新しくできたともだち――ジバニャンと、夏油は足並みを揃えて自宅に帰ってきた。その頃になると、空は濃い青紫に染まっていて、黒々とした雲と、その隙間を縫って小さな星の輝きが点在していた。
「エミちゃんはスグルにいっぱい甘えていいって言ってたニャン〜。だからクローゼットはオレっちの寝床とするのニャン」
「中の服、荒らしたりしないでね」
「ニャハ〜♪」
自室の中へ戻り、そこに居着く気満々のジバニャンを許容した夏油であったが、ふと、何か
いつもなら、ここで唇が死人みたいな白いヤツが茶々を入れてくるような……
「……あ」
思い出したように手をポンともう片方の手のひらに乗せ、その瞬間、夏油が腰掛けていた勉強机の椅子、その近くの地面に黒い波紋が広がる。
チョコボーの包装をカサカサいじりながら後ろ足で顔を掻いていたジバニャンが首を傾げる中、
彼――ウィスパーの虚ろ気な瞳に光が灯る。
「ばっ……!! は!? ……す、スグル君……!!!」
驚いたように左右を見回し、片方に勉強机に肘ついた夏油を見るや否や、ウィスパーは「ぐぬぬ」と唸って彼を睨みつける。
「ちょっとは懲り――」
「ちょあーたねぇ!! 自分が
「ほんと?」
「“ほんと”って!? 私の信用〜!!!」
石のように固まり、ぼすと畳に落ちるウィスパーを見て、夏油の苦笑いとジバニャンの大笑いが部屋を満たす。
――つい最近までは静かで冷たかった夏油の自室は、いつの間にか賑やかで、暖かい空気が流れるようになっていた。
(……それは、君と出会ったから)
固まって動かないのをいいことに、ジバニャンの爪研ぎ道具にされているウィスパーを見下ろして、夏油はそう思った。
しかし、決して口にはしない。すれば調子に乗ってうざくなるに決まっている。
と、そこまで考えて、夏油は少し困ったような表情を浮かべる。
(彼らみたいなのもいれば、人に仇なす害悪でしかない呪霊は確実にいるんだ。むしろ今まで以上に気をつけていかないと……)
「くるぁ! このっジバ野郎が!! ここの先輩住人たる私に敬意ってもんが足りてねえでうぃすよ!! って! おら! 逃げるなぁ!!」
「とろいとろいニャ〜ン! それじゃあ200年かかっても捕まらないんだニャ〜ン」
と、仲良く戯れて部屋中を駆け回っている赤白コンビを諌めようと、薄く口角を上げた夏油が口を開こうとした――
その瞬間。
「――冷たッッッ!!!!!!!」
「……っ!?」
夏油の下に長い耳たぶは、床一枚を隔てた一階の方から甲高い悲鳴を捉えた。
◇◇◇
「
バラエティ番組がつけっぱなしのテレビがBGMに、リビングで机に肘を立てて頭を抱えた母親から飛び出してきた言葉を反芻し、夏油はホッとため息をついた。先ほどの悲鳴は、彼の母親が急に肌に触れた冷たさに驚いたものであった。
確かに、最近シャワーを浴びる時に急に冷水が降り注いできて飛び上がりそうになったり、お風呂に溜まっているのがやけにぬるかったり、調子が悪い悪いと家族3人でしきりに言い合っていたが、いざ寿命がきたとわかるタイミングは悪いものであった。
「明日仕事なのに…… お父さんもでしょう?」
「あぁ……」
「僕も汗流せないと気持ち悪いよ」
夏油と両親がため息をついているよそで、彼の後ろにいるウィスパーも顔を顰める。
「んー、私も封印が解けてから毎日風呂入らないとむずむずして…… 髪や尻尾のセットもありますし……」
その隣で、ジバニャンは心底興味なさそうに、寝転がって腹巻きの中を掻きながらあくびをしていた。
すると、夏油の父親はほうとため息をつき、彼の母親の方に視線を送った。
「今日は銭湯で済ませるか」
母親は小さくため息をつき、静かに頷いた。
「冷水浴びるよりはマシか…… あんまり得意じゃないのよね、銭湯……」
父と母が話し始めたのをよそに、夏油は振り返って、眼前に浮かぶウィスパーと、ぴょんと立ち上がって見上げてくるジバニャンに顔を合わせた。
「だってさ」
「それなら風呂上がりのコーヒー牛乳は外せませんねぇ!」
「銭湯! 広いお風呂ニャン!」
(銭湯か…… 久しぶり……)
飛び跳ねたり空中を舞ったり、嬉しそうにしている2匹を見ながら、ふと、夏油は動きを止めた。
(銭湯……)
別になんの変哲のない、とはいえ日常的に出てくるものではない単語。しかし、彼はその言葉に触れた記憶があった。
銭湯へ行った訳ではなく、あまりにも荒唐無稽で、これなら呪いにも転じないだろうと考え、さっさと戻した本の内容とタイトル。
(……そう、“銭湯屋と子豚”……!!)
ハッと顔を上げた夏油は、いまだに言葉を交わし続けている父と母へ向き直る。
「父さん、銭湯ってどこ行くの?」
「どこ行くって、この辺にあるのと言ったら“さくらの湯”しかないだろ? 何か別のところ行きたいのか?」
夏油の質問に、父ら変なものを見るように眉を顰めて言う。いや、なんでもないと否定した夏油は、内心、午前中に読んだ本の内容に没頭していた。
――銭湯屋と子豚。それは、“さくらの湯”という江戸の中期から始まり、街の憩いの場として今日まで老若男女が足繁く通う銭湯で、その初代番頭と、彼が飼っていたという1匹の子豚が紡いだ絆の物語である。
それだけでなく、子豚が客と共に湯に浸かって我慢比べを興じたり、桶を使って小踊りをしてみせたり、昆布やワカメが好物だったという小さなエピソードも綴られていて、全編渡って明るい雰囲気が続く人情あふれる話、
ではあったのだが……
『……呪霊って、負の感情が折り重なったような存在なんだよね?』
『まあ基本的にはそうでうぃすが、ある1人の強い失意や絶望がカタチを得てしまうこともあるんでうぃすよ』
なら、果たしてこの伝承から呪霊やそれに準ずる存在が生まれることがあるのだろうか。
語られていないことがあるかもしれないし、そもそも子豚の意思に関しては、正確に書き表したものというよりは、書き手の主観で子豚の意思を脚色したと言った方がいい内容。もしかしたら子豚が人間を恨んでいて、それで何かしら呪いに転じている可能性は禁じ得ないが。
あるいは、この伝承に出てくる初代番頭が呪いに転じていたり、と様々な可能性を照らし合わせて見ていたが、話があまりにも明るくバカバカしい雰囲気なので、少なくともこの話を元に負の感情が募るようなことはあり得ないと夏油は思っていた。
(……まぁ、良い機会だし、少し調べてみればいいかな)
「傑! すぐ出るから着替えの用意しなよ!」
と、いつの間にか部屋を移動していたのか、壁の向こうからこもった声が聞こえてきて、夏油はハイと返事をして、廊下へ続く扉へ小走りで向かう。その後ろをジバニャンとウィスパーが続いた。
――数分後、彼が晒されるかつてないほどの苦難を知る者は無い。
『カッポン!! 今日こそはこのワシが