「……おーいウィスパー、一体どういうことニャン。もう上がるんじゃなかったのニャン」
「スグル君は、私のために戦ってくれているのでうぃす……!!!」
「にゃあ……???」
のぼせトンマン、我慢我太郎、そして、夏油傑。
1匹と2人が輪になって湯に浸かるその姿は、字面だけならば一見ファンタジックで可愛らしいものと思うかもしれない。
その実は、3人の男が鎬を削る争いであった。
「あ゛あ゛…… ここの湯加減はやっぱりたまらねえ」
「……」
3メートル弱はあるかと言う長身についた贅肉を半身沈め、豚鼻からは豚骨から煮出されたような匂いを吹き出す豚親父――のぼせトンマンを前にすれば小さな夏油は、額に浮いてくる汗とも露とも取れない雫を拭っては、熱気を定期的に長く吐き出す。
その真ん中に割って入るように座っている我慢我太郎の表情は涼しく、一見すれば、この中で1番最初に根を上げてしまいそうなのは夏油。戦いが始まって5分が経ち、その傾向は顕著になりつつある。
(流石にここの呪霊だな、さっきより息が上がってるようには見えるが、まだピンピンしている……)
母からの遺伝か、風呂はシャワーでさっさと済ませるのが常となっていた夏油であったが。それが今この局面において彼を苦しめる。
水中においてかかる圧力は地上のそれとは比べ物にならないほど大きい。それが内臓の集中する上半身にかかった時の不快感。熱さよりも汗よりも、夏油が苦戦しているのはその感覚であった。
(……だが!!)
夏油の塩顔にその不愉快さはかけらも滲んではいない。目の前でふんぞり帰る豚野郎の鼻をあかすまで、彼は諦めるつもりがなかった。
「……さて、そろそろ温いのお」
と、その時であった。ここまで沈黙を貫いてきた我慢我太郎が突如として動く。
頬を赤く染めた夏油の鈍い光を湛えた瞳が動き、彼を視界にとらえると――
そこには、彼の背、この円形の浴槽に備え付けられている太めの蛇口に骨と皮だけの手をつける我太郎の姿があった。
夏油の視線に気付いたか、振り返った我太郎はふふと笑い、汗の滲んだ唇を動かした。
「これは
「80ッ……!?」
我太郎の温和な表情が一変、険しく言い放たれた警告に、のぼせトンマンの一撃を喰らった腹の跡は消え、ただ夏油を見守るだけであったウィスパーが戦慄する。
(……ニャンか、雲行きが怪しいニャン?)
そんなウィスパーを横目にして、ぼーっと立っているだけであったジバニャンの胡乱な目が細まる。
「おめえについて来れるかよ……! 腰抜けはここで上がった方が身のためだぜ……!」
曇るゴーグルを親指で拭いながら煽りを入れるのぼせトンマンに、夏油は鼻で笑って見せた。
「そっちこそ、
「カァッポン! それなら心配無用! まだまだ出したりねえよォ!」
(なんか臭いと思ったらそういうことだニャン)
ウィスパーの不安げな視線は、たぎる熱気に支配された彼らに届くことはなく、隣で元気よく応援しているウィスパーに引き気味なジバニャンは、ぽてと腰を下ろして胡座をかく。
その目にはわずかな緊張が湛えられていた。
「では、行くぞ……!!」
そして、我太郎はついに、釜茹で地獄への入り口を捻った。
――ドドオッ……!!!
「……っ!」
「おっほぉ! キタキタ!」
変化が現れるのに時間は要らなかった。足の指先に冷えたような感覚が走った後、すぐにじんわり熱い感覚が広がり、それが大腿を、腹を伝って、夏油は思わず目を見開く。のぼせトンマンもまた、少し赤みのました巨体を揺らして歓喜の鳴き声をあげる。
(熱い……! 何より――)
鼻の周り、額、あらゆる汗腺が開いて汗を吹き出し、湯面を弾いて音を上げる。しかし、そんなことよりも夏油が苦しめられているのは
息を吸えばむせるほどの霞が辺りに漂い、口を開けて無理やり呼気を確保するも、熱波が直接体内を温め体温の上昇を加速させていく。
それに拍車をかけるのは、蛇口を開けっぱなしにして、はふーなんて気持ちよさそうな声を上げている老人。
「ふー……!」
まるで熱気の服を一枚着させられているかのようで、目が乾いて瞬きが増える。チラリとのぼせトンマンの方を見れば、背中をもたれさせてだらけさせているような態勢は変わらないものの、鼻息は明らかに荒く、陽炎を湛え、脱力していた両手は軽く握られていた。
鮮やかな赤色が浮き出たような夏油の様子に、ジバニャンは思わず立ち上がった。
「……なんか、
ちりつくような感覚を覚えた耳がピクリと動き、ジバニャンは煮えたぎる湯に視線を落とした。
「……」
ためしに、と腰を上げたジバニャンは浴槽へ近寄り――
――チョン。
「あっっ……〜〜〜!!!!!?!?」
「ジバニャン!!?」
声にならない悲鳴と同時に、ジバニャンは涙の煌めきを纏って飛び上がった。
エミちゃんなら絶対自分にかけるわけのない温度。というか生前現在今に至るまで感じたことのない、生き物を殺しにかかる衝撃に、ジバニャンは悶えた。
(バカニャ!! こんなの呪霊でも死んじゃうニャン!!!!)
浮遊感に苛まれながら内心叫んだジバニャンの目に、上を見上げて間抜けな顔をしているウィスパーが見え――
「――何やってるニャン!! さっさとスグルを引き上げるニャン!!!!」
「え!? あ、は、はいでうぃす〜!!!」
このままじゃ夏油傑は命を落とす。ネコ呪霊として、ジバニャンはそんな失態を許せない。知り合ったばかりなのに寝覚めが悪すぎる。
すぐさま、ジバニャンは咄嗟にウィスパーへ叫んでいた。それを受けたウィスパーは言葉を切る前に夏油へ突入を始める。
そして、空中で体を捻って落下地点を弄り、ジバニャンが華麗に足をつけたのは、浴槽の温度を上げ続けている根源。
「――む、ネコスケか?お主も一緒に」
「どいてろニャー!!!」
「おいおい……」
どうどうと熱湯を吐き出し続ける蛇口を前に、首を傾げた我太郎を怒鳴りつけたジバニャンは、小さな両手にペッと涎を吹きつけ、熱源のすぐ近くにある蛇口の取手に手をやり、勢いよく回していった。
「ニャイしょー!!!」
――ギギギっ……!!
次の人のことなど考えない強烈な捻りに耐えかね、蛇口の取手が悲鳴をあげるころには、滝かのように流れ落ちていた熱湯の勢いはなく。
一滴滴が落ち、湯の追加は完全に停止した。
「よし! あとは――ってニャー!!!?」
まず一つ、あとはウィスパーが夏油を引き上げていれば――と、一安心もできずに振り返ったジバニャンは絶句した。
「ちょ! ちょっとスグル君! 上がりましょって死んじゃいますって! 私の名誉なんかよりも自分の命を〜!!!!」
ひっついて引っ張り上げようとするウィスパーを、その都度血管が浮き出てゆでダコのように赤い手でひっぺがし、夏油は殺人的な温度の湯から
その血走った目に映るは、ピンク色の巨躯を赤く染め上げた巨大豚の緑色の瞳。彼、のぼせトンマンもまた、口角を釣り上げて夏油を見下ろしていた。
「スグルー!! 立てないのニャンか!? オレっちも手伝ってやるから――」
「……いや、
「脳味噌茹だり切ったニャンか!? こんなの到底人間が浸かってていいモンじゃないニャンよ!!」
駆け寄ってきたジバニャンの必死さにも応じず、ビシャビシャの顔を手で払った夏油は、のぼせトンマンから目を離さずに口を開く。
「……まだ熱くなるんだろ、お湯を追加するんだ」
「ふむ…… いいのか?」
固く閉められた蛇口のバルブを一瞥し、我太郎は夏油へ向き直る。
言葉は要らず。夏油は首を縦に振った。
「す、スグル君……!!!」
「見てて、ウィスパー、ジバニャン…… 僕は、
川のようになって流れる汗が滴り、表面が揺らいですら見える背中越しにの夏油の言葉。そして、彼が死に体から発する威圧感にも似た感覚に、ウィスパーもジバニャンも足を止めてしまう。
再び吸い込むのも憚れるような熱気が上がり、激しい水音が水面を穿ち始めた。
「おい夏油……! てめーを…… いや、今はいいか」
ふと、夏油の霞む視界の奥にいる巨大な影が、くぐもった声でそう言った。
「へへ……
「……臨む、ところだ」
パチパチと頭の中で弾けるような音を聞きながら、夏油はおぼつかない口を懸命に動かした。
その口角は、なぜか高く上がって、彼はこの局面にして威嚇の笑みを浮かべていた。
――1分が経過。
「ふん、ふん、ふん……!!!」
のぼせトンマンの両手はギリギリと握られ、豚骨の匂いがより濃く、刺激的に変わっていく。鼻息には火花が混じり、彼の丸目にいく筋かの血管が黒々と現れ始める。贅肉にこもった熱は逃げることなく、お湯と同等に彼の皮下組織を侵していく。
夏油は舌で口内をなぞり、懸命に涎の発生を促していた。
しかし、赤みが引きつつある彼の体に残った水分は、少ない。
――さらに、2分。
もはや湯の温度に変化はなく、全ては最高温度のものと置き換わって久しい。
立ち込める蒸気は尋常ではなく、浴場に入ってきた人間がまともに見えるのは手が届く範囲ほどであり、ところどころから足を踏み外して温泉に落下する音が聞こえてくる。
「何も見えんじゃないか……」
「なーに、週に一回はあるもんじゃい」
そんな呑気な会話をよそに、浴場中心の円形の浴槽で繰り広げられる戦いは佳境を迎えていた。
「……」
「……」
お互い沈黙を守り、浅い呼吸を繰り返しながら変わらずに敵を睨み合い続けている2人、夏油とのぼせトンマンは、その実相手を見ているわけではない。
意地と意地のぶつかり合い。それ以上に自分の中にある本能との戦いである。
喉が渇き、体がふらつき、錘でもつけたように重い瞼が閉じないように我慢し、逃げ出したいと思う心を炉にくべ燃やす。
(上がれ、あがれ、上がれ、上がれ……!!!)
情けない懇願。しかし、その中に込められているのはのぼせトンマンへの惜しみない敵意。
(上がっちまえ、上がっちまえ……!!!)
赤黒く染まった体表、丸出しの舌を引っ込め、奥歯が悲鳴を上げるほど口を噛み締めるのぼせトンマンもまた、夏油に対して呪詛を念じる。
精神は同等。彼らは今この瞬間、互角となった。
――しかし。
「……!」
ついで、何も聞こえなくなり、何も感じなくなる。
「――」
人間の身体構造と呪霊のそれという絶対的な差を前に、夏油は最初から負けていた。
気合いなどなく、無慈悲に、彼の肉体はせめてもの自己防衛を計ったのである。
(負け……るか……!!!!)
あやふやな感覚でもはっきりとわかる、大きくぐらついて倒れる自分の身体に歯噛みし、遠くに聞こえるともだちの声にわずかな後ろめたさを感じながら、夏油の顔面は煮えたぎる湯面の蒸気に当てられ――
――ドサッ。
濃い豚骨の香りが鼻をくすぐり、真っ暗だった夏油の視界がわずかに開く。
彼が見たのは、赤黒く染まったのぼせトンマンの腹の肉。
と、不意にぐんと上へ持ち上げられるような感覚を夏油は感じた。
――ザッバァァア……!!!!
巨大な一歩が浴槽から水を蹴破り、湿気た石の床にズンと置かれる。その衝撃に揺さぶられた夏油は、ふと、自分が
「……負けた?」
「いーや、
彼――のぼせトンマンが、小脇に抱えた夏油をそっと床に寝かせると、すぐ飛びついてきたのか、夏油の視界にウィスパーとジバニャンの顔が見えた。
片や大慌てで、片や呆れて、しかし、彼らの小さな手の感覚が優しく感じられて……
――ズズンッ……!!
瞬間、重苦しい地響きが夏油たちを浮き上げた。
「へへ、また我太郎の爺さんには負けちまったが……」
躊躇なく尻餅をつき、赤黒く染まった身体から蒸気を立てているのぼせトンマンは、呆然と仰向けになっている夏油を見て、
彼はその大口で清々しき大笑いをして見せた。
「夏油!
うぃす! と驚いたような反応を見せたウィスパーをよそに、のぼせトンマンは言った。
「そんなになるまでオレに喰らい付いたオメーを、オメーの我慢を称賛する! うん百年生きた中で、オメーほどの“漢”はなかなかいねェ!」
熱が籠り、逆にあたりの蒸気を吹き飛ばしてしまいそうな力強い言葉。ウィスパーとジバニャンに支えてもらって身体を起こし、重だるい頭を上げた夏油は、フッと小さく吹き出した。
(……これぞ我慢道、か……フッ)
未だ湯に浸かる我太郎は、戦いを終えた者が顔を合わせた光景を目に焼き付け笑い、2人の“漢”への言葉なき称賛とするのだった——
(……何やってたんだ、僕は)
そんな、少年漫画の最終巻化のような暑い空気に、夏油はかすかな達成感をため息に乗せて吐き出した。
しばらく銭湯には行かない。行きたくない。
長風呂でダメージを負った夏油が夜中に出歩ける体力を残している訳なく、彼が予定していた夜の巡回はおしゃかになったらしい。
これにてのぼせトンマン編終わり!!!!
次回、“どんこ池の主”
【夏油傑と“妖怪”たち】解釈バトル会場
ネタバレ注意!ネタバレ注意!ネタバレ注意!