昔から仲の良かった女の子と終わってる関係になる話 作:トマトは後ろから呼んでもトマト
もしかしたら、何か奇妙な、普通じゃあり得ない描写とかをしてしまっているかもしれません。
そういったことも、大目に見ていただけると助かります。
第6話 楽しんでいただける事を願っております。
男は、悩んでいた。
恋人との電話が切れたあと、頭を抱えながら。
一つ屋根のアパートの下、自分の危機的な状況を打開する策を考えていた。
もし、このまま何の考えもなしに恋人と一緒にコンサートに行けば、大変な状況になること間違いなしだ。
最悪の場合、血を見る羽目になるかも…
男はそんな事を思うと、顔を真っ青にしていた。
男が最も恐れることは二つ。
男の行動がシラの逆鱗に触れることで彼女が暴走し、あの子のキャリアに傷がついてしまうこと。
そして、シラが何らかの行動を起こして、恋人に危害が加わること。
この二つだけは避けなければならない。
最悪、コンサートが終わった後に自分がシラに詰め寄られてボコボコにされるのはいい。
あの子だってプロだ。自分の個人的な都合でコンサートを台無しにはしないだろう…
せいぜいコンサートの後で感情に任せて半殺しにされるだけ。
彼女だって本気で自分のことを殺そうとはしないはずだ…
…いや、するかもしれない。あいつ結構激情型だし。
初めての時とか押し倒してきたし。
あの子ならやりかねないわ。
男は自分の考えに一瞬自信がなくなった。
いや、違う違う。そうじゃない。
穏便に済ませる方法を考えないといけないんだった。
男はそう思い直す。
男だってズタズタにされるのは避けたいし、何よりあの子が怒っている姿を見たくはなかった。
取り敢えず、恋人に何か起こることと、シラのキャリアに傷がつくことだけは避けないと。
…まぁ、既に男の行動がシラの歌手としてのキャリアを大きく傷つけていることには目を瞑っておこう。
まだバレてないから。バレる前にこの関係は終わるから。
あの子も多分あと数ヶ月もすれば飽きてるから…
そんな事を男はいつも思っていたが、彼女とのこの終わってる関係が一年経過した今、そろそろ自分自身を騙すのにも限度がありそうだった。
色々と足りない頭で男は思考する。
けれどもいい案が浮かぶわけもない。
どうしようか。
シラに恋人と一緒に最前席で今月末のコンサートを見に行きますって言ってみようか?握手会にも参加しますって?
…きっとあの子は怒るだろうなぁ…
いや、怒るで済んだら良い方なのだ。間違いなく爆発する。
そして、その爆発の矛先は自分なのだ。
男は考えるだけで吐きそうになってきた。
シラからしてみれば、とっても大事な自分のコンサートに、大事な相手が恋人と一緒に来るのだ。しかも最前列。握手会にもくる。
それで冷静な状態でいる方が無理だろう。
…いや何というか、考えれば考えるほど彼女の精神の地雷を踏み抜いてる気がする。
詰んでないかコレ?
男はそう思った。
ヤバいかもしれないが…言わないでバレた時の方がもっとヤバいのは間違いなかった。
男はシラに電話をかける。
コンサートに恋人と一緒に参加することを伝えようと思ったのだ。
全く気乗りはしなかったが、伝えないでバレて、終わっている状態になるよりマシだろう。
そうして、電話をかける。
2コールで出た。マジかよ。あの子忙しいんじゃないの?
男は思った。
『なぁに?どうかした?』
『お兄さんからかけてくるなんて珍しいね』
喜色に満ちた声でシラが電話に出た。
男が自分から電話をかけることはほとんどなかったからだろうか。
男は思わず、申し訳ない気持ちになって、気後れしてしまう。
だからだろうか?
とりあえず先に、今月末のコンサートに行くことになった事だけをシラに告げた。
恋人と一緒に行くことは言わずに。
これがいけなかった。
『え!?ほんとに!私のコンサート来るの!?』
『やった…!私頑張るよ!』
あぁ、いや…それがだな。
男がそう口に出そうとした瞬間。
『あ…!はい! あ、分かりました!今行きます!』
『ゴメン!今少し立て込んでて…!』
『コンサート、最高の出来にして見せるから楽しみに待ってて!』
それだけ言うと、彼女に電話を切られてしまう。
切られたスマートフォンを耳に当て、男は固まっていた。
…ヤバいなぁ。これはまずいことになった。
どうすんだこれ。もう腹切るしかないんじゃないの?
思わずそんな言葉が頭を揺蕩う。
今からでもメッセージを送ろうか。
実は恋人と一緒に行きます。最前列です。握手会にもいきます。
っていうメッセージを。
……いや、無理だ。
一度上げておいて落としたらホントに彼女に殺されてしまう。
男はそんなことを思った。
一体どうするべきか…男は考える。
そうして、一つ思いついた。
マスクとかサングラスをつけて適当に顔を隠していけばバレないのでは?
そうだ。そうしよう。
もうそれしかない。握手会の時はともかく、コンサートはそれでどうにかなる…はず!
男は、すでに正常な判断能力を失っていた。
彼にかかった心的負荷は、彼から正常で論理的な思考能力を奪い始めていた。
もっとも、だからいって彼が行った行動を正当化できるわけもなし、全ての元を辿れば彼に問題があるわけだが。
男は、もうなんだか自分がどうするべきなのかが全く分からなくなっていた。
ただ、唯一分かるのは。
もはや、自分に幸せな末路は残されていないだろうという事実だけだった。
そうして、時間は過ぎ去っていく。
コンサートの日が近づいていく。
今回は大規模なコンサートだったからだろうか?
いつもだったら一週間に何度も連絡してくるシラからも、ほとんど連絡が来なかった。
男は、嫌な予感がした。
これ、もしかしなくとも自分の発言が原因であの子がやる気を出してるんじゃ?
やる気を出したあの子に、恋人と一緒に来ていることがバレる…
男は薬局で胃薬を買った。
あんまり効かなかった。
そんな事をしているうちにも、コンサートの日は着々と近づいてくる。
あれから何度も連絡をしようとしたが。
結局、一度も連絡をすることは出来なかった。
恋人とのやり取りもそこそこに、コンサートの時は近づいてくる。
昔と同じように、適切な準備をする。
男は、これから自分に訪れるであろう地獄を思うと寒気が止まらなくなっていた。
大丈夫。大丈夫。
きっとうまくいく。今までと同じように、必ず。
何とか誤魔化せるはずなのだ。
男は、そう自分に言い聞かせる。
しかし、あぁ、なぜだろうか?
決して、そうはならない予感を強く感じていた。
そうして、コンサートの時は訪れる。
当日、集合した男女は電車に乗ってコンサートアリーナまで移動する。
男が黙っていると恋人が話しかけてきた。
『…あのさ、大丈夫?なんかとっても顔が青くなってるけど…』
『もしかして体調悪い?』
男は言う。
大丈夫だと。少し、怖いだけだと。
『こ…怖い?えっと…なんで?』
あ、やべ。失言した。
そう思った男は適当にごまかす。
久しぶりにコンサートに行くから何か粗相を起こさないか心配なんだ
最前列なのもあるし、と。
そんな適当な事を言った。
『…?まぁ、それなら心配しなくてもいいよ。よっぽど変なことをしないで一緒に見てれば問題ないはず!』
『一番近くの席でRASIを見れるんだよ!楽しまなきゃ!』
『もし震えが止まらなくなっても、私がいるからね!』
そう言って恋人は満面の笑みで男の腕に抱き着く。
そういう行動をされるのが怖いんだよ。
男はそう思った。
いつもなら愛らしく感じる行動が、今日はただただ恐ろしかった。
そんな事を思いながら、恋人の相手をしつつコンサートホールにたどり着く。
係員にチケットを見せ、自分の場所まで案内される。
…そうして、絶望した。
…ガチの真正面じゃねぇか。
最前列の席。男はそれだけ聞いていた。
だから、最前列でも端の方とかだと思っていたのだ。
それなら、まだ何とかなると思っていたが。
全然違った。真正面だった。一番近い場所ってそういう意味かよ。
さすがに真正面では無理だ。変装とか、暗がりがどうこうで何とかなる場所じゃない。
シラは自分のマスク姿とか見慣れているわけで。
少なくとも、この場所は彼女の視界に絶対に入る位置で。
自分と恋人がバレないという可能性はない。
終わった…
男は、そう思った。
男の絶望の裏で、恋人は男と手をつなぎながらコンサートの開幕を今か今かと待っている。
一瞬、腹が痛くなったと理由をつけてトイレにでも行こうとしたが、隣で楽しそうに待っている恋人や、この場所を予約するまでにかかった彼女の苦労を考えると、そんなことは出来なかった。
…腹をくくろう。
たとえ後で死ぬことが確定しているとしても。
一旦すべて忘れて、恋人が用意してくれたこの場所を共に楽しもう。
男は覚悟を決めた。
そうして出演者が揃い、(男にとって)地獄のコンサートが幕を開ける。
シラが舞台裏から壇上に上がり、開幕の挨拶をするためにこちらに歩いてくる。
その瞬間、最も近い場所に居た男と目が合った。
彼女の瞳に歓喜の色が反射した…ように見えたが。
すぐさま、瞳の色がおぞましく、仄暗い色に変色する。
舞台上に居たシラの快活な笑みの、その瞳の中心に、どす黒い感情が煌めいた。
もっとも、普通の人には気づかない。
もとい、気づくことが出来ない。
しかし、彼女と最も深くまでつながった経験のある男には、シラの感情が凄まじい唸り声をあげている事が、手に取るように分かった。
男は自分の死を覚悟した。
このまま彼女がとびかかり、男の首を絞めるのではないかと。
しかし、いや、想定通りというべきか。
特別何かが起こる兆しはない。
何事が起こる事もなく、舞台上でシラは言葉を続け、コンサート開幕の宣言がされる。
…はぁ。男は目を伏せ、人目も気にせずため息をついてしまう。
恋人を含めた周りの観客は熱狂し、自分に見向きもしない。
しかし、唯一、壇上に立つ少女だけは、男に目を向けていた。
それに、男は気づけなかった。
そうして、音楽が流れ出し、シラが歌い始める。
男の想いとは裏腹に、観客たちのボルテージは上がり始める。
このまま何事もなく終わりますように…!
男は強く願いながら、目の前の歌手に視線を向けた。
とはいっても、そこまで大きな動きが起こる事はない。
音楽は絶えず流れ続け、シラの歌声がこのホール内に木霊する。
一度始まってしまえば、男に視線が向けられることはほとんどない。
男は最前列だ。男に顔を向け続ければ、姿勢に問題が生じる。
だから、シラが男を見ることはほとんどなかった。
そう言った面では…まぁ、良かったのかもしれない。
いや、良いわけないわ。
そもそも最前列じゃなかったら俺、いるのバレなかっただろうし。
男はそう思った。
音楽が流れ、男の耳に嫌でもシラの歌声が届く。
その間、ずっとシラとのあの退廃的な関係が、二人っきりのアパートでの光景が、思い出される。
お前は、こんなことをしているぞ。 いつか、罰を受けるぞ。
そう、自分の周りの全員が言ってくるように感じられて。
男はコンサート中、寒気が止まらなかった。
それにもう一つ、男は…いや、このコンサートホールにいる全員が感じていた事があった。
シラの歌声にとても情熱が込められている。
それを、皆が感じていた。
目の前の歌手が歌いあげる歌の一つ一つに、魂が込められているようで。
吐き出しきれない感情を必死に消化し、歌に昇華しているようで。
それは、何も知らない人が聞けば、素晴らしく、感動的だったのだろう。
想いの籠った歌は、ファンからすれば、とても聞き心地の良いものだと思うから。
実際、隣の恋人や、男の周りの人間は完全に熱狂していた。
恋人に至っては男の腕にしがみついて、心底楽しんでいた。
しかし、男は違う。
あの演奏の、想いの原因を男は分かってしまう。
あれは、決して歌にかける情熱ではない。もっと不純で、根源的な物。
目の前の、自分に対する。
自分の隣にいて、腕に絡みついている恋人に対する。
怒り・憎しみといった、マイナスな感情や純然たる欲望を込めているだけだと。
それを、分かってしまった。
男は、理解した瞬間怖くなる。
今の時点でこれなら、このコンサートが終わり、彼女と二人きりであったらどうなるのだろう?
自分は本当に五体満足でいられるのだろうか?
そんな考えが、駆け巡り、男は立ちすくんでしまった。
そんな事をしている間にも、コンサートのセットリストは進んでいく。
時間がたつごとに、男も落ち着きを取り戻していく。
あぁ、そう言えば。少し落ち着いてから、一つ思い出したことがある。
RASIのコンサートは、アンコール前の最後の曲は新曲で決まっている。
そんな事を男は思い出す。
…待てよ。一番最近の曲って…
男がそれに気づいた瞬間、一番聞きたくなかったリズムが耳に届き始める。
…うわ。最悪だ。
案の定新曲が流れ、RASIが歌い始める。
ただでさえ、この曲は自分とシラの関係がフラッシュバックして聞きたくないのに。
何の拷問だろう。
男は心底苦しくなって、なんだか過呼吸になってきた。
苦しい気持ちを我慢しながら、目の前の歌手を見つめる。
すると、彼女が壇上から観客席に近づき始めた。
多分、あの感じはなんてことないファンサービス。良くあることなのだろう。
なのに、なぜこんなに嫌な予感がするのだろう?
そうして、そのまま歩いてきたRASIは男の真正面に立って、手をこちらに出した。
それは、曲のサビ。
曲で歌われる女の子が、男と破滅する事を仄めかすような歌詞。
それを歌い上げながら、真正面の男に手を差し出す。
そうしてその直後、すぐに歌手は後ろに下がっていってしまう。
傍から見れば、その男は真正面にいたから選ばれただけ。
それ以上の意味などない。ちょっぴり過激で、ドキドキさせるファンサービス。
だが、男は違う。
あの子からのメッセージが込められていることを知っていた。
歌詞をそのまま使ったメッセージが。
恋人が、隣に居た男性が、はしゃいでいる。
しかし、男はそれを気に留める事すらも出来なかった。
全身の血液が、凍り付きそうだった。
曲が終わり、コンサート全体からアンコールの声が上がる。
男も混じって声を上げるが、うまく呼吸が出来ず、かすれた声しか出ない。
それに、アンコールで流れ出したヒットソングも、もはやほとんど気に留めることが出来なかった。
そうして、コンサートは終わりを迎えた。
コンサートが終わり、観客がぞろぞろと帰っていく。
目の前がクラクラして、男の心臓はうるさく鳴ったままだった。
男は呼吸を整え恋人に、一緒に帰ろう、と言う。
すると、彼女が、
『な~に言ってるのさ。次、握手会でしょ?行こ?』
『あんなファンサービスを受けた衝撃で忘れちゃったのかな~?』
…そうだった。まだ、握手会があったんでした。
それはそれとして、あんなファンサービスを受けたせいで忘れていたのは事実である。
もっとも、あれはファンサービスというべきかは怪しい所があるがな。
男はそんなことを思った。
恋人と係員に言われ握手会の会場に移動する。
とは言っても、握手会の方は立っていた場所の順番は関係ないらしい。
チケットにあった整理券を渡される。
…男の整理券の番号は、最後だった。
彼女曰く、握手会とは言っても実際は少し違うらしい。
少しだけ会話をして、握手をしてお別れ。
そう言った感じのイベントらしい。
そして、今回のイベントが初めての握手会らしく。
凄い貴重なのだと。
へーそうなんだー
男はそんな生返事しかできなかった。
というか正直、ほっぽりだして帰りたかった。
少なくとも今、シラに会いたくなかった。
男の整理券は最後の番号なので、恋人は一足先に握手しに行ってしまう。
一人残された男は、儀式に選ばれた生贄の気分だった。
順番が来るのをびくびくしながら待っている。
そんな自分がひどくみじめに思えた。
そうして、自分の番号が呼ばれる。
もはや、男の周りには誰もいなかった。
係員に言われて、扉を開ける。
扉の中には、衣装に身を包んだシラがいて。仕切りに囲まれた椅子に座っていて。
警備員が少し遠くにいて、自分に仕切りの中に入るように目配せする。
帰りてぇなぁ…
男はそう思いながら、彼女の前に座る。
は、初めまして。
男がすっとぼけてそんなことを言う。
もしかしたら、シラが知らないふりをしてくれるかもしれないという一抹の望みにかけて。
その瞬間、目の前のシラの笑みが消えて。
素早い動きで手を握られる。しかも恋人つなぎ。
男の口から驚きで息が漏れる。思わず叫びそうになってしまった。
さすがに我慢したが。
そんな男の動きを気にも留めず、シラは言葉を吐く。
『ねぇ、随分なんじゃない?最前列で、恋人と一緒で。とっても楽しそうだったね』
『…ぬか喜びした私が馬鹿みたいじゃん』
シラの握る力がどんどん強くなっていく。
彼女の整えられて、着飾られた爪が男の手の甲に刺さっていた。
男は小声で言う。
取り合えず、今はやめよう。
また別の日に話そうと。
そう、言ってはみるものの。
『…じゃあさ、今。キスしてよ』
『そうすれば、多少はこの気持ちも落ち着くかもね?』
シラが薄ら笑いで男に言う。
しかし、その笑みの裏に宿る感情はどす黒かった。
…勘弁してくれ。
ここは地獄か?
男は思った。
俺恋人と一緒にここまで来たし、帰る時も一緒なんですけど。
男は、どうするべきか迷っていた。
何とか時間を粘って、警備員が自分に話しかけるまで待とうか
そんな考えが頭に浮かぶ。
が、
爪がどんどんと食い込んでくる。凄い痛い。
このままいけば先に血が出るだろう。
手の甲から爪の跡をつけて出血しているのは余りにも目立ちすぎる。
そう思った男は、自分と繋いでいるシラの手に向けて口づけをした。
これで、我慢してくれ。
そんな事を言おうとした瞬間、目の前にシラの顔があって。
口と口が触れ合ったその瞬間、タイマーが鳴る。
…助かっ…てねぇわこれ。
キスマークや噛み痕がつかなかっただけまだマシだと考えるべきか。
凄い不満げなシラの顔が、一瞬で作り物の笑顔に変わる。
警備員がこちらに歩いてくる。
シラが張り付いた笑顔で言う。
『また、コンサートに来てくださいね』
えぇ、勿論…
男はそんなことを言ってはみるものの、もう二度と来ることはないだろうと男は思った。
警備員は、お帰りはあちらです。と言った。
先にトイレに行きたかったので、トイレに行って、自分の身だしなみを確認する。
右手についている深い爪の跡以外は特に問題はなさそうだった。
男が出口から出ると。
恋人が退屈そうに待っていた。
『…あ、遅かったね』
『どうだった?楽しかった?』
勿論、まったく楽しくはなかったが。
当然それを口に出すことは出来ないので。
とても楽しかったよ。男はそう言った。
『そっか、良かった!』
男は震えているスマホを無視しながら、恋人と左手を一緒に家に帰ることにした。
翌日は普通に平日だったので。恋人とは電車でお別れして、アパートに向かう。
電車の中で見たスマホには、不在着信が27件とメッセージが1件あった。
全部シラからだった。
メッセージの方は、とても簡潔で。
『明後日の平日、有給とって』
スゥー…
男は、電車の中、明後日訪れる嵐に絶望した。
あの人の方から、久しぶりに連絡があって。
それも、自分のコンサートを見に来てくれるのだと。
それを聞いた私は、とっても喜んでいた。
必死に努力して、最高のコンサートにしようと思って。
集中するためにわざわざ自分から連絡も断ったというのに。
それなのに、コンサートが始まってみれば、彼は恋人と一緒に居た。
いいや、それだけじゃない。
よりにもよって最前列。
当てつけだろうか?彼は、暗に私に自分を諦めるように言っていたのだろうか?
そうだとしたら、余りにもそれは愚行だと思う。
そんな事をされても、私の嫉妬が爆発するだけだというのに。
余りにもイライラして、思わず声にいらない力がこもってしまう。
しかし、そうやって昇華しないと、本当にお兄さんに対する怒りが爆発してしまいそうで。
必死に自分に言い聞かせながら、マイクを握っていた。
怒りはコンサート中は収まりそうになかった。
何もかもが私を苛立たせる。
コンサートに行くとしか言わず、私の事をぬか喜びさせるお兄さんにも。
あの人の横で楽しそうに、あの人にしがみつくあの忌まわしい女性にも。
そして、結局今の今まで彼を奪い取る事の出来ていない不甲斐のない自分にも。
全てに、苛立ちが止まらなかった。
だから、それを目の前のマイクに込めて。
思いっ切り歌い上げる。
目の前にいる、大切で、憎たらしい彼に当てつけるように。
この想いが、貴方に伝わるように。
そうして、歌っている時間は過ぎていき。
最後の一歩手前、アンコール前の曲になった。
その時、私は妙案を思いついた。
これは、あの人のための曲で、私のための曲でもある。
そして、目の前にそこの曲のモチーフになった人物がいた。
それなら、この想いを伝えてあげないと。
精いっぱい、お兄さんに伝わるように。
気持ちを込めて、歌い上げる。
そして、サビの瞬間。
歌いながら、彼にポーズをしてあげた。
その時の彼の顔が、何とも言えない表情で。
この怒りが、ほんのちょっぴり報われた気がした。
もっとも、怒り自体は全く静まっていなかったけど。
そうして、歌い終わった後。
すぐに握手会の準備をする。
そう言えば、彼は最前列だった。
なら、握手会にも来るわけだ。
ふつふつと湧き上がる怒りを鎮めながら、彼の番を待ちわびた。
そうして、何人かのファンと話をして、彼の番を待っていると。
なんだか見知った顔が目の前に座る。
…なるほど。そう言えば、お兄さんの恋人は私の大ファンだって言ってたな。
おもわず、顔が歪んでしまいそうになる。
私からしてみれば、この人は憎き恋敵だ。
…落ち着いて。今の私はシラじゃない。
RASIっていう歌手なのだから。
目の前にいる女性が話し始める。
特別な事は何もない。当たり障りのない話。
けれど、なぜだろう?私は、この人から何か近しいものを感じた気がした。
…?
殺したいほど憎かったはずなのに、なぜだろうか?
それに気づく前に、時間は来てしまって。
結局、それについては分からずじまいだった。
そうして、最後まで待って。
彼がやってくる。
お兄さんが、初めましてなんて素っ頓狂なことを抜かすものだから。
思わず、つけていた仮面がはがれてしまう。
今はやめた方がいいのは、こっちだって分かってる。
でも、我慢できないものはしょうがないでしょう?
だいたい、今だって結構抑えてる方なのだけど。
思わず、彼に変な要求をしてしまう。
彼は苦虫かみつぶしたような顔をしながら。
私の手の甲に口づけをした。
けれど、それだけでは私は到底満足できなかった。
彼が顔を上げた瞬間に自分の顔を近づけて。
そうして、タイマーが鳴った。
…本当に空気が読めない。
最高の瞬間に水を差されたことで、私の機嫌は最底辺まで落ちてしまった。
目の前のお兄さんが助かったみたいな顔をしているのも苛立ちを引き立たせる。
取り合えず、その場だけは取り繕う。
彼が出て行った後、私は思考する。
…私の次のオフの日は、いつだったっけ。
…明後日か。
明後日、彼に全休をとるように伝える。
明後日までは、この事実を糧に、なるべく落ち着いて過ごそう。
それまでは、この怒りはどうにも消える事はなさそうだから。
男の受難はまだまだ続く。
彼、ずっとピンチですね。
きっと、この関係が何らかの形で終わるまではピンチなままなのでしょう。
第7話 次回も見ていただけると幸いです。