だから、やる事が非常に多くなるでしょう……。
船を下りた茜達を待っていたのは、
植物さえも塩害で枯れ果て、常に冷たい暴風が吹き荒れる絶望の地だった。
北の荒れ地――その名に違わず、ここは生命の息吹を拒絶している。
一行はこの荒野を一週間かけて踏破し、カーラン卿の後を追わねばならない。
北の荒れ地へと足を踏み入れた一行を待っていたのは、
寒風と塩害、そして執拗なガルバ帝国軍の偵察隊だった。
灰色の霧が立ち込める中、八名の下級兵と二名の精鋭兵が、殺気と共に茜達を包囲する。
「くそっ、オレばかり狙いやがって! 他にも相手はいるだろうが!」
トーマが悲鳴に近い愚痴をこぼす。
帝国兵達は一糸乱れぬ連携を見せ、最も脅威となる魔導師を真っ先に潰しにかかった。
三方向から突き出されたショートソードが防護の隙間を縫い、彼のローブを赤く染めていく。
急所を貫くような一撃がトーマの体力を削り取った。
「魔導師を優先的に狙うとは、よく統率されているようじゃな。
ただのならず者ではなさそうじゃわい」
モリスが重い盾を構え、迫りくる刃を弾きながら、冷静に戦況を分析した。
「トーマさん、炎の魔法で一気に焼き払えませんか!」
茜が叫ぶが、トーマは顔を歪めて首を振った。
「馬鹿言え! この距離で撃ったら君らまで巻き込む! ぐっ……離れろっ!」
トーマは掌に青白い電撃を溜め、眼前の下級兵に叩きつける。
電撃が兵士の全身を焼き、筋肉を硬直させた。
その隙を逃さず、モリスの魔法の剣が空を切り裂き、兵士の胴を両断した。
「仕留めたぞ!」
だが、勝利の咆哮は悲鳴へと変わる。
絶命した下級兵の傷口から、血の代わりに不気味な青白い光が噴き出した。
爆発と共に霧散した飛沫を浴びた途端、
茜、トーマ、モリスの三人の身体が、末端から冷たく硬い灰色に変質し始める。
「なっ、体が……石化だと!?」
リリーベルもまた、倒した下級兵の自爆に巻き込まれそうになりながら、
神業に近い剣捌きで次々と急所を貫いていく。
しかし、茜達は無情にも意思を持たぬ石像へと変わり果て、戦場に取り残された。
ここから動けるのはリリーベル一人となった。
「……運が良くなりたい、です……」
茜の意識が石の殻に閉じ込められる寸前、最後のか細い呟きが荒野に消えた。
リリーベルはショートソードを抜き放ち、石像となった仲間達の前に立ち塞がる。
敵の攻撃を紙一重でかわし、ダンスのような足捌きで下級兵を屠る。
しかし、敵を倒せば倒すほど石化の爆風がリリーベルを襲う。
モリスは一瞬意識を取り戻し、剣を振るうも、
下級兵の爆発を浴びて再び硬い彫像へと戻ってしまった。
リリーベルは傷だらけになりながらも戦い続け、
ついにリリーベルの肌も灰色の石へと飲み込まれていった。
一分後、ようやく茜とトーマの石化が解けた。
だが、目の前の光景は絶望的だった。
リリーベルは石化の呪いに抗いながら戦っていたが、
ついに下級兵の非情な一撃がリリーベルを捉えた。
「リリーベル!」
茜が叫ぶ。
さらに帝国兵の追撃がトーマを襲い、彼もまた意識を失って崩れ落ちた。
「嫌……皆、死なせない……!」
茜は震える手で聖印を強く握りしめた。
全霊を込めた祈りが、彼女の唇から溢れ出す。
「vie double largement!」
戦場を眩いばかりの清浄な光が覆い尽くした。
光の粒子が傷を塞ぎ、冷たくなっていたリリーベルとトーマの肺に酸素を送り込む。
二人は同時に目を見開き、死の縁から這い上がった。
「ド・ゲイト・デ・テラ・マ・ギ!」
トーマが指先から三本の光弾を放つ。
必中の魔力弾が下級兵Gを仕留めるが、その爆発で再びリリーベルが石化の眠りに落ちる。
「これで……最後じゃあああ!」
そして、ついに自由を取り戻したモリスが、最後の下級兵へと肉薄した。
魔法のロングソードが空を薙ぎ、敵を沈める。
最後の一撃と共に放たれた石化の爆風がモリスを飲み込み、
彼はみたび像となったが、そこにはもう、動く敵兵の姿はなかった。
そして全ての石化が解け、モリスの身体が肉の温かさを取り戻した。
茜は肩で息をしながら、折れた剣や灰色の破片が散乱する凄惨な戦場を見渡した。
「……生きてる。私達、まだ進めるようだな」
リリーベルが傷口を押さえながら、不敵に笑う。
一行は互いの傷を応急処置し、再び北へ向かって重い足取りを踏み出した。
勝利の余韻などない。
ただ、荒野に響く風の音だけが、茜達の無事を祝うかのように冷たく吹き抜けていった。
石化の呪いから一夜明け、一行の身体にはまだ重い倦怠感が残っていた。
「……茜、昨日『運が良くなりたい』って言ってたけど、あれは本気か?」
歩きながら、トーマが顔の煤を拭いながら尋ねた。
茜は力なく笑い、肩をすくめる。
「だって、みんなが次々と石にされるなんて、不運以外の何物でもないですよ。
もっと神様に好かれてる実感が欲しいです」
「お主は十分好かれておるよ」
モリスが魔法のロングソードを杖代わりにしながら口を挟む。
「あの絶望的な状況で、誰一人欠けずにここに居る。それが神の加護でなくて何じゃ。
儂などは、三度も石像になったおかげで、肌が少しツヤツヤしてきたような気がするわい」
「それ、ただの石灰質じゃないか?」
リリーベルが呆れたように言い、周囲を警戒して目を細めた。
三日目。
荒れ地には植物の影もなく、ただ灰色の土と岩が続いている。
「ねえトーマ。昨日の戦い、なんであんなに執拗に狙われたと思うんだ?」
リリーベルが、ふとした疑問を投げかける。
「決まってるだろ。ガルバ帝国軍の教育が徹底してるんだ。
真っ先に広範囲攻撃の使い手を潰すのは、兵法の基本だからな」
トーマは忌々しげに地面の小石を蹴った。
「戦場で一番目立つし、一番脆い。分かっちゃいるが、三方向から切り刻まれるのはもう御免だ」
「それでも、あなたが魔法を我慢してくれたおかげで、私達は焼け死なずに済みました」
茜が優しくフォローを入れる。
「まあな。次に距離があれば、今度こそ派手に見舞ってやるさ。
そのためにこんな歩きにくい場所を必死に移動してるんだからな」
四日目の夜。
風が一段と冷たさを増し、一行は岩陰に身を寄せていた。
「トーマ、書庫で見つけた『失われた名前の都市』の事、もう少し詳しく教えて」
茜が膝を抱えながら尋ねた。
トーマは目を閉じ、書庫で読んだ不吉な記述を思い出す。
「名前が消された理由は分からない。
ただ、大災厄の火が今も地下に潜み、地形を変え、訪れる者を狂わせる場所だそうだ。
……カーラン卿のようなアンデッドの騎士にとっては、居心地がいい場所なのかもしれないな」
「カーラン卿か。奴の目の中にあったのは、ただの憎しみではなかった」
モリスが焚き火のない暗闇の中で呟いた。
「あれは空虚じゃ。何か巨大な穴を埋めようとする、底なしの渇望じゃった。
そのためにこの地の呪われた力を使おうとしておる」
「どんなに強力な呪いがあっても、私達が止めなきゃ」
茜の決意に満ちた声が、夜の風に混じって響いた。
「リヴィウスやカーラン卿……彼らがこれ以上、誰かを傷つけるのを放っておけません。
たとえそこがどんなに危険な場所でも」
リリーベルが短剣の手入れを止め、静かに立ち上がった。
「……明日は五日目。そろそろ敵の警戒網も厚くなるはずだ。
みんな、寝られるうちに寝ておけ。明日はきっと、今日より騒がしくなる」
その予感は的中し、一行は翌日、帝国軍の騎兵隊と激突する事になる。
五日目、荒れ地の冷たい風を切り裂き、地響きを立てて迫る影があった。
ガルバ帝国軍の騎兵偵察隊だ。
鉄の鎧に身を固め、不気味に燃える槍――ヴィシャス・ランスを携えた三騎の騎兵が、
一行を蹂躙せんと突撃を開始した。
「今度はこっちの番だ……! 距離は十分、魔力制御、開始!」
トーマが杖を高く掲げ、詠唱を開始する。
先んじて動いたのはリリーベルだった。
リリーベルは疾走する帝国騎兵の鎧の隙間を狙い、二本の矢を電光石火の速さで放つ。
矢は正確に喉元と関節を射抜き、騎兵の動きを鈍らせた。
「cadre sacre!」
茜が天から浄化の炎を呼び降ろすが、騎兵Aは巧みな手綱捌きでこれを回避する。
しかし、その回避先にはトーマが練り上げた巨大な火球が待っていた。
「ラ・ロタ・ド・イグニ!」
爆音と共に紅蓮の炎が戦場を包み込んだ。
トーマは魔力を絞り出し、味方を巻き込まぬよう極限まで爆炎を制御する。
直撃を受けた二人の帝国騎兵は、落馬せんばかりの衝撃に焼かれ、
素早くかわした帝国騎兵も爆風に煽られた。
「トドメじゃ!」
モリスが魔法の剣を抜き放ち、炎の中でよろめく帝国騎兵へ肉薄する。
鋭い斬撃が鎧を切り裂き、帝国騎兵は断末魔と共に沈んだ。
だが、残った帝国騎兵達も精鋭だった。
帝国騎兵がモリスの迎撃を物ともせず茜へと突進し、火炎を纏った槍でモリスを貫く。
さらに帝国騎兵も加勢し、茜の肩を槍先がかすめた。
「熱っ……! 槍が、燃えてる……!?」
茜は激痛と熱気に顔を歪める。
「下がれ、茜!」
リリーベルが援護の矢を放つが、帝国騎兵の重厚な装甲に弾かれる。
茜は自らの傷口に手を当て、必死に祈りを捧げた。
「vie force!」
聖なる力が傷を塞ぎ、体力を繋ぎ止める。
トーマは追撃の手を緩めない。
「もう一発だ! 逃がすか! ラ・ロタ・ド・イグニ!」
二度目の火炎弾が荒野を白く染める。
帝国騎兵は身を挺して爆風を逃れたが、それ以外は炎に巻かれその鎧は赤熱して悲鳴を上げた。
モリスが帝国騎兵を斬りつけるが、敵の防御は固く、剣先は硬い盾に跳ね返された。
帝国騎兵が標的をリリーベルに変え、炎の槍を突き出す。
「くっ、あつ……っ!」
リリーベルは辛うじて致命傷を避けるが、服の端が焦げ、熱が肌を焼いた。
「これで、終わりだ!」
リリーベルが姿勢を低く保ち、帝国騎兵の馬の脚を狙って矢を放つ。
馬が崩れる隙を突いて、二射目が帝国騎兵の胸甲を深く貫いた。
「そこです! cadre sacre!」
茜の放った光魔法が、崩れ落ちる帝国騎兵を今度こそ捉え、聖なる炎がその魂を浄化した。
モリスとリリーベルに追い詰められた帝国騎兵に対し、
トーマが冷酷なまでに冷静な足取りで近づいた。
「鉄の鎧の中で、じっくり苦しめ」
トーマが掌を突き出すと、緑色の禍々しい毒霧が放たれた。
鎧の隙間から侵入した猛毒が、疲弊しきっていた帝国騎兵の生命活動を停止させる。
帝国騎兵は音を立てて落馬し、荒れ地の砂塵に塗れた。
「ふぅ……。トーマ、さっきの火球は助かったよ。危うく丸焼きにされるところだったけど」
リリーベルが煤けた服を払いながら言った。
「言っただろ、今度は派手に見舞ってやるってな。
……さあ、先を急ごう。この騒ぎを聞きつけて、また別のが来る前に」
一行は激しい戦闘の余熱を残したまま、さらに北へと足を進めた。
六日目。
目指すべき「失われた名前の都市」の輪郭が、
霧の向こう側にうっすらと巨大な影を落とし始めていた。
一行はこの不毛な荒野を生き延び、極限の疲労の中にいたが、
目的地が近づいているという実感が彼らを繋ぎ止めていた。
荒れ狂っていた風が、この日は不気味なほどに凪いでいた。
一行は、大きな岩の裂け目に身を潜め、最後の夜を越えるための短い休息を取った。
「……ねえ。あそこに見えるの、本当に街なんですか?」
茜が、遠くの地平線に浮かぶ、歪んだ塔のような影を指差した。
「ああ。地誌にあった通りの場所だ。
大災厄以前は、この辺りで最も栄えた交易都市だったらしいがな」
「皮肉なものじゃな。かつて多くの人々が富を求めて集まった場所が、今では世界で最も呪われた、名前さえ失われた場所になっているとはな」
リリーベルは、焚き火もできない暗闇の中で、愛用の短剣を丁寧に研いでいた。
その金属音だけが、規則正しく岩陰に響く。
「名前なんてどうでもいい。問題は、あの中にカーラン卿と帝国軍が何を隠しているかだ。
……昨日戦った騎兵達、死ぬ間際まで笑っていたように見えた。
普通の兵士じゃない、あれは」
「狂信、あるいは魅了……。いずれにせよ、まともな精神状態ではなかったな」
モリスが重々しく頷く。彼は自身の盾に刻まれた傷跡をなぞった。
「茜殿。あやつらの言う通りなら、明日はこの旅で最大の正念場になる。
お主の祈りだけが、儂らの最後の命綱じゃ。……怖くはないか?」
茜は少しの間、自分の手を見つめた。
昨日の火炎槍で焼かれた痕が、微かに痛む。
「怖いですよ。本当は、逃げ出したいって思う事もあります。
でも、ラキアベさんの後悔や、ケイヌーキの人達の不安を知ってしまったから。
……それに、何より隣に皆さんがいます。
独りじゃないって、昨日までの戦いでよく分かりました」
「ふん。お人好しだな、相変わらず」
トーマが小さく笑った。
「まあ、君がそう言ってくれるうちは、オレも魔力が尽きるまで付き合ってやるさ。
石像になるのは、もう一回分くらいで十分だがな」
「私はあと三回くらいなら耐えてあげてもいい。
……その代わり、帰ったら最高の食事を奢ってもらうからな」
リリーベルの冗談に、茜は初めてこの日、心の底から微笑んだ。
「約束ですよ、リリーベル。……明日は、きっとみんなで帰りましょう」
茜の言葉を最後に、一行は深い静寂に身を沈めた。
明日、彼らを待ち受けているのが魔族との絶望的な死闘であるとはまだ誰も知る由もなかった。
七日目、ついに「失われた名前の都市」を間近に捉えたその時、
灰色の空を切り裂いて不吉な影が三つ舞い降りた。
それは魔界の尖兵、酸を吐く魔族の一種、ドレイクであった。
「また先手を取られた……!」
リリーベルが歯噛みしながら叫ぶ。
一週間に及ぶ強行軍の疲労か、あるいは魔族の放つ異様な威圧感か、一行の反応は一瞬遅れた。
ドレイク達が大きく口を開くと、不気味な緑色の液体が勢いよく噴射された。
茜とモリスは反射的に身を翻したが、ドレイクが放った酸が茜の防護を貫いた。
「……っ! あああっ!」
腐食性の激痛が茜の肌を焼き、煙が上がる。
しかし、仲間達は即座に反撃に転じた。
モリスが雄叫びと共に肉薄し、ドレイクの硬い鱗を魔法のロングソードで斬り裂く。
「毒には毒をだ! 喰らえ!」
トーマが至近距離から禍々しい毒霧を放つと、ドレイクは苦悶に身をよじった。
そこへリリーベルがショートソードを電光石火の速さで突き立て、
ドレイクの心臓部を的確に貫く。
ドレイクは断末魔を上げる事なく地に伏した。
しかし、残る二体はさらに凶暴さを増した。
ドレイクの喉奥で魔力が渦巻いたかと思うと、凝縮された酸の塊がトーマを直撃した。
「がはっ……あ、が……」
急所を焼かれたトーマは、悲鳴を上げる間もなく意識を失い、崩れ落ちた。
「トーマさん! ……皆、まだ終わらせません!」
茜は自らも深く傷つきながら、聖印を高く掲げた。
慈愛の光が戦場を駆け巡り、力尽きたトーマを強引に死の縁から引き戻す。
立ち上がったトーマと仲間達に活力が戻り、茜の放つ聖なる炎がドレイクの体躯を焦がした。
戦いはさらに凄惨を極めた。
ドレイクが再び茜を狙い、大量の酸を浴びせかける。
「きゃああっ!」
今度は茜が耐えきれず、絶望的な衝撃と共に意識を失った。
回復役が倒れた事に戦慄が走るが、モリスの剣が止まる事はなかった。
「よくも茜殿を! 神聖なる怒りを知れ!」
「ラ・ロタ・ド・イグニ!」
光り輝く一撃がドレイクを叩き伏せ、続けざまにドレイクをも斬りつける。
トーマの放った火炎光線がドレイクを焼き、リリーベルの刃がその急所を抉った。
だが、茜の容態は芳しくなく、茜の魂が、再び現世から切り離されようとしていた。
「う……」
「茜、しっかりするんだ!」
ドレイクは最後の抵抗を試みた。
リリーベルに鋭い爪を叩きつけ、リリーベルをも暗い意識の底へと沈める。
戦場に残ったのは、最早満身創痍のモリスとトーマだけだった。
「これで……決める! 灰になれ! ラ・ロタ・ド・イグニ!」
トーマが全魔力を込めて魔法を使う。
三本の火炎光線がドレイクの脳天を正確に貫いた。
最後の魔族が地響きを立てて倒れ、ようやく戦場に死の静寂が戻った。
「茜殿! リリーベル! しっかりせよ!」
モリスは息を切らしながら二人のもとへ駆け寄る。
彼は聖なる力を手に込め、渾身の癒しを施した。
「……ん……ぁ……」
茜とリリーベルが弱々しく目を開ける。
死の淵を彷徨っていた茜の頬に、ようやく血色が戻った。
「……助かった、のか……?」
「ああ。だが、次はもうないぞ。……本当に、危ないところだった」
トーマが震える手で膝を突いた。
七日間に及ぶ地獄の行軍。
多くの血を流し、極限まで消耗しながらも、
彼らの絆はかつてないほどに強固なものとなっていた。
次回、いよいよ茜達が目的地に向かいます。