「我が
しくじった。
もののみごとに
ええい根性曲がりの二本指めが、つくづく忌々しい檻め。よもや斯様な陥穽を秘かに仕組んであったとは、まんまと嵌め落とされるとは。
迂闊であるにも程がある、旧師に合わせる顔がない。
気の遠くなるほど永きに及んだ探求と、奇運のめぐりなくしては到底掴めなかったろう、失われた都の秘宝。指殺しの刃を手にし、因果の縛鎖を断ち切らんとした矢先、まったくなんというザマだ、――と。
月の王女は怨嗟する。
状況は悪い。
力を削がれ封じられ、もはやリスやウサギのような、小動物にも劣りかねない有り様だ。
最後の残滓を掻き集め、辛うじて虎口は逃れたが。もし今、追手に見つかれば、抵抗する術はない。虜囚確定、一巻の終わりとなるだろう。目も当てられない悲況だが、それでも心は、心ばかりは挫けない。
「諦め」なる名の可愛げは、とうの昔に捨て去った。
思慮を占めるは反撃模索、起死回生の一手のみ。
「聞こえているよな、無視せんでくれ、わがあるじー?」
つけいる隙はあるはずだ。
しくじったのはあちら側、二本指とて同様である。
抹殺ではなく無力化を、封印という迂遠な途を採ったこと。
それこそあやつの瑕疵なのだ。
度し難くも奴はまだ、この期に及んで尚もまだ、神人たるの残骸に未練を留めているらしい。
律を継ぐ者、壊れた世界の修復材に、奴等ののたまう「正道」に、なろうものなら戻せぬか、と。
万が一の事態に備え、手元に置いておきたいという下心があまりに透けて見えている。
これが油断でなければなんだ。
「……角待ちだの擬態だの、天井からの奇襲だの。人の意表を突くことばかり考えている連中の、
その傲慢、逃さない。
お前は魔女ラニを嘗めた。
無礼の代価は、必ず高くつくと知れ――。
「だから、ああ、そこに居るんだろう? 我が主よ、魔女ラニよ。ちょっと小型化しただけで、私が貴女を感じ損なうわけがない。川のせせらぎにも飽いた。どうか
「…ええい。お前、存外しつこい奴だな」
ラニはとうとう音を上げた。
畳みかけるクローディアの攻勢に、根負けした形であった。
耳の後ろを愛撫された犬みたく、
「それとも何か、妙な趣味でも病んでいるのか、傍から見れば人形相手にせっせと語る、様子のおかしな奴だぞ」
と、必要以上に手厳しく
「おっと、これはあいさつだ」
てんで応えた気色なく、笑みをいよいよ深めるばかり。
(よもや、ここまで――)
奇人、奇人と言いそやしたのは確かにラニ自身だが、まさかここまで筋金入りの変物だとは。
思い出す。
魔術師塔にて
あれはそう、城館の方で静寂が破れていると気がついたのが始まりだ。
どうやら今度侵入したのは、なかなか骨のある奴らしい。解き放たれた魔力の奔流、風が運んでくる熱が、
それで暫くしていると、階段下からひょっこりと、こいつの姿が湧いて出た。
戦闘音はしなかった。
「…ほう、久しぶりだな」
身なりは多少変化した――腕のいい針子でもついたのか、上等なものに変わっていたが、たかがそれしき、ラニともあろう使い手が、どうして欺かれようか。
あの褪せ人だ。霊馬を介する縁により、たった一度だけ接触をもった、あの女に相違ない。
「あの時は、確かレナと名乗っていたか。トレントも息災のようで、なによりだが」
再会の辞を挟んだのは最低限の礼である。
些細なようで、しかしその実、気品とは、こういう部分に出るものだ。
「褪せ人よ、何用があってやってきた?
…招待状を出した覚えは、ないのだがな」
急に、すうっと。
周囲の気温が五、六度
クローディアは口を開いた。
「狭間の地をよく知れ、と。そのように言われたものだから」
「おや、それは」
忘れもしない、嘗ての夜に、初邂逅のあの晩に。
朽ちた教会、壁の跡に安座して、向こうで爆ぜる焚火の音を遠く幽かに聞きながら、ラニ自身が放ったセリフではないか。
そっくりそのまま返すとは、
――小賢しい、揚げ足取りのつもりか。
柳眉を寄せて、辟易を溢れさせかけて――すんでのところで、早とちりを理解する。
クローディアは澄んでいた。
視線はあくまで真っ直ぐだ。
皮肉を使った直後には当然
どの角度から眺めても、赤裸々な真情の吐露だった。
「…真に受けたのか、あんな胡乱な忠告を」
「ああ、受けた。それゆえ狭間の隅々に、歩いて行ける限りの場所に、ひととおり足跡をつけている」
「そうか、奇人なのだな、随分と」
「……!?」
決して容易い作業ではない。
僧兵も、魔術師も、古竜の騎士も、黄金の末裔も。
どこもかしこも、行けども行けども敵ばかり。狭間は褪せ人を歓迎していないというにも拘らず、気負いもせずにシャアシャアと。
(なるほど確かに、トレントが選ぶだけはある)
納得と共に膨らむ興味。
「お前、私に仕えぬか?」
気付けば誘いかけていた。
「私は魔女ラニ。かつて死を盗み、今も暗き路を探している。
そしていつか、すべてを裏切り、すべてを棄てるだろう。
…どうだ、興味が出てきただろう?」
誘惑はむしろ、ミケラの
この時ばかりは奴にも劣らぬ手腕を魅せたと自負できる。
それほど顕著な効だった。
そうだ、承知して迎え入れたのだ、この奇人を、褪せ人を、クローディアを、魔女ラニは。
それくらいがよいと頷き。
然らばこの運命も、甘んじて受け容れるべきなのだろう。
「…ああ、もうよい」
そしてこの、
まるで何かを吹っ切るような勢いで、小さなラニは告げるのだ。
こんな姿は、誰に知られるつもりもなかったが
…知られてしまったからには、逃がしはしないぞ
お前には、協力してもらおうか
この地にいる、災いの影を探し出し、消し去るのだ
…魔女ラニを辱めたのだ
否とは、言わせんからな
「――、――」
仕えよ、と。
誘った過去と同様に。
クローディアの
…見事な戦いだった
感謝する。手間をかけさせてしまったな
だが、これでやっと、あやつに至れる
…お別れだな、お前
ブライヴとイジーに、伝えてくれ
…愛していると
荷の中に、見慣れぬ鍵が混ざっているのにクローディアは気がついた。
意匠の繊細と複雑性は尋常一様の沙汰でなく、どう見ても最高の職人による産物で。
握り込むと
「――トレント」
霊馬は、言われずとも理解していた。
学院へ。
学院へ。
リエーニエの真中に聳える、魔術学院レアルカリアへ。
暗月の面影を追いかけて、従者たちは駆けてゆく。
蹄の音も高らかに。今はただただ、学院へ。…