陽炎の指導をして一ヶ月ぐらいした時にそれは起きた。その日の任務は、制海権を確保された海域で輸送船を護衛するいつも通りの簡単な護衛任務だった。
護衛任務の途中、十時の方角に遠方に黒い点のようなものが見えた。見えたのは駆逐艦イ級だった。
全身に悪寒が走った。何もかもを失ったあの時の光景が目の前に蘇る。全身が震えて心臓が必死になって血液を全身に送ろうとバクバクと動く。胸苦しさを感じ、膝をつきそうになった。だけど、私の後ろには陽炎と荒潮がいる。
右手の指を手の平に食い込ませ、舌打ちをするのがせめてもの踏ん張りだった。
はぐれ艦隊……? 安全が確保されたこの海域でイ級を見たのは初めてだった。
「叢雲、どうしたの?」
私の様子に違和感を感じたのか陽炎が呟いた。
「十時の方向を見なさい。深海棲艦よ。陽炎、何か変化があったら報告しなさい」
「了解」
陽炎が呟いた。実力を試したいのか、陽炎は実戦を望んでいたがその機会がやっときたと興奮しているのかもしれない。声からはそんな感じがした。
「来てるわよ。編成は普通のイ級四」
……冗談じゃない。戦うなんて私はごめんだ。
「逃げるわ」
「えっ?」
陽炎の意外そうな声が聞こえた。
「交戦しないに越したことはない。まくわよ」
「わ、分かったわ……」
交戦して叩き潰してしまった方が安全で楽なことは分かっている。だけど、どうしても戦いたくない。自分でついたあからさまな嘘が嫌だった。
「叢雲ちゃん、本当に逃げ切れるの?」
荒潮が不安そうな声を出す。
「いいから指示に従いなさい。陽炎は見張りを続けて」
「叢雲、本当に大丈夫なの?」
うるさい! 黙れ!
そう言いたい気持ちを抑え、陽炎を無視した。一刻も早くこの場所から逃げてしまいたい。だけど、旗艦としての義務がかろうじて私を留めさせていた。
遠い水面に何かが落ちる音がした。イ級の砲撃だ。
「叢雲、ごめん」
「陽炎!?」
「陽炎ちゃん!?」
振り向いた時には陽炎がイ級に向かって走っていた。
陽炎の後ろに水柱が上がる。直後に陽炎が放った砲弾が単縦陣の中央にいるイ級に命中した。陽炎はそのまま彼女を狙うイ級に突っ込んでいく。
咄嗟に砲を構えて感覚で撃つと先頭のイ級に当たった。私と同時に荒潮も砲撃をしたがこちらも別のイ級に命中した。
「何やってんのよ!?」
「陽炎ちゃん大丈夫!?」
「荒潮、追いかけるわよ」
私が陽炎を追いかけると荒潮は無言で私についてきた。
私達の声に振り返ることもせずに陽炎はイ級に向け走り続ける。彼女が砲撃をしたが外れた。しかし、陽炎が魚雷を使ったのか数十秒後にイ級が大爆発を起こして粉々になった。爆発の跡には深海棲艦は見当たらない。
「何やってんのよ馬鹿!」
陽炎に追いついてから怒鳴り声を上げた。陽炎の行動は個人の判断としては間違っていない。だけど、艦隊の中の行動では許せない……いや、旗艦として許してならないものだった。
「自分が何やってるのか分かってるの!? 戦場では私の指示に従えって何度も言ったわよね!?」
「……ごめんなさい……」
私の大声に対して陽炎が小さな声で呟いた。
「ねぇ叢雲ちゃん」
陽炎にどう追い打ちをかけようかと考えていると荒潮が私に声をかけた。
「何よ!」
「怒りたい気持ちは分かるけど、今は鎮守府に戻ることを優先した方がいいんじゃないかしら?」
陽炎を庇おうとする見え見えのやり方に思わず舌打ちをした。だけど、荒潮のいうことはもっともだ。こんな場所で叱ったところでメリットは何もないし、場所を選ぶべきだ。
「……陽炎、帰るわよ」
苛立ちを我慢しながら私は二人に背を向けた。
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帰り道の間、何度もイ級の姿が頭の中に現れた。その度に悪寒が体を駆け抜け、息が切れる。
間違いない。あれがトラウマになっている。何度も殺した最弱の深海棲艦のはずなのに私の中の恐怖の象徴になってしまっている。何度も発作が起きそうになったが陽炎と荒潮が後ろにいるから弱い所は見せられない。
どれぐらい時間がかかったのか分からない。ようやく鎮守府についた。鎮守府につくと司令官が慌てた様子でこちらに向かって走ってきた。
「皆、大丈夫か!?」
「大丈夫よ。着く前に報告したでしょ? 損害は無しでイ級を四隻撃破。弾は使ったけどそれで十分でしょ?」
「それはそうだけど……」
オドオドする彼に思わずため息をついた。偶発的な初実戦とはいえ、いくらなんでも慌てすぎだ。
「いいからアンタはしっかりしてなさい。司令官なんでしょ!?」
「す、すまん……」
「まったく……こんなんだから……うっ……」
急に強い吐き気を感じた。ムカムカするものが胃から込み上げてくる。口の中に酸っぱい味を感じる。
「叢雲、大丈夫か?」
「陽炎」
発作を抑えながらなんとか陽炎に声をかけた。
「何?」
「悪いけど、秘書艦任務代わりにやってくれる?」
「えっ?」
「貴女が暴れるから疲れたのよ。やってくれたら今日あったことはチャラにするから……」
「秘書艦任務なんて私何も分からないわよ?」
「やり方はアイツから聞いて。残ったら明日は私がやるから……お願い 」
息が切れる。吐瀉物が喉で引っかかるような感触に体の限界のサインを感じた。
「分かった……」
「じゃあ私は部屋に戻るから……お願いね……」
三人に背を向けて、気力だけで足を動かした。心配そうに私を見つめる皆の目が嫌だった。
トイレに駆け込み、便器に向かって吐瀉物を勢いよく吐き出す。吐くのは前の鎮守府で徹夜続きの秘書艦任務をやっていた時以来だった。
胃がひっくり返るような嫌な感触の中、粘着質な音と共に口の中に酸っぱい味が広がった。口から出た茶色っぽい胃液混じりの半消化物が水を汚す。何度も痙攣するようにえづいた。
少しして、胃袋の中が空になったのか、吐き気が止まり、脱力感だけが残った。
秘書艦失格。私の中の何かが呟いた。
いくら体調が悪いからって、陽炎に秘書艦任務を押し付けるのはどうかしてる。無理にでも頑張るべきだったのではないだろうか? 戦闘後の報告書類はまだ作らせたことがないし、陽炎に教えるのは司令官に任せっきりなんて無責任すぎる。
私は馬鹿だ。秘書艦の資格のない大馬鹿者だ。
今から行って変わるべきだろうか? いや、この体調じゃどっちにしても無理……嫌だけど今日は休むしかない。
ふらつく足取りで自室を目指した。
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その後も何度もイ級の大群に襲われたあの時の光景がフラッシュバックした。その度に室内の近くにあるものに当たり散らし、一人でガタガタと震える。
盛り返す吐き気の中、深夜に目が覚めた。胃の中がムカムカして、酸っぱいものが込み上げてくる。慌ててトイレに駆け込んだ。
少しでも口に物を入れなきゃいけないと思い、夕飯を食べたのが失敗だった。胃の中の物を吐きながら自分の行いを後悔した。
「何やってるんだろ私……」
吐くものを全て吐いた後に一人で呟いた。
とてもではないが、今の状態続けていけるとは思えない。不意の戦闘に会う度に今日のように私は嘔吐するだろう。今はバレていないかもしれないけど、遅かれ早かれ私の中の物はバレる。
その時、どうなるだろうか? 皆私を軽蔑するに決まっている。敵前逃亡をした時がそうだったし、あの時以上に今の私は強気な態度をとっているし何が起きるのか、考えたくもない。
私の未来は絶望的だ。こんなことになるならあの時、死んでいた方が良かった。だけど、それが分かったところでどうすれば良いのだろうか? 自殺なんてどうせできないし、今から周囲に優しくするなんて私はできない。
現状維持に徹するしかない……無理だとしてもやるしかない。前のように綻びが出て何もかもが壊れてしまうとしても私はやらなければならない。それ以外の道がないのだから。
気力だけで足を動かし、トイレの外に出た。
「叢雲……?」
「あっ……!」
声のした方を向いて背筋が凍りついた。陽炎がそこにいた。
「待って!」
「ほっといて!」
全力で自室まで走り、鍵を閉めた。
「叢雲、何かあったの?」
外から陽炎の声が聞こえた。
「うるさい!」
大声でそう返すのがせめてもの虚勢だった。
「何があったの?」
「何でもないってば!」
陽炎からの返事は無く、代わりに廊下を歩く音がした。遠くなっていく足音に彼女が立ち去ったのだと理解した。
頭が冷めていくに連れて、最悪な展開であることに気がついた。
陽炎に吐いていたことがバレた。どう思われたのだろうか? 秘書艦を押し付けていた時点で違和感を感じられていたかもしれない。
現状維持できれば十分だと思っていた。だけど、それすらもできないかもしれない。間違いなく司令官や荒潮にも話は漏れる。
明日からどんな顔をすれば良いのだろうか? 敵前逃亡した時のように陰口をきかれるかもしれない。表面時は私に従いつつも内心では馬鹿にされるかもしれない。秘書艦から下ろされる日もそう遠くはないだろう。
私はどうすれば……?
現代編は必要は必要だと思いますか?(よろしければ投票した理由を一言で良いのでコメントにお願いします)
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いる
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いらない
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どちらでもいい