夜の帳が下り、蒸し暑い暗がりが広がる道路に二つの光が走り、道路の端を通っていた猫の瞳を明るく照らした。
その猫が飛び跳ねて逃げていった道を我が物顔で通って唸り声をあげていった車の中で、夏油は窓の外をじっと眺めていた。
「そういえば、ジバニャンってお風呂大丈夫な猫なんでうぃすねえ」
「オレっち綺麗好きニャし、エミちゃんが洗ってくれてたニャン」
「エッッッ、あーた雄猫でっっ……!? ……!!?!?」
「……キモイんですけど」
彼にしか聞こえない楽しげな会話劇が繰り広げられる車は、数分ほど静かな住宅街を駆け抜けていき、踏切を超えた先にある銭湯――さくらの湯の駐車場に入る。
前の父と母が降りるのを見てから、小脇に洗面用具の入ったカゴを抱えた夏油も車の扉を開け、数分ぶりの地面を踏み締め、まばらな駐車場から目の前の光の元を見やった。
「あら、ここってこんなに大きかったかしら」
「最近設備改修が入ったんだよ。すっかりスーパー銭湯って感じの趣きだなあ」
広い三角屋根の建屋に、入り口から漏れる光を覆うようにしているエントランスの屋根の前面に銘打たれた“さくらの湯”という文字。それをしばらく見つめていた夏油は、ふと視界の下端に動く二つの影を見た。
その時、彼の後ろから気前のいい声が鳴る。
「何してるんでうぃすかスグルくん! 早く行くでうぃすよ!」
「銭湯は初めてだニャン〜!」
白い人魂のような彼――ウィスパーがクルクルと夏油の周りを旋回し、額に炎のゆらめきのような毛色の分かれ目をした赤白猫――ジバニャンがぴょんぴょん跳ね。
それを見て、「うん」と頷いた夏油は、こちらを振り返っていた両親に小走りで続く。
(……やっぱり、いないか?)
――……。
そんな彼の後ろに広がる深淵から、
◇◇◇
「いらっしゃいませー!!!」
夏油達がガラス張りの自動ドアをくぐると、奥に見える番台の女性から、その快活な見た目に違わない張りのある歓迎の言葉がとびだしてくる。
「ニャーン!!」
「あぁちょっとちょっと! 見えてないからってこんな、はしたないってからに……!」
木組みが醸す穏やかさに包まれたロビーの中へ入るやいなや、畳ばりのスペースでテレビを見ながらくつろぐ爺婆の合間を縫ってベンチに座る若人の頭を踏み越え、好奇心のままに辺りを走り回るジバニャンをウィスパー追いかけるという大暴走を人知れず巻き起こす。
夏油がそれを生温かく見つめていると、早々に支払いを済ませた父親の声が耳に入る。一瞬振り返って頷いた彼は、番台の立つ場所からすぐの左手側、カップアイスからモナカアイス、アイスバーまで、様々なアイスが満載された冷凍庫の上で、なぜか頬をつねりあってる呪霊二人組に手招きをし、番台の隣の階段を一つ飛ばしに登っていく。
「じゃああとでね」
赤い“女”と記された暖簾と、青の“男”と記された暖簾。それぞれに、夏油の母、夏油の父と夏油、ジバニャンとウィスパーと別れた彼らは、古臭い暖簾を押して通った。
その奥に広がるのは、むわっと肌に張り付くような熱気がすでに感じられる、ロッカーが立ち並ぶ脱衣所である。
そこには、ロッカーの前で躊躇なく服を脱ぎ捨てている者はもちろん、真隣の大浴場から溢れる熱気をひたすら払おうと唸りを上げるクーラーの下に屯する者や、体重計に悲鳴をあげさせる腹のでた毛深い男、禿げた頭にドライヤーの温風を当てる枯れた上半身を露にした爺など、風呂を楽しみにきた者、楽しんだ者で溢れていた。
うっすら薬っぽい匂いのする中へ立ち入り、ペタペタと張り付く床を進んで鍵の番号のロッカーへ辿り着いた夏油とその父親は、互いに隣り合ったロッカーを開いた。
(なんだかこう、男同士とはいえなあ)
変な気恥ずかしさに眉を顰めつつ、夏油はバスタオルをロッカーへ放り込んでから上着を脱いでぽいとその上へ投げる。後方の頭上から「きゃっ、スグル君のえっちー!」なんてふざけた声が聞こえたが、聞こえないふりをして無視をした。
「……傑、いつのまにかムキムキになったのなー」
「……そうジロジロ見るもんじゃないよ」
「へいへい」
と思えば、隣から茶々を入れてくる父親もいるものだから、夏油は目を伏せて苦々しく言葉を漏らすのだった。
とはいえ、彼の父親も夏油ほどではないとはいえ、老人に中年しかいない今の脱衣所では引き締まった若々しい肉体をしているが。
「じゃあ俺先入ってるぞ。お前もさっさと着替えちゃって来いよ〜」
と、いつのまにか下着をも脱ぎ去り、片手首にロッカーの鍵のストラップを巻いて準備万端の父親は、小脇に洗面用具の入ったカゴを持って颯爽と大浴場への入口へ足を進めていく。
その後ろ姿をじとりと見つめたあと、ふんと鼻を鳴らした夏油は、まだ脱いでいなかったズボンの裾に手をかけ――
「――お主
「ぶっっっ」
突如、耳元で囁かれたしゃがれた声に飛び上がった。
(だ、誰っ……!?)
音もなく気配もなく。跳ねるように振り向いた先に夏油が見たのは、頭頂部を綺麗に禿げ上がらせ、顎髭を豊かに蓄えた老人の姿であった。
すでに着衣はなく、枯れ切った生まれた時の姿を晒す老人を凝視していると、彼は「ふっふ」と穏やかに笑って見せた。
「なぁに驚いてるんでうぃす? 単なる気の良さそうなおじいちゃんじゃありゃ――」
「そこのお主も良き我慢を感じるのぉ」
「……うぃす?」
と、固まる夏油のそばにふよふよと舞い降りてきたウィスパーがおちょくるように言うが、老人がこともなしに言った言葉に硬直。
そして、みるみるうちにそののっぺりとした表情を劇画チックに彫りを深め――
「――
その夏油と老人にしか聞こえない轟音に、表情を固めていた夏油はハッとして訝しげに老人を睨みつける。
「おじいちゃん、オレっちも見えてるニャン?」
「おお、このネコスケも素晴らしい我慢を感じるわい」
「オレっちジバニャンだニャン! でもスグル以外に見えてる人なんて初めてニャン〜!」
足元にやってきたジバニャンが踊るようにして笑顔を浮かべているのをよそに、ウィスパーと夏油は警戒を崩さずに顔を近づけていた。
「ウィスパー、これってあの、さくらの湯にまつわる話の呪霊か何かか……?」
「うーん…… 呪霊、って感じはしないでうぃすけど」
その瞬間、老人の眉尻の下がって閉じられた目がぎらりと輝く。
「――そこ、そんなに怯えなさるな」
「「……!」」
腹骨が浮き、皮にはハリもなく、峡谷のような皺が幾重にも走って、腰の曲がった老人から、夏油が感じたのは、重苦しくも優しく撫でつけられるかのようなオーラ。
「わしの名は“
(……がまん、……は?)
全てに困惑する夏油をおいて、老人は夏油に厳しき背中を見せる。
「お主達にはわしと同じく“我慢”を究めんとする運命を見た。……体を清めたのち、大浴場の中心、円形の浴槽へ赴くが良い」
「……全然わからないって! ちょっとおじいさ――」
「
「おい……!!」
夏油は肩を掴んで老人――我慢我太郎の動きを無理矢理にでも止めることができた。しかし、彼はそれを躊躇ってしまった。
(……! 動かない、か……!!)
彼がしわくちゃな足を前に進めるごとに、烈風のように叩きつけてくるオーラが、夏油の小学六年生とは思えない屈強な肉体を縛っていたからである。
夏油が手を伸ばしている遠くで、我太郎は虚しくも、大浴場への扉を押し、その奥に姿を消した。
思わず空を掴み、だらりと力なく腕をぶら下げた夏油のそばに、口をまごまごさせるウィスパーが寄り添う。
「……行くんでうぃす?」
「いや、……まぁ、明らかに普通じゃないしな……」
「心配しすぎニャンよ!」
ハッと夏油とウィスパーが目を向けた先にいたのは、どこから出したのか、頭に小さな手ぬぐい、片手にアヒルのおもちゃを持ったジバニャンであった。
「おじいちゃんはネコと子供には優しいものニャン!」
「ジバニャンの自信はどこからくるんでうぃす……??」
(……どちらにせよ、調べないわけにもいかないな)
ふうとため息をつき、夏油は覚悟を決めた。
ほぼあり得ないと思っていた“銭湯屋と子豚”という民間伝承から生まれた呪霊という可能性。それが、幸か不幸か、というか不幸にも輪郭を帯び始めている。
そうであるなら、自分がやるしかない。
「行こう……!」
夏油は力強く一歩目を踏み出した。
「スグル、ズボン履きっぱなしニャン」
「……」
一歩目を引っ込め、彼は踵を返した。
◇◇◇
――カポーン
誰かが鳴らしたのか、桶が奏でていそうな軽い音が、広々としてモヤの立つ大浴場に響き渡る。
その中、夏油はシャワー台が並ぶ区画で椅子に座って、シャワーのボタンを押した。
瞬間、扁平なシャワーヘッドからどっとお湯があふれ、容赦なく夏油の身体へ殺到。
「はー……」
なんだかんだと悶着あったものの、掛け湯を肩から流すと、まるで全身の重だるさをも押し流してくれそうで声を漏らしてしまうものであった。
(そういえば、今日は一日中走り回ったりなんなりだったか)
シャワーの持ち手を取り、一見虚空の足元にかけてやれば、「ニ゛ゃー!! 雑ニャー!!!」とオタオタしているジバニャンが見える。そんな彼の出会ったのは今日の昼下がりなのだから、思い返してみるとかなり濃密な一日。
……もしかしたら、それを超える何かにでくわすかもしれない。
「がぼ、がぼぼばぼばほば!! ず、ずぐるがぼぼっ!!!」
今度は鏡の前に浮かんでいるウィスパーの顔面目掛けてシャワーヘッドを向けながら、夏油はぼんやりそう思った。
そして、筋肉の筋彫りに水滴を伝わせながら、大浴場のツルッとした石造りの床を進み、途中彼の父親が浴槽から立ち上がって声をかけてきたが、夏油は返事も軽く、浴場の中心へと足を進めるのだった。
――そして。
「――来たな、勇猛な若人よ」
我慢我太郎は、浴槽の段になっている部分に座り、背をつけて半身を湯に埋めて待っていた。
「ニャいしょー!」とぴょんと湯に飛び込み、アヒルのおもちゃと一緒に浮かび出したジバニャンを避けるように、夏油もおそるおそる湯の面に足をつけた。
(……熱いな)
一先ず両足を1番深いところに立たせた夏油は、怪訝な視線を老人に送りながら腰を下ろし、肋の1番下がつくぐらいのところまでを湯に沈めた。
「ふー…… で、貴方は――」
早速の夏油の質問をバッサリ打ち落とし、我太郎は毅然と言う。
「待て。じき、アヤツも現れよう」
「
思い返せば先ほどの去り際にも言っていた“アヤツ”。半身をぷかぷか浮かばせて漂っていたウィスパーを押しのけ、その猛抗議も無視して夏油が我太郎に詰め寄ろうとした――
その瞬間であった。
――カァッポオオオン!!!!!!
轟!! と、巻き上がる
「ウィス!?」
浮かんでいたジバニャンがハッと顔を上げ、訳もわからないウィスパーを掴む。
なおも悠然と構える我太郎に詰め寄ろうとした夏油は、ふと、
「――どおおおおん!!!」
刹那、激しい水飛沫が全身を打ちつけ、視界を無にした。
その着弾の衝撃は円形の浴槽を伝って男湯を、女湯を、引いてはさくらの湯そのものを揺るがす。
「おお!? なんじゃなんじゃ!?」
「なぁに案ずるでないわい、週に一度はあるもんじゃよ」
「す、傑……!?」
ジジイ共が波打つ湯に飲まれながらもほのぼのと会話を続ける中、ただ1人、高らかに水柱を上げた円形の浴槽に息子の姿を認めていた夏油の父親は、顔を青くして現場に駆け寄る。
雨のように降り注いでくる湯を掻き分け、そこで彼が見たのは、唖然と虚空を眺めている息子と、何事もなかったかのように手ぬぐいを絞っている老人の2人であった。
「……け、怪我はないのか?」
「……へ、あ、と、父さん。うん、無事、大丈夫。僕1人で入ってるから。うん」
「そ、そうなのか……?? 大丈夫なんだな?」
「大丈夫だってば」
父親の問いかけに、夏油は目線を逸らさず、上の空な様子で答えた。
――彼は、もはや父親に集中できるような状態ではなかった。
「きおったな」
「あたりめーだぜ我太郎の爺さんよ……!! ……で」
夏油の見つめる先。彼の父親が見ても霞んだ壁面しか見えないそこにあったのは、浅黒いピンク色の巨体。その特筆するべき恰幅な腹には、真っ赤に膨れたデベソが主張していた。
1人で浴槽の半分以上を占め、両手に桶、しめ縄のようなものに青い布がついた褌を履き、タオルをマントのように羽織ってゴーグルをかけた巨大
その緑色の視線が、剣呑な輝きを纏って夏油へ向けられていたのである。
「――このガキんちょはなんだよ、まさかアンタの孫ってわけじゃあねえだろ」
「彼もまた、お主と同じく我慢を究めし者じゃ。今日より我慢道へと加わった。……そう言えば伝わるじゃろう」
何やら変なことに巻き込まれているのをひしひしと感じつつ、夏油は内心、この巨大豚を見上げて圧倒されていた。
(戦わなくたってわかる……!! コイツのチカラは今までの呪霊と比べても
勝てるだろうか。
そんな疑念が頭によぎりながらも、夏油は努めてそれをひた隠しにし、眉間に皺を寄せて手のひらを床へかざす。動揺は押し殺し、彼の心はすでに臨戦体制を整えていた。
「……大丈夫、なんだな? それなら俺はもう上がるが……」
「僕はもう少し湯に浸かってくる。あんまりこういう機会ないしね。母さんはもう上がってるだろうし話してて」
「あぁ、のぼせるなよ……」
何やら物々しく感じるものの、先ほどの怖がってるような雰囲気が払拭されたのを見た夏油の父親は、何やら変な態勢の息子をなん度も振り返りながら、シャワー台の方へ足を進めていく。
「――このガキが、我慢道ゥ?」
「……!!!」
――瞬間、巨大豚の呪霊から放たれる呪力がいっそう膨れ上がり、その巨大な腹を揺らして夏油の前に立ち塞がる。
しかし、何かうるさいのが欠けているような。
ふと、夏油は巨大豚の足元の湯の底へ目が行った。
何故か、白い。明らかに白いのが踏みつけられている。
(……
「あっぶないとこだったニャン……」
哀れ。巨大豚の落着にいち早く気づいていたジバニャンにウィスパーが掴まれ、その柔らかな身体を緩衝材がわりに使われたのが運の尽き。
あたかもいい仕事をした後かのように額を手の甲で擦るジバニャン。何気に恐ろしい発想をする、と、夏油は自分を棚に上げてそう思った。
と、その時。ズンと内臓を浮き上がらせるような地響きが走り、夏油はすぐに目の前の巨漢へ目を戻した。
「……オメェ、名は」
有無を言わさぬ、心臓を優しく撫でられているかのような感覚に、夏油は思わず唾を飲んだ。
「……夏油、傑」
「オレの名は“のぼせトンマン”。このさくらの湯のマスコットにして…… 我慢道の求道者でもある」
名を名乗った巨大豚――のぼせトンマンは、夏油をひと睨みした後、両手に持った桶を握り――
かと思いきや、浴槽の脇に置いた後、そのビール腹の親父のような巨体を湯船に沈め、脇を広げて両腕を楽にした。
「そんな戦意剥き出しにしてんじゃねえ、座れや」
「……どういうつもりだ?」
「あぁ? 我慢道に入門しておいてそんなこともわからねぇとは。我太郎の目も曇っちまったみてえだな」
構えを一旦解き、気持ちよさそうに顔を緩めながらも剣呑な雰囲気は崩さないのぼせトンマンを眺める夏油に、のぼせトンマンは指を刺した。
「
「……」
夏油は自らの頭に手を当てた。