ルラーメ脱出後の茜達のお話です。
ルラーメを脱出した翌朝、茜達はフォチュン川を下り、
ついにケイヌーキを望む河口へと辿り着いた。
朝焼けの中にそびえるケイヌーキは、広い湾の南岸に沿って広がる強固な城壁都市だ。
壁に囲まれた港には無数の船が出入りし、二基の高い灯台がその航路を厳かに照らしている。
フォチュン川がケイヌーキ湾に注ぎ込む岸辺では、
先に到着した村人達が種々雑多な舟を寄せ、急造の野営地を作り始めていた。
「……ふむ、そういう事だったのか?」
「何か分かったんですか? トーマさん」
トーマは、この街がブルーメホーデンの
カエイスウン地域における主要都市である事を知っていた。
交易で繁栄し、300年前の大災害をも耐え抜いたという巨大な石像や城塞が、
街の歴史と威厳を物語っている。
茜達が一団の最後尾として到着した時、野営地ではラスク達が手際よく村人の人数を確認し、
離ればなれになった家族を引き合わせていた。
しかし、極限状態にある避難民の間では、小さな争いも生じていた。
「おい、それをよこせ!」
「どのみちお前には不要だろう!」
「それはやめた方がいいぞ」
「「うっ」」
乱暴な若者二人が、手薄な隣人から物を奪おうと詰め寄る。
そこへモリスが割って入り、鉄の意志を感じさせる視線で若者達を退かせた。
落ち着きを取り戻した野営地で、茜はラスクを呼び止めた。
そして、エニニア城砦から持ち出した大きな木箱を差し出す。
「ラスクさん、これを。ルファさんから、あなたに渡してほしいと頼まれていたんです」
箱を開けると、中には見事な一揃いのプレート・アーマーが収まっていた。
ブルーメホーデン様式の繊細な組紐文様が施された鎧は、驚くほどラスクの体格に合っている。
「これは……ルファさんが、僕に……。本当に……ルファさんは……」
ラスクは言葉を失い、美しい鎧の表面をなぞった。
メモの一枚も添えられていなかったが、ルファが何を託したのかを彼は直感した。
ラスクは感動に瞳を揺らし、茜達に心からの感謝を伝えた。
彼はその場で鎧を身に纏い、ルファの志を継ぐ騎士としての決意を固めた。
「これからは、ルファさんの遺志を継いで、立派な騎士になりましょう」
「……おや?」
リリーベルが村人の顔触れを確認していると、重要な人物が欠けている事に気づいた。
ナルワ卿とその息子、小ナルワだ。
茜達にとって、彼らは非常に厄介な人物であるが、それでも訪ねなければならなかった。
「ナルワはどこにいますか?」
茜が村人に尋ねると、彼らは数時間前に勝手にケイヌーキへ向かったという。
「自分達だけで街の指導者に会おうとしているのですか。放っておけませんね」
茜達はラスクと共にケイヌーキの正門へ向かった。
街の壁には、巨大な兵士の像が並び、侵略者を威圧するように彼方を見つめている。
門では青と黄の制服を着た衛兵が厳重な検問を行っていたが、
茜達がルラーメの代表だと告げると衛兵は一行を崖の上にそびえるケイヌーキ城へと案内した。
石畳の中庭を横切る際、見知った男が鼻につく笑みを浮かべて立ち塞がった――小ナルワだ。
「はっ、父上が上手く対処している。
漁師どもにとって何が最善か決まったら、貴様らにも使いを送ってやろう」
「退け。今、お前と話している時間はない」
「……」
トーマが冷徹な一言で小ナルワを黙らせ、一行は会議場へと踏み込んだ。
会議場では、ズックミーゴ太守を始めとする八名の評議員が、大きなテーブルを囲んでいた。
そこには案の定、ナルワ卿が我が物顔で座っていた。
「ようこそ、お客人。私は太守のネヨシ・ズックミーゴだ。
……そちらのナルワ卿から、勇敢に村を守った彼を筆頭に、
ルラーメの人々が侵略者への反撃を望んでいるという話を聞いたところだ」
太守の言葉に、ナルワ卿は割り込んできた茜達を鋭く睨みつけた。
「教えてほしい。村の人々は今も、戦の準備を整えているのかね?」
茜は首を横に振って、即座に否定した。
「違います。私達は戦うためではなく、村人の命を守るためにここへ来ました。
イコザ村長が今、求めているのは、安全な居場所と当面の食料です!」
「そんな事はない! 私は兵士達を率いて、帝国に立ち向かったのだぞ!
帝国軍を倒すためには軍の強化も必要だろう!」
ナルワ卿は必死に反論し、自分が帝国軍に立ち向かった指導者であると強調しようとしたが、
モリスがその欺瞞を許さなかった。
「黙れ、ナルワ卿! お主が避難の際に何をしたか、儂らはこの目で見ておるぞ!」
茜達は、ルラーメで実際に起きた事、そして避難民の切実な現状を詳しく説明した。
「……そういう事だったのか」
真実を聞き終えたズックミーゴ太守は顔をしかめ、
傍らに立つ鎧姿の女性――リクスート司令官へ視線を送った。
「残念ながら、状況は平時とは程遠い。
ここ数週間で近隣の小村や農地が焼き払われ、我々の偵察隊も消息を絶っている。
それも、不自然な切り傷を残した死体となってな……」
リクスート司令官は、茜達がもたらした情報こそが、
これまでに入手した中で最も明確な敵の正体であると認めた。
議会が一時休会となり、茜達は一度、会議場の外にある広々とした広間へと案内された。
扉が閉まり、静まり返った廊下で、茜は深く溜息をついた。
「……やっと本当の事を言えました。
あのままナルワ卿の話が進んでいたら、
今頃、村の人達は無理矢理戦場に送られていたかもしれません」
茜は祈るように胸の前で手を組んだ。
彼女は戦いを好まない性格であり、村人を危険に晒したくないのだ。
「あの男、自分の手柄のために他人の命を何だと思っているのじゃ」
モリスが不快そうに鼻を鳴らす。
彼は先ほどのナルワ卿の卑屈な笑みが、今も目に焼き付いて離れないようであった。
「だが、リクスート司令官の話は聞き捨てならないな」
トーマが顎に手を当て、考え込むような仕草を見せた。
「消息を絶った偵察隊に残されていた不審な傷跡……。
恐らく、あの帝国兵の武器によるものだろう。
帝国軍の手は、俺達が思っている以上にこの街の近くまで伸びている」
「偵察隊が全滅するなんて、普通じゃないな。それも、このケイヌーキの正規兵が」
リリーベルが窓の外の強固な城壁を見つめながら呟いた。
「……街の議会が何を考えているのか、大体想像がつきますね」
ラスクが、ルファから譲り受けたプレート・アーマーの篭手を握りしめた。
新しい鎧は、窓から差し込む陽光を反射して鈍く光っている。
「彼らは村人を助ける代わりに、何らかの対価を求めてくるはずです。
これだけの軍事力を持つ街が、ただの慈善事業で四百人の避難民を受け入れるとは思えません」
「対価……。私達に、何かできることがあるでしょうか」
茜の問いに、ラスクは静かに、だが決意を込めて答えた。
「ルファさんなら、迷わず自分の剣を貸し出したでしょう。僕もそのつもりです。
アカネ殿、あなたの力も……恐らく必要とされるでしょう」
一行はそれ以上言葉を交わさず、
重厚な扉の向こうで自分達の運命が議論されているのを感じながら刻々と過ぎる時間を待った。
やがて三十数分が経過し、会議場の扉が再び開かれた。
太守は組んだ手の上から、重々しい口調で告げた。
「壁外に避難所を用意し、食料を分け与えよう。だが、条件がある」
太守が提示した条件は、極めて現実的で非情なものであった。
ケイヌーキは敵の情報を切実に必要としている。
茜達は実際に敵と戦い、生き延びた経験を持っている。
村人の保護と引き換えに、
茜達とラスクがリクスート司令官の指揮下で「特殊部隊員」として働く事。
「……本当にこの組織に所属するんですか?」
茜は一瞬、迷った。
自分達の自由と引き換えに村を守るべきなのか。
だが、隣に立つラスクが静かに口を開いた。
「アカネ殿、受けるべきです。村人を守るためだけじゃない。
あの恐るべき帝国軍がいつこの街に牙を向くか分からない。彼らを止めるには、協力が必要だ」
茜はラスクの決意に満ちた瞳を見て、深く頷いた。
「……分かりました。帝国軍の脅威が消えない限り、どこにも安全な場所はありませんから」
承諾の言葉を聞くと、太守は満足げに頷き、ルラーメの村人達への補給命令を即座に下した。
これで、ひとまずは避難民の安全が確保された事になる。
「準備ができたら二階の執務室へ来い。君達の初任務について話そう」
リクスート司令官の言葉を残し、茜達は新たな戦いへと足を踏み出した。
次回は茜達が特殊部隊で行動します。