び畳を足の爪で引っ掻くジバニャンの頭に夏油は手を乗せ、優しく撫でた。
「それもまた、一つの強さなんじゃないかな」
――そして、夏油、ウィスパーは、前を懸命に行くジバニャンの後を追って家を出て、夏の青に見守られながら、あの魚屋の交差点近くにまで足を進めていた。
「――とはいえ〜、スグル君はどんな策を?」
「策も何もないだろ、とにかく本人に聞くしかないよ」
「どへぇ、あぁ、私の主人の変人伝説が積み上がるでうぃす……」
「おい」
ウィスパーとの会話の最中も、夏油は目の前を行くジバニャンが、小さな足を必死に動かして駆けている後ろ姿を見ていた。
その時、ふと彼の頭に迷いが過ぎった。
(強要してしまったかな)
本当は、自分が納得していないから。それだけなんじゃ無いのか。
しかし、彼は被りを振って、決して足を止めようとは考えていなかった。
(いや、未練を残したままで、ジバニャンのこの先はどうなるんだ? ……これが正解の筈さ)
一方、ウィスパーはといえば、しきりに辺りを気にしている様子であった。
――件の交差点から少し道なりに進み、夏油の通う小学校の近くの住宅街にて、ついにジバニャンは、寂れても豪華でも無いとある家の面前で足を止めた。
「ここ、ニャン……」
ジバニャンの歯切れの悪い言葉を聞いた夏油は、言葉を交わさずに、家の玄関前の門の前に立つ。インターホンはそこにあり、出入り口のシックな雰囲気の扉は少し階段を登った先にあった。
夏油は躊躇いなくインターホンのボタンへ指を伸ばし――
「……!! ちょちょ! 待つニャン!!」
その時、他ならぬジバニャンの声で、夏油の動きは制止されてしまうのだった。
振り向くと、ジバニャンは少し移動して、車が止まっている道に面したガレージを指差していた。
「
「んな、ちょっと待ってくださいよ、今って夏休み中でしょ? 部活動に参加でもしてない限りはどこにいるのかわからないんじゃ無いでうぃすか?」
「ジバニャン、彼女がどこに行きそうかとかわからないの?」
ウィスパーの言葉の後、すぐに夏油はジバニャンへ向き直ると、彼はすでに頭に短い手を沿わせてぐるぐる唸っていた。
(どこなんだニャあ……!! エミちゃんが行きそうなところ……!! 考えろ、考えるんだニャア……!)
まるで、エミちゃんが飛ばしに飛ばす自転車の前カゴに乗っているように。ジバニャンは思考を巡らせ、霞に包まれたかのような記憶を辿る。
がたんと揺れて、固まりのようになった空気にぶち当たって、楽しくて。そんな記憶を辿り、辿り……
「……!!!」
ジバニャンは一つ、霧を晴らした。
◇◇◇
近くに赤い鉄骨が目立つ橋のかかった、河川沿いの土手道。その斜面の原っぱに寝転び、2人でのんびり過ごす。たまに愚痴を聞いてあげ、その代わりにいっぱい遊んでもらう。
『お前はずぅーっと私と一緒にいるんだぞ! 可愛がってくれるご主人様を大切にするのが、猫ちゃん界隈の常識なんだから!』
そんな約束をした場所。奇しくも、今日も空は入道雲が見える綺麗な青が広がり、地平線の向こうから夕景色が覗け始めていた。
「にゃ、にゃあ」
土手道の脇に止まっている、緑がかった水色の自転車。そして、斜面に寝転がっている1人の影。
ジバニャンは息づく暇もなく駆け出していた。二足ではなく、かつてのように四足で、草の根をかき分けて彼女へ突撃していた。
後ろめたさや恐怖は、青緑のパーカーを羽織ったツインテールの彼女――エミちゃんを、死んでから初めてみたその瞬間に吹き飛んでいた。
その瞬間、さあっと草木が音を立てる。
「っ……!!
突如として、
目が合った気がして、微妙な静寂がそよ風に押し流されていく。
しかし、その視線はすぐに彼から外され、少し上の方に向かう。
ジバニャンが振り向くと、その先にいたのは、肩で息をしている、自身を奮い立たせてくれた塩顔の少年――夏油と、うるさいだけの白い呪霊、ウィスパーが隣あっていて、夏油の足が少しだけ土手道から外れて、草を踏んでいた。
――熱い息を吐き出し、夏油は自身をじっとみてくる彼女――エミちゃんと相対する。
「スグル君……! あんまりヘタなこと言って怒らせたりしちゃいけませんよぉ……!!」
隣に浮いてるウィスパーも、彼女のそばに立ち尽くしているジバニャンも、彼女の目には何も写っていない。
じっとみてくる、見合っている拮抗状態を崩したのは、一歩歩み寄った夏油であった。
「あの、どうかしましたか?」
「おおっと、これは知らないふりして距離を詰めていく作戦ってことでうぃすねぇ!! 良いですよスグル君!!!」
(……黙っててくれウィスパー!!!!)
心配そうな雰囲気が醸されている表情をしているつもりで、その表情が
「あぁいや、その、なんでもないから……」
「あああ…… 彼女、結構ガードが堅い様子でうぃすよぉ、この攻城戦は苦しい戦いになりそうでうぃすねえ! いやスグル君の手に負えるか――」
夏油はニコニコと顔の近くを飛び回ってハエみたいなウィスパーを後で取り込んでやろうと決意しながら、言葉を紡いだ。
「……でも、今の叫び方は普通じゃなかった。何か悩み事でもあるなら、相談に乗りますよ」
「……は?」
――しかし、ここで夏油の“人との関わりが薄い”という弱点が牙を剥く。
ちょっと叫んだだけで色々と邪推して相談に乗るとか言って近づいてくる人間。男女問わず、そんな奴が近づいてきて、普通はどう思うのか。彼はそこまで考えが及ばない。
ここでは、彼の大人びた雰囲気も悪い方向に作用した。
「あの、そういうの間に合っているんで……」
「あーあー!!! ヘッッッタクソでうぃすかスグル君!!! そんな距離の詰め方してナンパじゃないと思うウブな女性じゃないでしょどう見ても!!! ちょっとどーすんでうぃすか!!!」
全くもって遺憾だが、ウィスパーの言う通りのようで、エミちゃんは後ずさり、今にも自転車の方へ駆けて行きそうにしながらも、臭いものを見るような視線を向けてきていた。
夏油はちょっと凹みつつ、しかし止まらず。
彼は最終手段に出る覚悟を決める。ため息をつき、親指で額を掻いた夏油は、偽っていた口を正直に開いた。
「……その、私は他の人が見えない、幽霊のようなものが見えているんです。さっきの“アカマル”というのは、最近、あなたがあの交差点で亡くした飼い猫の名前なんですよね……!」
「……へっ!?? な、なんでそのコト……!!」
口を開いてみて、夏油はつくづく「なんで最初からこうしなかったんだろう」と思った。幼い頃に自分の言葉が誰にも信じられなかったのが尾を引いていたのだろうか。
ともかく、夏油は、うつむき加減になって驚愕を禁じ得ないエミちゃんへ詰め寄る。
「私はその、アカマルが霊になった存在が見えているんです。彼は、貴女があの事故の日に言った言葉に苦しめられている」
「え……? 何を、私は……」
とうとう、夏油はエミちゃんと一歩空けたぐらいの距離まで歩み寄る。そんな彼の隣には、二又の尻尾に穏やかな青の炎を灯したジバニャンが立っていた。
困惑に満ち、まるで忘れ物を探すようにしきりにあたりを見回すエミちゃんに、夏油は容赦なく言った。
「何故、貴女は死に目のアカマルに“ダサい”なんて言葉を投げかけたんですか」
「……!!!!!!!」
立ち尽くしていたジバニャンが、思わず目を閉じる。
夏油の隣でソワソワしていたウィスパーが、青紫色の唇をブルブル波立たせる。
さあっと風が吹いて、夏油達を見守る空に、美しい橙色が広がる。
「……ちがう」
エミちゃんは震えた口を開く。わなわなと震え、片手は草を握りつぶし、もう片方で首から下げた、ジバニャンがつけた水色の鈴によく似た飾りを触った彼女は、今にも泣き出してしまいそうな言葉を続けた
「ちがうの、ダサいって、そういうことじゃなくて…… 変に、背伸びしてただけなのよ。アカマル…… 私、
「ニャッッッ……!!!」
その瞬間、尻尾をビビッと立ち上げ、ジバニャンは雷に撃たれたような気分になった。
(……そうニャ、すばしっこいオレっちがなんでトラックなんかに轢かれたか……!!!)
――あの時、エミちゃんが友達に呼ばれて、信号が青に変わってから、横断歩道を走って行った時。
急に左手から突っ込んできたトラックが、彼女を容易く轢き飛ばそうとして――
『――アカマル…… 私を守るために、自分が死んじゃうの……? 車に轢かれたぐらいで、私の前からいなくなるの……?』
ただ死ぬのを待つだけになっていた自分を抱き抱えて、彼女はどうしていた?
『ダサっ……! ダサいよ、ダサすぎるよ……!!!!』
顔を歪めて、苦しそうに、悲しそうに、
(エミちゃんはオレっちのこと、
鼻がツンとしてきて、喉の奥から熱いものが迫り上がってくる感じがする。スンスンと鼻を鳴らして、顔が熱くなって、目が霞む。
気づけば、ジバニャンはまた泣いていた。
目の前でへたり込み、あの日のように目から大粒の雫を落としている彼女と同じように。
「ごめん、ごめんねアカマル……!! 私のせいでお前に勘違いさせて……! 今でもお前のことが好き! 恋しい! また、お前を抱きしめたい……!!!!」
「エミちゃん……!!!」
その時、陽が地平線の影の中へ落ちた。
「……
――ジバニャンは、その言い方に違和感、否、直感を覚えた
顔を上げたジバニャンは、涙に濡れた視界に、泣き腫らした顔を自分に向けているように見えるエミちゃんを見た。
「エミちゃん……?」
その瞬間、ジバニャンは目の前が真っ暗になった。ふわりと何か柔らかいものに包まれて、大好きな匂いがして、鼓動を感じた。
エミちゃんに、抱きしめられた。
(にゃ、にゃあああ……)
神様がこの世界にいるのなら、あんな意地の悪い別れ方をさせたお詫びをしてくれたのか。
――しかし、次の瞬間、ジバニャンは
「!?!? ニャニ!!?」
「えっ!!? アカマル!?」
ジバニャンが振り向いたのと同時に悲鳴のような声を上げて、エミちゃんは胸の中にあったはずの暖かな感覚を求めて両手で空を切った。
奇跡は一瞬にして終わってしまったのか。エミちゃんは必死になって草をかき分けて探そうとして、ふと、諦めたようにその手を止めた。
「にゃあ……」
その、枯れた芝の葉っぱが一つ引っ付いた、小さな背中に声をかけても、きっともう何も届かないんだろう。
そんな、認められるはずもない確信がジバニャンにはあった。
――しかし。
「……ありがとう、アカマル」
「……!!!」
彼女もそれをわかっていて、
◇◇◇
「――え!? 歳下!? その成りで小学生ぃ!? ……恥っっずいなぁ」
空気を読んではけていた夏油とエミちゃんの距離は、初対面の時と比べて嘘のように縮んでいた。
目元の赤い顔を困ったように笑う姿は、夜の気配が首をもたげ始めた空気の中で美しく輝いているようであった。
「今日は、なんか、ありがとう。さっき私がアイツを抱きしめたのは、絶対嘘じゃないもの」
「僕も、友達の大切な人がちゃんと良い人で安心しました」
夏油の言葉に、少し困ったような、くすぐったそうな笑顔を浮かべて口元を隠したエミちゃんは、ふと、たった1人で立っている夏油の周りに視線を泳がせる。
「アカマル、そこにいるの……?」
「……うん、そこに」
夏油が指を刺した、彼の少し右の方の先にあるのは、やはりただの虚空で、彼女の視界にはただの草花と、そこを飛び越えていくバッタが見えるだけであった。
しかし、エミちゃんは疑うことなく、夏油が指を刺した場所のそばにしゃがみ込んだ。
「……そっか、アカマルは友達と一緒にいたいのね。……うん。わかった。いっぱい甘えて、楽しく暮らすのよ。……でも、私のこと忘れないでよ? 飼い主のワガママ! フフ…… 私も、絶対忘れないから……」
それから、エミちゃんは後腐れなく、自転車を漕いでその場を去った。
夏油とジバニャン。2人のことを、夜の生暖かい風が緩く包んだ。
「ジバニャン……いや、アカマルは、あの人に……」
「アカマルはエミちゃんだけが呼んでいい名だニャン…… スグルは、ジバニャンって呼んで欲しいニャン」
「……そっか」
夏油が視線を下せば、隣に立つジバニャンもまた、顔を上げて嬉しそうに微笑んでいた。
「エミちゃんは優しくて強いけど、スグルは優しくて弱そうだもんニャア。オレっちが見とかないとダメニャン」
「はは、……そうかもね」
夏油の言葉に飛び跳ねるようにしているジバニャンは、ふと何か夏油の周りがもの寂しいことに気づく。
何か、周りに浮かんでいたような。そう、殴り心地が結構良くて、やかましくて、頭にマキグソ乗っけたような髪型している白いやつ。
「……そういえば、ウィスパーがいないニャン」
「……」
のちに、