執務室で仮眠をとる先生。そこにヒナがやってきて。


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夜のしじま

「先生、入るわよ」

気休めのノックを済ませて入室する。引き戸がキュルキュルと軽快な音を立てる。

「連絡したとおり、仕事の事で」

相談なんだけど、と続けるも後ろに向かうにつれて徐々に小さく掠れていった。

 いつもなら執務室の扉を開ければすぐさま、仕事机に向かう先生の後ろ姿が目に入った。

先生が特に疲れているときは来客があっても全く気付かず、そのまま音を立てずに先生の後ろに立っていると、紙と紙が擦れる音、のべつないタイピング音、時には疲れた先生が漏らす吐息など、働き者の忙しない音がささやかながら耳に届いた。

 仕事机には青白く光る起動したままのパソコンと書きかけの書類が散らばるばかりで、先生の姿は何処にもなかった。先生、と声をかけて当辺りを見渡す。すると、仕事机の横の来客用のソファ、そのひじ掛けに隠れた影が目に入る。

 静かに近づくと先生がひじ掛けに足を掛け、仰向けになって小さく寝息を立てていた。先生は穏やかな顔で眠っていた。子供から大人になっても変わらないものがあるとするならば、その一つはきっと寝顔だろう。取り繕わない安穏で無防備な状態に見せる顔はきっと子供の時から変わっていない、いや変わる必要がないに違いない。先生の顔をじっと覗く。安らかに閉じられた瞼としっとりと並んだまつ毛、口元は緩く結ばれている。この表情だけは子供の頃の先生の生き写しだと思うと、何だか先生の秘密を一つ知ってしまったようで、嬉しいような、後ろめたいような気がした。

 向かいのソファに座る。ソファに挟まれたテーブルの上には一台のスマートフォンが置かれていた。執務室には安らかな沈黙が深く腰を下ろしていた。掛け時計の音がいやましに近づいて聞こえる。先生に視線を向ける。片方の腕は腰のあたりに横たわり、もう一方の腕はソファの外へと投げ出されている。呼吸するたびに先生の胸が小さく上下する。

 不意に机に置かれたスマートフォンが点灯する。画面には、間もなくアラームが鳴ります、と通知が表示されていた。設定されたアラームの時間は今からちょうど5分後だった。まもなく先生の仮眠の時間が終了する。

 立ち上がり先生の傍に近づく。もう少しで終わるなら、と悪戯心が湧き出る。たかだか5分の睡眠がどれほど重要か分かっているつもりだ。あと5分長く眠れる幸福とあと5分長く眠れたはずの口惜しさは十分に理解している。ただ今はこのあどけない顔で眠る先生に悪戯してみたい、そんな気分だった。

 手始めに先生の頬を指でつついてみる。表情は子供の時分そのままでも、指越し伝わる高反発の感触は確かに大人のものだった。続けざまに先生の頬を撫で、先生、と小さく呼びかけてみる。それでも先生が起きる様子はなく、依然として安らかな寝息を立てている。相当疲れが溜まっていたのだろう。仮眠といえども随分と眠りは深い様子だった。

 これほど深く眠っているのなら、どこまで気づかないのだろうか。にわかに降り立った欲求に、5分間の意味が転換したような気がした。心臓が大きく鼓動する。顔を弄っていた手をゆっくりと、恐る恐る先生の腹部に流す。先生のお腹をゆっくりと手で、少し力を入れて押すようになぞる。服越しに、しなやかな腹筋が触れる。鍛えているような頑強な筋肉とは言い難い、自然な筋肉が痩せて浮き出たようなやわな腹筋。そこから、薄く細い、華奢な先生の肉体が想像されて、少し心配とも恥ずかしくとも思えた。先生はよく私にちゃんと食事を摂れているか心配するくせに自分の体については全く気を使わないから困る。

 先生は自分の体には気を使わない。俄かに降りる天罰のように、心臓が締め付けられる。腹筋をなぞっていた手を左わき腹にゆっくりと移す。確かこのあたりだったはずだ。文字通り傷ものに触れるように撫でる。傷はもう塞がっている。きっと痛みも、もう大丈夫。けれども傷跡は一生涯残り続けるのだろう。

 今でも時おり夢に出る。じっとりとした汗が張り付くような悪夢に。気づけば昏い影が背後に長く長く伸びている。先生の体から傷が完全に消え去らないように、それは私の心にも確かな傷を残した。

 先生はその存在が強大だ。一緒にいるだけで私は先生の生徒で、先生の、大人の庇護下にあるのだと思える。けれども先生はこのキヴォトスではあまりに非力でもある。それでいて我が身を顧みずに自分が考える大人の責任を全うしようとする。責任はきっと力に由来するものだ。力があれば、誰かを助けられる可能性が生じる。その時、誰かの生命はその力ある者に左右される。だから力がある者は誰かに対して責任を担う。それならきっと、先生が私に対して責任を負うように、私も先生に対して責任を負わなければならないはずだ。

 もう一度、静かに銃創を撫でる。そのまま軽く抑えるように手をあてがう。私は癒し手にはなれない。先生に触れる、それだけで傷が跡形も無く消え去るような、そんな奇跡は到底起こりえない。私に出来るのは、少なくとも、差し伸べたこの手が触れる限りは、先生に対して責任を負い続けることぐらいだ。

 ひざまずき、先生の胸に軽く耳を当てて目を閉じる。シャツ越しに人肌の体温が伝わる。薄皮ないし堅牢な肋骨に隔てられた先生の深奥で反響する心臓の鼓動がかすかに聞こえてくる。大丈夫、生きている。忙しないリズムで、それは先生の生命の時間を刻んでいる。思いの外早い。先生、案外高血圧なのかな。栄養足りてないだろうに。

 他愛のないことを考えながら目を開けると、こちらを唖然とした表情で見つめる先生と目が合った。目を合わせたまま、少しの間沈黙が舞い降りる。

「おはよう、ヒナ」先生が微笑む。

すかさず先生の体から飛び退くが、勢いよく机にぶつかり尻餅をつく。突然の大きな衝撃に机が揺れ動き、上にあったスマートフォンが落下する。自重したがって床と衝突し、静かな執務室に乾いた音が鳴り響く。

「い、いつから」

「ヒナが私に顔を押し当てたあたりから」

センチメンタルの代償が、後悔と恥が波になって一気に私に襲い掛かる。目頭のあたりから徐々に全体に広がるように顔が火照っていく。先生が愉しそうに笑う。

思い出したかのようにアラームがけたたましく鳴った。5分間がちょうど今終わった。


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